第2章 ~離れないで~ 


 黄色い大気で辺り一面何も見えない。 今、居る地点が東西南北どちらを向いているのか、何処に居るのか全く分からない。暴風の轟音と共に、黄土の粒子を含んだ大気の過ぎ去る方向が、ただ、目まぐるしく変わり続けているだけだ。 ところが、急に風音が弱くなり大気の流れも緩やかになると、薄黄色のもやの中からまばゆい無限の青い空間が現れた。 白光の陽に照らされた空で心地よく漂っていると、地平線が湾曲しながら遠くに姿を見せ始め、やっと方向感覚を捉える事が出来た。 遥か下方に目をやれば、赤茶色に荒廃した、まだら模様の大地に、かつての超富裕層たちのシェルターが隠れるように、静かに見えていた。



「…正常」「…異常なし」

 解凍中の回復状況を刻々と告げる機械音声を遠くに聞きながら、シェリー・メアリーは目覚めた。

「シェリー・メアリー・イーブンソングさん」

 見知らぬ管理官から声を掛けられ、カプセルの蓋を外してもらい、ゆっくりと上半身を起こした。


「ヒュー…… シェリフ……」


― 21歳のシェリー・メアリーの声 ―

「目覚めると、ヒューとシェリフの姿は、もう、どこにもなかった。

 ほんの数秒、気を失っていただけの感覚なのに」


 シェリー・メアリーは蘇生後の健康診断で異常なしと認められ、この時代に復帰した。低温窒素保存されている研究室と自宅の「空気化」の為、二人の管理官と共に、先ずは自宅に向かった。 冷凍睡眠区から通路を抜けじょうじつ生活区に出ると、ドーム2へと続く広間に出た。目の前に開けたドームを確かめる様に見渡しながら、広間からドーム2へと下る階段を伝い、芝に貼る石畳の道まで降りた。


 ほんの十数分前、ヒューと一緒に歩いた。 でも 同じ場所なのに違う場所だった。 1000年経ったのだ と、頭では理解していても、感覚は全く追いつかない。

ああ感嘆、樹木の感じも全て違う。ドームを支えている石柱も同じ様でいて何かが違う」


 ドーム2からドーム1へと抜けても、シェリー・メアリーは落ち着くことができず、ドームを見渡し見渡し、歩いた。

「覚悟はしていたけれど、パラレルワールドにでも迷い込んだ様な感覚。 目覚めているのに夢を見ているみたい…… 」


 やがて、家へと続く、いつもの階段まで来た。

 シェリー・メアリーは階段を上り終えると、今朝と同じ様に踊り場の端っこで立ち止まり、ドーム1の全景を見渡した。

 毎日学校に通った石畳の道や、遠くの小さな噴水の広場や、我が家の居住区に続くこの階段も、そのままだ。だが…… 


「ここ、子供の頃からのお気に入りの展望台だったの」

 一緒に立ち止まってくれていた管理官へ、なぜか気恥ずかしい台詞が出ると、照れ隠しで再び家へ向かって歩き出したシェリー・メアリーだったが、彼女のその物言いは少し寂しそうだった。


 家では別の管理官が「空気化」の作業を始めていた。家の中はどうなっているのだろう? シェリー・メアリーの心がく。


空気化は、屋内に充満させていた窒素に、酸素とアルゴンを混合させて行う。窒素は植物の育成に不可欠な栄養素であり、無毒であるが、純度100%の気体では人は窒息ちっそくに至る。無色無臭の為、取扱いは最大級の注意が必要だが、物質の酸化を防ぎ、防火ガスとしても最適だ。 混合後は撹拌かくはんに時間をかけ、空気化された室内のドアを開放し、さらに室外の空気と撹拌させ、馴染ませる。


 中に入ると何も変わらない。1000年も経っているのに今朝と同じ我が家だ。 母が、 不意に現れそうな気がする――

 でもよく観るとやはり違う。1000年経過した何かが我が家さえも支配していた。


「私は、シェルターそのものが冷凍睡眠すれば良いのにと思った。

 そうすれば誰も目覚めずに、あっという間に10万年が過ぎるのに。 でも頭を切り替えた。何の為に大切な場所から去り、1000年後の世界へ来たのか。冷凍睡眠夢を研究する為。量子脳理論の発展に寄与する為だ。出来うるなら、私の不思議な夢の解明にまで辿り着け。 感傷に浸って寂しがる為に未来に来たのではないのだから」


 我が家の次は研究室が『空気化』された。

 ウッドはまだ寝ている。今の内に量子脳理論の進展の可能性をとことん調べて、師匠を驚かしてやらなきゃ、と、只々、シェリー・メアリーは研究に集中しようとしていた。

 そうする筈だった。

 研究室の引き渡しも終わり、立ち去ろうとする管理官から、思わぬ報告を受けるまでは。


「今、外界は、かつてない変化の時代を迎えていますよ」



「氷期の到来?」



 シェリー・メアリーは目を見開いて驚きを隠さない。

「湿った暴風が300年ほど前から徐々に収まり、外界は晴れの日が多くなっているのです」

 管理官の説明を受け、シェリー・メアリーは思い出した!

「私、 夢を、 夢を見た!」

 管理官らは、彼女の突然の大声に少しひるんでしまった。



 青い空がどこまでも続く、赤茶けた不毛の大地に小さく見えていたシェルター。夢の続きが始まると、21歳のシェリー・メアリーはテレポーテーションしたかの様に、エアロックの前に立っていた。

 素足に薄いワンピース姿の彼女に、少し強めのそよ風が髪をなびかせると――、

 シェリーの傍には一台の大型車両が控えていた…。


   ***


 この1000年の間に、外界の気候が急激に変化していた事を知らされたシェリー・メアリーは、管理区へ戻る管理官に付いて行き、ライブラリで1000年間の気象状況を調べる事にした。

 道すがら、目に入る木々の風景も、中央管理棟も、お気に入りのデッキテラスさえも、昨日までとは何か違う。

 ラウンジに立つと、当然の事ながらシェリフの姿はなかった。

 寂しく思い、彼が居そうな辺りを見渡すと、彼の幻を見た様な気がした。幻はにこりとウインクをしてみせる。 

 シェリー・メアリーはシェリフの幻に、寂しそうな笑顔で返した。


 ライブラリに入ると、いつも使っていた個室も何となく違和感がある。勿論、モニター、キーボードは使い古された別の物だ。このキーボードが手に馴染むまで、また少し時間が掛かりそうだ。

 席に着くと、気分が悪い事に気づいた。

時間ジャンプ酔い』だ。

 長期冷凍睡眠待機の復帰者が、周囲の違和感に生理的に馴染めない時に罹る症状だと、授業で習った事を思い出した。

 目を閉じ安静にしていると落ち着いた。 

 その一時ひととき、「私、夢を見た」と、人生初の冷凍睡眠夢を噛締めた。


 1000年後の、21歳のシェリー・メアリーがライブラリの新しい中古モニターに噛り付いた。

「天候の異変に気づいたのは今から300年ほど前。湿った高温の暴風は徐々に収まって、晴れる日が多くなり始めた。

 世界各地に残るシェルターでは、僅かばかりの気象研究者が眠りから起こされ、長年蓄積された気候データーを、壊滅前人類の気象学に照らし合わせて分析した結果、『氷期の到来』が確認された」


「気象研究者たちの報告では、1000年程は温暖な気候になると予測されてた。その発表から既に300年が経ち、穏やかな気候が続くのは後700年ほど。 その間、人々は積極的に外界に赴き、旧都市遺跡から有効な資源を持ち帰っていた」


「でも、この時代の私たちの第一の目的は――、


『温和な気候の間に人類が再び外界がいかいで繁栄できる、低汚染居住地を発見する事』

 

――だった」



 人類が再び外界で生きられるのであれば、あと8万年も汚染に怯えながら眠らずに済む。 食料供給逼迫や電源喪失危機からも解放される。

 探索は既に100年ほど前から行われており、人類が地球上で復活出来るかも知れない希望が、この1000年後のシェルターの人々には満ち溢れていた。


「凄い事が起きてる。私は冷凍睡眠夢研究をしてて良いの?

