第14話 2007年 10月 歌舞伎町スナック「知床」にて 2R
といったような、1989年のテキサス西川口やら草野球やらの、あれこれを
臼井「美和」と、懐かしみつつ、概ねここまで記した「小説」の内容通りに話していたら、ふん、ふん、ふん、と興味深げに聞いていた大崎、由紀恵、和美3名のうち先陣をきって「はいはいはいはいはい、はーいおれおれ!」と教師の質問にどうしても指して欲しいモードになっているエネルギッシュな生徒さながらに手を挙げたのは和美であった。
「で、その『笠原さん』は妊娠→中絶、してたの?」
いやまったくごもっともな質問なのだが、それについては「わからずじまい」であった。笠原是川カップルが後に結婚し、1男1女をもうけた、までは追えているのだが両名ともに90年代半ばごろに、テキサス西川口の常連太客の「工場主」夫人に、接客態度の良さを見込まれ、「引き抜き」にあって、退職のうえ転職し、自分は連絡先知らないし、いまだ薄く交流のある美和も、そういう昔の立ち入った話は、今現在「円満」な家庭を築いているように見える人たちに尋ねようもない、ってことで真相究明の道は途絶の状態、というかまあ、放っておくべき話であろう。
「昔の『店長』って余裕あったのねえ。今この疲れ切った嘉数ちゃんと違って」
との感想を漏らしたのは由紀恵。
版権モノ機種リリースの嵐が始まる前というのは、「新台入れ替え」はそれこそ2~3カ月に1回くらいのペースだったし、入れ替えと関係ない店休もあったし、
ホールコンピュータその他の周辺機器の精度もいまに比べれば細かくなかったので、
データ帳票類の量も少なかったし、そもそも「釘調整」や「設定変更」の作業もそうそう毎日マメに全台規模でチェックしてなかったし、それこそ全台オール放置の総流し、みたいなことも珍しくはなかったのだった。
なので「浜井店長」も終礼後そんなに間を置かずに野球準備会合に参加できてたりするわけだ。2007年ではまず有り得ない話である。
当時の慢性人手不足状態もあって、特に「新卒者」はつなぎ止め策のあれやこれやが積み重なって、冷静によくよくそれを眺めると、実に「高待遇」なのであり、しかも職場嫌さの退職者などが出るとマイナス査定かなりなものになるのもあったのか、対顧客並みの気の使われ方をしてたのもあった。おおげさでなく。
草野球には不参加だった当時大卒入社7年目のテキサス西川口「副店長」なんかは、「いやほんとこの仕事ほとんど残業ないし、多分『公務員』より楽だと思うよ。慣れちゃえば」ってしきりに強調してたし、実際当時は店の役職者も一般社員と同じ時間に帰るとか「普通」だったのだ。(当時「公務員」は「楽」に違いないと思われていたということでもある)
しかし今はもう、たとえば「釘調整」まったくやる必要なし、だとしても、蔓延る「ゴト」行為の影響もあって「閉店後全台各部目視チェック」やらねばならないし、その「必要チェック項目」もどんどん足されていくし、それだけでももし店長一人でやるとしたら1時間では終わらないだろう。700台超える大型店舗もちらほら自社内に出てきてるし。
また「対顧客」に関しての気の使いようは、そりゃもう競争に打ち勝つため、年々過剰になっていく一方な今日この頃だが、内部の「対従業員」の接し方に関しては、「就職氷河期」が影響し、自分達の頃と打って変わって、優秀な「新卒者」がこの業界にどんどん流入してきて、あっという間に雰囲気が変わった。
こちらが「人を選べる」時代になったということである。
「ああ、もう、ここにいていただけるだけでもありがたいことです」っていうのと、
「人を選べる」のとでは、そりゃもう大違いさっ!って話で、排除と選別が当たり前の雰囲気になった。なので権謀術数とか生き残り戦略とかいうのを最大限発揮しないことには油断も隙も無い世界になったのだ。どのポジションの誰にとっても。ヌルい時代入社の自分には面倒なことこのうえないわけだ。
