水底で眠れ/宮守遥綺
これを私にどうしろと言うのだ。
目の前に置かれた正しく人ひとりを入れるために誂えられた白木の箱にため息を吐く。蓋を開けなくとも、中に何が入っているのかなど想像に易い。これを置いていった配達員の、キャップから隠す気も無くはみ出させた銀の髪を思い出して、思わず眉根が寄った。
朝、宅配便で届いた真っ白で簡素な、大きな箱。面倒臭そうに受領書を突き出してくる男からそれを受け取り、百均の判を押して返してやる。男は「あざしたー」と適当に言うと去って行った。目深に被ったキャップの下から見えたのはどこかで見たことがある目。聞こえたのは聞いたことがある声だった。思い出せないけど。
随分と重い箱をやっとのことで部屋に上げ、開いた。
中身は想像通り、死体だった。
まっさらな女の死体。
衣服も下着もなく、緩衝材のシロツメクサのドライフラワーの上に寝かされたそれは、傷一つない。青白い肌を蛍光灯の光にぬらぬらと晒して、ただそこにある。艶の失われていない黒髪には天使の輪が浮かんでいる。肩口で切りそろえられたそれが、無機質の花に埋もれて散っている。この女には見覚えがあった。
小説家だ。結構過激な作品を書く、小説家。
そこで思い出した。
あぁ、そうだ。
さっきの配達員。あれは――。
隣の部屋のドアを開ける。
窓にかかる遮光カーテンを開くと、別世界が広がった。
正面には水族館とも見紛う大型の水槽。中にはタコにカニ、ヤドカリ、イワシやサバに小型のサメなど、海にいる生き物たちがひと通り入っている。水底には砂、時折動く機械が波を生み出し、水を掻き回している。低いモーター音がバラバラと室内に響く。本物の海と遜色ないよう作られた偽物の海は透明で、その内部を惜しみなく見せた。サメの尾ビレがキラキラと光を反射する。
「あぁ、そうか」
それを見て、ふと思いついたことがある。どうせ死体が届いたのだ。ひとつ、実験といこうではないか。
隣室から届いたばかりの箱を引っ張ってくる。細いとはいえ、人ひとりはさすがに重い。加えて、律儀にもしっかりとした木箱なのだから尚更だ。どうせ届けるなら発泡スチロールにでもしてほしかったと思う。
女の死体は完全に死後硬直して、体温など微塵も感じられないほどに冷えきっていた。ここまでしっかりと硬直し、しかし腐敗が進んだ様子が無いということは、恐らくあの男は殺した後にどこかで大量のドライアイスか何かで冷やしたのだろう。
「何があったのやら」
女はあの男のお気に入りであったろうに。何故、命を奪われ、あまつさえその死体が私の目の前にあるのか。常日頃から何を考えているのかわからない男ではあったが、今回に至っては輪をかけて、だ。大体、私の所にこんなものがあったら私が殺人の被疑者第一候補ではないか。そんなことは御免被りたい。私は何の関係もない無実の一般人だ。小説の中でどれだけ人を殺しても、現実で殺そうとは思わない。そこまでの狂人ではないはずだ。
「まあ、参考にはなるけどね」
女の死体をつぶさに観察しながら、頭の中にその所感を記録していく。手触り、匂い、温度……普段触れることはまずないからこそ、ひとつひとつを詳細に覚えておかねばならない。現実逃避の物語にリアリティを求めるのもおかしな話だとは思うが、なぜか読み手は必死に掴みどころなく、ひどく曖昧な「リアリティ」なるものを求めるから。作家はそれを追い求めることを辞めてはいけないと思う。どんな場面でも。
だからこそ私はこの死体を観察し、消す。その過程をも含めて私はそれを糧にする。
それは人として間違った在り方であっても、芸術家の端くれとしては至極真っ当であると思うのだ。
窓の外に広がる海は凪いで、キラキラと輝きながら砂浜に打ち寄せている。その波の下には太古から何千、何万の生き物が住み、生まれては生み、死んで、他の生物を生かしてきた。人間は陸に上がりはしたものの、命を繋ぐために海から命をいただき続けているし、時には海の生命の輪の中に組み込まれる。海で生まれることはないけれど、死に場所として海は今も人間の傍に在り続けている。
部屋の大半を占める水槽に再現されているのは正しくそんな海だ。生命活動の一部をそのまま切り取ったように、そこには生も死も誕生も喪失も存在していた。
木箱の中から死体を持ち上げた。冷たくて、重い。硬直して動かしにくい腕を無理やりに動かし、何とか背負った。餌やりや掃除で使う台に上る。
どぷり。
水面が大きく波立つ。それまで悠々と泳いでいた魚たちが蜘蛛の子を散らすように、一斉に端に向かって泳いで身を縮めた。ベショリと音がして、フローリングの床が濡れたのがわかった。女の身体が沈んでいく。もがくこともないまま、水中で自然落下していく女の短い髪がゆらゆらと漂っている。やがて何の抵抗もないまま、砂の敷かれた水槽の底に横たわる。突然降ってきた大きすぎる物体に、それまで我関せずを貫いていた甲殻類やカレイ、ヒラメたちも驚いた様子ですみっこに重なった。
一旦隣の部屋に戻る。三脚とビデオカメラ、充電用のアダプターを持って再び水槽の前へ。全体が満遍なく撮影できる位置に三脚を立てて、カメラを回した。部屋の換気扇の出力を最大まで上げる。これで準備は整った。
