第7話 恋に落ちる音を聞いた

 獅子戸くんとソファに並んで座る。

 すぐそばで眺める獅子戸くんの横顔は、まるで美の彫刻みたいに整っていて。

 警戒していたことも忘れ、息をのんでつい見入ってしまう。


 それから、ハッと我に返り、さりげなく距離を取ろうとすると、


「近くで見ると、君ってすごくきれいな目をしているんだね」


 獅子戸くんが感心したように身を乗り出し、私の顔をのぞきこんできた。

 さらにぎゅっと近づいてしまう、二人の距離。

 不覚にも互いの体が触れ合ってしまい、心臓がさらに大きく跳ね上がった。


「ん? 君、顔が赤いけど大丈夫? 熱でもあるんじゃない?」


 私の前髪をそっとかき分け、心配そうに額に手を当ててくる獅子戸くん。

 私に熱があるとしたら、それ、獅子戸くんのせいだからっ!


「うーん、大した熱はなさそうだけど。具合は悪くない?」


 こくこくっ、と落ち着きなくうなずく私。


「そう。それならよかった」


 獅子戸くんは安心したように優しく微笑みかけてくれた。


 いったい何なの、この甘い空間は? 

 どうして彼は私にこんなに優しくしてくれるの?

 何もかもが初めての経験で、頬が火照ってしまうばかりで、どんな態度で彼と接すればいいのか分からなくなる。


 一方で、私はいまだに警戒心が解けずにもいた。

 だって、こんな夜に、同じ屋根の下で、いきなり獅子戸くんと二人きりにされたんだもの。


 行き場のない、いわば家出少女同然の私が、獅子戸くんに泊めてもらう代わりにお話以上の代償を求められることだって、十分あり得るわけで……。

 もし、スキンシップや、それこそ体でも求められたら……。

 その時は、どうすればいいんだろう……。


「ところで、君。付き合っている人はいるの?」


 ふいに、獅子戸くんが踏みこんだ質問をしてきた。

 いいえ、と私は首を横にふる。


「へえ、いないんだ。君なら彼氏がいても不思議じゃないって思ったんだけど。だって、こんなに可愛いんだもの。クラスの男子からよく声をかけられたりしない?」


 私はまたしても首を横にふる。


 残念ながら、私は男の子はおろか、女の子からも声をかけてはもらえない。

 教室でも家でも、私はいつも独りぼっち。


 それは、自ら周りに壁を作っているせいでもあるのだけど。

 時々、心にぽっかり空いた穴に、ふっと冷たい風が吹いたりもする。


「ふうん、そうなんだ。みんな見る目がないんだね」


 獅子戸くんが柔らかい微笑をこぼす。

 心なしかホッとしたような表情に見えたのは、私の気のせい?


「ところで――」


 獅子戸くんは話題を変え、真剣な顔で私に問いかける。


「君って、あまり声を出さないよね。ジェスチャーで応えてくれるから、君が何を言いたいのかは伝わってくるけどさ。もっと君の声を聞かせてほしいな」


 獅子戸くんがついに私の核心に迫ってきた。

 私は再度首を横にふり、うつむいた。


 私がしゃべれば、きっと周りに迷惑がかかる。

 この声のせいで、これまで家族に何度も否定されてきたのだ。

 己の存在意義も、人としての尊厳も、なにもかも……。


「私……声にコンプレックスがあって……」


 しぼり出すような、細い声。

 幼い頃から抱いてきた悲しみが滲むかのような、切ない響き。

 しかし、獅子戸くんは意外そうに目を丸くした。


「どうして? そんなに可愛い声なのに」


 今度は私が驚く番だった。

 バネに弾かれたかのように、思わず顔を上げる。


 すると、春の陽だまりのような獅子戸くんの温かい眼差しが、一心に私に注がれていた。

 不思議と、目尻から一筋の涙が頬を伝い落ちた。


「か、可愛くなんかありませんっ! 私の声を聞くと、みんな眠くなるって……。だからしゃべるな、口を開くなって親にもよく叱られて……っ」


 この声のおかげで、いったいどれほど嫌われてきただろう。

 父からも姉からも蔑まれて、ずっと孤独を抱えてきて。

 だから、学校でもなるべく誰とも話さないように、じっと口を閉ざしてきたのだ。

 そんな私の声が可愛いだなんて、絶対にありえない!


「もしかして、放課後に僕に絡んできた連中が、急に倒れて眠ってしまったのって」

「それも、私の声のせいです……」


 どうしてこんな異能力を持って生まれてしまったのだろう? 

