第4章 ~夢を見ないで~


 30歳のシェリー・メアリーが目覚めると、眠る前の管理官たちがまだ居た。

 いや違う。彼らは少し、年を取っていた。


「お久しぶりですシェリー・メアリーさん。貴女にとっては今、我らと別れたばかりですが、我々にとっては8年振りです。実時間は276年経ちました。本日起きていただいたのは例の準症例者、つまり、冷凍睡眠の解凍時に、未蘇生となる恐れのある予兆夢を見た仲間がまた現れたからです」


― 30歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私は997年後にウッドと一緒に目覚めたのではなかった。ついに、4例目の準症例者となる予兆夢を見た仲間が現れたのだ。

 さっそく当事者の経緯を聞くと、症状改善の睡眠治療に『とても不安がって』いて、常日保守作業待機を頑なに希望しているとの事で、私がその人物の説得を任されてしまった」



 シェリー・メアリーは、医療区の個室ベッドに腰を下ろす、一人の技師と対峙した。

 準症例の彼女は、そう、初の予兆夢の技師は女性だった。その人物は女性ながら、土木建築保守技師として、このシェルターで千年以上も保守業務を熟してきたベテランだった。

 名はゴーリュディシア・ライト。

 透き通るような白い肌。美しくウェーブしたロングの金髪。整った目鼻立ちはまるでアテネの女神の様だ。

 あと8年で人類解放までの最終冷凍睡眠に入る予定という。シェリー・メアリーの2歳年上だが、生まれはシェリーより500年ほど後の人だ。

 シェリーは彼女に睡眠治療で症状が改善、または完治する可能性を伝えたが、当然それはまだ可能性の段階でしかなく、彼女が被験者第一号である事も伝えなければならなかった。


「その事は管理官からも説明を受けたわ。だから断固拒否します」

 ゴーリュディシア・ライトは被験者になる事を強く否定すると続けてシェリー・メアリーに放った。

「あなたには判らないでしょうね。この恐怖が。冷凍睡眠から目覚めたばかりの今はまだ常日生活で普通に寝るのさえ怖いの。それでもあなた達の仮説が正しい事を証明したいのであれば、あなた自身が被験者になればいいわ」

 鋭い目付きで静かに訴えるゴーリュディシア・ライトは涙をぽろぽろと落し始め、

「ごめんなさい。あなたに酷い事を言ってしまった。本当にごめんなさい」

 と、両手で顔を覆ってしまった。


 不安と怒りを爆発させても、人を想うゴーリュディシア・ライトという人物の質量に引き寄せられぬ者など、居ないだろう。

 シェリー・メアリーは対面していた椅子から立ち、ゴーリュディシアの隣に腰を下ろした。

 彼女の肩に手を添え膝に手を当て、自分の思い至らなさを詫びた。

「ゴーリュディシアさん、あなたの言う通りだわ。私の方こそ無理解な事を言ってしまって本当にごめんなさい。私、医療区に睡眠の不安を解消して貰える様に頼んでみます。大丈夫。あなたをこれ以上傷つけない。だから安心してください」


― 30歳のシェリー・メアリーの声 ―

「ゴーリュディシア・ライトさんの隣に座ると、見た目は華奢きゃしゃなのに筋肉質で頑丈な体格だった。それは彼女が今の保守職で命を張ってきた証でもあった」

「自分も十代の頃、ほんの少し憧れていた電気保守技師に、体力面で敵わないと諦めた事を、彼女は諦めなかった。 ほぼ男性ばかりだろう仲間たちとの作業では、気も張り続けてきたに違いない。今の彼女の様に不安に怯えて泣いていては、果たせない職業だろう」

「その彼女が私の前で涙を見せたのであれば、私は何としても彼女の意思を守らねば」

 医療区への約束をしたシェリー・メアリーに、ゴーリュディシアが泣き火照ほてった怖い眼差しでお願いをした。

「私が泣いた事、絶対誰にも言わないで」

 まるで脅しの様な強い意志の言葉に、シェリー・メアリーは力強く頷くだけでは物足りないと思い〝誓いの握手〟の手を差し出すとゴーリュディシアは安心したのか、ほんの少し笑顔になって力強く握り返してきた。

「いたたっ!」

 シェリー・メアリーの誓いの右手に握力の痛みが走った。

「あ!ごめんなさい! つい力が入っちゃって!」「大丈夫?大丈夫?」 と、シェリー・メアリーの手を今度は両手でそっと添えて心底心配するゴーリュディシアに、シェリー・メアリーは瞬く間に魅了されてしまった。


 医療区で、ゴーリュディシア・ライトの常日睡眠のケアを取り付けたシェリー・メアリーは、そのまま管理区へ出向き、自身が予兆夢を見る為の被験者としての申請をした。

 当然、管理区はこの提案に猛反対したがシェリー・メアリーはその意義と必要性を強調し、夢研究者である自分が最も適任である事を力説し承認させてしまった。

 ヒュー技師の手紙を惜しみなく公開し、彼らの「雨の中のキスごっこ」のレジェンドとなっていた彼女の押しは絶大だった(汗)。


   ***


「ここはどこ?」

 32歳のシェリー・メアリーが薄白く濁る空間に一人いる。

 何か大きなつるつるとした膜の中だ。強いて言えば、巨大な細胞膜の様な感じだ。だがこの細胞には細胞核もゴルジ体もミトコンドリアもない。私一人だけだとシェリー・メアリーは不安に思う。

 直ぐ近くに膜の壁があるのに、歩いても歩いても、なかなか辿り着けない。膜までの、見た目の距離にズレがあるように感じる……

 やっと膜の壁まで来た。出口の様な物は何処にも見当たらない。

 膜の壁に沿って歩いても歩いても、歩いても歩いても、何処にも何もない……。

「閉じ込められている…… 私は、閉じ込められている???」



 何度目だったろうか。本当に何度目の冷凍睡眠だっただろうか。

 シェリー・メアリーが被験者となって、予兆夢を見るまでに寝起きを繰り返した回数は実に90回近くになり、そして今日、遂にその予兆夢を見たのだ。

 これが本物の予兆夢なのか、すぐさま検証の冷凍睡眠を行い、二度目の予兆夢も見た。予兆夢が本物である事が確認された。

 シェリー・メアリーの生体時間で約2年、実時間で10年目の事だった。


― 32歳になっていたシェリー・メアリーの声 ―

「あれは今までに見た事もない、不思議な夢だった。

 あの、永遠に閉じ込められている様な息苦しさ……」


「これでやっと、睡眠治療で予兆夢が解消されるのか、その答えが得られる。

 私がその被験者一号になる。

 でも、その前に、私はある人にお詫びをしなければならなかった」


   ***


 その華やかな造形の通りは、シェルター建設当時、ビリオネア居住区と呼ばれていた、一戸建て風の上級住居が並ぶ通路だ。

 トンネル状の天井は明るく、遥か昔は液晶ディスプレイ仕様で空を映し出していたと言う。 通りに面する個々の戸建ては緑の手入れが行き届き、まるで保養地の別宅のようだ。 イーブンソング家はドームから奥まった住居区だったが、ここはドーム1の壁面に邸宅風住居が並ぶ、眺望の良い贅沢過ぎる区画だった。