「悪いけど」
じっくりと観察させてもらおうではないか。
事実上陸で最も強い生き物が、自分たちが生の糧としている者たちの生きる糧となる瞬間を。
一日目は特に大きな変化はなかった。水底の中央で動かない大きなものに、やがて端で大人しくしていた甲殻類たちがそろそろと近付いてきたくらいだった。
変化があったのは二日目だ。害はないと判断したのか、水槽の中の魚たちはいつもと変わらない様子を見せている。その水底で、横たわった死体に群がるカニやエビたちが、意思を持って目や鼻といった器官に集まり始めたのだ。彼らは鋭いハサミの先でそこをつついたり、はさんだりしている。時折ひげや口を動かして、食べているようだ。特に目は大人気で、両方の眼窩に水槽の中のほとんどの甲殻類たちが集まっていた。彼らは眼球が好物らしい。
三日目には大きな変化があった。一日目から少々その気はあったものの、死体が膨らみ始め、浮き始めたのだ。膨らんでいたのは水を吸ったからか、と思っていたが、浮いたのにはさすがに驚いた。腐敗の過程で出るガスが腹の中に溜まるらしい。腹の中に溜まったガスは空気も同じ。風船のように浮くというわけだ。
「なるほどね」
正しく人体の不思議だ。
そういえば、「人間は死ぬと腹が割れる」と何かで読んだことがある。それもこのガスが原因なのだろうか。
四日目にも死体は浮いたままだった。甲殻類は意外にも泳ぎが得意なのかそれでも死体に群がっていて、口や鼻など穴という穴から女の体内に入り込んでは中の臓器を食い荒らしているようであった。この小さな海の中では大きい部類に入るが、小型のサメが悠々と泳いでいる。彼は気紛れに死体に近づいては鋭い歯先で柔らかくなったであろう皮膚を食い破り、肉を貪った。薄くなった血液が水中でゆらゆらと弧を描いている。
四日目の夜に、死体はまた水底に戻っていた。甲殻類たちは相変わらず死体に群がり、彼らを食べるためにタコがやってきた。サメは相変わらず気紛れだ。この頃には死体には他の魚も群がり始めていて、女の生白い皮膚が彼らの鱗の隙間からちらちらと覗くばかりになっていた。低いモーター音がする。機械的にかき回される水の底で、女の黒髪が揺れている。
「そう言えばあれはどうした?」
細い銀髪に蛍光灯が白く反射している。きつすぎるタバコの匂いに顔を歪めると、面白そうに笑う男にさらに不快感が増す。歌うように、何事もなかったかのようにサラリと告げられた質問に、ため息を吐きながら答えた。
「自分でこさえた死体ぐらい、自分で処理してくださいな」
白のLEDの蛍光灯が明るいカフェは雰囲気もなにもない。そうなれば自然、嫌煙して滅多に人が来ないのだが、長居しても何も言われないこの場所が私は案外好きだった。ノートパソコンと携帯、財布。それだけを携えてやってきて、ボックス席で粛々と作業を進めていた私の前に突然姿を現したのが、この銀髪のでかい男――字淵だった。
水槽の底の女を思い出す。小粋な馬鹿。アザフチは彼女の担当編集だった。
「好きな女を死体にして、満足した?」
「好き? 勘違いしてんじゃねぇ」
アサフチが心底不快そうに顔を歪めた。彼は「かわいい女が好きなのであって、小粋はただの厄介な小説家だ」と言う。自宅の懺悔室に監禁していたのも、その方が原稿の催促がしやすいからだと。
アザフチの心の底からの言い訳に、思わず笑いそうになってしまう。「コイツは限りなく子どもなのだ」と思った。
「で、死体はどうしたんだ」
目の奥に爛々と好奇を宿して、アザフチが問うてくる。この男は私でも遊びたいらしいが、生憎遊ばれてやるつもりはない。
「……有効活用させてもらっていますよ」
目線を切る。話は終わりだ。
キーボードに指を走らせ始めると、男はなにも言わなくなった。ゴソリと音がして、タバコの紙が箱を擦る音がした。火の音。きつい煙の匂い。漂ってくる煙に眉を寄せる。
男が愉快そうに笑っているだろうことが、気に食わなかった。
ひと月経つ頃には、女は女ではなくなっていた。ただの骨になった女に魚もサメも甲殻類たちもとうに興味をなくしたのか、死体が入る前と同じように、悠々と泳ぎ、水底で跳ねている。そろそろ水槽を掃除しても良さそうだ。
記録用のビデオカメラを止める。SDカードを抜き、隣室にあるPCに映像を取り込む。買い置いてある新しいカードに映像をコピーして保管用のケースに入れる。中にはすでに十枚以上のSDカードが入っていた。
「ちゃんと本人に報告しないとね」
歌いながら封筒に宛名を書いた。切手を貼って、中にSDカードのケースを押し込む。適当な裏紙に「感想、待っていますよ」とだけ走り書いて、一緒に中に突っ込んだ。封を閉じてテーブルに放る。後で出しに行こう。
あの男はこれを見て表情を変えるのか、否か。それを見られないことだけが残念でならない。
「……左の薬指でも今度送ってやろうか」
それとも、魚を何匹か冷凍でもして送ってやろうか。
水槽ではひと月で大分大きくなった魚たちが泳いでいる。
水底では姿を失った女が静かに眠っている。
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