陽炎2

 不幸中の幸いというべきか、警察の手はまだ愛車まで届いていなかった。駐車場は何事もなかったかのように静かで、愛車はその白いボディを仄明るい街灯に輝かせている。

 ここへ辿り着いた頃には聴力も通常程度には回復しており、一緒に駆けてきた千葉恵吾に自身の声で車に乗るように促すことが可能になっていた。

「何が起こってんねん……」

 車の助手席へ乗り込んだ千葉恵吾は特に断りを入れることもなく早速電子タバコをふかしだす。その表情には険しさが露わになっていた。

 僕だけではない。彼も戸惑っている。彼はいわゆる裏社会というものを知る者ではあったが、現状警察に感知され、目をつけられるような事件を引き起こしたりしていない。

 しかし、刺客と思しき男はその銃口を確実に千葉恵吾に向けていた。友人の様子を確認しにきただけだというのに、刺客の狙いが自分に向けられる謂れは彼にも、そして勿論僕自身にも理解できなかった。

「……とりあえず署の回線を拾ってみるよ。何が起きているか多少はわかるだろう」

 車のエンジンを点けないまま、左手首のデバイスを操作して車内スピーカーへ警察署の回線を流す。一般市民には秘匿されている回線であり、通信には暗号めいた用語も使われているが、千葉くんに特に解説する必要もないくらいに内容はわかりやすいものだった。

 再三繰り返されている通信内容は非常に明快だ。しかし俄かには信じがたいものであり、理解するのに時間を要した。

 情報を整理するために一旦落ち着こうと思い、ジャケットの中から電子煙管を取り出した。そして吸い口を唇で挟む。僕が一度煙を吐き出すまでの間で千葉くんは三度ほど煙を吐き出していた。明らかに落ち着きがない。

 到底受け入れがたい事態が発生している。その心理的負荷は僕にも理解できるものだった。

「――警察は俺が祥ちゃんに拉致されてるって、そう言ってるんか?」

「どうやら、そのようだね」

「正気か?」

「……どうだろう、この街に正気の住人なんているのかな」

「……正気のやつがいることに期待するだけ無駄かあ」

 冗談のつもりで発した言葉だったが、千葉くんの返答には反論を挟む余地がなかった。自分の置かれた状況を考えるほど、正気の者が存在することの方が稀な気がしてきた。

 左手首のデバイスはひっきりなしに警察回線以外のメッセージを受信している。差出人は邑神有奇と綿奈部綱吉だ。受信ボックスの中ではメッセージの冒頭が表示されており、そのどれもがこちらの身を案じるものだった。

「有奇くんと綿奈部くんは無事のようだね」

「ああ……俺の方にもめっちゃメッセージ来てるわ。この様子やとマスターとか他のお客さんも無事っぽい――店の爆発自体はニュースになってるけど、俺と祥ちゃんについてはニュースになってるわけやなさそうやな……」

 千葉くんも僕と同じように左手首のデバイスでメッセージボックスを確認しながらも、インターネットの海を渡り歩いている最中だった。何事も見落とそうとはしない大きな茶色の瞳は信用に足るものだ。警察が僕たちを追っているということは丁寧に隠匿されているらしい。

「まだ公開捜査になっていないんだ……一応、警察官による不祥事ではあるから隠しているのかもね」

 歯切れの悪い言葉に、千葉恵吾は自身の手元から視線を外すとこちらを睨みつけてくる。猛々しく美しい瞳は力強い視線でじっとりとした苛立ちを孕んでいた。

「……祥ちゃん、もしかして上層部を告発する証拠、また新しいの手に入れたんか」

「察しがいいね……」

「だから公開捜査にできへんのか……その証拠が何か、相手は突き止めきれてへんのやろ。握り潰せばいいものが何かわからんから、祥ちゃんを生け捕りにしたいんや」

「そういうことだね――もし僕に危害が及べば自動的にその証拠がばら撒かれる可能性だってある」

「腑に落ちへんのはなんで俺が拉致されたことになってるか、ってところやなあ……」

「……一旦保護をしてその後に処理するつもりなんだよ」

「俺が祥ちゃんを拉致したっていう筋書きの方が自然やろ。公開捜査もできるし、祥ちゃんの『保護』もできる」

 千葉くんにそう指摘を受けてようやく不自然さに気づくことができた。本当に奇妙なことだ。どうして片桐は僕を被疑者に仕立て上げて、千葉くんを被害者として引き合いに出したのだろうか。

「……君の言うとおりだ。何か、おかしい」

 何か見落としているのか、単純に己の精神が疲弊しているためにその奇妙さに気づけなかったのか。そのどちらなのか判断することはできなかった。

 しかし、確実なことはひとつ。僕の友人が、僕の失態で事件に巻き込まれてしまったということだ。

 ――調査は慎重にしていたが、ブービートラップにでも引っかかってしまったか……。

 これ以上、被害を広めるわけにもいかない。何より、警察に追われるのは本来であれば僕ひとりで十分のはずだ。

「――千葉くん、すまないがひとつ頼みがあるんだ」

「……言われんでもなんとなくわかるで」

 目の前の男はその整った顔に諦めやら呆れやらの感情をごちゃ混ぜにした笑顔で、こちらを見ている。そして一本、新しいカートリッジを電子タバコに取り付けた。

「本当に、すまない」

「今、謝られてもしゃあないことやろ。全部済んだら借りは返してもらうからな」

「勿論そのつもりだ」

 彼は新しいタバコを燻らせながら、左手首のデバイスを操作している。一通りの操作が済むともう一度こちらを見て笑った。再度向けられた笑顔は何やら吹っ切れたカラッとした眩しいものだった。

「はい、完了――データの送受信ができへんようにしたで。これで位置情報の発信も不可能になった」

「ありがとう。しばらくはそうしてくれると助かる」

「元からそうするつもりやったから、そんな顔せんといてえや」

 僕がどんな顔をしているのか、確認するのが恐ろしかった。般若の顔か、それとも臆病者の顔か。どちらにしても千葉恵吾を巻き込んでしまったことへの後悔が滲んでいるに違いない。


「千葉くん――僕と逃げてくれないか」

「……楽しいドライブの始まりやな」

 彼の返答は確かに皮肉であったはずなのに、その笑顔があまりにも輝かしく眩しくて、僕たちは本当にどこかへドライブに行くのだと錯覚するほどだった。

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