Ⅲ:邂逅
――「君は相対性理論を知ってる?」
熱を伝搬させるが如くその雑音は空気を揺らした。
心地よい、耳馴染みの良いなどといった表現よりも
甘やかな呪縛に苛まれたような声。
その一言は私には関係を持たないそれだと思いたかったのだが、再度同じ言葉が空間に落ちてきたので、もうこれはヤバい奴――いや、正当な思考を持ち合わせない者だなんだと脳に送られた警報に反して危うく私が振り向くと、その視線はこちらを射ていたせいで交わってしまった。
踏み出してはいけない時に私は軸足を蹴りだし、見てはいけない瞬間にその姿を視界に認めてしまう。私に宛てた言葉だったのだと受け入れざるを得なかった。
「……なんとなく」
当然私に宛てた確証は無かったわけで無視すれば良かったのだが、あまりに純真無垢かつあまりに凶器を思わせる鋭い瞳に捕らわれた私はそれから逸らすことが出来ず、仕方なく絆されるように答えた。自分の意思で、仕方なく。蚊の鳴くようなか細い声ではあったが、ひとつ手を叩いた程度でも大きな波長さえ作り出せるようなこの空間には十分で、私の頼りない一言は男へと届いたようだった。
「なんとなく、ねえ……」
男は復唱し、大きな欠伸をした。鬱陶しそうに伸ばした前髪、幅広の伏し目、艶のある唇。おそらく二十代後半だろうか。だが、大きな黒目を携えた瞳の奥には何か堪らぬ痛みを孕んだような、愛を哀しみで誤魔化したものなのか、予測の出来ない波乱がある。ずっと昔から生きているみたいな、そういった感覚的な余白が見える。視線の先に存在する者を見透かしてやりたいといったような、確固たる決意にも感じて咄嗟に瞳を逸らす。
踏みしめる艶加工の床に鳴る乾いた男の足音を静かに聞き流しながら私は、ここから一歩として動くことが出来なかった。
視線がかち合うと逸らし方を忘れたみたいに穿かれた。その対価として、不思議なことに言葉が上手く探せない。相対性理論の概説どころか、オハヨウやサヨナラなどといった簡易的な言葉まで体内で危うく手探りで探さざるを得ない状況へと陥った。毒が回ったみたいだと思う。
男の手にしているジュースの紙パックが時折男によって潰される。少し吸うと白い液体がストローを伝って口許に運び込まれたのを合図に悩ましげに顔を顰め、こちらに寄越してきたので小さく首を横に振ると、男は握りつぶしてしまったそれを水槽のふちに置いて欠伸をした。
飲食禁止と表記されていた入口の貼り紙を思い出して、心做しか視線を逸らした。その程度でしか反応することの出来ない私は如何に言っても無価値だなと思う。
言葉少なに、というよりも何も言葉を交わさないまま時計の長針が二周した。二人以外の人間はたまにやってきて、SNS用とも見られる写真を二、三枚撮影し、または「ひとつ、ふたつ」と海月が全部で何桶居るのか数え始める子供、マッチングアプリを介して恐らく今日が初対面の男女などといった選りすぐりのレパートリーがあったが、たった数分で同一の群衆に飽きてしまったのか、皆、隣の大きな水槽へと捌けていった。
さすがに私もこの場を離れても到底良い話ではあったのだが、なんとなく竦んで離れるのを止めた。正しくは離れられなかった。空気がそうさせたのか、浮遊し続ける海月がそうさせたのか、毒を持ったその瞳がそうさせたのか結局自分で答えを出すことは出来ないのだが、ひとまずこの場を離れないで居ることだけは自らの意思たる結論として変わらなかった。
天気予報アプリを開くと外は豪雨との知らせがあったが、室内は何処吹く風といったようにその気配は無い。この場所だけが世で隔離されているような心地にさえなっていた。
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