「十代の頃、何度かこの通りをぶらぶらした事はあるけれど、まさか誰かのお宅にお邪魔する事になるなんて……」

 シェリー・メアリーは豪華なエントランスを構えた邸宅の前で立ち止まった。

 緊張した面持ちで背の高い扉の呼び鈴を鳴らすと、シェリー・メアリーを出迎えたのは、ガタイの良い、屈強な、如何にも技師労働者風の美しい男性だ。

「イーブンソングさんですね? お待ちしていました」

 彼に案内されたリビングは広く天井も高い。しかも全面強化ガラス張りの外壁窓の向こうは巨大なドーム1のビオトープ環境が眺望できる。 流石、部屋数も多く、装飾も当時の贅沢の限りを尽くした様式に、シェリー・メアリーは澄ましながらも「私、目が回りそう」と目玉はキョロキョロしっぱなしだ。

「リュディ、イーブンソングさんが見えたよ」

 案内した彼が何処か奥の方に向かって言うと、バタバタと姿を見せたのはゴーリュディシア・ライトだ。

 二人が初めて会った時からシェリー・メアリーは2歳年を取って32歳に、常日生活を続けていたゴーリュディシアは10歳年を取り42歳になっていた。

 ゴーリュディシア・ライトは最終冷凍睡眠を選択する40歳までにシェリー・メアリーの被験の結果が間に合わず、このシェルターで一生を終える運命を受け入れていた。


― 32歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私は、ゴーリュディシアさんが40歳になるまでに、私の予兆夢が間に合わず、その事をお詫びする為にお宅にお邪魔したのに、彼女は彼女で、ご自分の吐露された言葉で私を被験者実験に促してしまったと、逆に真心の籠ったお詫びを何度も何度も繰り返された」


 ほんの少しの間、お詫びの言葉が二人の間で飛び交っていたが、そのうち二人は見つめ合い笑い合い、抱擁し合った。

「リュディでいいわよシェリー」

 ゴーリュディシアは満面の笑みだ。


 二人は暫しの再会を喜び合うと、シェリー・メアリーはゴーリュディシアの雰囲気がとても明るいのでホッとしていた。

「彼女、ううん言い直し、リュディは私より一回り年上になったけど、初めて会った時よりも美しく綺麗になってた。予兆夢克服の機会も得られないまま、今の人生を選択せざるを得なかったのに、とても充実した人生の様に思えたのは何故だろうと、私はとても不思議だった」


 ゴーリュディシアは 「貴女あなたの運命が切り開かれん事を」 と、このあと、睡眠治療で予兆夢解消に挑戦するシェリー・メアリーに、尊敬の念と共に最大の賛辞を贈り、厚く抱擁した。

 シェリー・メアリーがゴーリュディシアに謝意を述べ、おいとまの挨拶をしていた所、二人の男性が「ただいまリュディ!」と威勢よくリビングに入ってきた。その二人も先ほどシェリーを出迎えた男性と同じく、如何にも土木建築技師の完璧な容姿だ。

 ゴーリュディシアは「お帰りなさい」と、男たちに抱擁する。

 シェリー・メアリーは何事だろう? と、としている。


「私、彼たちと同棲しているの」


「そ、そ、そうなの???」

 シェリー・メアリーは今、打ち鳴らされる大きな鐘楼の中だ。

 彼らは、ゴーリュディシアが未蘇生症防止のため常日生活に入った時、彼女を慕って同じく常日生活を申請したのだが、そのうち4人で同棲する様になったと言う。

 シェリーが戸惑っていると3人の男達が口を揃えた。


「彼女と一緒に齢を取りたかったんだ」


   ***


 ゴーリュディシアの邸宅を後にした帰り道、ドーム1を歩くシェリー・メアリーの足取りがだ。

 歩いたり、立ち止まったり、かと思うとスタスタと歩き始め、急にまた、と歩き、立ち止まる。


 立ち止まったまま、暫くこのドームのあちらこちらにそびえ立つ、巨大な石柱に目をやる。 足場を組み、天井にロープを掛け、吊り下がり、石材を積み上げる土木建築技師たちの姿が浮かび上がる。


 このシェルターを守る為に、守り続けるために、土木建築技師は1万数千年の間、人々が忍び住むこの世界を点検し補修し続けて来た。まだ高湿度の豪風荒れ狂う初期の時代に外界に挑戦し、巨大な砕石場を見つけ出し、ほぼ人力で切り出し運び、ドームやシェルターの劣化を補修し続けて来た。


 シェリー・メアリーは、ドームを支える石柱たちを見上げながら、ゴーリュディシアの3人の男性の『一緒に歳を取りたかった』という言葉が、鋭利な物に変化して自分の身体を貫いた感覚をぬぐい切れずにいた。


「私がヒューと一緒に歳を取るにはどうすれば良かったの? どうすれば……」

 精神が抗えない寂しさに引きずり込まれてゆく。


「あ! そう言えば私……」

 シェリー・メアリーは急に何かに気づくと、深く落ち込みかけていた顔が、十代の少女が驚いた様な表情になった。


「ウッドとは…… ほぼ一緒に齢を取ってるんだわ……」


 変な方向に気づいてしまったシェリー・メアリーは〝これ以上考えるのはよそう作戦〟を発動して、そそくさと家に帰り始めた。

「うん、これ以上は考えずに、自分のやる事に集中しよう(汗)。

きちんと準備をして、すぐにでも予兆夢克服の検証を始めないと」


 午後の疑似自然光の、幼い頃から変わらない柔らかな光が、このドーム全体に今も降り注いでいた。


   ***


 睡眠を促す各ツボにシール針を貼った専用スーツ姿でシェリー・メアリーが睡眠治療カプセルに入った。

 睡眠治療で予兆夢が解消されるのか、いよいよその挑戦が始まったのだ。


 冷凍睡眠と比べるとカプセルの形状はかなり異なるが、専用スーツを着てカプセルに入る過程は至って同じで、違う点と言えば、眠たくなる前に『冷気による冷ややかさはない』という程度だ。

 睡眠治療時間はウッドと同じく1ヶ月に設定した。

 少し、緊張していた。


   ***


 淡白く霧掛かった空間に意識だけが浮かぶ。

 自分の手足が見えない。

 身体がないのだ。

 それでもシェリー・メアリーは存在していた。


「あの細胞膜の時と似たような感じ。けれど空の様に隔たりがない。 自分の身体が無いってどういう事?」


「何かが振動し始めた。

 これは、この空間が振動してるの? それとも私?

