頬を張るみたいに吹き抜けた北風に顔を背けた先、自宅前にぴったりと横付けされているワゴン車に目が留まった。


 黒スーツの男がスライドドアを開き、頭を屈めてライラさんが乗り込む。それをぼんやり眺めていると、もたもたするなと言わんばかりの勢いで背中を押された。


 ぱっと見の外観はその辺りを普通に走っているワゴン車と変わりなかったが、押し込まれた後部座席の窓は全て内側から厳重に塞がれて外の様子を窺い知ることは出来なくなっていた。


 ライラさんが座席に腰を下ろし、すぐ隣の席をポンポンと手で払って俺に目配せしてきた。隣に座ることに戸惑いを覚えたがここまで来て尻込みしてもしかたなく、そろそろと座席に腰を落ち着けたと同時にワゴン車のエンジンが掛かりゆっくりと動き始めた。


「俺、どこに連れて行かれるんですか?」

「着いたらわかるよ」

 窓が塞がれているためどこをどう走っているのかわからず、エンジン音だけが鈍く響く車内の沈黙に耐えかね思いきって訊ねてみると、さらりと即答された。


「そこで、……殺されるんですか?」

「しないよ、そんなこと」

 隣に座ったライラさんを横目で見遣ると、その表情はやわらかく微笑んでいるみたいに見えた。けれど口調は平坦でどこか冷たい印象を受けた。車内の寒さのせいだけではない気がした。


「……さっき、俺の母親が、首吊ってたじゃないですか?」

「うん、そうだね」

 気が付いていなかったなんてあり得ないと思ったが、念のために訊ねてみるとはぐらかされることもなく頷かれて逆に戸惑ってしまった。


 これからどこに連れて行かれて、そこで何が待ち構えているのかはまるで想像できなかった。何の目的で連れ出されたのかだってわからず身体の底から不安感がぞわぞわと湧き上がり、エンジン音ばかりが耳に付く車内の沈黙に耐えきれなかった。


「あの母親は、本当に最悪だったんです……」

 自らの不安を振り払いたい一心で、ライラさんの返事も待たずに俺は聞かれてもいないことを語り続けた。


「いまよりもガキの頃からとにかく酷い生活だったんです。ギャンブル狂いのアル中で、どこかで男を引っかけては家に連れ込んでくる、とにかく何もかも狂ってるやつだったんです」

「ノエルくんは、そんな生活を変えようとはしなかったのかな?」

「しました。家出するために金を貯めようと思って、歳をごまかして工事現場でバイトしたんです。毎日怒鳴られながらクタクタになるまで汗だくになって働いたんですけど、給料日に俺の分はなかったんです。俺がバイトしてることを嗅ぎつけた母親が勤め先にやって来て、適当な理由を並べて先に受け取っていたんです。頭にきてすぐに家に帰ってどういうつもりか聞いたら、あんな端金じゃ足しにならなかったって逆にキレられたんです。俺の給料を横取りした足で競馬だか競艇だかに行って全額スッてたんです。しかも負けたのはお前のせいだって叫びながら、やけ酒していたコップを投げつけてきたんです。なんかもう、怒りとか呆れとか、いろんな感情が全部どこかに吹っ飛びました。……ああ、このクソみたいなやつから逃れる術はたぶんないんだろうなって、全てがどうでもよくなってあの部屋に引き籠もったんです。あのクソが死ぬのを待とう。飲み過ぎで体調を崩すでもいいし借金取りに殺されるでもいい。そう思いながら、ただ静かにゲームしてただけなんですよ。それなのに――」

「ノエルくんは、かわいそうだね」

 共感や同情が欲しかったわけではなく、ただ沈黙が耐えがたかっただけだった。他に語れるような思い出なんてものもなく、饐えた臭いで満たされた汚泥みたいな出来事を思い出しながら一人で捲し立てていただけだった。