後々、詳細は述べるが、宮内はともかくとして、浜井さんももう社内にも業界にもいない。「店長」の仕事内容も「世代交代」している間にまったく別種のものになっていて、かつての一国一城の主のような振る舞いはもはや誰からも求められていない、というかまあ周辺機器の発達で、店長の「度胸経験勘」ではなく、蓄積集約されたデータに基づいた、コンサルタントの「分析力」が物を言う時代になったのだった。
店舗新台導入の際の機種選択は、かつては各店長が各々見定め、稟議書作成提出し、決済を待つ、という流れだったものが、いまはコンサルタントの鶴の一声で全店の機種配列が決まる。前述したように「不正防止」対策で管理項目が日に日に増すばかりで、減る気配は一向になく、その意味で行政上の正式名称「遊技機管理者」そのものであり、それに加え店舗の「人モノ金」全般の管理もぬかりなく細大漏らさずやれ、という話なのであるから、最早「昭和の無頼派」のやる仕事ではなくなっていた。
1989年入社の自分は、仕事覚える時期のほとんど全部が全部「無頼派」の上司からあれこれ習っているわけで、「好みの機種がない」問題に加えて、仕事の進めかた、についても、年々面白くなさを感ずるところマシマシであって、気を付けてはいても、そういう深層心理が態度に出てくるので、どんどんと首のあたり涼し気になっているのをありありと感じる日々なのだった。
「ぼくはここにいていいんだ」感、絶無!みたいな。
っていうようなさまざまなことがらをざっくり短縮版にまとめて由紀恵に「愚痴」として返したら、「そうよねえ、年々、嘉数ちゃんたちの業界の人らも、来る割合減ったし、金離れのほうもあれよねえ」と実に身も蓋もない嘆息ぶり。
「嘉数さんの若い頃はあれだなあ、当たり回数の数字の札とか売ってたなあ」
としみじみする大崎。
まあなにせプリペイドカードなし、会員カードなし、オール現金機のみ、の頃であるから、台の上のナンバーランプもギリギリ「大当たり回数」くらいは表示し始めた程度で、まだ「当たったら点滅」、「係員呼び出しボタン押すと点灯」の2機能しかないタイプが残ってた時代だ。なのでナンバーランプの上の「幕板」の部分にバスケットボールの試合会場にあるような「めくる」かたちの数字札が設置されてたり。
あと、大崎の業種でいうと、いまはほとんど枚数売れず、その頃はよく出荷したであろう、ってのは「終了台」「開放台」とかその手の札か。羽根モノやら一発台やらが稼働しまくりだったので。
で、ぎりぎりちょっと前まで、「主任」クラスで会社に残ってた鹿取、葛西らが「定量放送の時の仕草」で19歳及川さん(草野球の数カ月後には退社)にすっかり夢中になった、の件だが、これはどういうことかというと、これまた今昔比較になるんだが、いまはあって昔ないもの、の代表格が「インカム」システム。ヘッドフォンとマイクが一体になったものを頭部に装着してフロアー内部で即時に連絡取り合うっていういまやなくてはならないものがまったくなかった時代もあった、というわけで、羽根モノや一発台が「定量」つまり「打ち止め数」に達した場合に放送が鳴り、ホールの従業員が該当台に目視確認に行くんだが、その打ち止め数あるのかないのか、ホールから景品場に向かって「ハンドサイン」を送っていたのだ。で、それを確認できたら「了解」の旨、景品場からホールに挙手で合図を返す、と。景品場の最深部にホールコンピュータの小端末が設置してあった為にこれが基本作業の一部に組み込まれているのが全国津々浦々のパチ屋の共通項目だっただろうと思う。
これら一連の身体使った合図の流れは、送るのにも送られて返すのにも、とにかく「個性」出るし、あと「目線が合う」ことでもあるし、で、男女間でそれが行われるケース多めでもあるし、ってことでなかなかにいろいろな「妄想」が生まれる味わい深い業務でもあったような気がする。
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