ファム・ファタルの花葬/兎ワンコ
女が死んでいることを確信したのは、発見してから五分経った頃だ。
森の中を切り開いて作られた人工池で、その広さから地名を取って烏丸湖と呼ばれていた。昨日の夜から今日未明にかけて降り注いだ雨が、木々の葉にまだ露として残っていた。朝霧の切間から覗く池の水面は穏やかで、水鳥すらも眠っており、私以外に生きているものがいないくらい静かであった。
女は真っ黒な和服姿で、胸の前で手を重ねて横たわっていた。女のすぐ隣では烏丸湖の水が静かに揺蕩っている。異様な光景に、最初は気の違えた女が森林浴をしているものだと思った。
遠巻きに様子を伺っているうちに、微動だにしない女に興味が湧いた。深く眠っているのだろうか? 私は足音を殺し、ゆっくりと近づく。
数歩ほど近づいた。突然を目を開けるなり、飛び起きて叫ばれては困る。今度はわざと足音を大きく立てて近づいた。だが、女が目を開けることはない。
妙だ。ついにすぐ真横に立ってみるが、何の反応もない。深く閉じた瞼を隠すような長い睫毛に目がいく。だが、動きはない。
これはと思い、女が起きるまでマジマジと観察した。着ている着物は訪問着ではなく、黒紋付であること。そして、手の中に一輪の淡いピンクの花が握られていた。それがネリネの花のだと知ったのは、後のことであった。この時の私はヒガンバナと、ずっと勘違いしていた。
頭からつま先まで見つめる。着物は濡れておらず、夜明け前まで振っていた雨には打たれてはいないようだ。ここに着いたのは私より少し前だろう。
女の顔にどこか見覚えがあることと、鼻孔も口も動いていないことに気付いたのは同時であった。
この女は、小粋な馬鹿と呼ばれる小説家だ。何の賞だかは思い出せないが、数年前に大賞を取ったのをネットのニュースで見たことがある。また、私自身も以前に遠目から眺めたことがある。半年ほど前の作家同士の懇親会である。会話はしたことがない。
女の首にそっと指先を伸ばす。人のそれとは違う冷たさ。本来ならば打っているはずの脈も感じない。やはり、女は死んでいる。
思わず、周囲を見た。そびえ立つ木々と風に揺れる枝以外に、目立ったものはない。普段なら、木々にとまる小鳥の姿はおろか、囀りさえも聞こえてこない。まるで、喪に服したように静かなのだ。
この女がなぜここに来たのか、どうして死んだのか見当もつかない。だが、一見して外傷もないことから、服毒自殺かもしれない。残念ながら、私には皆目見当もつかない。
傍らにはブランドもののハンドバッグがあった。一見して女物だとわかるデザインから、小粋のものと見て間違いはないだろう。もしかしたら、この中に毒物といった証拠があるやもしれない。だが、鞄を漁って真実に近づくような行為はしなかった。勝手に現場を荒らしてはいけない、という警察の初動捜査の基本が頭にあったが、この時は違う理由があった気がした。それは、すぐにわかるのだが。
「君は本当に小粋な馬鹿なのか?」
独り言ちてみる。当然であるが返事はない。
今置かれている自分の立場を客観的に考えてみる。近所の森で、会話もしたことない小説家の女の死体。それも、この女からしてみれば百キロ以上も離れた見知らぬ土地で。やはり、意味がわからない。
だが、ひとつだけハッキリしていることがある。横たわる小粋を見かけた時から、私は彼女の虜になっていた。
人生の中で、心を奪われることは何度となくある。モネの『日傘をさす女性』を生で見た時、沖縄の透き通るような海を見た時。最近ならば、ジェームズ・グレイの『アド・アストラ』の最後の帰還シーン。東京の江戸川の屋台船で見た、夜空を切り取る摩天楼。そんな感動的な世界の中に、引き込まれているようだった。