 でも、1000年分のデーター分析だけは進めないと」



「うん? シェリー・メアリー、何か重大な発見があったのか?」

 ウッドは寝起きざまにシェリー・メアリーが居たので叩き起こされたと思ったらしい。

「ウッド、1000年経ったのよ」

 ウッドは直ぐ様、その意味を理解する。

「君も長期冷凍睡眠待機を選んだのだな」

 シェリー・メアリーは起き上がるウッドの腕に手を添える振りをして、そっとその腕にしがみついてしまった。

 自分を知る人が誰も居ない1000年後の世界だった。ウッドは彼女がどれほど寂しい思いをしているのか理解している。何故なら、かつての自分がそうだったからだ。人生で一番寂しい場所に彼女を導いてしまった張本人が自分である事もきっと……。 

「データー整理はもう始めてるのか?」

「勿論よ。でもそれ所じゃないわよウッド」



「そうか、氷期が訪れるのか」

 ドーム1まで続く地下の通路を歩きながら、ウッドは氷期到来を聞いた。 ここは嘗て15歳のシェリー・メアリーが初めてウッドと出会った時、担任の先生と一緒に歩いた通路だ。

 あの時の先生との会話と、その情景がシェリー・メアリーに蘇る。

 階段を上ると、明るいドーム1の姿が現れた。


「また少し、雰囲気が変わったな……」

 ウッドが〝また〟ドーム1を感慨深く仰ぎ見た。



 氷期が気になりつつ、解析する1000年分のデーターの海の中で、精神が溺れそうな日々をウッドと共に過ごす間、シェリー・メアリーは一つの叶わない望みにすがっていた。


「ヒューに目覚める日を知らせておいたの」


 待ち望む日々が過ぎ―― 1か月近く経つと、 待ちくたびれた。

 来る筈もないか、とも思う。

 シェリーは1000年を冷凍睡眠でひとっ飛び。ヒューは1年に1回、2~3日程度、保守業務で目覚める。 単純計算で8歳ほど年上だ。1年に2回だと16歳、3回だと24歳も年上になる。


「彼がまだ20代なら会いに来てくれたかも。でも30代になっていたなら、まだ21歳の私に会いに来るだろうか? 40歳になった時、人類開放の日を選んで最終冷凍睡眠に入ったのだとも思う」


「そう考えると……」

 研究室のモニターに向かい、21歳のシェリー・メアリーはコトコトとキーボードを叩き続けている。


「――得体の知れない寂しさの塊が、 また一つ  増えた」


「ほんの数十日前、『また会えたらいいね、お互いにまだ会えるのであれば必ず会おうね』と言葉を交わしたのに…… 

 それはもう、微かな望みに思ってもいけないのかも」



 今日も一日、データーと格闘する日が終わった。

 シェリー・メアリーが研究室の自分の机で背伸びをする。席から立ち、手荷物を肩に掛け、研究室の電源を落とし外に出た。

「え?ウッドは居ないのかって?」

「もうお爺ちゃんなんだから、いつもお昼過ぎには帰宅するのよ」


 夕暮れ時を演出する疑似自然光。大好きなドーム1の小道を歩いていると、その少し先に、賑やかしいあかりたちの連なる処がある。


「週末は覚えたてのお酒を嗜むようになってた。

 お母様の居ない家に帰るのはもう慣れたけど、でも、休み前は、ちょっと寂しかったから」



 シェルターの人々はその一角を「養生区」と呼んでいた。

 元々は催しものなどで人々が集う、円形広場の一画だった。その隅っこに二軒の酒房ができ、幾つかのテーブルが並べられ、簡素な呑み処になったのはいつの頃からだったろう。


 灯り達まで辿り着くと、この時代に生きる僅かばかりの人々が、決して贅沢とは言えない肴と、数種しかないお酒を手に、賑やかしくしている。

 シェリー・メアリーも原酒に酸味を加えた簡素なお酒とチップスを注文し、セルフサービスのオープンテーブルに腰を落ち着かせると、静かな賑やかしさの中で暫し寂しさを忘れる事が出来ていた。


「人々の傍らに居るだけで、こんなにも寂しさが癒せるのだと思った。でも自分からは決して誰かに声を掛ける事はしなかった。だって、またこの時代から次の1000年後に旅立つ時、親しくなった人たちとのお別れが辛くなって、1000年後にその人たちに会えない寂しさが募るだろうから……」


 シェリー・メアリーが孤独を忘れる一時ひとときに浸っていると、緊急解凍での作業を終えたのだろうか、養生区に近づく4~5人の電気保守技師に気づいた。

 シェリーはその集団に釘付けになった。


 ヒューがいるかも知れない。

 そう思ったからだ。


「違う。ヒューじゃない。どう見てもあの人達、ド中年だ」

「ホッとしたような、とても残念な様なこの感じ、ふふ」

 と思って彼らを眺めていたのがいけなかった。遠くの席から我らを見つめる、うら若き乙女を発見してしまった一人のオジサンが目をギラギラさせながら急速接近してきた。

(しまった!声かける気満々だ(汗))

『お嬢さん、オレと恋人にならないか?』

『一晩限りの恋をしませんか?』

『一人で寂しくないか?』

 シェリー・メアリーがここに通う様になってたまにバカな台詞で声を掛けてくるオヤジ共。彼らの物真似をしつつ警戒していると、また一人のバカオヤジが目の前に来てしまった。

「君の美しい眼差しに引き寄せられてしまったよ」

 瞬殺「結構です」

 シェリー・メアリーは明後日の方向に顔を向ける。


 大体これでオヤジ共は一言二言詫びて去り、片付く。

 人類壊滅前と比べればシェルター時代のオヤジ共はほんの数ミリ程、知的生命体として進化していた様だ。


 すると近くまで来ていた仲間の一人が彼に助け舟を出した。

「おい、エレク、あまり若い女の子を困らせるなよ」


 シェリー・メアリーはその声がどこか聞き覚えのある声の様な気がして、今度はそのオヤジとも目が合ってしまった。

「いけないっ!(汗)」 すぐに目をそらせ明後日の方向を向くとそのオヤジの声がまた聞こえた。


「シェリー…… メアリー……」


 その声を耳にしたシェリー・メアリーは0.1秒の間に二つの事を同時に思考した。

(なぜ私の名前を知ってるの?)

