Ⅳ:真相


 水族館は水に浸されるように、美しさの押し売りに犯されるように、溺れるように、それは時にナイフを、もしくはロープを思わせる、そんな空間だ。


 生物共の住処を整えるべく頑丈たるガラスで覆い、来訪者が精算機に飲み込ませた紙幣で魚を喰らわせ愛くるしい瞳あるいは優雅なる肢体を堪能する。官能的だとの一言で表すことの出来ない場所だ。


 食物連鎖の具現のようにも思えたが、その提案に肯く者は現れないだろうと判断してSNSの下書きを削除した。




「幸せなのかな」

「……え?」




 もういっそ、何も発されぬまま閉園時間を迎えそうだとさえ思いつつスマホの数少ない通知を消費しているところで、二時間ぶりの声が降ってきた。このまま今日という時を棄ててしまっても惜しくないと感じてさえいた私にとって、針で突き刺すがごとくやはり痺れるような――毒を持った、切なき声だった。

 


「こんなとこで馬鹿みたいに同じ場所彷徨ってて、生きてるって思ってんのかなこいつら」



 男はじっと水槽を見つめたまま呟いた。水槽から視線を外すことがないので到底目も合わない。だからこそ私に宛てた言葉なのか戸惑ったが、"お前たち"だと問わなかったので、私宛ての言葉と解釈せざるを得なかった。


 だが、私は清廉たる返答は出来かねている。単純に分からなかったからだ。人間も今日生きている実感を持って生きてなどいないし、微睡みに溺れた夜が堕ちても勝手に朝はやってくるし、求めている訳では無いのだが、来てしまうものは仕方ない。あちらこちらへと身体を彷徨わせている自覚があるわけではないけれども、右往左往していたことにあとから気がつくのかどうかもそれぞれの個体次第というわけだ。



「諦めてるんじゃないですか」



 私は絞り出すような声でやっと言葉をひとつ放った。たった二秒にも満たない時間で発したのに、空気のなかを一時間二時間かけて膨らんでいくように可視化された。それだけ大それた答えが出せなかったことの象徴なのかもしれないと思うと途端に恥を知った。なぜそんな意味ひとつ託せない言葉を放ってしまったのだろう。海月にも人権――生きる権利のようなものは多少携えているのだから、否定なり肯定なりしてやれば良かったのかもしれない。


 

 「なら俺らと同類だ」



 そう言って海月の瞳を探すように首を少し伸ばすようにしながら水槽を見て、「じゃあやっぱ可哀想なんじゃん」と加えて男は呟いた。可哀想なのかもしれない。確かに、脳で思考することなく淡々と浮遊し続ける彼らは、可哀想で間抜けな生き物なのかもしれない。諦めることで何かを対価とするような、煤けた世界で誰しも真水を探して生きていくしかない。人間も海月もたかが同一、なぜ有毒の生き物は海水に浮かべられたまま身体中に回る毒を浄化できないのだろうか。



「傘、持ってますか」



 このまま海月の生命価値を会話の中心に置いておくことが正解だとはどうにも思えなかったので、スマホに表示されていた文字列からやっと話題を取り出した。正午近くの時点では快晴であったし、この檻の外は豪雨に見舞われているなど男は微塵たりとも予測できていないだろう。


手元には鞄ひとつ持ち合わせておらず、ポケットがたるんでいるので携帯ひとつ程度しか持ち合わせには無いということは初めから予測できていたのだが、この男が否定する瞬間を私は見てみたいという欲があったからかもしれない。少しゆるめに穿いたファッションスーツのスラックスが革靴を覆っている。


 たった今出会った相手に対する話題提起としてこの程度が丁度良いと信じ発したのだが、三秒待っても五秒待っても一分待っても返答がなく、男は水槽と睨み合っているだけだった。その空気こそが私の話題提起は落第点だと突きつけられたようで、諦めて唇を固く結んだ。


 五分、十分と経過し、目の前で海月同士が珍しく避け合えず、触手を互いに絡ませたところで男が言葉を発した。予測不可能、といったようなタイミングで、予測しようのない言葉。海月は毒を分け合うことで共存しているのだろうか。







――「俺、殺したんだ。人を。」






 人間は泡吹くほどの衝撃に苛まれた時、あくまで淡白に相槌を打つ程度でしか対応できないのだということは、数年生きていれば何度か経験できる事実である。幾つか例は挙げられるが、例えば高校の時。


 酷く虐めに遭っていた女子生徒のタブレットの画面がある日木端微塵に割れており、成績決定となる課題提出当日のデータが抹消されるという事件が起こった。復元不可能な状態の端末をクラスの中心に置き、授業そっちのけでクラス集会が行われ、「こんな惨めなことをする生徒がいるこのクラスを受け持つのが恥ずかしい」と悲鳴のような声と共に怒りを投げつけた当時の担任。提出対象だった課題は担任の担当教科だったので、提出期限を延ばすことで収束させたらしかった。


 生徒は皆、普段から虐めの主犯格であった田中をターゲットとして責め立てた。やっていないと彼女は主張し、最後まで認めなかったことがクラスメイトの怒りをヒートアップさせてしまった。早く認めなければ帰宅時間が遅くなり、試験範囲まで授業さえ進まない。それでも冤罪を執念深く主張し、収束不可な状況へと陥ったのだった。だが、私はその事件が田中とは無縁であることを知っていた。




 授業をサボって眠り場所を探していた昼下がり、事件発生前の空き教室で担任がタブレット目掛けて腕を振り下ろして破壊していた現場を目撃したからだ。


咄嗟に見てはいけないものだと若年ながらに悟ったのだが、足が床に打ち付けられた杭のように固定され、食い入るように行動を凝視した。そして遂に視線を上げた担任と目が合ってしまったのである。隣接棟からは体育のバスケシューズが床に擦れる音、音楽のピアノの音が微かに聞こえてくる間に、担任が呟いた「どうした、忘れ物か?」という何事も無いような、譫言たる一言と制圧するような瞳に圧され、私は恐ろしいほどに、するすると喉の奥から流れゆく声で自然に言葉を返したのである。「いえ、失礼しました」と。それ以来、私が担任のそれに触れることは無かったし、犯人探しに加担しもしなかった。ほんの少し担任の担当教科である理科の成績が私の苦手科目にも関わらず格段に高く詐称されていた事以外は何一つ変わりなく卒業を迎えた。田中は冬休みを迎える前、学校を辞めた。

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