生前の彼女のことをよく知らないが、彼女の編集者であるアザフチという男とは交流があった。アザフチは以前に「まるで仕事をしないし、原稿も碌に書きやしない」と、愚痴を溢していたのを耳にしたことがある。率直に思ったのが、かけ離れた賢人。いわば、妙なことに特化した社会不適合者。創作者にはよくある人種だ。
しかし、今は目の前にいるのは物言わぬ死人。重力のピンに打ち付けられたように動くこともせず、呼吸の吐息すらも聞こえない。
死人を見るのは初めてではない。祖母や祖父、そして友人などの死は通ってきた。それでも、柩に入れられていない死体を見るのは初めてではあるが。
小粋の死体は、今まで見てきた死人とは違うものがあった。顔を眺めるほどに、吸い込まれそうな感覚に陥る。恋心にも、欲情にも似た衝動。
──あぁ、なんと憐憫な女なのだ。君は死んで完成されてしまった。
オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』を思い出す。洗礼者ヨハネに恋をしたヘロデ王の娘サロメが、七つのヴェールの踊りをヘロデ王に捧げ、その見返りとしてヨハネの首を要求する。物語のクライマックスで、サロメは銀の皿に乗ったヨハネの首に恋を語り、口付けをするのだ。小粋は死を持って私の『運命の女(ファム・ファタル)』となった。
今、私はサロメになれる。あの神話でサロメがヨハネを独占したように、私も小粋を独占したい。彼女の首を切り離し、部屋の中に飾りたい。毎晩のように胸の中で沸き起こる衝動を告白したい。手も切り離し、その細い指先を私の身体に這わし、エクスタシーに溺れてしまいたい。
欲望ばかりが加速し、口元が締まらない。よだれが今にも溢れて垂れそうだ。
我慢ならない。遂に身体を寄せ、小粋の顔を挟むように両手をつく。犬のように小粋の上で四つ足となる。小粋の唇を見つめる。死んでも尚、潤いを失わない皮脂に興奮を覚える。
――死人に性的興奮を覚える。今までにない私の内側に秘めた想い。かつてない冒険を前に、理性が一度ブレーキをかける。
倫理が邪魔をする。彼女の純潔を奪うことは、今の私にはできない。
「ダメだ。あぁ、ダメだ」
この愁眉を前に、私は恋に臆病な少年のように打ちひしがれる。
頭を起こし、彼女を見下ろす。あぁ、悔しい。私は自分の理念を打ち破って、欲望を解き放つことが出来ないのだ。
だが、こうも思う。死は美しい。美しいからこそ、汚すことが出来ない。捕らえることも、保存することも、全て冒涜に値する。小粋の死体をマジマジと見て、そう思うのだ。
上体を起こし、小粋の横に座り、考える。
ならば、私のすべきことは一つ。彼女の死を至高の芸術として永遠の形にしなければいけない。
朝霧が立ち込める烏丸湖を見る。何の気配もない。まるで、私の判断を待つかのように、静かだ。
……まずは小粋の身体をどうにかしなければ。
このまま肉体が醜く腐れ果てていくなど、許せない。森に蔓延る家畜生の口に入れさせるのも論外だ。ネズミやタヌキが一齧りしようものならば、腹を引き裂き、その血を全て地面に吸わせてやる。そして、形が分からぬほどに石で擦り潰してやる。鳥が興味本位で彼女を啄むのなら、その嘴を縄でぐるぐるに縛って、泥水の中で溺死させてやる。
今の私は意馬心猿に流されており、正しい判断が出来ないことは承知していた。感情の増幅が止まらない。私は怒りと使命で出来ていた。
急ぎ足で来た道を戻り、自分の車へと戻った。雨を含んだ土が靴を重くするが、必死に足を動かす。
息を切らしながら駐車場へと戻り、車鍵を開けるのと同時に後部のドアを開ける。仮眠用に積んでいるタオルケットを引っ掴むと、また急ぎ足で森へと戻った。
急ぎ小粋の元に戻り、その身体をタオルケットに丁寧に包む。僅かな時間とはいえ、目を離した時間はひどく心配であったが、無事だったことに安堵した。
その華奢な身体を持ち上げ、顔は化粧が崩れぬように注意を払った。
