第11話 子守歌

「そういや、さっきお嬢ちゃんの荷物が届いたから部屋に運んでおいたよ。後で確認してみるといい」

「ありがとうございます」


 私は誠士郎さんに礼を告げると、さっそく部屋へと足を運んだ。

 すると、小さな段ボールが二つ、隅のほうに、申し訳なさそうに置かれていた。

 開けてみると、衣服や教科書といった類の物が乱雑に詰めこまれていた。


 小さくため息をつき、中身を一つ一つ丁寧に取り出していく。

 もともと荷物の少ない私だ。片付けにはそう時間はかからなかった。

 しかし、すべての物を整理し終えた後で、私はあることに気がついた。


「……ない、ない! お母さんの大事な形見が……っ!」


 それは、木のフレームに収められた、羊の絵が描かれた長方形の小さな絵だった。

 古びていて、けっして見栄えがいいとは言えない。

 けれども、その絵は生前お母さんからもらった唯一の思い出の品で、私にとってはまさに宝物のような物だった。


 私はその絵を壁に飾っていて、眺めるたびにお母さんから励まされているような気がして、いつも生きる勇気をもらってきた。

 そんなポストカードほどの大きさの一枚の絵を、私がこれまでずっと大切にしてきたことを、父も姉も知っていたはずなのに。


「……まさか、わざと捨てた?」


 私を心底軽蔑している姉のことだ。その程度の嫌がらせなら平気でやりかねない。

 私は青ざめ、慌てて部屋を飛び出した。


「あれ? 君、これから出かけるの? いったい、どこへ?」

「なんなら俺が送って行ってやろうか?」


 リビングでくつろいでいた二人が、血相を変えて家を出ていこうとする私に口々に声をかけてくれた。


「実家に行ってきます。そう遠くないので……」


 私は短くそれだけ告げると、ローファーに足を通し、夕日に沈む街を駆け出した。






 制服のスカートをなびかせ、息を切らして走り続ける。


 実家には程なく到着した。

 ほんの数日帰らなかっただけなのに、赤い夕陽を背にして影になった黒い一軒家は、越えがたい大きな壁のようにそびえて感じられてしまう。


 苦しい呼吸を整え、恐るおそる玄関の扉を開ける。

 すると、一家団欒の和やかな笑い声が私の耳を突いた。


「あはは。邪魔者がいなくなってせいせいしたね、お父さん」


 胸を裂くような姉の声。

 私は両手で耳をふさぎ、忍び足で廊下を進み、かつて私が過ごした部屋へと足を踏み入れた。


 しかし、そこはすっかり片づけられ、私がかつて存在した痕跡は何も残されていなかった。

 当然、母の形見の大事な絵も見当たらない。


 やむをえず、私は進んできた廊下を引き返し、家族の前に姿を見せた。

 父と姉、そして新しい母が、明るいダイニングで楽しげに夕飯のテーブルを囲んでいる。

 キッチンではぐつぐつと鍋が煮え、幸せそうな匂いがただよってくる。


「……ただいま」


 三人は、私の顔を見るなり、死んだはずの亡霊でも目にしたかのようにギョッとした。


「お母さんからもらった私の絵はどこ? 大切に飾っておいたはずなんだけど」


 自分でも驚くような低い声。

 どんなに怒りを押し殺しても、声が震えてしまう。


「ああ、あの古びた汚いやつ? それならもう捨てたわよ」


 姉が椅子から立ち上がり、勝ち誇ったような意地の悪い顔で平然と言い放つ。


「感謝してよね。断捨離してあげたのよ。これでアンタも何の未練もなく家を出ていけるでしょう?」

「……いつ捨てたの?」

「さあ。運が良ければまだゴミ集積場に残っているんじゃないかしら。まさか、これから探す気?」

「もちろん」

「あはは、アンタにはお似合いね! 家族から捨てられたアンタが、これから捨てられたゴミを漁りに行くなんて。――とっとと出ていきなさい。この家にあなたの居場所はないの。もう二度と顔を見せないで」

