陽炎4
千葉くんがガソリンスタンドの男とどのような商談をしていたのか確認しながら、車を近隣の安宿街に進めていく。
僕の見立て通り、ガソリンスタンドの店主はあらゆる物を売買する商売をしているらしく、その中にはマスターたちの安否情報も含まれていた。逃走用の新しい車をもう少しだけ距離の離れた場所にあるスクラップ工場に手配してもらう予定だと千葉くんは言った。警察の捜索網もまだこの辺りには及んでいないということもわかっていて、およそ二十四時間ほどの猶予はあるだろうとのことだった。逃亡中に一ヶ所への長居は極力避けたいが、それでも新しい足がなければ動くことも叶わない。今日明日はこの街に留まることになるだろう。その間は「おっちゃん」が懇意にしている宿屋に留まれとも勧められたらしい――僕たちがあらゆる通信手段を持っていないため、新しい車両や端末が用意できればその宿屋の店主に連絡するということだった。
安宿街とはいえピンからキリまでといった様子で、着の身着のまま単身で宿泊できるような良く言えばバックパッカー向けの宿もあれば、車でそのまま乗り込んで入れるタイプのモーテルもあった。千葉くんの案内通りにモーテルのひとつに入っていく。風営法の関係だろう、そのモーテルの看板には宿泊料金だけでなく時間料金も表記されている――昔で言うところのラブホテルだ。
一階部分が繰り抜きですべて駐車場となっており、そのうちのひと区画に車を停める。ようやく体を休めることができるかもしれないと思うと、そこでやっと出発の一服以来煙管を吸っていないことに気づく。
――追い詰めるのは慣れているが、追い詰められるのは久しぶりだな……。
自分で思っているよりも精神が張り詰めているのかもしれない。
「祥ちゃん、おりへんの?」
既に駐車場の地面に立ち、大きく欠伸をしながら千葉恵吾はこちらの様子を伺っている。ひょうきんで軽快な会話を繰り広げていた千葉くんだったが、彼の顔にも少しだけ疲労が見える。
「……勿論、おりるとも」
あらゆる可能性を考えてすべての出入り口を確認したあと、メインエントランスとなるエレベーターで受付まで登っていく。すると目隠しをされた受付の奥から女性と思われるスタッフがひとり出てくる。綺麗に紅を引かれた唇から下しか姿は確認できない。
彼女はカウンターの中を何やら探りながら口を開いた。
「――宿泊でしょうか……あっ、申し訳ありません……宿泊でしたよね。既にお伺いしておりますので……」
前半の「宿泊でしょうか」という声色はいかにも業務的なもので、もはやオートメーション化されていると感じさせるほどのものだった。しかし彼女はガソリンスタンドの店主、もしくはこの宿のオーナーから話は聞いていたのだろう。こちらの姿を確認すると慌てたように言い直す。目隠しはこちらから彼女の姿はわからないものの、向こうからこちらの姿はしっかりと確認できるようだった。
女性は古式ゆかしいアクリル製キーホルダー付きの鍵をカウンターの上に置くと「このフロアの、お客様から見て右手側の廊下を進んでください」と端的に説明をするとそのまま受付の奥へ引っ込んでいった。
カウンターに置かれた鍵のキーホルダーには洒落たフォントの、しかしレトロさを感じさせるデザインで「equinox」と刻まれていた。
「equinox ねえ……」
「それってどういう意味?」
「英語で分点……つまり春分とか秋分とか、そういうことだね」
「ちょうど今の季節かあ」
「ああ……夜が長くて、朝が遠く感じ始めていたけど……そういえばそろそろ秋分か」
「朝が遠いって……えらいオシャレな言い方やな」
「僕は前世では詩人だったかもね」
「有り得るなあ」
廊下を進みながら、隣でくすくすと笑う男を見る。
可哀想に。僕の失態に巻き込まれてしまった男。
でも、どうしてだろう。わざと照明を暗くしてある廊下の中に、彼の瞳は疲れていてもきらきらと光を放っている。
まるで僕の隣にいるのが自然で当然であるかのように笑っている。もっと文句を言っても良さそうなものを、逃亡の最初からずっと「楽しいドライブ」だと言って笑っている。
「――どうして」
いつの間にか僕の唇は勝手に動いてぽつりとそれだけ呟くと、ハッと我に返って口を噤む。聞かれていなければ良いと思っていたが、静まった廊下にふたりしかいないのだから、僕の言葉が千葉くんに聞こえていないわけがない。
「どうして、何?」
まん丸の煌めく瞳の奥に、こちらをジリジリと焦がすような眩しくも意地悪な熱が生まれていた。悪戯を覚えたての少年のような表情で僕に先の言葉を言うように促す。
「……いや、巻き込んでしまってすまないという気持ちがあるだけだよ」
それは本心だが、核心ではない。苦し紛れに捻り出した言葉は真に苦し紛れでしかなく、千葉くんは一瞬不満そうに唇をひん曲げて、しかし次の瞬間にはまた少年の笑顔に戻っていた。
明滅する部屋番号の灯りの下に辿り着くと千葉恵吾は僕が握っていた鍵をひったくって、扉のノブ辺りにそれを挿し込んだ。
「あっ……!」
「俺が一番! 祥ちゃんは『べべ』!」
弾む声でそう言うと、千葉恵吾は見掛け倒しの鍵――古典的な鍵の形をしているのに実際はデジタル錠だった――を引き抜いて勢いよく扉を開き、するりと部屋の中へ体を滑り込ませる。
「君と僕のふたりしかいないのに『べべ』だなんて!」
「ぼーっとしてる祥ちゃんが悪いねん」
いつもの調子でこちらを笑いながら、しかしいつもと違う熱い光でこちらを照らし出す。
僕の心の奥底に凪いで安置されていた気持ちが、その光のせいで俄かにふつふつと動き出す。
『どうして君は僕と一緒にいてくれるの?』
ガソリンスタンドの店主に見えた段階で別れを告げた方が良かったと冷静な自分が自身を責める。ガソリンスタンドまでは僕と一緒にいるメリットも千葉恵吾にはあっただろう。しかし、あの場で別れていれば、彼であれば裏社会の助力を得てひとりで警察の手を逃れることができるはずだ。
それは千葉恵吾自身も理解しているはずだ。あの場で僕と別れることがもっとも生存可能性の高い選択肢だということは、利口な彼ならわかっているはずだ。
だからこそ、僕と一緒に逃げるという道を選んだ彼の真意を、僕は自分の良いように解釈してしまう。
そして、それはとんでもなく自惚れの言葉のように思えて、口にするのがはばかられた。
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