 振動が激しくなって来た。引き裂かれる!? いえ違う。

 この快感は…… これは解放? 」


 途端に何百もの何千もの、否、何万?何億?もの、シェリー・メアリーの意識が新星爆発の如く!四方八方に一気に拡散すると!!

 やがてそれは静かになり、安らかで穏やかな空間に漂いながら、シェリー・メアリーは深い眠りに陥った。

 すると夢を見た。


 シェリー・メアリーのてのひらに、白くふわふわしたものが幾つも落ちてくる。掬おうとしてもすり抜け、見上げれば無数の白いものは淡い灰色に変化し、見下ろせば純白に変わる。 白いもの達は足元に辿り着くと、床を通り抜けるかの様に消えてゆく。


『目覚めると、そこは 真っ白な世界。

 ウッドが、ウッドがとても悔しそうに泣いていた』

 シェリー・メアリーはウッドが泣く姿に動揺してしまって、自分も泣きながら彼の項垂うなだれた背中に、そっと手を添えた。

『ウッド、泣かないで』  

 自分の嗚咽で、睡眠治療から目覚めた。



 医療技師たちがカプセルの蓋を外すと、付き添いの管理官から声を掛けられた。

「お早うシェリー・メアリーさん。気分はいかがですか?」

「大丈夫、とても爽快です。何もかもすっきりした感じだわ」

 涙が頬を伝う事で自分の嗚咽で目覚めたのだと確証した。泣く時の心の震えが微かに残っていた。 自分はなぜ泣いていたのだろう? 頬の涙を指先で拭い、その涙に濡れた指を不思議そうに見る。


― 32歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私の無数の意識が無限に拡散して解放される感じは夢として覚えていたのだけれど、それとは別に、誰かに対して悲しかった夢を見た様な気がした。それが涙の原因なのかも知れないと、私はその夢を思い出そうとしたのだけれど、直ぐにでもこの実験の核心である『再び冷凍睡眠から目覚めた時、予兆夢は解消されているのか』 の準備に集中してしまい、涙の夢を思い出そうとする時間はかき消されて行った」


   ***


 ああ、そうだった。私は泣き項垂れるウッドの傍に居たんだ。

 シェリー・メアリーは冷凍睡眠の夢の中でそう思考した。

 だが白い世界にウッドの姿はもうなく、心寂しいシェリー・メアリーだった。 すると16歳の時に実習で挫折した、発電装置犇めくシェルター屋上で誰かと対峙している場面になった。

 シェリー・メアリーはこの男性をどこかで見た事があると思うのに思い出せない。 男性は優しく微笑み、シェリー・メアリーを見つめていた。 突然、男性の背後に暗黒の空間が広がり、白くて巨大な球体が出現した。シェリーは何かにとても驚いている。


 夢は終わり、また始まると、幼い頃、学校の帰り道、あの小さな噴水のある広場で音楽を演奏していた老人たちと一緒に、シェリーは弦楽器の様な物を奏でていた。


 自分の楽器の音色がとても心地良くて、シェリーは何か歌も歌っている。

 夢の中のシェリー・メアリーは、春薫るそよ風にも似た音色漂う、穏やかな一時ひとときの中にいた。


 ***


― シェリー・メアリーの声 ―

「目覚めると、いつもの様に1年も経ったとは思えない程、あっと言う間の冷凍睡眠だった。

 同時に『ああ、1年経ったのだ』と感じたのは、幾つかの夢を見た記憶があったから」

「記憶はおぼろ気だけど、音楽の夢は覚えてた。

 夢の中で歌うのって、 なんて素敵だったろう」


 囚われの夢は見なかった事が報告されると、安堵の声が広がった。

 未蘇生症が完治できたと捉えるのは早計だと、誰もがはやる希望は自戒したが、この忌まわしい症状を回避出来る可能性が、また一段と高まった事は確かだった。


 だが、まだ不十分だとシェリー・メアリーは気づいていた。

 引き続き疑似的な冷凍睡眠待機を体験し続けた時、予兆無が現れず、完治をより明確にできるのか、それとも、再び予兆夢が表れ、再度睡眠治療で改善されるのか、その実験を繰り返したいと願い出た。

 当然、管理区は頑なに反対したが「あら?雨の中のキスごっこがいつの間にか広まったのは何故かしら?」と攻勢をかけると「そういう話ではありません!」と、逆に叱られ、お目目パチクリしながらも、シェリー・メアリーがこの被験実験をめる気は毛の先ほども無かった。