「……初めからそのつもり。私には新しい居場所があるから」


 言いながら、獅子戸くんの優しい笑顔を思い浮かべる。

 忌み嫌われ呪われた私をすんなり受け入れ、守ってくれると約束してくれた、爽やかでまぶしい笑顔。

 こんなにも胸を熱く焦がす笑顔がこの世に存在するだなんて、この家を出るまでは少しも想像していなかった。


「フン、どこまでも卑しい子。男の家に転がりこんだりして。いつかまた捨てられるとも知らずに、哀れね」

「うるさいッ!」


 ついに私はプツンと切れた。


 私のことはどう言ってくれたっていい。

 どんなに嘲笑してくれたってかまわない。

 だけど、獅子戸くんを汚すような言葉だけは、絶対に許せない!


「うるさいのはお前のほうだ、愛!」


 父が怒りの形相でテーブルをバンッ! と叩き、立ち上がる。


「いったい何度家庭を壊せば気が済むんだ! お前のせいで私たちがどれだけ苦労してきたか分かるだろう!」

「私が壊したっていうの? この家を……」

「今だってそうだろう! 歌うな、しゃべるな、口を開くなと何度も教えてきたのに、いきなり姿を見せたと思ったら大声で騒ぎ出してッ! お前が口を開くとみんな不幸になる! 分かったら、さっさと家を出て行きなさい!」


 新しいお母さんが、私をいたわるような困ったような微妙な笑みを浮かべ、財布を片手に近づいてくる。


「ごめんなさいね、愛ちゃん。これで何か美味しいものでも食べて。ねっ」


 手切れ金とばかりに紙幣を私に握らせようとする、新しいお母さん。

 ふいに、かつて姉から浴びせられた中傷の言葉が耳の奥によみがえった。



――「フフ、名前が『愛』だなんて、ほんと笑える。誰からも愛されていないのにね」



 お父さんに叱られるたびに私をかばってくれた、優しかったお母さんはもういない。

 泣いている私を優しくなだめ、一緒に横になって子守歌を歌ってくれたお母さんはもういない。


 だったら、こんな家、私のほうから出て行ってやる。

 幼い私を両手いっぱいに抱きしめ、母親の愛情というものを私に教えてくれた、お母さんとの温かい思い出を共に引き連れて――。


「……眠ーれー、眠ーれー」


 私は子守歌を口ずさみはじめた。

 お母さんがこの家で何度も優しく歌ってくれた子守歌を。

 偉大なる母の愛を幼い私に教えてくれた子守歌を。

 そして、もう二度と戻ることのない、訣別の子守歌を。


 涙がとめどなく溢れ出し、いく筋もの流れとなって頬を伝い落ちていく。

 それでも懸命に歌い続けると、姉が怒りをあらわにしてわめき立てた。


「やめなさい、愛ッ! アンタの歌は誰も幸せにしないって、まだ分からないのッ!」


 うるさい、うるさい、うるさいッ!


「愛、やめろと言って……ぐえ……っ」


 子守歌を聞いた姉たちが、次々と眠りの世界に引きずりこまれ、ばたばたと倒れていく。


 私は三人が眠ったのを見届け、ようやく気が済むと、涙をぬぐいもせずに家を出た。


「……くっ……もう少しだけこらえて……っ」


 襲い来る強烈な睡魔にあらがい、重い体を引きづるようにして、なんとかゴミ集積場へと向かう。


「……ごめんね、お母さん……。ごめんなさい……っ」


 しかし、お母さんの形見の絵を探し出すには至らず、ついに私の意識はそこで途切れた。


 夢の中で、地面に倒れかかった私の体が、不思議と誰かに抱きすくめられた感触があった。


「――お疲れ様。よく頑張ったね。だから安心してお休み。僕の大切なお姫様」


 私は深い眠りに誘われながら、そんな声を聞いた気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る