(私の名前を呼ぶ、いつも聞いていた、この声……)


「ヒュー?」


 その名を言い、中年男性の顔を再び窺うと、彼はまるでイバラの呪文でも掛けられたかの様に身動きもせず、シェリー・メアリーを凝視していた。


「本当に……

 ヒューなの?」


 シェリー・メアリーも全身が硬直した。


 ヒューかもしれないと思う中年男性は、自分の知っているヒューとはあまりにもかけ離れた容姿だ。

 すると、今度はその中年男性がシェリー・メアリーから目をそらせ「みんな、行くぞ」 と、一人、その場を離れ始めた。

 やっぱりヒューの声だと感じた。


 シェリー・メアリーは ――別の自分がどこかで彼ではありません様にと祈っていることに気づきながら―― 今は昔の様にフリーズしている場合じゃない。お母様の様にちゃんと反応しなきゃと席から立ち上がり、思いっきりの勇気を胸に声を大にした。 


「ねえ!本当にヒューなの!?」


 すると二人のやり取りを交互に見ていた軟派オジサン・エレクがその中年男性を大声で呼び止めた。


「おいヒュー! 彼女シェリー・メアリーなんだろ!? いつも俺たちに自慢してるお前の女神なんだろ!?」








   ***


「じゃあな」「後で奢れよ」

 二人を席に着かせたヒューの仲間たちが去ってゆく。

 残された二人は何も話さず、お互い顔さえも見ず、ただテーブルに向かい合うだけだ。 が、やっと―― やっと―― うつ向いたままのシェリー・メアリーがボソリと話し始めた。


「どうして

 会いに来てくれなかったの?」


 少しの間の後、ヒューが返した。

「見れば 分かるだろ?」


「歳を 取りすぎたから?」


 ヒューは黙っていたが、微かに頷いた。


「なぜ、私から遠ざかろうとしたの?」

 今度は、ヒューは何も反応しない。


「それも歳を取りすぎてたから?」

 やはりヒューは反応しない。


 歳を取ってしまった彼の顔を、ちらり、ちらり、と見る。

 何度も―― 何度も。


何歳いくつになったの?……」


 聞いてはいけない事かもしれなかった。

 でも、それ以外の言葉が探せなかった。


「……55歳になったよ」


 シェリー・メアリーは僅かに眉間にシワを寄せ、目を閉じ、再び、そして先ほどよりも深く深く、

うつむいてしまった。


  ***


 閉じた目を再び開けると、目の前には55歳のヒューが居る。

 二人が座るテーブルの周りは変わらず静かな賑わいが続いている。


「どうして、 40歳の時に――、 冷凍睡眠を選ばなかったの?」

 シェリーが下を向いたまま、何とか会話を進めた。


「もう一度 会いたかったんだ。 ――君に」


 彼の矛盾した答えに21歳のシェリー・メアリーは上手に対処出来なくなり押し黙ってしまった。

 沈黙に耐えきれず、今度はヒューが重い口を開いた。

「でも 会いに行けなかった。

 55歳の僕は、君にとって、悪夢以外の何者でもないだろう?」

 彼も俯いたままだ。

「30歳までには1000年後の君に会えると思ってた。でも氷期に移行し始めたここ数百年の温和な気候変化が、保守業務を複雑化させた。保守技師たちの寝起きする回数が格段に増えて、君が眠る間に僕は歳を取って行ったよ」

「二人が40歳になった時に冷凍睡眠を選び、8万4000年後の人類解放の日に再会出来る確率と、僕が冷凍睡眠を選ばずに、君が40歳になるまでに会える確率を考える様になった」

「決定的だったのは、僕が冷凍睡眠を選んでいた時、もし君が冷凍睡眠を選ばなかったら、もう二度と君に会えないのだと気がついた」


 シェリー・メアリーは、ただ、黙っている。


「でも、40代になると、君に会えるとしかと迷い始めた。50歳になった時、もう会ってはいけないのではと思う様になった」


「50代を迎えて、思ってもいなかった新たな人生の苦悩が始まった事に、どうしていか分からなかった。それでも、あの時の君にもう一度会えるかもしれない想いを、捨て切れなかった……」


 何かが、 引き千切れそうな対峙が続いていた。


「でも、いざ目の前に君が現れると『会うな』と、咄嗟に判断してしまった。 君に会いたくて、冷凍睡眠を 選ばなかったのにね 」

 自虐の苦笑いとは対照的に、彼の声は震え始めていた――

「34年間想い続けた人が、今、目の前に、34年前と変わらぬ姿で実存している。 こんな奇跡と、その奇跡と同じ質量の残酷があるのだと、今 思って る……」

 ヒューの声が上ずり、上手く話せなくなってきた事にハッとしたシェリー・メアリーが彼の顔を凝視すると、自分を見つめる50代半ばの中年男性の目頭が熱くなっていた。


 何かが引き千切れた。


 シェリー・メアリーは突然席を立ち! 覚束おぼつかなく! でも力を振り絞って! この場から逃げる様に駆け出した!!


「この状況は私のお母様だって反応出来ずにこうした筈」

 駆け去る刹那、涙が溢れる一瞬の横顔を置き去りにしながら。



 一人残されたヒューは酷く動揺したが、直ぐ落ち着き、彼女が視界から去るまで見送った。

「さよなら シェリー・メアリー・イーブンソング……」

 幸せそうな顔をし、でも、とても寂しそうな顔をして。


   ***


 ウッドが階段を〝よっこらしょ〟と上り終え、朝の疑似自然光を背にして研究室へ来た。

 スライドドアを開けると、薄暗い部屋の中、自分専用ソファに、シーツをひっ被った得体の知れない何かが、横たわっていた。

 ウッドの目がギョロリと殺気を帯び、腰を沈め戦闘態勢になった。

 横たわる何かの虚ろな目も、シーツの奥から彼を不気味に見据え、力のないしゃがれ声を発した。

「あ、ウッド、おはよう……」

 ウッドが慌てて照明を点けると、そこには、髪はボサボサで目に隈の出来た、今まで見た事のない我が研究生が居た。

「シェリー・メアリー??? そこ、オレ専用のソファだぞ!?」

 ウッドは彼女に指差して猛抗議している。(いやウッド、そこじゃないって(汗))

 21歳のシェリー・メアリーは横たわる体をムクリと起こすと、ポロポロと涙を落とし始めた。

「こりゃ寝てないツラだな」(いやウッド、そこじゃないってば!)(汗)

 シェリー・メアリーは察してくれないウッドを涙目で睨み付ける。

「あ~、いまお茶入れるから。そこ座ってていいから――」


 ウッドが入れたお茶を口に含みつつ、熱さを温かさに変換させながら喉を湿らせていると、彼が明後日の事を言う。

「一体どうしたんだ? 今日は土曜日で休みだぞ?」

 ウッドは、こう言う事には、どうもトンチンカンらしい。

「ウッドこそ、土曜なのになぜ来たの?」 とシェリー・メアリーがしゃがれ声で反応してしまった。ほら話がズレ始めた(汗)。

「オレは土曜もここに来てるんだよ。他にやる事もないしな」

「ふ~ん」

「…… …… …… 」

 やっぱり話が詰んでしまった!