薄いタオルケットの生地から小粋の身体に触れるという背徳は、特別な感情を胸の中に注ぎ込んだ。
心臓の音を速め、下腹部に血が集まり出す。またしても、情欲がぶり返す。
――あぁ、クソ。またしても感情が理性を飛び越える。私は酷く浅ましい男だ。自分でも呆れるほどに欲情しているのだ。なんと低俗な生き物なんだろうか。
私の手は作業をやめ、タオルケットの上から小粋の身体を撫でる。
頬から首、鎖骨。庇護欲を通り越し、破壊衝動に駆られる。
次に胸部から腹部、そして太ももの付け根へ指先は流れる。性的興奮が混ざり、理性は遠く彼方へと消え入りかけていた。
太ももからくるぶしに指を這わせた時、私の中でなにかが爆ぜた。
気がつけばベルトのバックルを外し、ズボンと下着を膝まで下ろし、怒張した陰部を露出させた。上半身をタオルケットに包んだ小粋の上へと投げ出す。
理知などなくなっていた。自分が変身した気分だ。毛布を剥ぎ取って、小粋の身に纏う着物の下に手を這わせ、白く血の通わない素肌に触れてみたい。舌先を這わせ、ひどく冷たい肌を堪能して私の温もりを送ってやりたい。そうして服を剥ぎ取り、火照る私の身体と抜け殻となった小粋の着物を脱がせ、体温を共にするのだ。
あぁ、私は獣だ。今なら、なんだってしてもいいのだ。
だが、私は行動に移さなかった。確かに脳内は性欲に支配されている。不思議なことに、小粋の身体を穢してはならないという深層心理が、私の身体を押しとどめた。おかげで擦り寄る犬猫のような無様な姿で、自慰行為をし始めた。
周囲の目などどうでもよかった。自慰は許されるのだから、と。恥辱な姿を晒していた。
薄生地に染み込む私の吐息。返ってくるのは死人の冷たさ。それが、心地よかった。
あぁ、もっと感じさせておくれ。
あぁ、愛おしい。悲しい。
なんと尊いことか。なんと罪作りな身体なことか。説明のつかない愛憎が一層加速する。
女体というだけならまだしも、死という絶対的な装飾を纏った小粋は、官能的な女神のそれだ。まるでボッティチェリのアフロディーテのようだ。あの洗練されたビーナスがここに舞い降りたと言っていい。
端麗と色気。アートとセックスシンボル。これから私は、禁忌を犯そうとしているのか? それとも性的異常者になりかけているのか? おそらく、そのどちらでもあろう。
だが、そんなことはどうでもいい。今は犬のように身体を擦り付け、小粋の死にゆく身体を堪能したい。
ムフー、ムフーとタオルケットに息を吐きかけながら、右手を一心不乱に動かし続ける。
やがて快感が高まり、あられもなく絶頂した。
「あ、あぁ……あぁあぁあ」
全身が脈打ち、これまでに感じたことのない快感がつま先から脳内まで駆け抜けていく。短い吐息が何度も漏れる。私の牡茎(おすぐき)からビュルビュルと放たれる白い子種は、地面と彼女を包んでいるタオルケットに飛び散った。今まで行った自慰の中でも、格別に気持ちよかった。というより、過去にまぐわって来た女とのセックスのようだ。心臓があばら骨を破りそうなほどバクバクと鳴り、腰を中心にした下腹部の痺れが抜けない。
時間にして約一分。絶え間なく続いていた下腹部の快感が引き始めた頃だ。不思議なことが起こった。射精してすぐに頭がクリアになる場合がほとんどで、思考は阿呆の様に愚鈍になるのだが、今回は潮が引くように罪の意識だけが頭の中にしっかりと残った。
一瞬の夢。醒めた眼で飛び散った精液と、力なくダラリと垂れた牡茎に目を落とす。
――なんとことをしたんだ私は。
全身から血の気が引いた。愚かにも自慰をしてしまった自分に絶望する。なんと我慢の足りぬ男なのだ。思わず右手でこめかみをパンパンと引っ叩いた。
真下を覗いた。放出した精液は愚かな私の罪。これこそが薄汚い色情の証であり、この自慰は告解なのだ。美を前にした私は、人ではなくなったのだ。