「何故、命の危険を冒してまで、あなたは挑むのですか?」

 ある管理官が問うた。

 シェリーは、私の職業の地位向上の為とうそぶき、他に適任者が? とも言った。


― シェリー・メアリーの声 ―

「でも自分でもよく分からないの。

 非生産的な研究職でも、人々の役に立ちたい意地だったのかも知れないし、何かから逃げていただけなのかも知れない。

 自暴自棄じゃないとは思う。

 『今に見てろよ』とは思っていた。

 振り上げた拳を降ろせなくなっていただけなのかも」


「でも 確かだったのは―― 」


「〝それを諦める事は死ぬ事よりも怖かった〟 から」


   ***


 思い詰めた様な被験の繰り返しで、その後4度、予兆夢が現れては睡眠治療で克服した。

 5度目の予兆夢を発症した時、


 ついに睡眠治療でも改善されなかった。


 実験回数で実に140回以上、実経過時間は28年が過ぎていた。

 この時、シェリー・メアリーの生体時間は3年が過ぎ、彼女は36歳になっていた。


― 36歳のシェリー・メアリーの声 ―

「望まなかった日を、望む様な日々の果てに、ついにその日が訪れた。

 私は 常日生活を強いられる身体になった。

 つまり、冷凍睡眠待機が二度と出来なくなってしまったって事」


 未蘇生症の原因究明に携わっていた関係者は大きく落胆した。睡眠治療ではこの得体の知れない疾患は完治出来ない事が証明されてしまったからだ。


 自ら強いてしまったシェリー・メアリーの常日生活が始まった。


「分っていた筈なのに、心の準備が追い付かなかった…… 」


   ***


 常日生活のある日、シェリー・メアリーは忘れえぬ夢を見た。


…見知らぬ居住区に私は居た…

…男の子を連れた中東の占い師が私を占うと…

…『探し物が見つかる確率は1%』と告げられた…

…真紅のテーブルクロスの占い台に大粒の真っ赤なルビーが転がった…

…『人生の望みも叶わない』 占い師が立て続けに告げる…

…『幸運はやがて訪れる場所にある』…

…『幸運は やがて訪れる場所に ある』…… …… …


   ***


― 36歳のシェリー・メアリー・イーブンソングの声 ―

「夢の中で、私はすがる様に幸運の訪れる場所を探しつづけ、

 彷徨う所で目が覚めた。

 普段は目覚めると、夢は欠片かけらとなって消え去るのに、この悪夢は始めから最後まで覚えていた」


「もし私が夢に強い関心を持っていなければ無視出来た夢だったかも知れない。でも、幼い頃から怖い夢や予知夢を見続け、夢に強い想いを持ってしまった人間にとって、『占い師の宣告』ほど残酷な夢はなかった。だって、私の人生の否定を私の夢が告げたのだもの」


「私は現実世界でも『やがて訪れる幸運の場所』に救いを求めた。

 でも  そんなもの―― 

 もう このシェルターにも この地球上にも 何処にも無いのに」


   ***


 りんごん と、背の高い豪華なホームドアのベルが鳴った。


 大きな扉が開くと、年の頃は60代半ば前後だろうか、老いの始まって久しい、一人の女性がシェリー・メアリーを出迎えた。

 だが体格は細っそりとしながらも筋肉質で背筋もしっかりしている。何よりもシワが深く刻まれたその美しい人は、ゴーリュディシア・ライトその人だ。


「シェリー!本当にお久しぶり!何十年振りかしら!?」

彼女は破顔してシェリー・メアリーを抱きしめる。

「でも貴女からすればほんの数年振りね。貴女、少しも変わってない。若くて羨ましい!」


 壁面を覆うガラス張りのリビングから、ドーム1のビオトープ風景を数年振りに見るシェリーだったが、彼女が訪れた時から何十年もの時が重なった事が静かに伝わる。 それはここに存在する物理的な空間が経年において変化しただけではなく、ゴーリュディシアが数十年の時を重ね生きた痕跡だった。


「私、歳を取ったでしょう?」

 トレーにティーセットを乗せて、シェリーをもてなすリュディの言葉を肯定せず、

「お幾つになられたの?」 と返すシェリー・メアリーも良い感じで齢を重ねてきている。

「71歳よ♪」

「まあ、もっとお若く見える! 若さの秘訣は何?」

「体力維持のための筋トレ・ストレッチと、人とお喋りして笑顔になる事と、それから 恋ね」

 腰に手を当て得意満面のゴーリュディシア。流石、最後に素敵なものを持って来た。

「そう言えば3人のボーイフレンドはお出かけ中なの?」


「3人とも、60代になると次々と亡くなってしまったの」

 寂しそうな笑顔が返ってきた。


「一人は朝起きるとベッドの中で息を引き取っていた。もう一人は日課の散歩の途中、小道で倒れていた所を誰かが見つけてくれた。

 最後の一人は身体が動かなくなったからと餓死を選んだの。

 私はずっと傍に付き添っていたのに、トイレに行く間に彼は亡くなってた」

「私は誰一人、看取る事が出来なかった。

 不思議でしょ? 4人もの大家族だったのによ?

 私は、人間って死ぬ時はつくづく一人なんだと思うようになった。

 私もその時が近づいてる。でも、まだ 今、生きている。

 だったら生きている事を楽しまなきゃね」


「それで? シェリー、今日は何しにここへいらしたの? ただ私とお喋りする為に来た訳じゃないんでしょう?」

 ゴーリュディシアが促してもシェリー・メアリーが口を開かないので、リュディは両腕でシェリーを優しく包み込んだ。

 母に甘える様に、シェリー・メアリーは71歳のゴーリュディシアに身を委ね、ゆっくりとしがみついた。ゴーリュディシアはシェリー・メアリーの苦悩とその奥底にある物が何かは聞かず、随分と年下になった彼女を、ただ静かに抱きしめ続けた。


   ***


― 36歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私は71歳のリュディに甘えた。 彼女はまるで、母親の様に私の苦悩に気づき、優しく抱き留めてくれた。彼女と私は同世代だったのに…… でも彼女は私よりも先に何十年も生きて、人として素晴らしい成長を遂げたのだと分かった。 私も―― 」


 シェリーは我が身の事をリュディに取り留めもなく話した。

 ウッドと会わなければならない事。でもやはり未蘇生症が怖い事。

 実験を繰り返した私に予兆夢の残りは無いだろう事も。


「でも〝我が師匠に会わない選択肢は無い〟そう思ってるのでしょう?シェリー」

「私、今は間違った選択をし続けてると思うの…… あなたが私の立場ならどうされる?リュディ」

 シェリーの問い返しにリュディが少しだけ怖い顔になった。

「他者に判断を委ねてはダメ。人生の責任は自分にしか負えないの。

 誰かの答えにすがると、その人物に人生を捧げてしまう事になるわ」

 シェリー・メアリーはリュディに母の面影が重なりハッとする。

「いつかお母様も同じような事を……」

 ゴーリュディシアはシェリー・メアリーの反応を見て、少し言葉がきつかったと思ったのか、説明を加えた。

「私だって貴女の立場なら同じ様に悩むと思う。 ただ、選んだ方の人生を肯定して歩むわ」

「シェリー、今あなたが選ぼうとしている選択肢の、どれが正しくて、何が間違いか、ではなくて、

 何を選んでも、それはあなたの人生において正しいのよ?」

 ゴーリュディシアは優しく微笑みながらアドバイスを終えた。


「リュディにも多くの苦悩があったのだ。そう感じる言葉だった。

 彼女が今の人生を肯定する覚悟が出来たのは、3人のパートナーと共に生きる事が出来たから――」


「ねえ、ちょっと付き合わない?」

 ゴーリュディシアは、神妙になってしまったシェリー・メアリーを、半ば強引に、3軒先の同じビリオネラの豪邸へ誘った。



 その豪邸のリビングも、ドーム1のビオトープが見渡せる美しい空間だが、見渡せば木工用の作業台が幾つも並べられている。

 壁には、木を削り加工する、使い古された大小の道具が整然と掛けられてある。いささか木工職人の作業場の様なここは、対角の壁に目をやれば、幾つかの楽器が掛けられている事に直ぐに気づく。