「分かった分かった。ちゃんと話を聞くよ。どうしたんだ?」


   ***


ウ「そうか。同い年だった彼氏が55歳のオヤジになってたら誰だって驚くさ。しかも大の男が年端もいかない女の子を前にワンワン泣いちまったら、びっくりして逃げ出してもしょうがねえさ」

シ(私、年端もいかない女の子じゃないし、ヒューもワンワンとは泣いてないし(汗))

ウ「でもオレだって驚きっぱなしだったぞ?15歳だった君が1年もしないうちに22歳になっちまうんだからな」

シ「21です」

ウ「あ~(分かった分かった分かったから)」


 シェリー・メアリーは目を腫らしながらも久しぶりに「あ、そうか」と思った。

「私からすればウッドとの付き合いは彼是かれこれ6~7年になるのに、冷凍睡眠で寝起きしてたウッドからすれば、まだ数ヶ月程なんだ。

 そんな事、分かってたけど、何だか悔しい。だって、私はウッドに6~7年分の思いがあるのに、ウッドはまだ1年も私の事を思ってなくて…… 」

 その事に気付いた、髪ボサ隈目の21歳の顔付きが、見る見る変わり始めた――


「私とヒューが別れた後、私が彼の事を思っていた時間はたった数ヶ月なのに―― 」


「ヒューは…… 34年間も―― 」


 何かに取り憑かれた様なスゴイ形相になっているシェリー・メアリーに、ウッドが一言付け加えた。

「今からどっか行くのなら身嗜みだしなみは整えといた方がイイと思うぞ?」


   ***


 イーブンソング家の開けっ放しのスライドドア越しに、中からドタバタ ガタガタ ガシャン、バタン と、騒々しい音が響いて来る。 そのうち静かになると〝完全武装〟したシェリー・メアリーが部屋からスタスタと現れ、丁寧にスライドドアを閉めると、何処かへスタスタと出かけ始めた。

 先程のボロボロの女性とは到底思えない、今日の完全武装は、どう控え目に見ても美しくカワイく仕上がっている。


「落ちつけ、落ちつけ、シェリー・メアリー・イーブンソング。 昨日が作業日だったら、今日は体調調整日で必ず何処かにいるから。慌てる必要ないから。昨日が体調調整日だったら、今朝から冷凍睡眠に入っただろうから、どのみち急いでも無意味だから……」

 美しくカワイイ女性がバタバタ歩く姿はちょっと似合わない。

「だから、急がなくてもいんだってば……」

 美しくカワイイ今のシェリーに競歩の様な歩き方は、ぜっんぜん似合わない。(汗)

「だから急がなくっても……  ダメだ」

 21歳の美しくて可愛いシェリー・メアリーは全力で走り出した。

 ドーム1へ続くいつもの階段を見る見る駆け下り、あっという間に姿が見えなくなってしまった。

 階段の踊り場からドーム1を望むと、遠くに猛スピードで小さくなってゆくシェリー・メアリーの姿があった。


   ***


 つい数ヶ月前まで毎日の様に通っていた独身用アパートメントが、1000年後の今も、何となく違和感がありながらも健在でいた。

 息を切らし、ヒューの部屋の辺りを見詰めるシェリー・メアリーは髪が少し乱れ、メイクの上に汗が滲み出ていて、家を出る前の完全武装が少し崩れている(汗)。


 薄暗い階段を上りながら 「居なかったらどうしよう」「引っ越していたらどうしよう」「他の人が住んでたらどうしよう」「女の人が一緒に居たらどうし…… それは考えない考えない(汗)」


 などとブツブツ言っていると、もうヒューの部屋の前にいた。

 シェリー・メアリーは深く深呼吸をする。

 意を決しノックしようとすると、小さくドアが開いている。

(鍵かけてないし! 雑だな~)

 ドアをそっと開き、部屋の中を覗きつつ、少しの間、聞き耳を立てる。キッチンの生活音らしきものが響く以外、女性の声など無い事を確認するとホッとして、ノックを何度かした。

 すると、奥からフライパンとヘラを持ったヒューが出てきた。


「シェリー?……」

 ヒューは飛び出しそうな目玉のまま、時間が静止したかの様に動かなくなった。が、シェリー・メアリーはメデューサではない。


シ「か、鍵、掛けてなかったわよ?(汗)」

ヒ「え? あ…… …… そう?」

シ「何、してたの?」

ヒ「ひ、昼めし…… 自分でこしらえてた……」

シ「あ、 そ、 そう(汗)」

ヒ「その、 今からパーティでも行くのか?」

シ「え? 何で?」

ヒ「いや、とてもおめかししてるから」

シ「べ、別に?」(そんなにスゴイおめかしは特にしてないし(怒))

         ↑いや、してるし(汗)

ヒ「オレと付き合ってた頃、そこまでおめかししてくれたか?」

シ「あなた私を何かのパーティに連れてってくれた事あった?」

ヒ「……(汗)」

ヒ「なぜ、 その(汗)、 またここへ来た?」

シ(ずるい返しだ)

シ「……だって、 会いたく なったから……」

 シェリー・メアリーは少し顔を赤らめたが、ブスッとして目をあちこちそらしながら言う。

ヒ「会いたくなったのは君の知ってるヒュー? それとも今の僕?」

シ(立て続けにすごい返しだ。なんて意地悪なんだろう)

シ「じゃあ聞くけど、今のあなたは私の知ってるヒュー? それとも全く違う男の人?」

ヒ「両方さ」

シ(両方って何よ?しかも即答?(怒))

(私の知ってるヒューは―― そんなこと言う人だった?)


「ヒューは…… ヒューはもう私の知らないヒューになっちゃったのね…… 大人のヒューに……」

 シェリー・メアリーは感じたままを寂しそうに言うと、ゆるりときびすを返して部屋から出てゆこうとした。


「今の俺じゃダメか!?」

 シェリーは彼の焦った様な、少し大きな声に足をピタリと止め、少し間を置いて、またくるりと振り返ると、その顔は怒っていた。

「今の貴方にとって私は女神らしいけれど、女神は遠くから想うくらいが丁度いいわよ!」

 シェリー・メアリーは急にまた、今度は素早く反転するとドアを開けっ放しにしてドカドカと出ていってしまった!


 ヒューはフライパンとヘラを持ったまま「ふ~」と溜息をくとその場にふにゃふにゃとへたり込んだ。

「何も言わずに抱きしめれば良かった……」

「ただ、抱きしめれば良かったんだ……」

「そのまま抱きしめれば良かったのに……」

「会いに来てくれたのに……」

 情けない独り言をブツブツブツブツと言い続ける大の男の、こんな姿はホントに見ていられない。

 そのうち静かな笑みを浮かべ、項垂れながら自分に言い聞かせた。


「昔のオレに会いに来たんだ。 今のオレじゃないぞ、ヒュー……」


   ***


 21歳のシェリー・メアリーが気が付くと、母のベッドの上で朝を迎えていた。 武装も解除せず、ここでグズグズになり、寝入ってしまった。


「1000年も過ぎているのに――

   母のベッドにはまだ、母の香りが残っている様な気がした」


「なぜ――  あんな事になっちゃったんだろう。

 せっかく、おめかししたのに……」

 虚ろな目でむくりと起きると、お腹が、ぐうう と鳴った。

「ふふふふ。お母様が『グダグダやってないでしっかり食べなさい』って言ってるみたい」


 シェリー・メアリーは武装を解除し、シャワーを浴びた後、食べて落ち着いたので、気晴らしに外へ出てみた。 日曜日の研究室は流石にウッドも居ない。休日に仕事をする気にもなれない。

