第2話 VS因数分解
鼓動が早まり、汗が噴き出してくる。男は歩みを止めず、シンヤが座っているテーブルまであと十歩まで迫っている。頭が真っ白になる。あの大学受験の時のように……
嫌だ!心の中でそう叫んだ。また俺は繰り返すのか?失敗から学ばず、二度ではなく三度も、しかも今回は終わったら、数奇世界には二度と戻れない。ゲームオーバーだ。兄とも会えず、敗者復活戦はない。
「うわぁぁぁ!」
反射的にテーブルから飛び上がって、窓を開け、二階の自室から飛び降りた。裏手の駐車場に着地して、部屋の方を見ると男も飛び降りてきた。
「誰か助けてくれ!」
叫びながらも、助けは来ないということなど理解していた。来るとしたら漁夫の利を狙った別の人間。きっとこの世界に味方はいない。
とにかく、あいつから逃げなくては、殺されてしまう。外の空気を吸うと、少し頭が回り始めた。このアパートからできるだけ離れるなら、通りにある地下鉄を使うのが一番だろう。しかし、地下鉄みたいな閉鎖空間に逃げ込むのはさすがにリスクが高すぎる。
とにかく、通りを渡ろう。都市部に近づいた方が、隠れる場所も多い。シンヤは走りながら、自分が笑っていることに気が付いた。受験に失敗してから思えば一度も心の底から笑ったことはなかった気がする。生きるか死ぬかのこの状況、恐怖でおかしくなっているだけかもしれないが、このスリルに、自分は少し酔っているような部分があるように思えた。なぜなのかは、分からなかった。
少し走ると、高架橋があった。この線路を渡れれば、警察署だってある。人はいないかも知れないけど、せめて拳銃くらいの戦えるものがあるかもしれない。
高架橋に登り、全速力で走る。半分ぐらい進んだとき、バンダナ男が現れた、いける。あの距離なら線路を強引に走ってきても逃げ切れる!バンダナ男が高架橋に触れる。
男の手が触れた瞬間、高架橋が〈分解〉された。それ以外の形容の仕方が思いつかない、触った場所から絞められたネジが緩み、外れ、きれいに鉄骨と鉄板とネジに分けられていく。
「やばいやばいやばいやばいやばい!」
分解は伝播し、男がいる側の橋脚は完璧に崩壊した。シンヤを載せた橋げたは、大きく男側に傾いて倒壊する。シンヤは手すりにつかまり、何とか弾き飛ばされないようにするだけで精一杯だった。男は橋げたの上をゆっくりと歩いてくる。シンヤは手すりを乗り越えて、下の線路に飛び降りた。男は高架橋から手を放し、こちらに向かって走ってくる。足が痺れて動かない。激しい痛みが襲う。痛てぇ、普通に痛いぞ、これ現実じゃないはずだよな?
その時、シンヤにバンダナ男の能力が思い出された。あいつの能力ならあんまり痛みを感じずにゲームオーバーになれそうだ。やめるか?逃げるの。
諦めるのか?心の中でまた俺の声が聞こえる。何も抵抗せず、自分より強いものの養分になり続ける日々、その結末がこれか?
右手の小指がさっき分解された高架橋のネジの一つに触れた。それを強く握りしめ。最後のあがき、ただでは終わりたくないと、今出せる最大限の力で投げつけた。
しかし、シンヤの最後の抵抗であるネジは、投げる途中で手から滑り、バンダナ男の遥かゆっくりと頭上を通過していった。苦手だったもんなぁ、ソフトボール投げ。俺は最後まで肝心なところでミスる奴なんだ。涙が溢れ出してくる。頭の中ではとっくに諦めているのに、手を無様に振り回している。やっぱ怖い、負けたくはない。ギュッと目をつぶる。もう男はきっと目の前にいるのだろう。あのごつい手で触られて、皮膚と頭蓋骨が分離し、血液と骨とぐちゃぐちゃの何かだけになってしまうんだろうか。そんな想像が瞼の裏で鮮明に思い起こされ、シンヤは目を開けた。想像は恐怖を何万倍にも増幅する、目を開けるしかなかった。
涙で歪んだ視界から見えた男の姿はなぜか振り返り、俺が投げて空中を泳いでいるネジを見ていた。当たらなかったネジをなんで見ているんだろう。
ちょっと待て、なんでまだネジが空中にあるんだ?注視すると、そのネジは放物線を描いていなかった。一次関数のグラフのように一直線を描いて飛ぶネジは、ゆっくりとした速度でビルの壁にぶつかり、そこでポトリと落ちた。バンダナ男がまたこちらを向く。その顔は布越しでもにやりと笑っているのが分かった。