あぁ、小粋よ。君は羊飼いであり、私は愚かな羊なのだ。君には、私を鞭で叩く資格がある。どうか、この矮小な私を許してほしい。
懺悔の言葉を胸に覚え、私は状態を起こした。気怠さに支配される前にズボンと下着を吐き直し、彼女の身体を丁寧に包み直した。タオルケットについたポケットに突っ込んでいたティッシュペーパーで丁寧にふき取った。
私は小粋の亡骸を抱え上げ、来た道を戻る。
道中、誰かに見つかってしまわぬかと気掛かりだった。傍から見れば、私は女の死体を抱えている男。怪しいに違いない。
しかし、だ。今の小粋を見れば、誰もが羨むかもしれない。彼女の今の姿を見れば、誰もが死を嘆き、贖罪をするに違いない。誰だって、罪を許されたいからだ。
そうなると小粋の遺体を奪われる可能性がある。腕っぷしに自信はあるが、彼女を抱えたままでは無理だ。いざという時は、刺し違えてでも守り抜くしかないようだ。
だが、幸運なことに誰ともすれ違うことはなかった。駐車場には私の車しかない。後部座席に小粋を乗せ、エンジンを始動した。
◇
運転して一〇分ほど。私は自宅へと戻った。
近所の目に注意を払いながら小粋を自宅に運び込むと、今は使っていない客間に安置した。腐敗を防ぐためにエアコンを最低温度に設定し、冷凍庫に保管してあった保冷剤を小粋の周りに詰めた。しかし、これも時間の問題だ。肉体の腐敗速度はわからぬが、そう長くはないはずだ。
客間の雨戸を閉め、灯りを消すとリビングに戻る。
濡れた土で汚れた上着を無造作に脱ぎ捨て、テレビを付ける。チャンネルをニュース番組に切り替える。ニュースキャスターが読み上げるニュースを受動的に耳にしながら、スマホを開く。
テレビやウェブのニュースは普段通りだ。侵略戦争にコロナウイルス。議員の失言に交通事故。なんと愚かで憂える世界だ。私は小さなため息を一つ落とす。
そう思うと、小粋はこの現世を見限ったのかもしれない。堕落し、腐敗した世界に未練などないのだ。
ならば、なんと悔しいことか。
ならば、なんと愛おしいことか。
あぁ。私は奴隷でいたい。忠実な僕でいたい。彼女の一声で、私の世界の花が咲き乱れる。一振りの舞で風が起き、空虚で退屈な世界に宴の合図が起こる。
だが、一枚ドアの向こうにいる小粋は一言も発することはない。何かを欲することも、何かを命じることもない。ドアの向こうで、ただそこに目を瞑り、固く口を閉ざすばかり。
――眠り姫。
その永遠の夢から覚めない少女はなんと儚いことか。なんと哀れなことか。この悲劇の観客がいないのだ。客席から舞台に上がった私は、脚本のない演劇を続けなければいけない。
小粋よ、小粋。この哀れな男になんなりと申してみよ。君の死後の願いなら、理由を問うことなく叶えてやる。
十二畳間のリビングでしばらくデタラメな劇の空想に耽る。
しばらくして、私はいつも通りに家事を終え、書斎に籠って執筆活動を始めた。
ノートパソコンの電源を起こし、昨日までやっていた新作のミステリーの原稿ファイルを開く。だが、羅列された文字を前にして、集中できなかった。私が本当に書くべきなのは、あの女のことではないのだろうか、と。
新しいデータを作り、空白のページの前にキーボードの上に指を乗せる。
何を書けばいい? 何文字書けばいい? 何を伝えればいい? 思考がグルグルと回る。感情の渦に呑まれた意識だけが身体を震わせる。
やがて、私の意識は机の上で途絶えた。
◇
目を開けると、私は長い長い廊下に立っていた。薄暗く、ジメリとした空気が漂う廊下。
幅は七尺ほど。天井の高さは九尺くらい。奥行はどれほどかは分からない。もしかしたら、永遠に続いているのかもしれない。挽き板の床材は白みのある栗色で、天井からぶら下がった暖色系のランプの光が表面に反射していた。