 暫く狭くて広いシェルターをあちらこちらウロウロしたが気分は晴れず、再び暗澹あんたんたる精神状態に堕ち入りそうになっていた。

 何か体を動かす仕事をと管理区に掛け合うが、今は調整が難しいと言う。シェリフなら何とかしてくれたかもと、行く当てもなくデッキテラスの〝我が席〟で、ぼうっと時を無駄にしていると、見かねた管理官が歯切れの悪い情報をゴニョゴニョと出してきた。

「新規で人員を募集している所があるにはあるのですが……」


「はっきり言ってください!」と、詰め寄ると――

 事は急展開してしまった。


   ***


 1000年前の18歳の時に初めて晴天の外界に触れた場所。

 22歳のシェリー・メアリーが、あの時と同じく、気密防護服姿で一人、重機用エアロックの中に立っている。

 先生やクラスの皆と一緒だったあの日は、興奮と楽しさだけに支配されていたが、この無骨でどことなく威圧感のあるエアロックの中で、今は静寂な運命の様なものを感じていた。

 なぜなら、

 今、シェリー・メアリーが立つ巨大エアロックには、冷凍睡眠夢で見た大型車両が、彼女の横で旅立ちの時に備えていたからだ。


 夢がまた運命を知らせた。


 管理官に詰め寄った、新規の人員募集とは、既存の保守職でなはく、氷期前の温和な気候の間に、外界で人類が存続できる、

〝低汚染地探索〟 の調査員募集だった。

 この特別招集が、常に核汚染大気に身を晒さなければならない危険な任務だからこそ、管理官は口籠った。


― 大型車両を静かに見つめる22歳のシェリー・メアリーの声 ―

「外界は、ライブラリで見た壊滅前地球の美しい姿ではないだろうけれど、この目で今の地球の姿を見てみたい。量子脳理論のヒントや、食生物が見つかるかも知れない。何よりも外界移住探索の使命感――、これだけテンコ盛りならヒューの事も考えずに済むかも」

「でも、今日ここに来るまでの道のりは一苦労だったけど」

 回想が始まるとウッドが情けない顔で嘆いている。

「何だって? 研究はどうするんだ?(困惑) あ~オレの研究生がどっかに行っちまう(悲観) 分かった分かった(諦め) その代わり1000年分のデーターはきっちり調べ上げろよ? それからその外界調査とやらで一満足したらまた量子脳理論のデーター集めに復帰するんだぞ? でないと今回の特別外界休暇は認めん!! それから!!」


「無事に帰って来いよ? 絶対生きて帰って来い」


 エアロックに居るシェリー・メアリーはジタバタするウッドを思い出して幸せそうな顔をしている。

「最後はウッドはとても優しかったけど、結局、私がここに来る事が出来たのは1000年分のデーター整理を終えた数ヶ月後で、私は22歳になってしまったけど(汗)」


 今回の1000年分も量子脳理論に直結するデーターは皆無で、

「じゃあまた1000年後。必ずだぞ」

 ウッドは念を押し押し、冷凍睡眠カプセルに戻っていった。



「シェリー・メアリー、早いな。ここで待っていたのか?」

 エアロックで一人ぽつんと立つ22歳のシェリーの前に、数人の男女が現れ、一番年上と思われる男性が声を掛けた。


 調査チームのリーダー、シン。

 サブリーダーのファニタ。

 男性調査員のメキとアラリ。

 もう一人、女性調査員のヤエル。

 シェリー・メアリーのチームメイトたちとの、外界探索が、今、始まった。


 エアロックが徐々に開き、眩しい光が、卒業旅行の時の様に広がっていった。 車両に乗り込んだシェリー・メアリーが、仲間と共に外界探索へと旅立って行く――。









   ***



 車両が荒廃した大地を重たそうに疾走している。

 高かった日差しも随分と傾き、地表は長い影を帯び始め、時刻は鮮やかな橙色に染まろうとしていた。


 車両の移動と共に、平坦な荒地が次第に不規則で巨大な碁盤の目の様な地表に変化してゆく。更には、碁盤の面の多くがコブの様な盛り土となると、それは徐々にモルタルや鋼材の残骸だと分かってきた。

 この一帯はかつての人類文明の成れの果て―― 風化し終えた旧都市遺跡群だ。


 シェリー・メアリーが外界探索に参加して3年が過ぎようとしていた。

 都市遺跡群の資源採掘ベースキャンプを拠点に、北の山岳地帯と南の山岳地帯の探索を終えていたが、低汚染地は見つからなかった。

今回の探索は東の山岳地帯と西の海岸線を探索する。


 車両は程なく、遺跡群の資源採掘ベースキャンプに到着した。

 この区画はまだ、かろうじてビルであったと分かる壁が立ち並び、程良い防風防砂壁になっている。

 人々は嘗ての地下街を採掘基地にしていた。 地下への出入り口だった階段を掘り起こし、頑固に補強した不格好なエアロックを設置して、地下と地上を行き来していた。

 駐在する技師たちが居住区から出てきた。彼らはシェリー・メアリーたちと共に、車両に積み込んでいた軽金属製貨物ボックスを、重たそうに地下へ急ぎ運ぶ。

 地上はもう何も無い所だが、地下構造物は比較的保存状態が良く、人々は地層の中に残された僅かな物資を掘り当て、シェルターに持ち帰り続けていた。

 調査隊は今から一カ月ほどここに滞在し、2つの調査地へ向かう。


 エアロックに併設される除染シャワー室で貨物ボックスごと除染を済ませると、

シェリー・メアリーたちは明日早朝に目的地へ向かうため、夕食も程ほどに宿所に移動した。

 地下基地は地上に比べると格段に汚染度が低く、防護服無しで過ごせる。

 バラックの様な宿所には、薄暗く照らす灯りが一つだけだ。

 間違っても寝心地が良いとは言えない簡易ベッドで、二人の女性調査員とシェリー・メアリーが就寝前の一時ひとときくつろいでいる。

 シェリーは絵本と、人類の歴史、の2冊を枕元に置いている。

 本を気に留めた女性調査員のヤエルが話し掛けてきた。

「シェリーはその本は肌身離さないのね」

 シェリー・メアリーは「んふふ」と小さく微笑む。

「シェリーは人類の歴史が好きなの?」

 もう一人の女性調査員である、サブリーダーのファニタも話に加わった。

ううん否定、私、人類の歴史は嫌い。どちらかと言うと大っ嫌い。

 でもこの本たちは私の宝物なの」

「人類の歴史は私たちみんな、大っ嫌いよ(笑)。

 でも、なぜ宝物なの?」

 シェリー・メアリーが恥ずかしそうに答えようとした時、ドア代わりに掛けられた布越しに、調査隊リーダーである、シンの声が割って入った。

「灯りを消し電気を節約してくれ。明日は日の出の時刻に出発だ。

 もっと楽しいお喋りをオレもしたいが、そこは我慢だ」

 ドア布の隙間から、親指を立てたこぶしだけをと出し、得意気に決め台詞を残してリーダーは立ち去った。 シェリー・メアリー達は顔を見合わせ、笑顔で肩をすぼめると、そそくさと灯りを消し眠りについた。