何笑っていやがる。俺の能力が弱いことがそんなに嬉しいか?見下して笑っていやがる。その時気付いた。あの男は俺だ。昔の、与えられた才能に胡坐をかき、努力もせずに他人を見下していた俺。今だって、何とか騙し続け、才能の限界をひた隠しにしている。
クソッ、あんな奴に数学というフィールドで負けて死ぬのだけは、死んでも嫌だ‼
頭が冴え、視界が広がった。この状況は難問にぶち当たったときと一緒だ。まずは分析をして、どうやって解くか考える。敵の能力は、破壊せずにものを構成している物体にまで分解する。この能力、俺みたいに数学に関連した能力だと考えると一つだけ思いつく。〈因数分解〉これだろう。自分の能力は、〈一次関数〉。多分自分が触れたものを、一次関数のグラフのように一直線に吹っ飛ばす。こんなところだろう。
次にどうやって倒すかだ。俺の体がバラバラになる前に逃げ込めそうな建物だと、道路を渡って目の前にあるドラッグストア以外ない。立ち上がって、死ぬ気で走った。線路で何回かつまずきながらフェンスを乗り越え、ガードレールを飛び越えると、空き缶があったので男に向かって蹴りつけた。一直線に飛ぶそれを男はよけずに手で払った。やはりナメきっている。男に触れられた空き缶はプルタブと缶が分離して空へと飛んでいった。因数分解、どうやってこの能力を解き倒そうか……
ドラッグストアに入る。目に入る情報を素早く整理し、勝つために必要なものだけ抽出する。洗剤コーナー、カセットコンロ用プロパンガス、その他いくつかの変数。ゾーンに入ったシンヤに必要な思考時間は一秒未満だった。
「解けた」
口角が上がる。難問の解き筋が見えた時、いつもにやけてしまう。出題者の裏をかき、数式の魔宮を己の頭脳のみで攻略していく。解けたといって何かが与えられるわけではない、だが、解けなきゃ見えない景色がある。今だって、勝たなきゃ何も残らない、力無き者に通せる道理は、この世界ではない。
男が店内に足を踏み入れる。作戦開始だ!棚の陰から飛び出し、洗剤を二つ、男に向かって投げつけた。男は両手を伸ばし、やはり洗剤に触れて分解する。その解決法は、能力に対する過信だ。分解したことによってボトルの中の液は男の体に降り注ぐ。
「チッ」男は舌打ちをしたが、意に介さず向かってくる。その能力なら俺もそうする。プロパンガスを投げた、等速直線運動をしながら向かってくるプロパンガスを、男は分解せずに避ける。もちろん予想通り、あの男は今頃ガスが漏れだす音を、たっぷりと耳元で聞いているだろう。
──ヤバい!男はその時初めて恐怖を感じた。あいつは今までの獲物とは何かが違うと、恐怖を克服しやがったと、今になって気づいたのだ。目の前のガキは少し微笑を浮かべて火をつけたマッチを指先で弾いた。ガスに引火する。ガスは床に滞留しており、燃えるヘビが男に這いよった。
「くそがああああ!」
男は叫びながら地面付近に手を伸ばした。何をしている?シンヤがそう思ったとき、フッと男の足元で火が一瞬で吹き消えた。
「なに⁉」
バンダナ男め、俺の考えついた唯一の攻略法をやりやがった。あの野郎、因数分解で空気から酸素を分離しやがった!男はバンダナが少し焦げただけでダメージはない。男が立ちあがる。こっちにもう打つ手はない、通用しないのか?ここまでもしても、最初から持った才能が違う奴には勝てないのか?シンヤは絶望で腰が抜けて座り込んでしまった。
──ゼー、ハー、ゼー、ハー、あのガキ、面倒くさい真似をしてくれやがった。空気を因数分解するのは初めてだったが、うまくいった。酸素が薄い、息が苦しいが、ここは攻めだ。男にもう慢心はなかった。一直線に走ってすぐに解体してやる!一歩、二歩、三歩……
男の体が動いたのはそこまでだった。大きく咳き込み、吐血した。意識が痺れる。視界がブラックアウトした。
シンヤまであと二メートルというところで、男は倒れた。シンヤは大きく息を吐いた。あと二メートルでやられるところだった、ガス爆発の回避法を即座に思いつかれたときにはさすがにビビった。棚を見て、洗剤を手に取る。最初に投げた二種類の洗剤は酸性洗剤と、塩素系洗剤。いわゆる混ぜるな危険って奴だ。さっきみたいに運悪く混ざってしまうと、有毒ガスが発生する。もしものための保険だったが、酸素を分解したときにガスを結構吸っちまってたみたいだな。
