Ⅴ:呪縛
「この世からどうすれば消えられるか、知ってますか?」
男の言葉に真っ当な返答を出すことが正しいそれなのか分からなくなった私は、支離滅裂な質問を提起した。
人殺しだと宣言した者に対して消える方法を訊ねるなど馬鹿げているが、この男に、たったひとつ何かを投げかけることが出来るのならばそれがいいと、
本能的に心が叫んだのだ。
不条理なのだから条理で返したって仕方ない。
そして何一つ会話が成り立たない私に、男は意外にも端的な言葉を返した。
「さあ。でも、誰にも知られずこの世の裏側にお邪魔することぐらいは出来るかも」
「……裏側?」
「いつか何かの記事で読んだよ。死んだら人に伝えられるし何かしらの痕跡が数多遺るから、嫌なら裏側に行けばいいって」
「……死んだのと何が違うんですか」
「無かったことになるらしい。存在そのものが。」
私に足りないのは不幸自慢で、アイツに足りないのは幸福自慢。相容れないと分かっているのだが、それらこそが何らかの引力を持って引き合うのは何故だろう。
「……へえ」
こんな時くらいはさすがに気の利いた返答が出せる人間でありたかった。自分で聞いておいて単なる相槌程度しか返せないのなら、はじめから何も意味を持たせない方が良い。
「ま、君がニュートンにでもなればいいんじゃないの」
「ニュートン?」
「そしたら忘れられずに済むかもよ。君が光より速く生きれば時間も止まるかもな」
「……意味分かんない。てか、アインシュタインの間違いじゃないですか、それは。」
ああそうだっけ、と呟いて男は大きな欠伸をした。男の言う、相対性理論にこの原理が正しい例えとは思えなかったし、なぜ男がそこまでそんな理科的なことに拘るのか分からない。世の中には分からないという一言で済ませるに値する物事が多すぎる。
「"何でも出来るよ"」
「え?」
「命を絶とうとしてた妹に、俺は電話でそう言った」
深海を震わせるような、海月の毒に侵されるような、愛しさ以外の何者にも変え難い声で、男は淡々とそう呟いた。独り言のようにも、私宛のようにも、そしてそれはどこか違う場所に居る誰かに宛てたようにも思えた。やはり交わることの無い視線は海月の集団に注がれており、私は水槽から漏れた光に視線を預けることにした。
「多分、お前にだって出来ない事があるとか、そういう類の言葉を待ってたんじゃないかと思うんだ。アイツは。昔から妹は俺の声だけは信じられるって言ってた。俺の声が好きで、アイツにとって薬みたいなものだって。それを知ってて俺は、この世に絶望したアイツに、命を絶つ寸前の、弱りきったアイツに、最後の力を後押ししたんだよ。俺が。あの瞬間、普段応援する意味で送っていた言葉は、お前ならちゃんと死ねるって意味になってたんだって、後で気付いた。」
男はまだ海月から視線を外さなかった。どうやら隊列を作らず揺らめく海月という物体を眺めていると思っていたが、たった一匹の海月を探しているらしかった。視線はずっと水槽なのだが、黒目が忙しなく右往左往しており、呆然と見つめているようには思えなかったのである。
「だからこの声は凶器だ」
どこで男が呼吸をしているのだろうかと、そのような呑気な思考が脳内を逡巡した。悟っているようにも自責の念に苛まれているようにも恨んでいるようにも、もしくは他の誰かを恨んでいるようにも、様々な角度で見てとれた。
「……そんなんじゃないと、思います」
私は男の何も知らない。名前、在住地、年齢、経歴。もしかしたら男でもないのかもしれない。性自認が男なだけで、本当は女だったりするのかもしれない。私が貴方について知るものは何も無いが、肯定してはいけないという事実だけがあり、咄嗟に発した。水槽から頑なに離さなかった視線はついに言葉一つでそこから逸らされ、私へと託された。
「……」
「その声は凶器、なんかじゃない。妹さんの言った通り、薬だったんだと思います。多分止めて欲しかったんじゃないと思う。いつもの肯定が欲しかったんだと、思います。絶対に。」
「……優しいんだね、君は」
多分と言ったあとで絶対で打ち消した前言は私の矛盾であり直訳である。だが、私の言葉が真意として届いたのかも分からぬまま、男は微かに笑って一瞬だけ俯いた。ここまで数時間経過したが、たった今、初めてその声が毒のように思えた。綺麗事は優しさの方程式に繋がるはずがない。彼の妹にとってはそれは薬だったのかもしれない。
「……雨、上がったみたいですよ」
再び支離滅裂な一言に反し、男は視線をもう一度私に託した。刹那、瞳を伏せ、微かにその切れ長の瞳に水分を満たして私の髪に手を伸ばした。まるで海月が触手を絡ませるように、細く長い指で臍あたりまである私の髪を掬い、弄ぶがごとく絡ませて、そして静かに離れていった。通り雨は月を濡らし、夜を追い出した。
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