 消灯時間からどれ程が過ぎた頃だろう。シェリーは夢を見ていた。


 どこか広い水辺の淵

  仲間の足元の大地が崩れてゆく。


 シェリー・メアリーが目を覚ますと、出発の時刻だった。 



 荒廃した旧都市遺跡群の大地に、太陽が昇り始めた。

 駐在技師らが見送る中、調査車両が出発した。清しい時間をけがす黒い排ガスを惜しみなく吐き、まだ、朝の光が差し亘る前の、薄白い都市遺跡群から。


 鈍走し始めた車両は、山積みされていた補給物資も無くなり、車内は居心地が随分と良くなった。

 シェリー・メアリーが、多少軽やかに揺れる様になった車窓から、涼しげな朝の荒地を眺めていた。


   ***


 早朝の出発から3日ほどが過ぎると、調査車両は、海岸線へと近づいていた。

 かつて、遥か沖まで陸地だった大地は侵食が進み、荒い砂地と脆い崖が続く海岸になっていた。

 崖下の波打ち際で、もがく様に洗われているのは、この星のあるじだった筈の、雑草たちの萎びた成れの果てだ。

 停車させた車両から降り立った調査員たちは、永遠に広がる大海原に瞬く間に魅了されてしまった。

 海岸線の崖際まで、怖いもの見たさで恐る恐る近づくと、

『我こそがこの世界の全てなのだ』と、海がうそぶいていた。

 崖下では荒々しい波が激しく砕け、今まさに大地への侵食が進行している。 崖上から荒い砂地の波打ち際まで7~10mはある。落ちれば運が良くても大怪我は免れないだろう。

 大陸を削り続ける、絶え間ない波の重低音が人の精神を麻痺させる。 セイレーンの哀歌に捕らわれるかの様に、心を引き込もうとする。 沖から流れ来る生暖かな大気が、シェリー・メアリー達に潮気交じりの微かな風圧をかけ続け『これ以上近づくな』と言っていた。

 幾重にも重なる波の向こうに、人類壊滅前の都市の残骸が見える。

 亡霊の墓標の様に、うね水面みなもから顔を覗かせ、意思も無く時間に抗っている。 遠く、水平線の彼方まで存在する大海原は、都市遺跡の残骸など見向きもせず、圧倒的な実存を見せ続ける。

 調査隊の皆は広大な存在に心を奪われ続け、その場から動けない。

 ただ、ヤエルが、ふらりと海岸線の崖際へ歩き始めた。

シェリー・メアリーは今朝の夢を気に掛けた。

「危ないわよ……」

 声にもならない声を掛け、女性調査員の後を追うが、他の調査員たちは、ほんの少し二人に目をやるだけで海に魅了され続けた。

 その時! 崖際に近づいたヤエルの足元が崩れた!

 彼女はバランスを失い、恐怖で顔が引きつりながら崖底へ吸い込まれる! 本能が右手を崖上に伸ばすと!!その手を掴み取ったのはシェリー・メアリーだ!!


 崖底へ消えて行ったのは、崩れた一部の土砂だけだ。が、二人は辛うじて崖にしがみつき、これ以上落ちない様にするのが精一杯だ。

「大丈夫か!?」

 リーダーの声と共に仲間たちが慌てて駆け寄り、慎重に二人を助け出し、急いで海岸線から離れた。

「浸食される海岸の崖は脆いんだな」

 緊張した面持ちで男性調査員のメキがその怖さを口にすると、命を失わずに済んだヤエルが震えながら皆に詫びた。

「ごめんなさい。私、つい見惚みとれてしまって」

「みんなそうさ。海の馬鹿デカさに飲み込まれて足元の危険に気づけなかった。無事で良かった。気にするな。それよりリーダーとして注意が足りずに申し訳なかった」

 リーダーも彼女と皆に詫びた。


「まただ。 また正夢を見た」

 シェリー・メアリーは皆と一緒に仲間の無事を喜びながらも、夢と現実の一致に強い思いを感じていた。


  ***


 大海原に魅了された危機も去り、皆は草臥くたびれきった汚染測定器を馴れた手付きで操作していたが、水平線の向こうから雲行きが怪しくなって来た。

「雨が来るわよーっ!」

 ファニタの力強い声に全員素早く測定を終了し、急ぎ車両に戻ると防雨シートを車体に被せ始めた。その作業も手際良く、テントの様に車両を覆い終えると、皆、車内にいそいそと乗り込み、そのまま閉じ篭ってしまった。

 やがて雨が降り出すと、調査員たちは只々ただただ雨が上がるのを待ち続けた。

 シートを打ち鳴らす雨音が止む事なく続く。

 シェリー・メアリーは防雨シートの〝様子見窓〟から、おぼろげに映る、濡れる大地を寂しそうに眺める。


「雨に濡れてみたい 打たれてみたい。 どこかでそう感じてる。

 草原の雨の夢を見た時から……」

「今、ここに居るみんなはどうなのだろう? 雨に打たれたいと言ったら、笑われたり、とても心配されたりするのかな……」


「雨の汚染数値は?」

 リーダーが訪ね、アラリがぽんぽんと装置を操作する。

「安全値をまだ50%ほど上回っています」

「下がっている事に変わりはないが」

「まだまだね」

みんなの会話にも憂鬱ゆううつな雨の陰気が入り込む。



 雨は翌朝も続き、彼らは只管ひたすら車内で待機した。

 リーダーは降りしきる雨をしみじみと眺め、溜息を吐く様に言う。

「以前の雨はいつも強烈な土砂降りで、地表を根こそぎ洗い流してたんだがな。近頃の雨は随分と穏やかになったよ」

「氷期が来る前の穏やかな気候になって、雨も大人しくなったのよ」

 ファニタが返した。

 交替で仮眠を取っていた皆も目覚めた。

「雨は本来、地球生命に優しい存在だったと、子どもの頃に先生が教えてくれたっけかなあ」

「この雨も見てるだけだと、とても優しそうなのにね」

 メキとヤエルが交互に答える。

「居住可能地探索で汚染数値を見続けていると、人類が壊滅した時代に、せめて核兵器を使わなかったり、核発電施設を破壊せずにいてくれたらと、時々どうしても思います」

 アラリの言葉にリーダーが反応した。

「核兵器の使用を抑える事が出来ていたなら、核施設の破壊も抑える事が出来てただろうし、その程度の戦争なら、地球に沢山の人が生き残って、シェルターへ逃げ隠れた俺達の先祖を探し出して、根こそぎ復讐してたかもしれんよ」

 リーダーの思わぬ言葉に皆、顔を見合わせ押し黙ってしまった。

「――すまん。イヤな事を言っちまった。結局、あの時の俺たち人類は…… あ~、やめておこうか、こんな話」

 リーダーは皆の視線が自分の発言に集中した事を気にかけ、しまった痛い、と目を瞑ると、言い訳めいた詫びの後、再び雨を眺めた。


「少し早いけど朝食にしましょ」

ファニタが小さなキッチンに向かうすがら、リーダーの肩を〝どんまい〟と軽くポンと叩く。リーダーは済まなそうに苦笑いをした。もちろん皆は、早めの朝食に笑顔で大賛成だ。


