火難
街の灯りに照らされて星が遠く儚くなってしまってから、空を見上げる人などほとんどいなくなってしまった。空を見上げても明るい街灯やどこからか辿り着いた排気ガスの靄に邪魔されて、夜空などまともに見ることはできない。その上、この街に生きる人は己の富や快楽や野望を掴むために必死で、景観を楽しもうなどという余裕を持つ者などごく少数だ。無数の人が生活を送るこの経済特区の中の、特に夜も眠らぬ街にその店は存在した。
その日のボードゲームバー『ユートピア』は平日の遅い時間ということもあり客の入りがいつもより少なかった。黙々とボードゲームをする常連が目の前のプレイに夢中になっているテーブルがほとんどであったため、店の警備兼ウェイターである千葉恵吾の活躍の場はほとんどなかった。しかし、今晩に限ってそれは千葉にとって好都合だった。
千葉はいつも通りに襟と袖の刺繍が華麗なドレスシャツとシルエットの美しい紺色のベストを着用し、彫りの深い眼窩に埋まったブラウンダイヤモンドのような瞳を印象的な濃い隈の上でご機嫌に輝かせている。男はお気に入りの席で、店のスタッフとは到底思えぬ姿でくつろいでいた。
その時、千葉の三人の友人が『ユートピア』を訪れていた。
「どうして東雲までこの場にいるんだ」
紫色のツナギ姿で淹れたての紅茶を啜りながら切れ長の目が不機嫌そうにテーブルをくるりと見回した。不機嫌そうではあるがそれがこの男のデフォルトの表情であるため、千葉は特に気に留めずにテーブルに肘をついて答える。
「いや、ゲームするなら四人おった方がええかなと思って」
「俺は邑神と仕事の話をするためにここへ来ただけだが?」
「ツナ、相変わらず祥ちゃんにあたりがキツいなあ」
「あたりがキツい、キツくないという話ではないだろう……なあ、邑神?」
緩くパーマのあてられた前髪で男の右目は隠されていたが、露わにされている左目はその言葉と共に細められてその眼光を一層鋭くした。『ツナ』と呼ばれた男はカップをソーサーの上へ置くと左隣に座る男に意見を求めるように目を向ける。
『ツナ』の左隣に座る男――邑神有奇はたっぷりと長い黒のアウターを羽織っており、その裾は男が座っているにも関わらずふわふわと揺れ動いていた。重く切り揃えられた灰色の前髪の下に聡明そうな、しかし眠たげな漆黒の目が鎮座している。男は橙色のアンダーリムメガネ越しに『ツナ』に視線を返す。
「諦めろ、綿奈部綱吉。千葉恵吾の思いつきは止められないということはお前が一番わかっているだろう」
「せやで、カミサマの言う通り! ぱぱっと仕事の話終わらせて、四人でゲームしよ!」
千葉は邑神の言葉を間髪入れずに肯定するが、『ツナ』つまり綿奈部綱吉は千葉の様子を見て己のこめかみに人差し指と中指を押し当てる。頭痛がしているとジェスチャーをしているのだ。綿奈部が本当に今頭痛を抱えているか否かは関係なく、千葉の行動に悩まされているのは確かだった。
「仕事の話をすると聞いていたら僕だって遠慮したのに……休みで暇だろうと言うから来てみたら」
そしてその光景を見ながらジントニックの入ったグラスを傾ける男がいた。男は千葉と同じく『ユートピア』のスタッフであり、本日の閑散具合は予測できていたため休みとなっていた。
本来は淡い色だろう金髪を内側から光っているかのように輝かせ、絵画に描かれる美男子の面持ちで困ったような微笑みを浮かべている。青み掛かった灰色の瞳は綿奈部と邑神に気遣わしげな視線を送っていた。男は真っ白なスリーピーススーツに黒いシャツ、真っ赤なネクタイを着用しているが、この麗しい姿と優美な振る舞いを備えているからこそ為せるファッションだと誰もが思った。
「いや……どうせお前は何も聞かされてないだろうとは思っていた」
東雲の困った表情と気遣いの視線に流石に気の毒に感じたらしい綿奈部は、いつもであればツンケンとした態度をとってしまうところを同情の姿勢で男の困惑を受け入れる。互いに譲ったような居心地の悪い空気感に邑神が「はあ」と全員に聞こえるように溜め息を吐き出した。
「千葉恵吾、お前のおかげで東雲祥貴と綿奈部綱吉の殊勝なやりとりを見ることができたぞ……」
「俺のおかげかぁ。感謝してくれてもええで、カミサマ」
「褒めてない。嫌味だとわかっているだろう……」
「ツナもカミサマも荷運びの日時打ち合わせと内容の確認するだけやろ? そのあとどうせ時間空くんやから祥ちゃんを含めて四人でゲームした方が楽しいやん」
邑神の言葉を意にも解さず、千葉は壁に設置された棚に目を向けてボードゲームを物色している。千葉の中では今語ったことはすべて既定路線で、誰かが自分の提案を断るなどと考えもしない。邑神の発言の通り、こうなってしまうと誰もこの男を止めることは叶わない。その上、この千葉恵吾という人間は兎角人好きで遊び好きだ。その人懐っこさを嫌がる人間は、少なくともこのテーブルには存在しなかった。
