第9話 セリーナの末路
「今すぐこの屋敷をお立ち退きください。ブレンダン様、これ以降ニューマン侯爵家への出入りは固く禁じられます」
「何だと? 一体どういうことだ? いきなり、兄上がそんなことを命じるなんて……おかしいじゃないか?」
「それは、そこにいらっしゃるセリーナ様にお尋ねください。ブレンダン様がこの家に住むことができたのは、あくまで旦那様の厚意によるものでした。本来、ここはニューマン侯爵邸の敷地であり、次男のブレンダン様がこの敷地に留まる権利はまったくございません」
アシュトン公爵家で開かれた夜会で、セリーナの化けの皮が剥がれた後のことである。ニューマン侯爵家の家令がブレンダンに厳然と退去を言い渡していた。
「セリーナ、一体どういうことだ? 説明しろ!」
ブレンダンは顔面蒼白のまま、セリーナに詰め寄った。
セリーナは俯きながらも、自分の行いを正当化するように語り出した。
「……だって、エレノアが憎らしかったのよ。あの子は生まれながらのニューマン侯爵令嬢。私はただの従姉というだけで、全てにおいて格下扱いされて……こんなの不公平じゃない? お父様だってニューマン侯爵家の子供だったのに……」
「おやおや、それ以上セリーナ様に話させるべきではありませんな」
家令が口を挟み、冷ややかに視線を向ける。
「その発言次第では、ブレンダン様が常日頃から旦那様の立場を狙っていたと見なされかねませんぞ」
「なっ……いや、待て! 私はそんな大それたことを考えたことなどない!」
ブレンダンは激しく否定し、再びセリーナを睨む。
「この娘が勝手に勘違いしただけだ……セリーナ、今すぐ兄上とエレノア様に謝罪しろ! 誠心誠意謝れば、エレノア様になんとか取り成してもらえるかもしれない……」
家令は嘆息し、断固たる口調で言い放つ。
「それは不可能です。旦那様は、セリーナ様がエレノア様に近づくことを断じて許さないと仰せです。さらに、アシュトン公爵様も大変お怒りです。そのような行動を取れば、ただでは済みますまい。まずはここを出て行き、ご自分たちの力で生きることです。そして二度とニューマン侯爵家に戻ってはなりません。旦那様は『兄弟の縁を切る』とおっしゃいました。すなわち、今後ニューマン侯爵家との繋がりは一切なくなったということです」
「そ、そんな……! セリーナ、お前はなんてバカなことをしてくれたんだ……」
セリーナが青ざめる中、ブレンダンは膝をつき、絶望の声をあげた。ブレンダンの妻ネルダは、気絶しかけるほど狼狽していた。
その後、ブレンダンは王家から騎士爵を剥奪され、まさに路頭に迷うこととなった。ニューマン侯爵家やアシュトン公爵家の逆鱗に触れた彼を、王家が保護する理由など微塵もなかったからだ。そもそも、ブレンダンの能力が低く、代わりはいくらでもいる存在だったことも、彼の凋落に拍車をかけていた。
☆彡 ★彡
それから半年ほどが過ぎたある日。冬の厳しい寒さが訪れたにもかかわらず、路上には薄汚れた衣服に身を包んだ物乞いがうずくまっていた。それは、セリーナとブレンダン、ネルダだった。
雪が舞い散る真冬の冷たい風が、セリーナたちの頬を刺すように吹きつけていた。ニューマン侯爵の姪としての身分も住む家も失い、薄汚れた麻のワンピースと古びたウールのマント、そして擦り切れた革靴だけの格好だ。寒さを防ぐにはあまりに心もとないその装いに、凍えるような寒風が容赦なく吹きつけた。
かつては絹やベルベットのドレスに包まれ、豪華な暖炉の前で温かい飲み物を口にしていた自分が、こうして凍えながら街角にいるという現実が、どこか夢のように思えた。
市場の片隅、凍った石畳の上に座り込むネルダの隣には、ブレンダンが空を見上げている。彼らもまた、同じようにみすぼらしい格好をしており、小さな手をこすり合わせて息を吹きかけていた。