本当に危なかった。この世界ではこれが正常なのか、人同士が数学の力を使って殺し合う。シンヤは現実世界を想った。反復している腐りかけた日常は生きる意志を蝕んでいく。それに比べてこの世界は、楽しい。頭の奥で一瞬そう思った。思ってしまった、それが本音なのかもしれない。ただ俺は、俺は、この世界を認めたくない。暴力に任せて屈服させるなんて、文明人のすることじゃないじゃないか。
「あなた、やるじゃない。〈因数分解〉を倒すなんて」
背後の棚の上にいつの間にか女が立っていた。ピンク色の髪でポニーテール。顔立ち以外ははアメリカの高校生のようで、Tシャツとジーパンというラフな格好をしている。しかしシンヤは彼女の左腕の真鍮製の義手に目がいった。やはり彼女も競争に巻き込まれた人なんだ。どうする?策はもうない。
「あっ、待って待って、アタシあんたを殺そうとかそういうつもりはないのよ。なんならあなたをスカウトしに来たの。私たちの組織に入ってくれる?」
シンヤは立ち上がって警戒を強めた。スカウト?何らかの統率の取れた組織がこの世界に存在しているのか?そうは思えない。信頼しあうなんて、ここじゃ難しすぎる。
「まだ信頼されてないみたいね、私の名前は本庄サラ。〈才〉は力のモーメント、エネルギーを回転に変換したり、回転の力を操ることができるわ。」
力のモーメント、高校の物理の時間で習ったな、数学にちなんだ〈才〉だけじゃないってことか。
「分かった、敵意がないってことは信じよう。でもなぜ本名を名乗った?それにスカウトってどんな組織にだ?質問に答えてくれ。」
「まったく、先に質問したのはアタシなのに、自己中な人ね。でもいいわ、あなたの質問ももっともよ、まず私が本名を名乗ったのはスマホのチャットアプリで互いの位置が分かるようになるから、何か襲われたときに駆けつけるためよ。それと……」
サラはそこまで喋りかけたが、倒れている男がピクリと痙攣するのを見て取ると急に態度が変わった。
「あなた、とどめを刺してないの?」
棚から飛び降り、左手の義手、二の腕の部分に開いた空洞に電池をはめ込んだ。唸りをあげて義手が回転する。あれは電気エネルギーを直接回転に変えているのか、あんな単三電池に、重そうな金属製の義手を回転させるだけのエネルギーがあるとは、損失ゼロの力の受け渡しは凄いな。
って、違う!感心している場合じゃないだろ、シンヤはサラの右腕を掴んで言った。
「殺すことはないんじゃないか?ここで死んだらもう戻ってこれないんだろう?」
その言葉を受けて振り返ったサラの顔はすさまじいものだった。この世の負の感情を全て背負っているような顔をしていた。
「こいつは自分の取り分の金を増やすために今まで何人もの初心者を殺してきて、組織の粛清リストに名前が載っているわ。あなたが彼の代わりに死んでくれるの?」
シンヤは何も言葉を返せなかった。
サラは左腕の回転をほんの少しだけ右腕に移した。それだけでシンヤの体は丸々一回転して、頭から棚に突っ込んだ。サラは回転の力を左手の人差し指に込める。第一関節より先は残像が見えるほどものすごい速さで回転している。シンヤの制止の叫び声も聞かず、そのまま人差し指を男の首に押し付け、回転力を付与した。
グルン!男の首が半回転して後頭部から苦痛に満ちた表情が現れた。それで終わり。男がこの世界で完璧に死ぬと、その体は光に包まれて消滅し始めた。
「あなた、その甘さじゃ生きていけないわ、スカウトを受けるの?受けないの?すぐに決めて。」
サラは義手から電池を取り出しながら言った。俺はどうすればいい?彼女の言う通り、このままでは俺はこの世界で生き残れないだろう。でも、生きるために他人を殺すなんて、そんなことできるのか?
多分、出来る。現実世界も同じ、食わなきゃ食われるんだ。
「俺の名はシンヤ、柳シンヤだ。〈才〉は一次関数、サラ、あんたの組織に入るよ。覚悟が決まった。」
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