第6話 蒼い水面と街と少女

 眼前に広がる街並みは、近未来的な建物が規則正しく立ち並び、大きなガラス窓の太陽の光を反射して輝いている。

 水路を挟むように建つビルが青空に映え、まるで都市全体が質の高い芸術作品のようだ。


 それに何より驚いたのは――この街が湖の上に浮かぶように存在しているという事実だった。

 縦横に巡らされた水路と、それを繋ぐ優雅なアーチ状の橋。行き交う人々と、ゆったりと滑るゴンドラが作り出す景色は、まさに自然と技術が一体となった理想的な未来都市だ。


 街の入り口にあったゲートで簡単な手続きをして中に入る。警戒体勢と聞いたので緊張していたが、審査はIDを見せるだけの簡単なものだった。


「ここがウィステリアの街です。一番奥に見える大きな建物がテイルですよ。この先の駅で一番線のゴンドラに乗れば終点なので、後はお一人で大丈夫かと思います」


 少女が指差す先には、広い水路にいくつもの桟橋が並び、ゴンドラが次々と出入りしている。人々が慌ただしく乗り降りする様子を見て、ふと朝の通勤ラッシュを思い出してしまった。


「あ、でも俺、金……」


「大丈夫ですよ。テイルの先生は運賃無料ですから。降りるときにIDを見せてください」


 不審なうえに一文無しの情けない大人相手に、少女は優しく笑って教えてくれた。


「ホント、何から何までありがとう。今度会ったら必ずお礼をするから」


「……いえ、気にしないでください」


 そこまで言って、さっきまでずっと笑顔だった彼女の表情が不意に曇る。

 俺がまた何か変な事を言ってしまったのかと焦ったが、どうやら今度は様子が違うらしい。


 街のざわめきの中で、周囲の人々の視線が次第に刺さるように感じられてくる。

 特に、アイネの方へと向けられる視線には、明らかな悪意が混じっているようだった。通行人たちがヒソヒソと何かを話しながら彼女を指差すその態度には、冷たい侮蔑や軽蔑が滲んでいるようだ。

 まるで彼女がそこにいるだけで不快感を覚えるとでも言わんばかりに、道行く誰もが嫌悪の視線を向けていた。


 周りの目を避けるように少女は慌てて俺から距離を置くと、目を伏せて小さく呟いた。


「きっと、もう二度とこうしてお話しすることもないでしょうし」


「……え? なんで?」


 彼女の突然の言葉に、胸がざわつく。思わず真剣な顔で問い返してしまった。


「……先生、本当に私のこと、ご存じないんですか?」


「いや、ごめん。あんまりこの街の事情には詳しくなくて」


「……そうですか。いえ、いいんです。では、お気をつけて」


 彼女はそう言って、さっと俺に背を向けた。その仕草にはどこか哀しげな影が漂っている。


 彼女の小さな背中が街の喧騒に消え入りそうなその瞬間、俺は思わず声をかけた。


「――なぁ! せめて名前くらい教えてくれよ!」


 助けてもらった相手に対して、何をムキになっているんだ、俺は。

 けれど、さっきまであんなに楽しそうだった彼女が見せた、そこはかとなく寂しそうな顔がどうしても気にかかって仕方がない。


 呼び止められて一瞬立ち止まった彼女が、静かに振り返る。

 微かな風が湿った空気を運び、彼女の藍色の髪を軽く揺らした。


「……アイネ」


 か細く呟かれた名前が、風に乗って耳に届く。

 彼女は一度深呼吸すると、大海原を思わせる深く蒼い瞳でまっすぐに俺を見据えて言葉を続けた。


「――アイネ・ヴァン・アルストロメリアです」


 その名前に俺は息を飲んで固まる。


 ……ヴァン・アルストロメリア。


 彼女の顔が思わず脳裏に浮かぶ。

 蒼い髪、透き通った瞳。そして何より、いつも俺に向けられていた無邪気な笑顔。


 俺の唯一の弟子の名が――シエラ・ヴァン・アルストロメリア。


 こんな偶然が……あるはずがない。


 頭の中でぐるぐると思考が渦を巻く中、少女――アイネは俺をじっと見つめていたが、やがてその視線を悲しそうに逸らし、近くのゴンドラに足早に乗り込んでしまった。


「あ、ちょっと、待ってくれ――」


 彼女を呼び止めようと発した声は、周囲の騒がしさに紛れ、ゴンドラに乗り込む人々の流れがその姿を遮る。

 どうにか人波を避けた頃には、アイネの乗ったゴンドラは既に岸を離れ、遠ざかっていくところだった。


「何が……どうなってるんだ」


 雑踏の中に取り残され、ふと人混みが途切れた途端、異世界に来て初めて独りになった事に気づいた。


 その瞬間、胸を締めつけるような孤独と不安が押し寄せてくる。こんな感情になったのは一体いつぶりだろうか。 頼れる者は誰もいない。魔法すら使えない。


 ――ふと、遠い過去の事を思い出す。

 そういえば、初めて異世界に来た時も、確か同じことを考えた。


(何年経っても、変わらないものだな……)


 そう思うと、乾いた笑いが思わず口からこぼれた。


「まぁ、何とかなるさ。何も、異世界は初めてじゃない」


 あの時シエラに言った言葉を、今度は自分自身に向けて呟く。


 とりあえずアイネの言葉を頼りに、彼女が指した船へと足を進める。あの様子からして、彼女もきっと"テイル"という所の関係者なのかもしれない。


 そこに行けば、この世界のこと。

 それと、アイネが見せた悲し気な表情の事が、少しは分かる気がしてならなかったからだ。

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