陽炎5
部屋の中へ入ってしまえば僕たちに為せることなど何もなかった。「果報は寝て待て」ともっともらしく千葉くんが僕に告げるとそのまま先にシャワーを浴びるように言われた。化粧を落とし、全身を洗ってさっぱりしたところでやっと替えの下着がないことに気づく。備え付けのガウンは中途半端な大きさだったが、これを使う以外に選択肢もなく、バスタオルで体の水気を大方拭い取ったあと、下着を何もつけない状態でガウンを身につけた。袖は長さが足りず裾も同様に短く、太腿の半分より下が曝されている状態で、何とも格好がつかないと思った。
風呂が空いたことを告げるためにその格好で千葉くんの前に現すと案の定彼は涙が出るほど僕の姿を笑い、笑い、笑い、気の済むまでソファの上で笑い転げたあとにやっと風呂場へ向かった。しかし、千葉くんも僕より背が低いとはいえかなり大柄な男だ。十数分ののちに姿を現した彼の格好は僕の格好とさして変わらず、その不格好さに対して仕返しだと言わんばかりに僕も大声で笑ってやった。
「……笑いすぎやろ」
「だって、千葉くん……くっくっ……あんまりにも『ちんちくりん』だよ!」
「『ちんちくりん』は祥ちゃんの方やろ……」
と千葉くんは再び僕の格好をまじまじと見て、再び笑いが込み上げてきたらしい。「ふふ」っと笑い声が溢れだすと堰を切ったように笑いが止まらなくなり、大きく広いベッドの上へふたりして倒れ込んだ。
「かっこ悪う、祥ちゃん! はっはっはっ……! ヒィッ……ひひっ……!」
「何をっ、ふふふっ、君だってひどい丈感だよ! 子供用のものでも着ているのかい!」
「だからそれは、ハハッ、ひいっ……俺の、セリフっ……ふふ、くっくっ……!」
大柄な男ふたりがゴロゴロ転げ回っても十分に広いベッドの上で、ようやく少し心が落ち着いて、ちらりと千葉くんの方を見る。すると千葉くんの方もあのまん丸のきらきらした宝石のような瞳でこちらを見ていたのがわかった。その瞳の奥には、ホテルに辿り着いたときから俄かに感じていたあのジリジリとした熱がこもっているのが見えた。
――そんな目で、僕を見ないでくれ。
ふわふわと緩い癖のついた髪の毛が額に柔らかく落ちて掛かっている。その間から見える焦がれるような熱。その光線は僕の心の奥底に沈みきっていたある種の期待感を呼び覚ます。それが呼び覚まされていることに気づいているのに、僕はずっと見て見ぬふりをしているのだ。
――勘違いさせないでくれ。自惚れさせないでくれ。
千葉恵吾という男は僕にとって稀有な存在だった。初めての出会いで既に感じていた。それがどんな形の感情なのかそのときに定めることは難しかったが、唯一無二で、彼以外に有り得ないと思わせるような鮮烈な出会いだった。
そんな鮮烈で苛烈な感情から目を逸らすために僕は話し続けるしかなかった。
「僕たちはまるで正反対だね」
「ん? 何を今更……」
「髪の毛も目の色も、着ているスーツの色だって対照的だ」
「でも、俺は祥ちゃんと沢山共通点があるってことも知ってんで」
「……そうかもしれないね」
僕がそう返事をすると、千葉くんはいつものあの得意げな顔ではなく、ただただ嬉しそうに幸せに満ちたような温かな笑みで語りだす。
「まず俺らほど強いやつはおらんやろ」
「まあ、なかなかいないかな」
「負けず嫌いで、射撃の腕も互角やし」
「そうだね」
「系統は違うけど、俺らって男前やん」
「ふふっ……光栄なことに、そうかもね」
「微妙に潔癖症なところも……お風呂に入るまでベッドに座らんかったんってそういうことやろ?」
「いかにも……外気に触れた服でベッドにのぼるのは得意じゃないな」
「あとは……何やろ……」
温かな笑みはそのままに千葉恵吾は急に口を閉ざした。暖色の照明をきらきらと弾き返す瞳はずっと僕を見つめている。
――神に縋りたい人の気持ちというのはこんな感覚なのだろうか。
千葉恵吾の瞳の輝きは、地獄に下りてきた一本の蜘蛛の糸のように儚く、幻覚かと思うほどだった。だが、今僕が手にしたいと思っているのはその幻覚だ。幻であっても良い。その輝きに触れさせてほしい。今の僕にはその幻しかない、そう思い込んでしまう。
しかし、その儚さは幻ではないはずだ。彼の気高くも雄々しい光は幻覚などという言葉では済まされない。僕だけじゃない、誰もが彼の光に引き寄せられる。僕自身は誘蛾灯に集う虫のようなものかもしれないが、彼の光はそんな次元の低いところに留まるものではない。誰もが望み、だが今は僕だけが手を伸ばすことのできる美しい輝石。
その魅力に惑わされ、方向感覚すら失ってしまったと思った。まさしく蠱惑的だ。彼の輝きの前では些細な考えごとに意味を見出すことは不可能だ。すべてが無に帰っていく感覚。すべてが無秩序であるのに無秩序こそが正解だったのだと理解させられる。すべてが在るべき場所へ至るために導かれる。
僕の手は彼の頬を撫ぜるために在った。
僕の指は彼の髪をすくために在った。
僕の唇は彼の唇に口づけるために、僕の腕は彼を抱くために、僕の体は彼の中に還るために在った。
そして途方もない熱が生まれ、途方もない熱のこもった彼の吐息が部屋中を埋め尽くす。
低い呻き声のような嬌声はまさしく僕が思い描きながらも手に入らないと思っていたものだった。
――今、僕の手の中に。
正しくうわごとだろう。わけもわからないまま「好き」という言葉を舌足らずに漏らし続ける千葉恵吾の声が。震える腕が。体液に濡れてグロテスクに光る腹部の古傷が。情欲に蕩けた面立ちが、愛おしかった。そして僕はうわごとなどではなく、正気でこう囁き続ける。
「愛しているよ、千葉くん」
こんな表現では足りないくらいにこの男を愛しているのに、ただそう伝える以外に自分の気持ちを表現する言葉が見つからず、ずっと焦れた思いを抱えながら、一方自分の精神は在るべき場所へ至るという行為を何度も繰り返して、僕たちは朝が来るまで体を重ね合わせていた。
迷宮の鳳 AZUMA Tomo @tomo_azuma
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