廊下の両端には、柩が並んでいた。黒くどっしりとした洋風な形の柩で、それが廊下と同じく、均等間隔で並べられている。そのどれも蓋は閉じられており、柩の上には様々な花が置いてあった。
「ここはなんだ?」
私も死の世界に誘われたのか? いや、これは夢だ。重力を感じないこの感覚が、その証拠だ。
背後から鈴の音が鳴った。振り返る。
小粋が立っていた。
彼女は私になんとも言えぬ瞳をこちらに向ける。手には、あのネリネの花が握られていた。
「教えてくれ。君は僕に何を望む」
小粋から返事はない。
歩み寄る。だが、近寄ることが出来ない。そこには、なんの感情もないことに気付いた。
◇
もう一度、目が覚めた。視界には真っ黒のモニターと見慣れた机と椅子。どうやら、書斎の椅子に眠っていたようだ。
電源ボタンを押し、モニターを呼び起こさせる。しばらくして灯ったモニターには、原稿データが映り、二行に分けてこう書かれていた。
『世界を
元に戻せ』
私が打ったのか? まるで覚えがない。
強張った身体を起こし、改めて考える。妙な夢であった。だが、ただの夢ではないことは明白であった。
小粋は私に託したのだ。それこそ、神の啓示に違いない。
私は書斎を抜け、客間に向かう。途中、廊下のはめごろしの窓を見た。住宅街を望む窓の外はすっかり暗くなっており、月光に照らされた青白い雲がぼんやりと漂っている。
寝かせた小粋に目をやる。相変わらず、目を閉じたままであり、変わった様子はない。
薄暗がりの中、先ほどまで見ていた夢を振り返る。
あぁ、分かっている。これから何をすべきかは、もう決まっていたのだ。
頭の中はモニターの文字が浸食し、身体の全てを包んでいくようだ。
世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。世界を元に戻せ。
◇
私は小粋を車に乗せ、来客用に用意していた新品の毛布を積んだ。また、外の倉庫から鎌とナタを引っ張り出し、それらを積むと烏丸の森に戻った。
時刻は深夜二時過ぎ。夜の帳に閉じられた町は静かで、街灯だけが煌々とその存在を強調している。
夜の烏丸の森は、当然であるが外灯といった灯りはない。太陽が昇っている時は 物寂し気な森であるが、夜になるとその顔を変える。人間の立ち入りを許すまじと、どこか邪気を放つ雰囲気があった。
でも今は、その闇こそが私の味方だ。罪人。それが、この闇を纏う正当な理由だと言っていい。
私はエンジンを掛けたまま、ライトだけは消して、新品の毛布を先に森の奥へと運んでいく。
昼の暑さを残した風が頬を撫で、全身に汗が滲む。烏丸湖の畔まで辿り着くと、まるでここだけ別世界かのようにひんやりとした空気が漂い、火照った身体を涼ませた。やはり、ここは死後の世界なのだ、と自嘲する。
また車まで戻り、今度は小粋を運ぶ。先に運んだ毛布の上に小粋の身体を横たえ、一心不乱に小粋に死化粧を施す。
私が出来る、唯一のこと。小粋に託された、最後の願い。それは他生の縁であり、死者からの伝言。
なんと畏れ多い。最大の芸術は、私自身で行うことだったのだ。
死化粧を施し、小粋を誰の目にも届かぬ場所に安置した頃には、木々の隙間から太陽の光が差し込んでいた。時間の進みなど、まったく気にしていなかった。
糸が切れたようにその場で尻もちを付き、眼前の烏丸湖の水面に目をやった。
ふと見れば、着ていたチノパンもTシャツもずぶ濡れで、生水特有の青臭さが鼻をついた。
なんと惨めな姿だろうか、と苦笑する。
それから、木々の隙間から零れる日差しに目を細ませながら、考える。なぜ、私だったのか、と。
近くに偶然いたのが私であったというだけの可能性――私は小粋の取り巻く環境のひとつであり、彼女が進む道の中に転がる小石のひとつなのだろう。死の直前、そのつま先に触れたのか?
