迷宮の鳳

AZUMA Tomo

灰の中

 呼吸はとうの昔に落ち着いていたというのに腕の中へ伏せた頭を上げることはしばらくできなかった。

 全身にじっとりとまとわりつく汗と砂埃、そして硝煙の臭い。それらが車内に充満し、ただでさえ敏感な己の嗅覚は渋滞を起こしているようだった。普段は自身の煙管と香水の香りしかしない愛車。休憩場所も兼ねたプライベートな空間はそれなりに快適に保っていたのだ。なのに、今は生理的嫌悪を抱く様々な臭いに溢れている。その中でも一際、感じ取りたくない臭いがあった。

「――なんだか、疲れてしまったね。千葉くん」

 まだまだ頭を上げる気にはなれず、埃と汚れに塗れて灰色に染まった本来は真っ白のスラックスを見つめる。右大腿に装着したホルスターも自ずと視界に入り、上手く働かない思考の中で残弾数を数えていた。ハンドルに預けたままの腕は頭の重さに圧迫されて感覚が麻痺してきている。

 ――僕の言葉に答える声はない。

 不愉快な臭いの中、一際己の嗅覚を刺激して止まないのは死臭とも言うべき多量の血液の臭いだった。

 自分自身が酷い負傷をしているわけではない。否、全身が疲労と戦闘で与えられたダメージによって悲鳴を上げていたが、死ぬほどのものではない。まさしくむせ返るほどに生々しい血液の臭いを放っているのは、助手席に鎮座している人物だった。

 未だ胸の内側では『これは現実ではない』という思いが燻っている。しかし、心と相反して理性では確実にその人物の死という事象を理解していた。

 真っ暗な街の中に頼りない街灯がポツポツと存在していて、車道から逸れた影の中に戦闘で傷ついた愛車を停めていた。影の中とはいえ、僅かな光が車内に差し込む余地はあった。

 ゆっくり、己の首を左へ向ける。

 彼の緩く癖のついた黒髪は埃が被って色褪せている。普段は獰猛さを感じるほどに生き生きとした表情を浮かべていた彫りの深い端整な顔には、幾つものかすり傷がついている。襟が派手に飾り付けられたシャツにシルエットの良いベストは彼のトレードマークだったが、その美しい装いも戦闘の苛烈さによって輪郭が擦り切れていた。何よりいつもと違うのは、彼の腹部に存在していた傷跡を消すようにぽっかりと大穴が開いているところだった。その大穴は無限に思えるほど血液を流していたがやがて止まり、全身の肌が土気色に染まった。つい先頃まで生きる力を漲らせていた肉体とは思えなかった。

 眠ったように目を瞑った千葉恵吾の姿を見て、『頭部を破壊されなくて良かった』と思う自分に浅ましさを感じた。己は所詮下劣な人間なのだろうと思った。しかし、千葉恵吾の美しい造形が保たれた顔を見ると奇妙な安堵も覚えるのは事実だった。己の知る千葉恵吾は確かに存在していたのだと思えるからだ。

「……誰も君を穢せない場所へ葬りたいんだ。もうしばらくドライブに付き合ってもらうよ」

 語りかけても返事など返ってこないことはわかりきっているのに、いつも通りの東雲祥貴然とした語りをしてしまう。誰も自分の話など聞いていないのに己を演じようとしてしまうのは、今この場で自分が「東雲祥貴であろうとする」ことに助けられているのだろう。

 愛おしい人の喪失に動揺しない人間がこの世にいるわけがない。しかし、今は彼を葬るためになるべく遠くへ行く必要があった。

 泣いてはいない。泣いている体力がもったいない。だから、僕は今こそ「東雲祥貴である自分」に縋る必要があった。

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