「ここは楽器作りの工房よ。私も楽器を作り、演奏し、歌うのよ?」

 リュディが高揚した語尾で、ほんの少し得意満面に説明する。

「私、近々デビューするの。良かったら聞きにいらっしゃい」


 スタジオに改装された奥の部屋で、ゴーリュディシアが、練習してきた演奏と歌を披露した。入り口越しから覗き見えるスタジオの中の二人は、シェリーが静かに耳を傾け、リュディが奏で歌うシルエットが優しく美しかった。


   ***


 シェルターの数十キロ四方を見渡しても、樹木は生育してはいない。 それでも加工用木材が手に入るのは、成長し終え倒木する前に切り取られる、このシェルターの3つのドームで植樹され続けてきたビオトープ用の樹木たちのお陰だ。 家具や保守工具の柄、その他の生活必需品に必須の資材であり、絶対必要数には程遠い貴重な木材だったが、冷凍睡眠で眠り続けるシェルターの人々にとって、ドームの樹木の成長は竹林のそれの様に早かった。

 勿論、楽器作りに最適な樹木たちではないが、板状に加工した原木を更に薄く裂き、圧着処理し、丈夫で上品な合板にしてゆく技術は、ここに住むシェルター人たちの生存生活の結晶の様な物だった。



 ある日の午後、ゴーリュディシアに連れられると、ドーム1に3名の音楽仲間が集まっていた。 彼らは皆60代で全員、男性だ。

 彼らの集う、その場所は―― シェリー・メアリーが幼い頃、学校の帰りに老人たちが演奏していた――


 あの小さな噴水のある広場だった。


「まさか、この場所だなんて」

 シェリー・メアリーが何故この場所なのか誰彼なく尋ねると、何千年も前に「私たちのかたわらにいつも音楽がありますように」と、有志が集まった事がこの演奏会の始まりなのだという。その内、子どもたちにも音楽をと、授業化にも取り組んだが、音楽家の職業は現代には不要と却下された。その代わり、授業以外での演奏が許可され、下校時に子どもたちが良く通る道傍の、この小さな噴水の広場を、当時の演奏者らが探し出したという事だった。


「私は心臓がきゅんと鳴った気がした。

 学校に通っていた頃、この小さな噴水の広場で演奏をしていた老人たちもその継承者だったと、自分の人生の時間で20年以上経ち、常日時間で2000年以上経った今、やっと知る事が出来た」


(なぜ―― 彼らは最終冷凍睡眠を選ばなかったのだろう?)


リュディたちのリハーサル音合わせが始まるとシェリー・メアリーにまたもや戦慄が走った。

 下校時に あの時の老人たちが奏でていた曲だ!


「25年以上前のあの頃に、一瞬にして戻れた様な気がした。

 ――学校に通っていた、あの頃に 」 



 終業を知らせる学校の鐘のがドーム1に静かに響き渡った。

 子どもたちの下校時間が近づいていた。

 リハリハーサルも終わると、ゴーリュディシアが仲間にそれとなく尋ねた。

「皆さんはなぜ最終冷凍睡眠を選ばなかったの?」


 先日シェリー・メアリーに『人生の選択を他者に委ねないで』と言った事にシェリーが気にしていて、その問いを遠慮していた様なのでリュディが気を利かせたのだ。


 一人の音楽仲間が答えてくれた。

 40歳を過ぎてもここで保守業務を続ければ、一人の人間の生体時間であと20年程はシェルターを守れる事。その分、冷凍睡眠装置の製造数が抑えられ、設置場所も節約できる事。他の保守手伝いにも従事でき、誇りある一生が遅れる事を。


 別の音楽仲間が続けた。

「でもそれだけじゃない。もう一つ、とても大切な事がある」


「それは ここが 俺たちの故郷ふるさとだって事さ」


 3人目の仲間も続いた。

「そしてこの故郷で、愛している故郷で――

 死ねると言う事なんだよ」



 子どもたちの姿が見え始め、演奏が始まった。

 リハの時とは違う、本番の凄味と言うか、各人が奏でる楽器たちの、何と調和のとれた音色だろうと、シェリー・メアリーは彼らの演奏に魅了されてゆく。


 ゴーリュディシアの歌と曲が始まった。

 71歳の彼女の、少し恥ずかしそうな、でも楽しそうな歌声は何とも言えない美しさがある。


「ここで死ぬ。この故郷で死ぬと決めた彼らの美しい音色だった。

 音楽が壊滅前の時代に世界に溢れていた事は、ライブラリで幾度か調べてそれなりに見知っている筈なのに、目の前で体験する歌と演奏ってなぜ、こんなにも心に響くの?

 この想いをなぜ、10歳前後だったあの頃に、学校帰りに演奏していた老人たちから見い出せなかったのだろう?」

 想いが駆け巡っていたシェリー・メアリーは突然、予兆夢検証の時に見た夢を思い出した。

「私は楽器を奏で、歌を……」



 リュディの優しい歌が終わり、気づけば子どもたちは、少し立ち止まる子も居たが、ただ通り過ぎるだけだ。


(あの頃の私と一緒だ)

 シェリー・メアリーは自分も嘗てそうだった事を気にかける。

「素敵な演奏なのに子どもたちが通り過ぎてゆくのは寂しいわね」

「子どもたちが賑やかに通り過ぎる場所で演奏する事に意味があるのよシェリー」


― シェリー・メアリーの声 ―

「強制ではない音楽。学習させる為の音楽でもない。音楽に気づけないこの時代で、日常の中に溶け込んでいる音色こそが、人々の人生に懐かしく刻まれるのだとリュディは教えてくれた」


 シェリー・メアリーの記憶の中の、あの頃の自分と、演奏する老人たちが再び甦る。少女の頃のシェリー・メアリーも演奏する老人たちの前をただ通り過ぎるだけだった。

 でも今の私なら、と36歳のシェリー・メアリーは想像する。

 10歳前後の彼女が、老人たちの演奏する前で通り過ぎずに足を止め、彼らの演奏に聞き入る。 ただ、立ち止まったまま、あの頃の、シェリー・メアリーと言う女の子が、老人たちの奏でる音色に耳を傾け、うっとりと聞き入っていた。


