Ⅱ:秘密
青白い光を一方的に睨む私がせめてこの世に出来る
償いなど存在しないことを知りながら、この瞳を閉じる。暗闇は本当の意味での漆黒にあたらないということに今更気付いたところでどうしようもなかった。
瞼の裏から漏れた白い光がどう頑張ったって支配してしまうことがひどく滑稽に思えるが、人間に決定権など初めから持ち合わせていないのだから仕方がない。
――" お前はいいな、でも気の毒だね "
開眼は最大の棄却だ。目の前にある世界を体内に取り入れざるを得ないという降伏宣言。シラを切ればよかった事象まで、そうはいかなくなるのだと分かっているのに人はなぜ、結局閉じた瞳をこじ開けるのだろう。
コンビニでパンを選んでいた男が未払いのキャンディを鞄に投げ入れたこと、虐めに遭っていた生徒のタブレットを壊したのは実はというと担任教師だったということ、先日ゼミの課題で提出された研究報告書は盗品だったということなど。シャッターを切ってしまった瞳は強引にまた閉じたところでインプットされているから厄介なもので、シラナイと呟く声は申し分なく見事に空間に波長を生み出したものの、あろうことか脳天が痛んだ。直接的な痛みに変わった。
水槽に近付き、視線を集めるべくそれらに指先を這わせたが誰も釣られはしなかった。もしかしたら誰よりも個を持っていて、確固たる所以でこちらに興味を示さないのかもしれない。開眼という棄却から目を背けているのかもしれない。誰もお前にはなれない。だけど、結局、個を以て成り下がる世界は、やっぱり空っぽなのだと気が付いた。私はこれらのようには生きられない。
細く伸びたエスカレーターに右足を乗せて私はここへ来た。動き出す力をすべてこの場所に託し、青に侵された四面楚歌を体内に吸収しながら、ひとつ、溜息を吐く。正直なところ溜息を落としてゆくほどの苛立ちや苦しみなど携えてはいなかったはずなのに、驚くほど自然に息が吐き出されたことに驚いた。最大の力を込めて私は、自分の意思でここまで来たのに、いつだって誰かに誑かされた何かを操っているみたいに感じてしまう。
多分いつも誰かになりたい。私というコスチュームを脱ぎ捨てて、知らぬ誰かの罪に潜り込みたい。嗚呼、通り雨はなぜ昼に過ぎていくなんて馬鹿な固定概念があるのだろう。
閉じ込められた海月が触手を水流に任せ漂流している。これらに慣性の法則なるものは成立していない。阻まれる何らかの力により人は歩みを止めざるを得ないが、白く透けたその身体は例え先方から阻まれようとも漂流を止めることもなく、怒りも、悲しみも、憂いも、それらの雑多な無用の長物など存在亡きものに思えた。
視線を拐うべくして近付けた指先にも見向きもしない、私はその身体になりたいと思った。靱やかに水中に溶けゆく花のような。その芯には毒が持ち合わされているというのだから、こんな艶かしさはあるまい。
× × ×
おそらく結構な時間が経過したのだろうが、揺れる物体は数多存在し、行き来しているのでそれらが時間の経過を予測する糧にはならなかった。ただ、隣でインスタ用の写真を熱心に撮っていたカップルも、その場から絶対に離れないのだと駄々を捏ねた子供も、入口のショップでクラゲのぬいぐるみでも買ってやれば良いだろうとの浅はかな考えに乗せられてどこかへ行った。
向こうの方で行われていたらしき飼育員による催しか何かの声も気付けば聞こえなくなり、空間に静寂が戻ってきた。刹那、水槽の向う側に影が見えた。個体を溶かしたみたいに畝りをもった、気色の悪い物体だった。
私はそれを、自らを映し出したそれなのだと信じて余計に目眩がして、胃の奥から這い上がってくる胃液と空気の塊のような違和感を慌てて飲み込んだ。平然を装うべく早く脈打つのを無理やり落ち着けて、もう一度水槽へと視線を返した。
だが、その瞬間、影物体が同じ動きを見せない事でようやく、これは私自身のそれではないのだと気が付いた。咄嗟になぜか羞恥心なるものが芽生え、隣の水槽に移動することを感情として選んだのだが、それは叶うことなくそこに留まらざるを得ない結論に陥ったのである。
遂に静寂は切られ、鎮まった空気が揺れた。
館内のアナログ時計は午後二時過ぎを指していた。
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