陽炎3

 管轄という旧態然とした考えがまだ残るシステムでは、一度県外に出てしまえば警察の捜索の手が及ぶ速度が自ずと遅くなる。公開捜査になっていないなら尚更だ。また、有奇くんや綿奈部くんなど僕に近しい人間に被害を広めないためにも、極力通信を遮断して、今回の騒動に彼らは関係ないということを暗に発信する必要があった。

 ――通信を遮断するのに発信とは。

 思考内の言葉の矛盾に少し笑いながら、まだ精神的に余裕はあるらしいことを確認できて安堵する。追い詰められているときほど冷静さや余裕は必須だ。

「……なにひとりで笑ってんの?」

 気持ち悪いという言葉を言外に表現するように、両腕に沢山の飲料と甘味を抱えた千葉恵吾がこちらを見上げながら表情を歪めている。県外に繋がる幹線道路が閉鎖されないうちに逃走用の物資をコンビニで確保している最中だった。

「いや……君は案の定甘い物ばかり買い込んでいるなあと思って」

「結局甘いもんが一番カロリー摂取に効率ええやろ」

「だからといって甘い物ばかりな上に砂糖たっぷりの乳飲料というのも喉が渇きそうな組み合わせじゃないか」

「そんなん言うんやったら、祥ちゃんが『ガス欠』起こしても俺のお菓子あげへんで」

「それは困ったな……」

 実際問題、千葉くんよりも僕の方が燃費が悪いようで、持久力という意味ではよく『ガス欠』を起こすことが多かった。日本人の平均よりも大きな体を持つ千葉くんよりも僕の方が更に図体が大きい上、ナノマシンデバイスの性質上戦闘時の消耗も僕の方が激しい。しかしだ。

「……この逃走劇が長引かないのを願うばかりだね」

「逃げ続けるのも難しいしなあ。とりあえず体制を整え直すために逃げるわけやけど」

「そうだね……僕も極力早く君をこの状況から解放したいとは思っているんだよ」

「……ほんまもんの誘拐犯みたいな言い草するやん」

 男のまん丸で明るく輝く茶色の瞳が意地悪に笑った。


 コンビニで会計を済ませ、備え付けのATMで今では使用することも少ない現金をなるべく多く引き下ろす。そして速やかに愛車に乗り込んで、県外を目指した。監視カメラや決済履歴からここまでの足取りを追われているだろうことは予想できている。今夜はなるべく遠くまで逃げて、現金支払の可能な安宿を探すしかない。

 経済特区内でも犯罪者の巣食う場所などは身分証確認のされないような宿は存在するものの、そういった場所は警察もわかっていて放置している場合が多い。しかし、特区の外では警察が把握しきれていないアングラな安宿はいくらでも存在している。どの時代にも、身分を隠してその日の宿を求める人間はいる。そういった人々のための一時的な避難場所は需要があるからこそ消えることはない。

 車内オーディオに保存しておいたお気に入りの音楽プレイリストが延々とループして流れている。古いメタルやロックを好んで聞くため、そういった類のものが多分に含まれているが、いつの日だったか気まぐれにリストへ追加したオーケストラミュージックなども流れてきて、僕たちの今の意味不明な状況を表したようなプレイリストだと思った。

 愛車を含めてすべての通信を今はシャットアウトしているのでナビゲーション機能は使えない。そのため、深夜の大通りを千葉くんの記憶を頼りに走っていた。彼は職業柄、どの場所にどのような安宿が存在しているのか把握していた。

 沢山の甘味は非常食として買い込んだのだろうと僕は思い込んでいたが、そういったわけではなく、千葉くんは道案内をしながらコンビニで大量に買ったドーナツに貪りついている。今できることは限られているため、千葉くん自身も暇を持て余しているのかもしれない。だからこそ緊張感がない案内人の様子に、本当にただ行き当たりばったりの車旅をしているような感覚に陥りそうだった。

