第5話 「あーん」

 獅子戸くんが住む家は、そびえ立つ超高層マンションの最上階にあった。

 玄関の扉を開くと、白いワイシャツに黒いチョッキ姿の若い男の人が私たちを出迎えてくれた。


「おかえり、坊ちゃん。今日はやけに遅かったじゃないか。おや、その子は?」

「羊川愛さん。彼女とは今日知り合ったんだ。それより誠士郎、食事を用意してもらえないかな。僕たち、もうお腹がペコペコなんだ」

「了解。それにしても、坊ちゃんが友達を連れてくるなんて、めずらしいな。それも、こんなに素敵なレディだなんて。坊ちゃんもなかなか隅に置けないじゃないか。今日知り合ったお嬢ちゃんをさっそく家に連れこむなんて」

「誠士郎。なにか勘ちがいしているみたいだけど、別にそういうのじゃないからね。余計なこと言ってないで、早く用意してくれる?」

「はいはい、かしこまり」


 拗ねたように唇を尖らせる獅子戸くん。

 頬がほのかに赤く色づいている。


「彼は魚住うおずみ誠士郎せいしろうといってね。いつも僕の身の回りの世話をしてくれる、とても頼りになる執事なんだ。人をからかうのが好きなところと、可愛い女の子に目がないところが、玉にキズなんだけどね」


 獅子戸くんが眉をハの字にして微苦笑をこぼす。

 すらりと背の高いモデル体型。顔は涼やかでよく整っていて、格好いい。

 二十代前半かな? これなら可愛い女の子もたくさん寄ってきそう。

 誠士郎さんと獅子戸くんの関係は、主人と執事というよりも、なんだか仲の良い兄弟みたいで、やり取りを聞いていると、しぜんと笑みを誘われた。


「それより、こっちに来てよ。君に見せたいものがあるんだ」


 獅子戸くんが私の手を引き、ベランダへと連れ出してくれた。

 握られた手がにわかに熱を帯びてくる。


「ほら、見て」


 広いベランダに出るなり、私の目に美しい夜景が飛びこんできた。


「綺麗……」


 近い夜空には星がまたたき、きらびやかな街の明かりがイルミネーションみたいに輝いている。

 まさに宝石箱をひっくり返したような幻想的な世界が、視界いっぱいに広がっていた。


「ここは僕のお気に入りの場所でね。こうして夜景を眺めていると、嫌なこともすべて忘れて、癒されるような心地がするんだ」


 涼気をはらんだ爽やかな夜風が、背までかかる私の長い髪を優しくさらう。

 たしかに獅子戸くんの言う通り、こうして夜景を眺めていると、過去のトラウマも現在の苦悩も未来の憂いも全て忘れて、心が浄化されてくる。


「どう、気持ちいいでしょう?」


 美しい夜景をうっとりと眺めながら、はい、と首を縦にふる。

 獅子戸くんはそんな私を温かく見守り、満足げな笑みをこぼすのだった。


 勘ちがいしてしまいそうな、恋愛ドラマのワンシーンみたいなロマンチックなシチュエーション。

 でも、彼はどうして私にこうも優しく接してくれるのだろう? 

 なんだか夢を見ているみたい。


 まもなく誠士郎さんに呼ばれ、部屋の中に戻ると、すでに豪華絢爛な料理の数々がテーブルに並べられていた。


「腕によりをかけて作ったんでね。どうぞ召し上がれ」


 獅子戸くんと机を挟んで向き合って座る。

 ただでさえ男子と食事だなんてしたことないのに、その相手が、よりによって獅子戸くんだなんて。

 爽やかな笑顔が私にはまぶしすぎて、とても直視できそうにない。


「さあ、遠慮しないでたくさん食べて。放課後に僕を助けてくれたお礼だと思ってさ」


 獅子戸くんがにこやかな表情で私に食事をうながす。


 そう言われましても……。

 私は優雅なディナーを前にして、なかなかフォークが伸ばせない。

 そもそも獅子戸くんを助けたのは偶然の成り行きで、お礼なんて少しも期待していかなった。

 それなのに、身に余るような、このおもてなし。

 私は名家のご令嬢でもなければ、一国の姫君でも貴族でもない。貧相なただの高校生だ。

 身の丈に合わない厚遇ぶりには、やっぱり気後れしてしまう。


 けれども、そんな私の思いとは裏腹に。

 ……ぐうぅ~。

 見たこともないようなご馳走の数々を前にして、不覚にも私のお腹が鳴ってしまった。

 恥ず……っ。これじゃ、まるで私が食い意地張っているみたいじゃない。

 近くで様子を見守っていた誠士郎さんが、私のお腹の音を聞きつけて笑い出す。


「ハハハ。どんなに遠慮しても、お嬢ちゃんの体は正直なようだ。しかも、そんなに物欲しそうな顔をして。ほら、冷めないうちに早く食べるといい。それとも、坊ちゃんに食べさせてもらいたいのかな?」


 私は顔から火が出る思いがして、真っ赤な顔を両手でおおった。

 私、そんなに物欲しそうな顔をしていた? 日頃の食事が粗末だから……。いっそ誰か私を殺してっ。


「誠士郎、言い方」


 獅子戸くんは誠士郎さんを軽くたしなめつつ、何を思ったのか、もじもじと切り出した。


「でも、そうだよね。僕、女の子と食事だなんてめったにしないから、少しも気がつかなかったよ」


 え、どういうことです?


「助けてくれた恩人の手をわずらわせようだなんて、僕はどうかしていたね。誠士郎の言う通りだ。君はきっと僕にこうしてほしかったんでしょう?」


 獅子戸くんはそう言うなり、料理をフォークに刺すと、私の前に突き出してきた。


「はい、どうぞ。あーん」


 どんな芸術家でも描けないような、至高の美術品のような笑みを浮かべて料理を差し出す獅子戸くん。

 ……って、ちがうからっ!

 そんなことしてほしいだなんて、私、夢にも思ってなかったから!

 しかし、光の粒子をまき散らす獅子戸くんの極上の甘い微笑には逆らえず、流されるままに差し出された料理を口に入れてしまう私。

 もう顔が熱すぎて、味なんてまるで分からない。


「あ、ありがとうございます……っ」

「フフ、どういたしまして。もっと食べる?」


 嬉しそうに微笑んで、さらに「あーん」と料理を差し出してくる獅子戸くん。

 従順に、そのまま頬張る私。

 ……って、私は主人に飼いならされたペットか。

 なんだか餌付けされているような気分になってきた。


「僕、女の子にこんなことしたの初めてだから、緊張した。でも、これで少しは君に恩が返せたかな?」


 私は火照った顔でこくこくっ、と何度もうなずいた。

 もう十分ですっ。

 これ以上甘やかされたら、私の心臓が持ちません……っ。


 こうして、獅子戸くんとの夢のようなディナーをしばらく楽しんでいると、ふいに誠士郎さんがたずねてきた。


「ところで、お嬢ちゃんは今夜どうするつもりだ? もう夜も遅いし、このまま泊まっていくか?」


 ……え?


「うん、それがいいよ! 僕からもお願いするよ。今夜、うちに泊まっていってほしいな。もっといっぱいお話しよう。僕、君のことをもっとよく知りたいんだ」


 澄んだ瞳をいっそうキラキラと輝かせて、無邪気にねだる獅子戸くん。


 そんな期待に満ちた表情で求められたら、断れるはずがない。


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