 それなのに、なにかをぐっと堪えるように小さく下唇を噛んでわずかに身震いしたライラさんから投げかけられた『かわいそう』という一言が、じんわり沁みた。


「かわいそう、ですか……。ですよね……?」

 時折揺れる車内で隣のライラさんからじっと見つめられ、どういう感情なのか汲み取るきっかけも掴めず戸惑ってしまう。


「うん、本当にかわいそう。ノエルくんはなにか叶えたい夢とか、願望みたいなものってないのかな?」

 俺のつたない話にいったいどれだけ感銘を受けたのか、ライラさんはどこか慈しむような表情でぐいっと顔を近付けながら問い掛けてきた。


 その感情の起伏を顕わにしない口調とは対照的なほど、俺の願望を問い掛けてくるまっすぐな勢いに押し出されるみたいに、

「ゆ、夢っていうか、どうせ死ぬんだったら、セックスしてからが良かったです」

 うっかり溢れ出した本音はいまさら取り繕うことなんて出来るはずもなく、今すぐに死にたくなるほどの後悔が押し寄せてきた。


 慌てて視線を俯けつつなんとか冗談だったことに出来ないものかと、引き攣る頬を堪えながらライラさんの顔を恐る恐る見上げてみると、そこにあったのは笑顔だった。


 小馬鹿にしているわけでも憐れんでいるわけでもない、愛おしそうな眼差しを浮かべた慈悲深く優しい笑顔だった。


 愛おしそう、だなんて断定してしまったが、これまで生きてきて一度としてそんな眼差しを向けられたことがないのだから本当にはわからない。けれど少なくとも俺の言動を不愉快には思ってはいないように見えた。


「そっか。でも、いきなりセックスするよりもちゃんとお互いを理解し合ってからのほうが良いと思うな」

「……理解、ですか?」

「うん。お互いの理解が深まってから結ばれた方が、とっても気持ちいいんだよ」

 小さな子供を諭すみたいに耳元で囁くと、ライラさんは背もたれに身体を預けてお腹の前で両手の指を組み大きく胸を上下させてゆっくりと深呼吸する。


 やや伏し目がちに手元に視線を落とした横顔はどこか儚げで、すぐ隣に座っているのにじっと見つめていると霞のように消えてしまいそうな危うさを感じさせた。


「さあ、着いたよ。ノエルくん、ちょっとだけ我慢してね」

 会話が途切れてからどれくらい走ったのか、やがてワゴン車が停車したかと思うと俺は黒スーツの男に黒い布でキツく目隠しをされた。すぐにライラさんが手を握ってきて、ゆっくり導かれるまま車を降りた。


 おそらく何かしらの建物に入ったようだった。かなり広いところのようでライラさんのヒールの音が反響して聞こえた。視覚を遮られているせいで方向感覚が覚束なく、どうやらエレベーターに乗り込んだところで「もういいよ」と目隠しを解いてもらえた。


 いつの間にか黒スーツの男の姿はなく、ライラさんと二人でエレベーターに乗っていた。階数表示は下向きの矢印が点滅し地下へと降りているようだった。


 B2と表示され小さな振動と共に自動ドアが開いた。

 辿り着いた地下二階フロアはコンクリートの床や壁が剥き出しで、天井を無数に這うたくさんの配管だけがうねる蛇を思わせる殺風景な場所だった。


 そんな広いフロアの中央にゲーミングチェアが等間隔で五機設置されていた。そこだけ照明が当てられ浮かび上がっているみたいに見えた。背もたれの背後に大きな機材が取り付けられている見た目以外は全身を包み込むタイプの一般的なゲーミングチェアだった。そのチェアを一機ずつ囲うように金属質な骨組みが四角く組み立てられていた。


「ノエルくん、到着早々で悪いんだけど、あそこに座ってゲームしてくれるかな?」

「……げーむ、って、ゲームで合ってますか?」

「うん、合ってるよ。さっきまでお家でプレイしていたゲームと同じだよ」

 馬鹿みたいに訊ね返した俺にふんわりと微笑みを返すライラさんに促され、腰を滑り込ませたゲーミングチェアは思ったよりも座面が固く見た目のわりに座り心地は悪かった。


 ふと視線を感じて隣を見遣ると、背広姿の知らないおじさんが精彩を欠いた顔でこっちを見ていた。

 その奥のチェアにはおばさんが、さらに奥には少し若い女性が座っていた。みんな一様に青ざめた顔をしているのが印象的だった。


 結論から言ってその三人はチームメンバーだったのだが、生きている姿を見たのはその瞬間が最後だった。


 なにしろゲームが始まり勝利するまでのおよそ三分弱の後に隣のおじさんを目にした時には、額に穴を開けて動かなくなっていたのだから。


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