第二章 押し倒されるなんて聞いてない

第9話 私は彼のモノ

 早朝の学校に、一人でやって来る。

 生徒のいない校舎の空気は冴えわたって清々しく、昼間のにぎわいが嘘のようにしんと静まり返っている。


 行き慣れた図書室へ。そして、お気に入りの窓側の席に腰を下ろし、はぁーっ、と人知れずため息をつく。


 実は、今朝起きてからここに来るまでに、私は少なからず動揺していた。


 だって、家にはひそかに想いを寄せている獅子戸くんがいて。

 そんな獅子戸くんに、恥ずかしい寝起きの姿を見られて。

 その上、彼の爽やかな微笑に迎えられて、「おはよう。よく眠れた?」なんて甘い声でささやかれるんだもの。

 それで平常心でいられる人なんて、いる?


 だから、私はこうして一人、図書室へと逃げこんで来たのだ。

 まぶたの裏に焼きついて離れない、彼のまぶしい笑顔をふり払うために――。


 そうしてしばらく本を読み、ようやく落ち着きを取り戻した矢先、


「やっと見つけた。こんなところにいたんだ」

「……っ!?」


 なんと獅子戸くんが図書室に姿を現した。


「ど、どうして獅子戸くんがここに?」


 問いかける私の声が焦っている。

 獅子戸くんが図書室に足を運ぶことなんて、めったにないのに。

 図書室に行くなんて、彼に一言も告げていないのに。


「どうしてって。君がここにいるからに決まっているじゃないか。君のこと、ずっと探していたんだよ」


 顔を近づけ、耳元でそっとささやく獅子戸くん。


「なんで僕を置いて先に行ってしまうのさ。僕たち、せっかく一緒に暮らしはじめたのに。これからは毎朝僕と一緒に登校すること。約束だよ?」


 図書室だからか、獅子戸くんはひそひそと、内緒話でもするかのように言い聞かせてくる。


 あの、そんな至近距離でささやかないでいただけますか?

 心臓がつぶれてしまいます……っ。


 それはそうと、いくら獅子戸くんに頼まれても、聞けない約束だってあるわけで。

 彼と毎朝一緒に登校する己の姿を思い浮かべたら、たちまち頭から白い煙がふき出した。


 私は獅子戸くんの顔をまともに見られなくて、読みかけの本で顔を隠し、視線をわずかに下にそらしながら言った。


「……なぜです?」


 なぜ、そうまでして私と一緒にいたいんです?

 こんな私と一緒にいたって、何の得にもならないでしょうに。


「言ったでしょう。僕が君を守るって。いや、僕に君を守らせてほしい、というべきかな。どうか僕を信じてほしい。必ず君を守り通してみせるから。それと――」


 獅子戸くんが、私が手にしていた本をさっと取り上げ、それから私の顎をクイッと上げた。

 丸い眼鏡の奥で、私の目が大きく見開かれる。


「僕と会話をする時は、ちゃんと僕の目を見て話すこと。いいね?」


 彼の真剣な眼差しが、まっすぐ私に注がれている。


「これからは登下校中に限らず、片時も僕のそばを離れちゃダメだよ。分かった?」

「は、はい……っ」


 私は目をそらすことを許されず、短い声を返した。


 そもそも、私は獅子戸くんの家に泊めてもらっている身なわけで。

 いわば獅子戸くんは私のご主人様で、私はただの彼の下僕しもべ――それが、私たち二人の間に結ばれた、新たな関係なのだ。


 だから、彼の求めに応じないなんて選択肢、初めから私に用意されているはずがなかった。






 そして、下校時。

 両手に鞄を持ち、静かに昇降口へと向かう。

 私の心臓はドキドキと鼓動を速めていた。


 だって、獅子戸くんと待ち合わせをしていたんだもの。

 別に悪いことをしているわけじゃないのに、人の目が気になって、隠れるように廊下の隅を歩いていく。


「ああ、やっと来た。君、遅かったね」


 昇降口までやって来ると、案の定、獅子戸くんは私を待ってくれていた。


「それじゃ、一緒に帰ろうか」


 私はこくり、と小さくうなずき、恥ずかしそうにうつむきながら、彼の後ろに従った。


 登校中も下校中もずっと一緒にいること。

 それが、ご主人様である獅子戸くんが私に命じた約束事の一つ。


 どうして彼はこんなにも一途に私を求めてくれるのだろう?

 私のことを守りたい、というのが一貫した彼の主張なのだけれど、いったい何から私を守ろうとしてくれているの?

 彼の心中は、浅はかな私には少しも分からない。


 ただ、学園のアイドルである獅子戸くんとこんな逢瀬をくり返していれば、当然目立ってしまうわけで。


「誰? 獅子戸くんと一緒にいるあの女」

「獅子戸くんの彼女?」

「まさか。あんな地味子に限って、それはないでしょ」

「なんにせよ、獅子戸くんを独り占めして許せない」


 ……守られるどころか、かえって敵が増えているような気がするのですが。


 しかし、当の本人である獅子戸くんには、そんな周囲の雑音などまるで意に介さないようで。

 何を思ったのか、一歩後ろに下がって歩いていた私の手を、いきなり握ってきた。


「――ッ!?」


 びっくりして、うつむいていた私の顔が跳ね上がる。

 そんなことしたら、周りの女の子たちをかえって刺激してしまう!

 頬を赤らめ、ハラハラしながら獅子戸くんの表情をうかがうと、彼は少しも揺るがない瞳で平然と言い放った。


「ちょうどいい機会だからさ、君がいったい誰のモノなのか、みんなに分かってもらおうと思って」


 ……え? 

 それってつまり、私は獅子戸くんのモノってこと? 


 どうやら、やはり私のご主人様は獅子戸くんで。

 私は彼の下僕であり、彼の所有物に過ぎないみたい。


 私には、彼がいったい何を考えているのか、やっぱりよく分からない。


 ただ、私の手をぎゅっと握る彼の力強さは、まるで異論は一切受けつけないと雄弁に物語っているかのようで。


 私は握られた手の温もりを信じて、獅子戸くんに導かれるまま、二人で同居生活を営むマンションへと急ぐのだった。


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