「ねえ君、名前は?」

「……え、あの、……ノエル、です」


 それはまるで背中にビリッと電流が流れるみたいに、本能的に生命の危険を感じさせるような出会いだった。


 咄嗟に本名を答えてはいけない気がして、今の今までプレイしていたゲームのプレイヤーネームを口走った。

 振り返って目を離した隙に、ゲーム内のキャラが撃たれて画面が暗転した。


「ノエルくん、だね。私はライラ。よろしくね」

 足首まで丈のある真っ黒なロングコートに身を包んだ女性は、どう聞いても偽名にしか聞こえない俺の返答に負けず劣らずな偽名を返して満足そうな微笑みを浮かべた。


 柔らかく表情を緩ませる微笑みは幼さの名残みたいなものを感じさせたが、それでも俺よりは年上の雰囲気を醸し出していた。


 顎のラインで揃えられたワンレンボブの濃い栗色の髪はすんなりしなやかに伸び、座り込んでいた俺を覗き込むため前屈みになっているせいで、一房の髪の束が片目を隠すように零れていた。

 くっきりと綺麗な二重の大きな目は薄暗い部屋の中でも輝いているように見えて、芸能人かモデルみたいに整った顔立ちを際立たせていた。

 ぼんやり見蕩れていると畳み掛けるみたいに石鹸のような、いい匂いがふわりと鼻をくすぐって緊張感が増した。


「それじゃあ、一緒に行こうか」

 前置きも何もなしにライラと名乗った綺麗な女性が手を差し伸べてくる。


 狼狽えて目の前の手を見つめていると、女性の背後に黒スーツの大柄な男が二人いたことに気が付いた。ボディガードみたいに見えたが、固く引き結ばれた口元が開きそうな様子はない。


 いくら待っていたところで説明はしてもらえそうになく、俺は訳もわからないまま白い手を取って立ち上がった。思わず声を漏らしそうなくらいひんやりと冷たい手だった。


 ――この状況はいったい何事なのだろうか。


 自宅の自室でヘッドホンを付けてゲームをしているといきなり後頭部を小突かれた。そして振り返ったら綺麗な女性が俺を見つめていた。


 もちろん初対面だ。当たり前だが、待ち合わせをしていたわけではないし、来客の予定だってなかった。そもそも人を呼べるほど小綺麗な家ではなかったし、自宅に呼べるほどの知り合いが俺にはいなかった。


 ヘッドホンをした上でさらに大音量にすることでゲームの世界観にどっぷりと浸かり、意識的に外界との繋がりを遮断していたせいで自室に三人の人間が入り込んできたことにも気が付かなかった。


 別に自慢ではないし、自慢になんてならないことくらいわかっているが、端的にいって俺は引き籠もりだった。

 なので後頭部を小突かれたときも母親が部屋に入ってきたのかと思った。いまはこの家には母親以外に人間がいないのだから当然だ。

 そんな唯一の人間である母親とさえ、最後に顔を合わせたのがいつだったのかうまく思い出せない。最後に直接言葉を交わしたときも確か、「おい」とか「ああ」みたいに唸るような声を返しただけだった気がする。