 早朝も過ぎると雨は小降りになり、朝食を済ませた頃にやっと上がった。調査員たちは外へ出ると、防雨シートに圧力シャワーをかけ除染し、車両から取り外すと帰り支度を始めた。

 彼らはもう一度調査する為に此処に留まっていたのではなく、帰るに帰れずにいたのだ。 まだまだ毒を含む雨の中、緊急時以外に車両を走らせる事は、車体の隅々まで毒交じりの雨を散布する事と変わりなく、点検修理時の洗浄が大変な事になる。

「よし、一旦ベースキャンプに戻り、もう一つの計測地に向かうぞ」

 リーダーがそう判断した。


― シェリー・メアリーの声 ―

「ここの調査区域も、まだ人類が生きる事の出来ない土地だった。でも滞在した時間、私には小さな収穫が二つあった。 一つは、時には夢が現実で役に立つと分かった事。 もう一つは、雨は本来、命に優しかったのだと仲間が言った事」

「私の見る雨の夢は、寂しい雨なんかじゃなくて――  

 優しい雨なのかも知れない」


 幾重にも折り重なる雨雲の切れ目から、太陽の光が漏れはじめた。

 シェリー・メアリー達の車両がゆっくりと動き出し帰路に着く。

 海に放たれた陽の筋たちが映え、濡れた大地が瑞々しく輝いている。世界の全てが汚染されているとは思えないほど、光は優しく美しかった。


 車両は薄日に照らされながら、ベースキャンプまでの道なき道をのろのろと移動する。上空から車両を見下ろせば、走行音なども無く、サイレントのスローモーションの様だ。

 座席に揺られるシェリー・メアリーが、フックに掛けてある自分の荷物に何気なく目を向けると、絵本が顔を覗かせていた。


   ***


― シェリー・メアリーの声 ― 

「私は絵本の物語に一つだけ不満があった。

 ジョンがメアリーを置いて、一人、ガゼボへ帰ってしまった事に」


「幼い頃は気づけなかったけれど、10代の頃から、ジョンが理解できないでいた。というか、はっきり言って嫌いになっちゃってた。

 ジョンの子孫に会う事があれば、彼の身勝手さに文句を言おうと思ってた」

 車窓から、移りゆく風景を眺める、シェリー・メアリーの姿に、絵本を認める初代メアリーの姿が重なってゆく。


 初代メアリーは、小さな卓上灯が点いているだけの暗い自室の机で、最初の『忘れないで』を手作りしている。 何処から掻き集めたのか、油絵具や水彩絵の具、溶き油、筆が数本入った何かのガラス瓶が整然と並べられている。絵本の制作に集中しているメアリーの横顔は慈愛に満ち、レンブラントの描く絵画の様な光と影が静かに時を刻んでいる。 少し疲れたのか、テーブルにうつ伏せて眠る初代メアリーに、優しさが重なってゆく。


「ジョンは――、 無事、ガゼボに辿り着いたのかな……」


 車窓のシェリー・メアリーは、10代の頃から嫌いになっていた初代ジョンの事を、今は気に掛ける言葉が漏れ出た事に、少し驚いた。

「私の身体の中に、初代ジョンを慕っていた初代メアリーの血が間違いなく流れていて、この絵本がそれを―― 忘れさせないのかも」


 物思いにふける様にブツブツと独り言を言う彼女に、さて、車内の仲間は皆、黙って見ていて、ニコニコしながら肩をすぼめたり、首を左右に振ったりしていた。それに気づいたシェリー・メアリーは、焦ってきょろきょろと目線が定まらず、皆に問いかけた。

「何? 私、何か変だった?」

「いや、特に変じゃないよ」

「そうそう。いつも通りのシェリー・メアリーだよ、君は」

 シェリー・メアリーも、恥ずかしそうな笑顔で皆を見つめ返した。


 再びシェリーが流れゆく景色に目を向けると、今度は皆に聞き咎められない様に心の中で呟いた。


「ねえ初代メアリー、 私の中のイーブンソング家の血は、貴女の頃より、より濃くなっていますか?」


   ***


 シェリー・メアリーたちの車両が、海の無い大地に戻った。

 海岸線は、遥か山の稜線の向こう側だ。それから数時間後、車両は旧都市遺跡群へ到着した。


 日没後の資源採掘ベースキャンプは、最小限の小さな案内灯が点るのみで、調査車両を隅に停めてある、バラックの様な屋内廃材置き場も、夜のとばりに姿を消しつつあった。 対照的に、雲間からは星々の煌めきが、徐々に輝きを増し始めていた。


 海岸線探索から無事帰還し、一息ついたシェリー・メアリーたちが宿所で食事をしつつ、リーダーは煮豆を頬張りながら明日の予定を皆に知らせていた。

「ここ数日は空模様が怪しいが、モグモグ、雨が降らない限りは予定通り、モグモグ、次の目的地に向かおうと思う。ゴク」

「今度は海岸線から、ング、反対方向の内陸へ向かう。太古の地図によれば、モグモグ、豊かな川が流れるナララかな、ゴク、な・だ・ら・かな、台地だが、今はどう変化していフか分かラない。ちょフと水を飲ませてフれ」

「ゴクゴクゴク…… ふ~。 遥か昔にスカイウェイはあった様だが今はもう土塊つちくれと化しているだろう。悪路を行く事に変わりはないと思うが、そこは我慢だ」

口の中を豆一杯にモゴモゴさせながらも、実にテンポよく喋り切ったリーダーだった。

 まれに皆が沈む事もボソリと呟く彼だが、元来このコミカルなリーダー振りは、調査隊の仲間は皆、好意的に思っていて、

「でた。リーダーの『そこは我慢だ!』」とはやし立て、

「ちゃんと食べ終わってから喋りなさいよ」と突っ込まれている。

 リーダーもみんなのツッコミは心得ていて、にこやかに偉そうな素振そぶりでお道化ている。


 笑いに包まれている彼らの明日もまた早い。


   ***


 シェリー・メアリーたちを載せた車両が、荒れ果てた広大な台地を重たそうに進んでいる。

 東の山岳地帯に通ずる台地は、所々に地割れや谷間があり、走路を探すのも一苦労だ。 舗装された陸路さえあれば半日もかからずに到着できる目的地も、今では、遠回りし、補修し、車両に備え付けのショベルやドーザーで埋め立て、均しをしなければ進めなかった。 そのため、目的地まで一か月以上かかる事も稀ではなかった。

 なおかつ、汚染大気を遮断する気密防護服を着込んだ作業はちょっとした事に手間暇がかかる。

 仲間たちも、私たちは調査員とは名ばかりの、道路施工作業員だと冗談を言い合う。


 リーダーが煮豆を頬張ほおばっていた資源採掘ベースキャンプで、一度綺麗に洗浄した車両も、出発の日からかなりの日数が経ち、今はすっかり車体の隅々に泥埃がこびり付いている。

 補正作業から手を休め、辺りを見渡せば、世界の半分を見渡せる様な荒野の台地は、遥か遠くの山並みの稜線を幾重にも連ね、無限の実存を見せつける。今もなお絶滅せずにいるシェリー・メアリーたちを 「お前たちなど存在していないのと同じだ」と、嘲笑あざわらう。