   ***


 その数年後、シェリー・メアリーは眺めの良い工房で、自分の拵えた弦楽器を手に、ゴーリュディシアたちと音楽を楽しんでいた。


 工房の木工机に、無造作に置かれた数々の道具、塗料、くず入れに収まる木材の削りカスなどが静かに見えている。 工房内に漏れ聞こえる演奏の、その音色はちょっと下手くそだ。

 開いた入り口から練習スタジオの中をそろりとうかがえば、新人音楽家のシェリーがゴーリュディシアに手習いを受けている。

 音を出していた犯人はシェリーだ(笑)。 彼女が手に持つ弦楽器はまだ仕上げ終えたばかりの、出来立てのほやほやだ。


 日時が少し移り変わると、ゴーリュディシアが71歳の時に演奏デビューした、小さな噴水の広場で、リュディとシェリーが音楽仲間と共に、下校時間に合わせて演奏を楽しんでいた。

 立ち止まる子は少しは居る中、変わらず学校帰りの子どもたちが音楽家たちの美しい調べの前を通り過ぎてゆく。


― シェリー・メアリーの声 ―

「この子たちも記憶してくれるだろうか。知らず知らずの内に音楽が身近にあった事を。音楽を演奏していた私たちの事を。あの時の私の様に。 今の 私の様に」


 この時、

 シェリー・メアリーは41歳になっていた。



「さて、何から話せばいいかな…… 私はまだウッドに会ってはいないし、1年前、40歳を迎えた時、最終冷凍睡眠も選ばなかった。

 選ばなかったと言うより、未蘇生症が怖くて

 数年前、死よりも怖かった物への挑戦がその使命を終えて、死がに落ち着いてしまったのは――

――私の無敵時間が終わったから――」


「ウッドには会いに行く。必ず。でもそれは未蘇生症になる覚悟をしてから。

 でも、1年前も、今の私も、その覚悟が出来ないでいた。

 40歳になった日、私はお母様にお詫びと、お別れをするために会いに行った」


 1年前。

 40歳のシェリー・メアリーは、母の眠るカプセルの小窓から愛する寝顔を見つめ、透明板の上から頬の辺りを優しく撫でた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、お母様。私、一緒に行けなくなっちゃったの」

 人類解放の日に、母と祖母と3人揃って40歳の三つ子姉妹の様に再会できる事を楽しみにしていた。

「私が旅立っていた事を知った時、どれ程寂しい思いをするだろう」

 只々、母を見つめるシェリーの目に、さよならが溢れた。



 41歳のシェリー・メアリーの、公園での演奏が終わった。

「あなたも歌えば良いのに」

 76歳になっていたゴーリュディシアがシェリー・メアリーに歌う事を何度も勧めていた。だが、シェリー・メアリーは微笑みを返すだけで自分から歌おうとはしない。

― 41歳のシェリー・メアリーの声 ―

「リュディの歌う姿も歌声も、私は大好きだった。若い頃からカリスマの高かった彼女が歳を重ねて、さらに神々しくなった姿を、私はただひたすら傍で見ていたかった。拙い自分が歌う事よりも。

 ふふ。そう言うと何かとても変だけど」



 演奏を終え、楽器を手に帰り道を行く皆の後ろ姿は、何だかとても楽しそうだ。シェリー・メアリーは途中で名残り惜しみながら一人別れ、研究室へ向かった。


 只今絶賛停滞中の冷凍睡眠夢研究は、『研究』と言うより、シェリー・メアリーの妄想の時間となっていた。


「一人で研究を続けるのって、ループ地獄と化してしまうのよ。で、暫くは他の保守職を手伝い、リュディ達と音楽を楽しみながら生きていたのだけど、何時いつからか 『時間って何だろう?』と、妄想し始めたのがいけなかった(汗)」


「と・言・う・こ・と・で、拙いながら、私の頭の中の妄想を文章に残す位はしておこうと、久しぶりに研究室に籠って『私の時間概念考の覚え書き』という名題で今、キーボードを叩いているところ」


「そして、そして、」


「ちゃんとウッドに会いに行く」


 41歳のシェリー・メアリーが、研究室の自分の席で、落ちない汚れと共に黄色に酸化した、古臭いモニターに集中している。

 刻印された文字があちらこちら消えかかった、表面が爪で打ち削られるほどに使い込まれたキーボードを、カタカタと手早く叩いている。

シェリーは自分の拙い考えを特に全世界に公表するつもりはない。

 少し時が過ぎると、お茶を啜りながら書き終えた文章を読み返し始めた。


   ***


 『私の時間概念考の覚え書き』

                  シェリー・メアリー・イーブンソング


 人類が冷凍睡眠の時代を迎えたのち、いつの頃からか保守技師たちの間で噂になっていた「冷凍睡眠中に見る夢」が認知され、冷凍睡眠夢研究は始まった。

 人がなぜ夢を見るのかさえ解明されていなかったのに『人はなぜ冷凍睡眠中にも夢を見るのか』は、さらに問いを複雑化させた。

 私シェリー・メアリー・イーブンソングは、冷凍睡眠夢研究の第一人者、デイビット・ビンセント・アトウッドと共に、この研究に携わって久しいが、私がこの研究職に就いた時、既に研究は頓挫していた。


 私はウッドと共に1000年単位の長期睡眠待機を行い、冷凍睡眠夢に関連する『量子脳理論』のデーターを探し続けたが、今の所その作業は徒労に終わっている。

 その間『未蘇生症』という、人類にとって不気味な疾患が発生したが、私たちの研究が疾患予防の一助となれた事は誇らしい事だった。しかし、この病の解決は人類にとって未だ遠い道のりであり、私たちの未来を否定しかねない存在にまでなってしまっている。


 さて、研究も頓挫した時間が長くなると、迷走の果ての妄想が色濃くなってしまう事を近ごろ実感している。

 私が仮定する時間の概念を纏めようと思ったのも、妄想の果ての一筆である事はここにお断りしておきたい。


 私が時間に興味を持ち始めたのは、

『冷凍睡眠中に夢を見るのは、思考する時間が存在する』と考えた事がきっかけだった。

 ご存じの通り、冷凍睡眠システムは磁気レーザーを照射し、水分子を振動させて結晶化させないまま、人体を絶対零度近くまで冷却し、保存させる。その為、私たちの身体を構成する分子原子の熱運動は限りなくゼロに近いと言われている。