「……あの、ライラ、さん? どこへ行くんですか?」

「ついてくればわかるよ」

 手を引かれるまま玄関へと向かって狭く短い板張りの廊下を歩くライラさんは、小気味よくヒールのかかとを鳴らして歩く。

 いま気が付いたが、ライラさんも黒スーツの男二人もそれが当たり前みたいに靴を履いたままの土足だった。


 玄関から一番近い、いつも母親が酒を飲んでいるせいでアルコールの匂いが染みつき空気が淀んでいる居間の襖が開きっぱなしになっていた。


 まるで面識のない謎の三人組が土足で上がり込み、お互い無関心だったとはいえ息子がどこかに連れて行かれようとしているのだ。

 あのクソとしか形容しようのない母親でも素知らぬ顔で見送ることはさすがにないだろうから、きっと酒の飲み過ぎで酔っ払って寝ているのだろう。


 通り過ぎ様に薄暗い居間を睨むように覗き込んでみると、だらりと脱力しきった母親の身体は天井からぶら下がってわずかに揺れていた。


 ――ああ、首を吊っているな。


 目の前に飛び込んできた光景に対して驚きはもちろんあったが、大袈裟に声を上げて腰を抜かしてしまったり湧き上がるみたいな震えで動けなくなったりすることはなかった。


 やっと死ぬことを選んだんだな、お疲れさん。


 吐き捨てるみたいにそう思い浮かんだだけで、こちらに背を向けてぶら下がっている元母親だった肉の塊を眺めて溜息が漏れた。


「ノエルくん、上着は着なくて大丈夫かな?」

「あ、えっ、着ます……」

 玄関で振り返ったライラさんが、部屋を出るときに俺が手にしたダウンジャケットに視線を落として訊ねてきた。


 いそいそと袖を通しながら、横目でちらりとぶら下がっている母親だったものを見つめる。


 具体的な額までは知らなかったが母親が結構な借金をしていたことは知っていた。生活が困窮を極めて仕方なくしている借金ではなかった。単純にギャンブル狂いで歯止めが効かなくなって膨らんでいった借金だった。なので順序が違うだけで結果として生活が困窮していたことに変わりはなかった。


 だから、望む望まないにかかわらずこのクソはいつか首を吊ることになるだろうとわりと本気で思っていた。強がりでも何でもなく本気で予想していた光景がついに現実になっただけだった。覚悟とはまるで違うが、おかげで俺は落ち着き払っていられた。


 俺がダウンジャケットに袖を通している間、ライラさんと黒スーツの男たちは首を吊っている母親だったものに一瞥をくれることもなかった。

 襖が開いていたから、俺の部屋にやって来る前にすでに目にしていたのだろう。勝手な想像だったが、たぶんこの人たちは誰かが首を吊っている現場なんて見慣れているのだろうと思った。


「ふふっ、かっこいい上着だね」

 ダウンジャケットの前ファスナーを上げ終えた俺を見て一つ頷き、ライラさんは玄関のドアを開けた。


 途端に突き刺さるみたいな凍える夜気が流れ込んできて、否が応でも冬を実感させられてしまいたまらず首を竦めてしまう。

 今日って何日だったっけ。十一月だった気がするけど、もしかするともう十二月なのだろうか。引き籠もりが長すぎて一日の流れはもちろん月日の感覚も希薄だった。


「いや、そんなことないですよ、たぶん安物なんで……」


 まさか本気で言ったわけではないのだろうが、ライラさんが褒めてくれたこの上着は見た目はダウンジャケットだが中身は綿だった。見た目に反してたいして温かくはない。しかし冬用の上着はこれしか持っていないので贅沢はいえない。

 しかもこのダウンジャケットは、母親が家に連れ込み入り浸っていた二十代中頃くらいの若い男が忘れて置いていったものだ。厳密に言えば俺の上着ではない。


 俺の母親は十六の時に俺を産んだらしく、酒焼けして嗄れた声に目を瞑れば見た目だけはいわゆる瘤付きには見えないくらい若ぶりだった。

 そんな見た目だけに釣られて引っかけられる男は枚挙にいとまがなく、見る目もなければ趣味まで悪いとしか思えず俺の方から接することはなかった。

 そんなどこの誰ともしれない男が忘れていったダウンジャケットもどきだったが、デザインだけはそれほど悪くなかった。サイズもぴったりだったしもう戻ってくることなんてあり得ないだろうから勝手に頂戴したのだ。


 ずっと穏やかな歩調と口調で接してくれるライラさんとは違い、背後の黒スーツの男たちは無言で俺を見下ろし圧迫してくるみたいに見えた。逃げるように視線を逸らして履き古したスニーカーに足を突っ込みながら、最後にもう一度だけ居間の中を眺める。


 絶えず吹き込んでくる冷たい夜気に煽られてなのか、わずかに揺れる母親だった肉の塊からにょっきり生えている素足がやけに寒々しく見えた。


「じゃあ、いこうか」

 ライラさんに優しく促され俺は、自ら引き籠もり続けていた牢獄から足を踏み出した。




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