「エリーナ、お腹がすきすぎて動けないわ……なにかないかしら?」
ネルダが小さな声でつぶやく。最後に残っていた銀貨で買ったパンは数日前に食べ切ってしまった。
「あそこにパン屋があるわ。何か余り物を分けてもらえないか頼んでみるわ」
セリーナは冷えた指でネルダの手を握り、立ち上がった。
パン屋の店先に近づくと、香ばしい匂いが漂ってくる。だが店主の目は彼女たちを一瞥しただけで、すぐに冷たくそっぽを向いた。
「余り物なんてあるわけないだろう! それに、そんな格好で店先をうろつくな。お客が寄りつかなくなるじゃないか! 物乞いならあっちに行け! お前は恩を仇で返したって噂のエレノア様の従姉だろう? 誰がそんな奴に施しなんてするものか。あの天使の歌声を持つ高貴な方を苦しめるなんて、なんて酷い女だ!」
店主の声は冷たく鋭く響き渡り、セリーナたちの存在を真っ向から否定する。一蹴され、セリーナは悔しさで唇をかみしめた。
街のあちこちで、セリーナがニューマン侯爵の姪であったことを知っている。かつての富と権威を鼻にかけ、他者を見下していた過去の自分を思い出し、その視線が一層鋭く感じられた。誰も助けてはくれない。それどころか、彼女が路地裏を歩くたび、笑い声や侮蔑のささやきが耳に入るのだ。
「見ろよ、あれがニューマン侯爵の姪だってさ。ニューマン侯爵からずいぶん援助をしてもらったのに、エレノア様を悩ませていたらしい。なんでも、自分と関わるとみんな不幸になると思い込ませたらしいよ。なんて悪女だい!」
「まあ、因果応報ってやつだね。人のことを散々踏みにじった報いだよ。七色に変化する歌声を持つお優しいエレノア様に意地悪をした罰さ」
耐え切れず、セリーナはネルダの手を引いて路地裏に逃げ込んだ。積もった雪の上に座り込むと、冷たい感触が服を通して伝わってきた。服はぐっしょりと濡れていき、足の感覚がなくなるくらい身体は冷え込んでいく。
「セリーナ、食べ物はないの? そのへんに落ちているものでもいいのよ」
この生活で徐々に正気を失ったネルダが、雪のなかから馬糞をみつけて、美味しそうに口に含んだ。セリーナは心の底からこの世界を呪った。自分の過ち、しでかしたことの是非はすっかり忘れている。
「……この世の中はなんて不公平なのかしら。私とエレノアの違いなんて、ただニューマン侯爵家の長男の娘に生まれたか、次男の娘として生まれたかの差でしかないのに……」
セリーナは震える声で恨み言を漏らし、そっと母ネルダから距離を取った。通りの向こうでは、ブレンダンが空を仰ぎ、何がおかしいのか分からないまま高笑いを続けている。
――お父様もとうとう正気を失ったのね。きっと、目の前には温かな暖炉やご馳走の並ぶ部屋の幻でも浮かんでいるんだわ。
セリーナの瞳に、かつての栄華はもう映らなかった。
やがて日が沈み、夜の帳が降りてきた。街の明かりも消え、辺りは闇と静寂に包まれる。セリーナは寒さと空腹で目を閉じることすら難しかった。
雪が静かに降り積もる中、セリーナはふと自分が何を間違えたのかを思い返していた。かつての自分の振る舞い、ニューマン侯爵の姪としての権力に酔いしれた日々、エレノアへの冷酷な策略――そのすべてが今の自分を作り出し、作戦は見事に失敗した。
「神様なんて信じないわ。だって、そもそもこの不公平を容認しているのなら、碌なものではないもの……自分の身は自分で助けるわよ……どんな手を使ってでもね。ここから這い上がってやるんだから」
その誓いは冷たい夜空へと消えていった。やがて訪れる夜明けが希望をもたらすのか、さらなる絶望を運んでくるのか、セリーナにはわからなかった。ただ、彼女は娼館が立ち並ぶ怪しげな路地に吸い寄せられるように消えていったのだった。
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