 こんな異能力さえなければ、家族からももっと愛されていたかもしれないのに。

 友達だって、たくさんできていたかもしれないのに。

 孤独なんて言葉、知らずに済んだかもしれないのに。

 そう思えば思うほど、己の運命を呪わずにはいられない……。


 しかし、獅子戸くんの反応は、私の暗い気持ちとはまるで正反対のものだった。


「君ってすごいんだね! 感動したよ!」


 獅子戸くんは瞳をキラキラと輝かせ、身を乗り出すようにして私の手を取ると、興奮ぎみにぎゅっと強く握ってきた。

 たちまち顔がカアアッ! と熱くなって、焦りながら反論した。


「わ、私の話、ちゃんと聞いてました? 私の声を聞くと、みんな眠くなってしまうんですよ?」

「いいじゃない。君の声って、本当に小鳥のさえずりみたいにきれいなんだもの。君にささやかれながら眠りにつけたら本望だよ。きっといい夢が見られるだろうな」

「め、迷惑じゃないですか? 私、この声のせいでずっと嫌われて……」

「素敵な個性だと僕は思うよ。少なくとも、そんなことで僕は君のことを嫌いにはならないよ。だから、僕とはこれからもいっぱいお話してほしいな」


 獅子戸くんは白い歯をこぼして笑い、


「安心して。今度は僕が君を守るから。君が僕にそうしてくれたようにね」


 私にウインクをして見せると、声に力をこめてそう宣言してくれた。


 私の唇の先が、わずかに震え出す。

 ずっと私の心に覆いかぶさっていた絶望という名の暗闇が、獅子戸くんという光によってたちまち払われていく。


 獅子戸くんにとっては、何気ない言葉だったのかもしれない。

 けれども、彼から告げられた言葉の数々が、私にとってどれほど救いだったか。

 ひそかに抱え持っていた彼への強い警戒心が、氷が溶けだすように、みるみると砕けていく。



――ああ、私は獅子戸くんのことが好きだ。



 この時、私は恋に落ちる音を聞いた。


 獅子戸くんはやましいことなんて少しも考えてはいない。

 むしろ、恥ずかしいくらい、やましいことばかり考えていたのは、私のほうで……。

 獅子戸くんはこんな私のことを真剣に考え、純粋に褒めてくれて、守ろうとさえしてくれていた。



――こんな人、世界中どこを探したって、きっといない。



 私は溢れる涙をぬぐい、わずかに視線を下げると、もじもじと、はにかみながら感謝を伝えた。


「あ、ありがとうございます……。私のこと、そんな風に言ってくれた人、今まで誰もいなかったから、とまどってしまって……。家族からはいつも否定されていて、いつしか自分でも自分のことが嫌いになっていて、もう私みたいな子はこの世に存在しちゃいけないんじゃないかって……そう思い詰めてしまうこともあって……。だから、今日はすごく嬉しかったです。獅子戸くんに、私を嫌いにならないって言ってもらえて。こんな私でも受け入れてもらえて、可愛いとまで言ってもらえて……。可愛いなんて生まれて初めて言われたから、どうしたらいいのか分からないけど……っ」


 頬がますます火照ってきて、もう彼とは少しも目が合わせられない。

 けれども、この想いはもう誰にも止められない。

 私は目を閉じ、胸に手を当て、ふーっと深く息を吐くと、意を決して今にも泣きだしそうな声で続けた。


「でも、私……獅子戸くんのそういうところ、好き……かも、です……っ」


 人生で初めての、精いっぱいの告白。

 絶対に恋愛なんてしないと思っていた私に、こんな夜が訪れるだなんて、予想だにしていなかった。


 真っ赤な顔で獅子戸くんへの想いを告白した後で、獅子戸くんの反応をうかがおうと、恐るおそる顔を上げると、


「すぅ、すぅ」


 ……って、獅子戸くん、寝てる――っっ!!


 しまった! 感情の高ぶりに任せてしゃべり過ぎちゃった!

 私の声を聞きすぎて、獅子戸くん、眠くなっちゃったんだ!


 私って、ほんとバカ……。

 しゃべり過ぎてしまったせいで、異能力を誤発動させてしまうなんて……。

 今夜ほど、己の異能力を恨めしいと思ったことはない。 


 私もまた深い眠りへと誘われながら、やっぱりこれからも人としゃべるのは控えよう……、と改めて思い直すのだった。


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