「僕は遊びに付き合うのは構わないが……打ち合わせの邪魔になるなら一旦別のテーブルに移ろうか?」
「いや、そこまで機密性の高い内容ではない。自分がいつも美術搬入で使っている業者がわけあって休業していてな……荷運びを綿奈部綱吉に代行してもらおうというだけの話だ」
汗をかいたグラスを持ち上げて席を立とうとする東雲を引き止めながら、邑神は事の経緯を説明する。続けて綿奈部が呆れ果てた視線を横目で千葉へ送りながら口を開く。
「で、その打ち合わせのついでにマスターの飯でも食おうってことで場所を『ユートピア』に指定したんだよ。顧客情報のやりとりなども電子上でできるが、どうせなら直接話した方が早い。と、思ったら千葉に誘い出されたお前がいたってわけだ」
「そもそも誰かに聞かれて困るような仕事内容ならここではなく自分の画廊で打ち合わせをする。東雲祥貴、お前が暇を持て余すのが嫌でなければここに座っていればいい」
「なるほど、確かにそうだね。ではお言葉に甘えて君たちの仕事ぶりを眺めさせてもらおうかな」
立ち上がろうと背もたれから離した背を、再びそこへ預けて東雲は椅子へ座り直す。右大腿に装着した真っ黒なピストルホルスターは大ぶりなものであるにも関わらず、男は特にその重さを気にも留めず難なく右足を上にして長い足を組んだ。
ようやく落ち着きを取り戻した場に、千葉はいたずらっ子の表情を浮かべてパンッと一度大きく手を打つ。
「じゃ、さっさと仕事の話を始めよか! ほんでさっさとゲームしよ!」
「元から仕事の話をするつもりだったんだよ、このトラブルメーカーが」
場に混迷を招いた張本人のまったく責任感を感じさせない態度に対して、文句が自然と綿奈部の口を突いて出た。
遊びが始まればわかってしまうことなのだが、このテーブルを囲んでいるのは揃いも揃って負けず嫌いな人間だ。「そもそも負けることを好む人間がどこにいるだろうか、いや、いない」と全員が声を揃えて言ってのけるだろうメンツである。どんなボードゲームを取り出してきてプレイしても、対戦型のものであるなら際限がない。己が勝つまで、もしくは負けていない状態になるまで足掻き続ける、そういう気質を持つ男たちだ。文字通り次々手を変え品を変え、様々なボードゲームに興じ、結局行き着いたのは極めて古典的なカードゲームの一種であるポーカーだった。
プレイヤーは四人。ディーラーを務める人間を選出するという空気でもなかったため、裏を向けた状態で手札が五枚配られるファイブカード・ドロー方式でゲームが進行されていった。
ポーカーというゲームにおいて千葉を相手取ることを嫌がる綿奈部も、今日ばかりは酒が入って気分を良くしている。千葉は千葉で、今日は小細工もなしに極めてお行儀よくひとりのプレイヤーとして賭け事に興じていた。(裏を返せば、普段は小細工を仕込んで人を陥れることもあるというわけだ。)
ルール自体はシンプルであるが、自分の手札と他プレイヤーの掛け金とを見比べながら、様々な心理戦が繰り広げられるゲームだ。負けず嫌いの男たちは、このゲームでの勝者こそ本日の真の勝者であると、誰もが暗黙のうちに承知していた。
一か八かの大勝負を仕掛ける千葉。それに釣られてベットを極端に引き上げる邑神。そして意外にも綿奈部と東雲は一見堅実なプレイングをする似たもの同士に思える。しかし勝負所が違う。綿奈部はあくまで堅実に自身の勝ちを積み重ねていくが、東雲は好機が来たとなれば千葉にも負けない博打打ちへ変貌する。
それぞれがそれぞれの個性を発揮しながら場は盛り上がりを見せていたはずだった。
「――フォールド」
東雲が配られた自身の手札を確認もせず、ゲームを降りると宣言したのだ。他の三人は一様に訝しんで東雲の美しい相貌を半ば睨むように見る。しかし男はそれらの視線をものともせず左手首に装着したデバイスを起動させると、他の三人には見えないホロ画面を冷たい視線で見つめていた。そしてようやく何があったのか、男たちに説明をするためその表情を和らげて困った笑顔で肩を竦める。
「みんな、すまない。上司から緊急の通信が入った。僕は一旦ここで降りるよ」
「えっ……どういうこと?」
千葉が思わず声を上げるがその時には既に東雲は席を立ち、テーブルに背を向けて大股で歩き出していた。
「また埋め合わせはするから、三人で楽しんで!」
肩越しに気障ったらしくウィンクをして見せるが、その様子はやはり、普段の東雲よりもどこか慌てたものだった。
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