第5話 身分証はとても大事
「ふぅ……よかった。とりあえず追い払えたみたいで」
少女は小さくため息をつくと、銃を腰のホルスターに収めた。そして、地面に置いていた白い布の塊を拾い上げる。服……だろうか? それが何かを尋ねる間もなく彼女が俺の方に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 怪我とかしてませんか?」
心配そうに手を差し伸べて俺を立ち上がらせようとしたが、華奢な彼女の方がバランスを崩して転びそうになってしまった。
「あ、あぁ。ありがとう。何ともない」
慌てて少女を支えながら自力で立ち上がる。俺に怪我がないことを確認すると、少女は安心したように小さく頷いた。
「よかったです。この辺りは魔物も出るので、用が無いなら街に戻った方が良いですよ」
少女はそう言って遠くに見える街を指差した。
「……街か」
この世界に来て、まだ目的も行き先も決まっていなかった俺は、ただ無意識に言われた事を反復していた。だが、彼女の次の言葉を聞いた瞬間、止まっていた思考が一気に動き出す。
「はい。ウィステリアの街です。ジンさんも、ウィステリアに用があるんですよね?」
「ウィステリア!?」
ウィステリアとは、俺たちが時空の裂け目を調査するために滞在していた村の名前だ。だが、当然高層ビルなんて存在しない、大きな湖の傍にある小さな漁村のはずだ。……ただの偶然だろうか。
「どうか……しましたか?」
「い、いや。そ、そうそう。俺もウィステリアに向かう途中だったんだよ」
これ以上このゴミ捨て場に居てもしかたがない。どんな街だろうとここよりはマシだろう。
「そうですか。それじゃあ、街の近くまで案内しましょうか?一人でまた魔物に襲われると危ないですから」
「そうか。それは助かる。お願いしようかな」
そう答えると、少女は小さく頷いて「ついてきてください」と言い歩き出した。俺もその後を追ってゴミの山を後にする。
――
ゴミ処理場を抜けると、周囲には草原が広がっていた。どこまでも続く緑の波が風に揺れ、遠くには大きな湖が青く輝いている。その湖の縁に立ち並ぶ高層ビルは、湖面に映るその姿と調和し、まるで水と空を繋ぐ架け橋のように美しく景観に溶け込んでいる。
「あの、そういえば、IDはちゃんとお持ちですか?さっきのゴミ捨て場で落としたりしてなければ良いですけど」
ふいに先を行く少女が俺を振り返って聞いて来た。
「ID?」
「はい。現在ウィステリアは一種警戒態勢中なので、IDが無いと街に入れませんよ」
「そ、そうなのか?」
慌てて服のポケットを漁ってみるが、当然そんな物を持ってるはずはない。
「え……もしかして。持ってないんですか、ID?」
さっきまで穏やかに会話していた少女の顔が再び疑念の色に曇っていく。おそらく、IDというのはこの世界の身分証のようなものなのだろう。単に落としただけかもしれないが、それが無いということは……つまり犯罪者や日の当たる場所を歩けないような者という可能性もあるのか。少女が俺に気づかれないようにそっと俺から距離をとり、緊張した顔で腰の銃にゆっくりと手を伸ばす。
「ま、待ってくれ!あれ?おかしいな。確かここに入れたはずなんだけど……」
口から出まかせで何とか時間を稼ごうとポケットを漁るうちに、指先に何か固い物が触れた。それをポケットから取り出してみると――硬質な素材でできたカードのようだ。
「あ、IDあるじゃないですか。良かった」
ホッとした表情で少女が警戒を解く。
「あ、あぁ。失くしたかと思って焦ったぜ」
そう言ってパタパタとIDカードで顔を仰いでみせる。
「――って、え、そのID」
少女が驚いたように近くに駆け寄ってきて、IDの裏面を覗き込んだ。
「あ、それって! ご、ごめんなさい、まさか“テイル”の先生だったなんて!」
「て、ている? 先生?」
何を勘違いしているのか、少女はあわあわと手を振って俺に頭を下げる。
「あ、もしかして、この春から赴任してこられた新しい先生ですか? だから道に迷ってたんですね」
彼女が何を言っているのか全く分からないが、おそらくこのポケットに入っていたIDがそれを示しているんだろう。
「あー、まぁ……何ていうか、そんな感じ、かな?」
下手に否定して話を掘り下げられても厄介だし、これが無いと街に入れないというならば、ここは彼女の話に合わせてやり過ごそう。
「そうだったんですね。ウィステリアは街の中も迷路みたいなんで気を付けてくださいね」
「そ、そうなんだ。気を付けるよ」
そんな会話を交わした後、再び少女の後に着いて草原を抜け、やがて街の入り口までたどり着いた。
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