第3話
さて、事前に有給休暇を取得したのは事実だが、取ったのは1日全休ではなく午前休である。検査のみ、しかもわりと早めの時間から始めて1日かかるとは思えなかったわけだが、確かに読み通り検査は午前中で終わった。
つまり、今から仕事だ。
「ウッソだろ今から出社すんの?」
体調不良で休もうかとも思ったが、今日ずっと一人で何もしない方が良くない気がして、結局出社することにした。今朝あったはずの熱感は、血の気と一緒に引いていた。
帰宅、出社準備、午後の始業に間に合うように自宅を出て、公共交通機関に乗る。昨日までと全く同じことをしているはずなのだが、見え方が違った。
暗い。視界が何か暗い気がする。気のせいだと言われればそれまでだが、俺には世界が暗くなったように見えた。今は昼間だから、普段の通勤時間より明るいはずなのだが。
重い。自分が何か、罪というか、語弊を恐れずに言うと十字架を背負ったような重さが頭の中に居座っている。
恥ずかしい。周囲全てから後ろ指を指されているような、自分が場違いの場所にいるような、自分だけ周りから1段下のステージに降りたような気まずさを感じる。
(これが感染者の視界かあ)などと余裕ぶってはみるが、景色は何も変わらない。俺はこの世界でずっと生きていくのだ、という絶望だけがあった。そんなことを考えているのは、この箱の中では俺だけなんだろうな、と考えると少し笑えた。こんなに人がいるのに孤独だ。
出社しても同僚に何も言われなかったので、見かけは平常通りに動けているのだろう。じゃあ実際の仕事は、というと当然何も手につかない。気づいたら、PCの画面に高額療養費制度の検索結果が表示されていた。
高額療養費制度とは、一か月の医療費が一定の金額を超えた場合、超過分が還付される制度だ。俺の場合、最終的には44,400円/月の自己負担になる計算だった。
おおよそ毎月4.5万円。抗HIV薬はどうも高価なようで、調べてみた限りでは医療費3割負担でもこの金額を超える。最初の数か月はもっと多いがそれは致し方ないとしても、これから一生この金額が手取りから引かれることになる。
負担額が毎月1万円になる制度だったり、障害者手帳による軽減だったりもあるようだが、俺には今のところ使えない制度ばかりである。この高額サブスクから逃れる術を見つけることは、できなかった。
終業時間を迎える少し前、ふと思い立って私用のスマホを確認すると、知らない番号から電話が来ていた。例の「大きい病院」、俺が指定した近場の公立病院からだ。
要件はシンプルに「明後日の昼前に来てくれ」という内容だった。随分早い対応に感謝しつつ予定表に追加しようとして、手が止まる。明後日は、
「俺の誕生日ですねえ……」
今年の誕生日プレゼントはずいぶん刺激的なものになりそうだ。親からすら貰った記憶ないのに?俺そこまで悪いことした?
そのまま終業時間を迎え、さすがに落ち込んだまま自宅へ戻ってきた。何かできることはないか探して、そのまま部屋の中を行ったり来たりしてみる。何もない。もうやってしまった後で、これから起こるのはその行いの結果だ。
みぞおちに鉄塊のような重みが居座っている。
それでも諦めきれずに部屋をぐるぐるしていると、ふと思い浮かぶものがあった。そうだ、神頼みをしよう。
俺はいわゆる宗教2世というやつで、実家がクリスチャンだ。家を出るときに新しい聖書をもらって、しかし興味がないのでそのまま一度も開かずに放置していたはずだった。まさか必要になるとは。
本棚に入っていた聖書の埃を落とし、洗濯などの日常生活をこなして、心身ともに何とか本を読む余裕ができたのは夜寝る前。手始めに聖書本編の前に設けられたQ&Aを斜め読みして、驚愕した。
「心配事を全て神に委ねましょう。神は優しく気遣ってくださるからです」
(ペトロの手紙一 5:7)
「快楽を愛する人は貧しくなり、ぶどう酒と油を愛する人は裕福にならない」
(箴言 21:17)
「心配したからといって、誰が自分の寿命を少しでも伸ばせるでしょうか」
(マタイによる福音書 6:27)
まるで俺に向かって語り掛けてくるようではないか。ほぼ無神論者と化していた俺が宗教の必要性を心で理解した、その瞬間だった。
その日は30分ほど聖書を読んだ後、久方ぶりに神への祈りを行った。ずいぶん長々と必死にやったが、要約すると以下の通りである。
(俺の心を救ってください、できればHIV確認検査を陰性にしてください。お願いします!今後は気を付けますし、聖書も読破します!)
見よ、これが昼間は責任ある仕事を任されている成人男性の姿である。キリストも呆れていることだろう。だがやる。俺はもはや祈ることしかできないのだ。
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