または、運命のイタズラで、彼女はこの烏丸湖に魅かれて死に、私も同じように湖に魅かれ、生の役目をあてがわれたのか。
——否。
彼女の死は、この森の往古来今の中で決まっていたこと。私も彼女も同様に運命の奴隷であったのだ。
ああ、そうだ。
神と呼ぶべき存在が、私に課したのだ。この地上で果てた女神の埋葬を。
なんという試練を私に課したのだ。痛みを知って生きろとは、こういうことを言うのか。そうだというのならば、感情が揺さぶられる。涙が止まらない。
しばらく涙を流し、その涙が乾いた頃だ。覚えのある紫煙が鼻腔に届くと同時に、背後から気配を覚えた。
ラッキー・ストライクの煙。
アザフチだ。私は振り向けずにいた。
しばらく動くことなく、背後でタバコを吹かしている。なんと余裕のある行動か。
フーッと長く煙を吐く息遣い終わると、ゆっくり且つ、力強い足取りで近づいてくる。
アザフチに殺されると思った。
恐怖心がフツフツと沸き立つが、覚悟は決まっていた。寧ろ、今ここで死ねば私は小粋と同じ高みにいけるのではないか?
「あいつの死体はどこだ?」
静かであるが、凄みのある声。
「死体じゃない。遺体だ」、と私。
沈黙が続いた。
「あの馬鹿の私物はどこだ?」
私は足元に置いてある鞄を指さした。本当は彼女とともに納めようとも思ったが、しなかった。生前の持ち物は、今の彼女にはいらない。小粋は、自由になるべきだと思った。
アザフチは鞄を持ち上げると、ガサガサと中を確認している。何を探しているのか、私にはわからない。
鞄の中身を確認し終えたアザフチはそのまま来た道へ戻っていく。なぜだ? どうして、私を問いたださないのだ? 彼女の死を知っているならば、君は責めるはずだ。
私は待っているのだ。君の問いに曖昧に答え、君が小粋を一心不乱になって探す姿を。その道筋こそが、私と同じ運命をたどる道なのだ。恍惚な顔の奴隷に、君もなるべきだ。
だが、固い靴底が踏みしめる土の音がどんどん遠ざかる。ついには、足音は聞こえなくなった。
アザフチは私のことをどう思ったのだろうか。下等な生き物だと蔑んだのか? それとも、憐れな男だと見放したのか?
微かに車のエンジンが始動する音が聞こえた。やがて唸りを上げ、車が徐々に遠ざかっていく。
あぁ、アザフチよ。戻ってきておくれ。小粋の死は、聖歌の詩のように神秘で、尊いのだ。近くにいた君ならば、理解してくれよう。だから、一緒にいるべきなのだ。私の口から語らせてくれまいのか。
いくら待てどもアザフチが戻ってくる気配はなかった。
(あぁ、小粋よ。アザフチは行ってしまったよ。なぜ、君を一人にしてしまうんだろうか)
ついに私は導かれるように足を動かし、水の中に踏み入れた。ジャブジャブと音を立てて進み、足首ほどの深さのところで立ち止まる。
耳を澄ませば、森のざわめきが蘇っているのに気付いた。
両膝をつき、浅い水面に身を投げ出した。
昨日の小粋の身体に擦り寄った時のように、顔から飛び込む。
顔面は水面を突き破り、すぐに水底にひろがる土にぶつかる。細かな土が舞い上がり、水の中が澱む。
できるだけ長く息を止める。一秒でも長く、長く。喉から詰まるような酸素を堪える。
あぁ、私は生きている。悲しいことに、私は呼吸をやめることができない。
やがて口から少しずつ酸素を吐き出す。肺の中の酸素がなくなり、頭を上げるなり、思いっきり咳き込んだ。
死にたかったわけではない。水の中で小粋を感じたかった。小粋に抱えていた想いも欲情も感情も全て、雲散霧消してほしくなかった。
私が立てた波紋が治まったころ、周りで花菖蒲が揺れ出した。
ふと、湖の中ほどを見た。一枚、また一枚と白い花が花茎を残したまま、水底から浮かび上がってくる。
シロツメクサだ。いくつも細く白い花弁を持った花が静かに漂っている。
あの冷たい頬に触れた時から、小粋を包ませようと思っていた。
今では、私を慰めるように周りで揺蕩っている。それはまるで、小粋が、最後の礼を告げているようだった
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