 だが、量子力学的には分子原子の全ての運動が停止する事は無いのだそうだ。そもそも「冷凍」と言う温度現象が私たちの加齢を抑止するのは、それは時間を抑制しているという事に他ならない。(私はその定義上で話を進めたい)

 分子原子の運動が完全に停止されないのであれば『私たちの身体が完全な冷凍睡眠状態でも、思考する時間は存在し、夢も見る』と考察する事が出来た。

 その推考の過程で私は、事もあろうか『温度の抑制が時間の抑制になるのであれば温度もまた時間の一部なのでは?』との疑問が湧き上がってしまった。


 例えを挙げるならば、

 気圧・湿度が同条件下の『一滴の水』が、

(1)常温で蒸発する時間、

(2)沸騰して蒸発する時間、

(3)零下で蒸発する時間、

 この三つの温度環境の蒸発時間をモデルに説明したい。


 冷凍庫の中の一滴の氷は一見変化無く凍ったままだけれど、数か月ほど放っていればいつの間にか蒸発している。

 蒸発し終える時間は温度により異なる。 3つの時間差が、一滴の水にとっては全く同じ時間なのだとしたら?

 私たちの冷凍睡眠も同じ事なのかも知れない。(人が蒸発する話ではなくて) 超低温時の時間変化は長く遅くなり、高温になるに連れ時間は短く早くなる概念だ。


 超ミクロ世界の熱運動が絶対零度下で成されているのか、その検証実験を是非行いたいけれど、私たちシェルター人には高度な科学実験を行う事は不可能。 何故なら、人も設備も何もかも不足しているからだ。

 冷凍睡眠と言う、超未来的な技術が開発されたのは、多くのシェルターがまだ存続していた1万5千年前。当時の人々が生き延びる為に、1000年単位の長い歳月をかけ、多くの犠牲を払いながら構築できた技術だ。今の私たちに新たな科学力を構築する力は、既に失われて久しい。

 その上、生存に直接寄与しない研究実験など、今の私たちにとっては何の役にも立たない。

 私の時間概念考は今後も妄想の域を出る事はないだろう。


 でも、この妄想の暴走は楽しく、やがて『温度も時間なのであれば重力もまた時間なのでは?』と

 〝思考における事象の地平面〟にまで達した(汗)。

 質量の大小による重力下でも時間は延び縮みする。つまり、『温度、時間、重力は全く同じ一つの現象である』と言うのが私の持論となった。(物質移動の加速も重力と見なす)


 冷凍庫にある水滴が、冷凍睡眠で眠っている私たち一人一人なのだと想像する。時間は止まらない。

私たちは止めようとする。そこに未蘇生症の何かがあるのかも。


『心霊とオカルト』の分野でも時間にまつわる不思議な話を幾つか発見できた。でも、いかにも怖い実話風に脚色した物ばかりだった。

 過去に科学的な考察が行われていれば、これらの題材も量子脳理論を解明構築する貴重な資料になり得たかもしれないのに、『怖い題材』として作り替えられた物が後世に残り、その原体験の本質は永遠に失われていた。残念でならない。

 自然災害や戦争など、大きな厄災が起きた時は、亡くなった人々の霊体験が本当に多く記録されていた。こちらは真実をそのまま記録した物が多く、一見、重力や温度とは関係なく思われるが、精神や思考が物理的な時間軸に左右されない物でもあった。

『意思は物理世界とは別に存在している?』

 分子原子の運動量とは別に? だとすれば、夢を見る思考は温度という存在には干渉されない事になる。例の『心霊写真量子テレポーテーション論』も物理世界の干渉を受けない現象なのだろうか?

 過去、私たち人類は数多く存在する不可思議な現象を非科学的だと処理し、英知のメスを入れる事はなかった。本来研究者たるもの、科学的ではないこれらの現象を研究素材として採用してはいけないのだろうけれど、元々私の冷凍睡眠夢に対する興味の発端は、私が見る『予知夢や正夢』と言った科学的に説明しようの無い、非科学的な体験だった。その私が曲がりなりにも研究者を名乗り、未蘇生症と言う未知の恐怖に対し、ある程度の成果を上げる事が出来たと評価して下さるのであれば、私の我が侭な文章を記録し、後世に残すくらいは許してください。


 私たちが生きるこの時空には様々な時間が同時に存在していると仮定する。

 それは物体の加速度によって。重力の強弱によって。そして温度変化によって。

 物理世界の『四つの力』の一つである「重力」が時間なのであれば、他の3つ「電磁気力・強い力・弱い力」も、実はそれぞれ違う時間軸であり、四つの力から成る物理世界とは、多在する時間が織りなす集合体その物なのかも知れない。つまり―― 

『多在する時間によって物理世界は存在できる』


 私たちのこの時空は、無限マクロから無限ミクロに漂う、色彩豊かで立体的な〝色取り取りの時間〟が、まるで『何千兆乗色もの絵の具が混ざり合おうとするマーブルの様な世界』なのかも。

(シャボン玉の美しい七色のマーブルは球面に広がる平面的な物だけれど、私の考える時間のマーブルは、3次元の立体的なマーブルで、時空の中で永遠に混ざり合おうとしているイメージです)


 以上、私の取り留めもない妄想を書き記した。

 この文章のタイトルも『私の時間概念考の覚え書き』ではなく『私の妄想』で良いと思う。(汗)

                  シェリー・メアリー・イーブンソング



― 41歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私のこの拙いの文章は、ウッドには見てもらおうと思っているのだけれど、恐らく、

『シェリー・メアリー、君は睡眠治療でゆっくりと頭の中を直してもらった方がいいんじゃないのか?(ウッドの声色)』 みたいな事しか言わないと思うけど(汗)」


「うふふ、ウッドにまた会いたくなってきちゃった。 でも今はまだリュディや音楽仲間たちと共に居たい。 もう少し、あと、ほんの、もう少し…… 」 


   *** 


 それからまた2年程は、変わらぬ日常を過ごしたシェリー・メアリーだったが、その頃になるとゴーリュディシアが自宅から出なくなっていた。

 シェリー・メアリーは43歳を迎え、一方、ゴーリュディシアは78歳という、近年では稀にみる超高齢を迎えていた。

 シェリー・メアリーはこの1年程はリュディの自宅に通い、彼女の生活の手伝いをしていた。


「私、ついに声が出なくなっちゃったの」

 数年前、ゴーリュディシアは歌わない宣言をした。

 その時からシェリー・メアリーが「身の回りのお手伝いを」と願い出ていたのだが、リュディは頑なにその申し出を断り続けた。

「私も餓死を選ぶつもりなの」

 3人のパートナーの最後の一人が、老いて身体が動かなくなった時に選んだ〝餓死〟と言う死に様に、ゴーリュディシアは人の尊厳と、一人で生き抜く誇りを感じていると、常々、音楽仲間や知り合い、そしてシェリー・メアリーに語り、人を遠ざけていた。