「――この車もどこかで乗り換えないとねえ」

「通信できへんからすぐに代わりの車を手配することはできへんしなあ。急なことやったから別の通信機器も持ってないし……ま、俺は車両強盗してもいいけど」

「……それは最終手段にしておいてくれ……とりあえず今夜は僕の車で逃げよう」

 千葉恵吾の提案は既に自分の脳裏によぎっていたものではあったが、いささか躊躇が残っていた。しかし、本当に手段がなければその手も辞さない構えであるのは本心だ。


 もう何時間走らせたかわからないが、ガソリンメーターの針がそろそろ左端を差しかけるかという頃合いだった。

「この先の交差点を右に曲がったらガソスタあるから、そこで一旦給油しよ。その近くにホテル街があるし今日はそこで休もう」

 千葉くんの案内通りに道を右に曲がると頼りない灯りがいくつかついているだけのガソリンスタンドがあった。寂れた印象であるにもかかわらず、有人サービススタンドであるらしく、車を敷地へ乗り入れた瞬間に店舗から人がひとり飛び出してきた。

 助手席に座る男がパワーウィンドウを引き下ろすと外に手を伸ばしてニコニコとスタッフに呼びかける。

「おっちゃん、久しぶりやなあ」

「こんな時間に誰かと思えば、恵吾か。妙だと思ったぜ」

「ま、こんな時間におっちゃんのとこに来るやつなんか誰もおらんもんな」

「お前みたいなのが居るからウチは二十四時間経営なんだよ、バカが――見慣れない立派な車に、見慣れない別嬪さん。さてはワケありだな」

 助手席側から車内を覗き込んできた壮年の男は、いかにも情報通というような利発な顔立ちをしている。そしてこちらを怪しそうに、しかし興味深げに眺めていた。

「こんばんは、夜更けに申し訳ない――千葉くんの友人の東雲です、よろしく」

「ふうん、友人ねえ。恵吾のご友人のわりにはえらいお上品じゃないか」

「ありがとうございます」と僕が返事をすると、

「なんで俺の友人のわりに、やねん。おっちゃんのお知り合いとは違って俺のご友人はみんなお上品やけど?」

 千葉くんが拗ねたように唇を尖らせる。それを見た男は大きく「わっはっはっ」と笑った。

「どうだか……ところでマスターは元気か」

「さあ――おっちゃんなら知ってるかと思ったけど、見当外れやったか」

「バカを言うな……ヤツなら無事だよ。お前たちが来るだろう報せを受け取ったところだ」

「おっちゃん、おおきに……実はちょっと面倒なことになってて……」

「それ以上言ってくれるな。追加料金を支払う羽目になるぞ。知らなければいいことなんかごまんとあるんだ。俺に何も言わず、お前が必要なことだけ言え」

「――せやな、すまん。お願いしたいことが二、三あって……」

 僕たちの逃走劇に必要なものについて彼らが話している間に僕は久しぶりに外に出て、体を伸ばすことができた。

 つい先頃までは夏真っ盛りだったのに、知らない間に夜の時間がのびていて、夏の空気の名残りはあるのに空だけはしっかりと秋色の夜をしていた。暑いとも涼しいとも言い難い空気に身を晒しながら、給油口にガソリンを注ぎ込む。

 ぼんやりとガソリンを注いでいるうちに手元が「ガコンッ」と大きな音と振動を立てて、給油が止まる。いつの間にかタンクの上限までガソリンを注いでいたらしい。

「あっ――会話中にすまない。千葉くん、ガソリンは満タンでもよかったんだっけ?」

「えっ、満タンにしてもうたんか。乗り換える予定あるのに?」

「だよね……やってしまった」

「いやいや、いいんだよ、東雲くん……って言ってたよな? 俺はガソリンの分だけ金がもらえるからさ」

「この守銭奴め……ただでさえここのガソリンは高いのにやってもうたな、祥ちゃん……」

 ニヤケ面の男とは対照的に、悔しさの滲んだ千葉くんの表情がおかしくて、自分の失態であるのに自然と笑いが溢れてしまった。

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