 人類壊滅前であれば決して許されないであろうこの生死観は、食料生産が乏しく、人口調整が繊細で厳しいこのシェルター時代では、

〝尊厳の時代性〟とでもいうべき思想的変化が人々の根幹にあった事だけは述べておきたい。


「シェリー、あなたが歌えば良いのに」

 ゴーリュディシアはシェリー・メアリーに歌う事を勧め続けていたが、そちらの件では逆にシェリーが頑なに断り続けていた。

「だって、容姿も歌声も素敵な貴女に到底敵わないから」

 と言うのがシェリー・メアリーの口癖になっていた程だったが、その言い訳には、未熟な技量の己が素晴らしい技量を持つ人物の後を追わなければならない負い目があった。

 すると、痺れを切らせたゴーリュディシアが、ニコニコ顔で駆け引きをしてきたのが1年ほど前だ。

「歌うのなら、私のお手伝いをして貰っても構わないわよ?」


「それでリュディの傍に居られるのなら……」

 シェリー・メアリーは渋々歌う事を受け入れたのだが、実際、彼女の日常生活のお手伝いと言うより、歌のレッスンの様な日々になってしまっていた。

 流石に、ゴーリュディシアとは、ウッドをいなす様にはいかないシェリー・メアリーだった。


― 43歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私は歌う事を受け入れてでも、リュディの傍に居たかった。なぜなら、歌う事を承諾する数日ほど前に彼女の夢を見たから」


「リュディは何度か私の夢に出て来てくれていたけど、その日の夢の中のリュデイは悲しそうな笑顔で『私は来年に』と言った」

「目が覚めると、その夢をはっきりと覚えていた。 忘れない夢は私にとって何かしらの啓示となる事が多かったから、私は胸騒ぎを覚えて、どうしてもリュディの傍に居たかった」


   ***


 その訃報が届いたのは秋が深まる午後過ぎの事だった。


 知らせを受けたシェリー・メアリーが、すっかり通い慣れたビリオネラ居住区の、そのリビングへ息を切らし着くと、数名の管理官と一人の医療技師、多くの土木建築技師たちが――

 ベッドに横たわる一人の女性の死を悼んでいた。


「私はこのドーム1の素敵な風景を見ながら逝きたいの」

 ゴーリュディシアがリビングにベッドを置きたいと言い出して、シェリー・メアリーも一緒に寝室から移動を手伝った。


 享年78。

 人類がシェルターで忍び生きる様になって、この歳近くまで生きた人間はほんの僅かだ。

 死因は『老衰による尊厳的餓死』。

 10日ほど前から訪問者を断る様になり、シェリー・メアリーにも「シェリー、もういいから」と手伝いを断り続けていた。

 シェリーのみならず、音楽仲間でもある今の恋人さえも。

 その彼が見かねて訪ねると既にゴーリュディシアの息はなかった。


― 43歳のシェリー・メアリーの声 ―

「リュディはドーム1の方を向き笑顔で亡くなっていた。

 彼女はその死さえも神々しく美しかった」


『私も一人で死ぬ。私だけが看取られながら逝くなんてそんな贅沢な死は許さない。私もみんなと同じ様に一人で逝くの』


「リュディもパートナー達と同じ様に一人で逝った。

 手伝いに通い始める前に見たリュデイの夢の暗示は現実となって私を戸惑わせた。私はリュディにその夢を打ち明けて、彼女に日々の生活に気を付けて貰えば良かった?

 そんな死の宣告の様な事、私が手前勝手に見た夢でしかないのに、言える筈がない。

 言える筈が…… ないじゃない……」



 ゴーリュディシア・ライトの亡骸は地下の真新しいカタコンベエリアに納葬された。

 最終冷凍睡眠待機を選ばず、シェルターで旅立つ人々はカタコンベエリアに代々納葬されてきた。

 シェルターで生き、シェルターを守り抜いた多くの魂が霊骨となって、シェルターを支え続けるのだとシェルター人たちは信じる。


 葬儀も無事に終え、限られた近親者に管理官から、ゴーリュディシアの言伝ことづてが手渡された。配給紙をさらに四辺ほどに切り離した小さな紙きれだが、丁寧に言葉が書き綴られていた。それは音楽仲間に。土木建築技師の同志に。シェリー・メアリーにも。


『シェリー、歌を歌いなさい。貴女の歌声は美しいわ。

 私たちが音楽を未来に手渡す事で過去何千年もの間、継承し続けてきた仲間たちが時を超えて生き続ける事が出来るの。貴女が歌い続ける事で私も私の死を超えて生き続ける事が出来る。貴女もまた貴女の歌声を誰かに伝える事で、貴女は貴女の死を超えて生き続ける事が出来る。だからシェリー・メアリー、歌を歌って』


「リュディって、書く字まで美しいのね」

 シェリーはガラスペンで刻まれた彼女の文字を優しく見つめながら、寂しそうな声で泣いた。


   *** 


 月日が過ぎ、シェリー・メアリーの歌声が小さな噴水の広場に静かに響き渡っていた。


― 44歳のシェリー・メアリーの声 ―

「自分が死ぬ時は、どの様に死ぬのだろう? そう考え始めていた。

 リュディが逝くとまた一つ歳を取った。

 やっと覚悟が出来た。ウッドに会いに行く覚悟が」


 シェリー・メアリーは未来へ旅立つ前にこの時代の音楽仲間と、最初で最後の演奏会を、この小さな噴水の広場で開いた。彼らとの只一度きりの、リュディの歌を歌うために。

「僕らはもう居ない未来で僕らの音楽を伝えておくれ」

 仲間たちはシェリー・メアリーとも別れてしまう事を惜しんだ。

 シェリー・メアリーはゴーリュディシアたちと一緒に作った自分の楽器を工房に置いてゆく。数百年後の未来でその楽器を演奏し、再びリュディの歌を歌う為に。






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