 シェルターの内側の世界しか知らなかった人間にとって、気が遠くなるほどバカでかい外界がいかいは、何よりも囚われの身からの解放であると同時に、人類への否定と圧迫でもあった。 精神を動揺させる地球景観は、生き残る今の人間がそう簡単に体験出来るものではない。 だからこそ、外界に挑む者は、この巨大な世界に幾度も飲み込まれそうになる。


 厚く濃い雲が、存在しない小さき者達の上に低く垂れ込めていた。が、雨が降る気配はなく、山並みの向こうの空は幾分か明るい。

 車両が踏みしめる足元は、人間世界だった頃のスカイウェイのアスファルトが残骸となり、岩の様に変化した赤茶けた地表のそこかしこに、辛うじてそれと分かる程度に顔を覗かせている。


 命無き台地は崖と谷に挟まれた、なだらかな傾斜の平地が続き、その先には、空と雨雲と峰々の稜線が蒸せる様に混ざり合っていた。


 道均みちならしも終え、再び移動していた車両が暫くして息が上がる様に停車すると、海岸の時と同じ様に防水シートを張り、全員が重そうな荷物を背負い歩き始めた。

 彼らを遠間から暫く追うと、崖の上へ向かう緩やかな傾斜のルートを探し出し登り始めた。崖壁がいへきが続く台地の地平線まで目をやると、白くもやのかかる所がある。水飛沫みずしぶきであれば滝だろうか? 皆は崖上の高台を目指し、黙々と歩みを続け、シェリー・メアリーも後から続いた。


   ***


 崖の上に何があるのか。

 ルートを探索し、一歩ずつ頭上の大地に近づいていた。

 相変わらず重たい灰色の雲が、世界をモノクロームに覆っている。

 いつ雨が降っても良い様に、装備に足されたテントと防雨マントが余分に重いが、汚染雨にズブ濡れになるよりは遥かにマシだ。


 崖の中腹まで来ると平坦な場所があり、小休憩となった。

 眺めが良く、眼下にテントを張った車両が見える。

 世界は相変わらず馬鹿デカく、シェリー・メアリーたちを飲み込み続けようとしていた。


― シェリー・メアリーの声 ―

「外界探索から3年ほどが過ぎて、少しはヒューの事を落ち着いて考えられるようになったみたい」

「でも、どうして良いのか、まだ分からないでいた」


 遠くの空に微かに轟いたのは遠雷だろうか……


   ***


 眼下の車両を望む中腹での休憩も終え、調査隊の一行は再び重い荷物を背負い、高台へ向かって歩き始めた。

 膨らむバックパックを背に、シェリー・メアリーは皆の後に続く。


「55歳のヒューに最初、私は気づけなかった。

 私が好きだったヒューは、今、目の前にいるヒューなのか、それとも、もう居ないヒューなのか、理解出来ずにいた。

 こんな残酷な未来を、私は 選んでしまった」


 機材と食料の詰まったバックパックが重く圧し掛かり、歩むシェリー・メアリーの息遣いが、彼女の過去の苦悩と重なる。


   ***


 広々とした青草の大地に、白い岩場が散在する見事な高原地帯が、シェリー・メアリー達の前に姿を現した。


 登り切ったのだ。


 曇り空だと言うのに、皆、気持ち良さそうに辺りを見渡している。

 少し先に大きな凹地があり、豊かな水を湛える湖になっている。

 低く垂れ込む雨雲が稜線を隠してはいるが、遥か向こうに連なる峰々が水面みなもに映え、この高原の美しさを際立たせている。

 その峰々の分水嶺ぶんすいれいからの恵みは、深き山岳地帯から裾野へと流れ下る、豊かな水量となって、沢となり川となり、幾つもの白い筋を従えて絶え間なく湖に注がれている。

 辺りは緑多く、樹木さえも群生し、森が育ち始めていた。

 湖の対岸を望むと、水の流れは崖へと続き、水面に光る筋が揺れ、その先には水煙りが湧いている。

 中腹で見た白いもやはやはり崖から流れ下る滝だったのだ。

 皆は、もしここが居住可能な低汚染地帯ならと期待が膨らむ。

 だが、25歳のシェリー・メアリーは、この岩場の高原を目の前にした時、何かを感じていた。


   ***


 草臥くたびれきった測定機が赤ランプの点灯とともに「ピー」と鳴り、何かを強く否定した。

「水もまだダメです」

 アラリが緑広がる高地を悔しそうに見渡しながら嘆いた。

 先程まで希望を抱いていた調査員たちは落胆し、湖のほとりに佇んでしまった。

「水も植物もアウトか。まだまだ、人間が外界で世代を重ねる生活は出来ないって訳か」

 メキが結論付け、皆の沈黙が二呼吸ほど続くと、リーダーが頓狂とんきょうな事を言い出した。

「どうだろうみんな、まだ着いたばかりだし、こんな気持ちの良い所には滅多に出会えないから、湖畔をぐるりと散歩でもしてみないか?」

 皆はこの提案にも元気が出ずに押し黙っていると、サブリーダーのファニタがリーダーをフォローした。

「そうね、気持ちの良い所だし、日も差してなくて動きやすいし、食性植物や食性水中生物も発見出来れば幸運だけれど、〝食性物が無い事を確認する〟位は、きちんと諦める為にも散策しましょう」


「わたし、行ってみたい」

「私も」

 ヤエルに釣られ、シェリー・メアリーも賛成すると、皆がやっと笑顔になった。

 リーダーはファニタに「いつもすまない」と、アイコンタクトで返し、彼女は「どういたしまして」と、ほんの少しドヤ顔だ。


― シェリー・メアリーの声 ―

「我らがリーダーは、何もかも頼りになる優れたリーダー……と言う訳でもなかったけれど、とにかくみんなを明るくする事には長けていた。 多少はフォローが必要だったけど。ふふ」


 厚く曇る空の下、皆の気分が幾分か晴れた様に見えたのは、諦めの受諾でもあった。


   ***


 直ぐ先に滝がある所まで食性物を探しつつ歩いて来た。

 この辺りも希望の数値ではなかった。 核汚染毒を含んだ水飛沫みずしぶきを浴びる訳にもいかず、滝の傍には近づけないが、崖壁がいへきは思ったよりも傾斜があり、流れ下る水も何段かに連なっている。大きな滝ではないが、見ていて気持ちの良い開放感がある。何よりも水が豊富なこの一帯は、遠目から見た以上に樹木が育成していた。


― シェリー・メアリーの声 ―

「ここは美しかった。

 晴れていたなら、木漏れ日の中に身を委ねてみたかった。

 数百年も経てば豊かな森に育つだろう。その時までに汚染数値は下がるだろうか? でも、更にその数百年後には氷期が訪れて、ここも雪と氷の岩場になる。

 樹木たちはこの地が、ほんの少し先の未来に、自分たちが生息出来なくなると分かっていても、根を下ろしただろうか」


 現代の地球に育成する命たちは、核汚染の中で世代を重ねていた。

 それは新たな生態系のあかしでもあった。

 対して人類は、現代の生態系から取り残された存在だ。

 その自然環境にそぐわない存在は常に淘汰され、圧倒的なマジョリティの物理量の中で消化され、去る運命にある。

 太古の昔、光合成を行ない、エネルギーを得る過程で酸素という毒を排出してきた原始植物に代わり、その酸素を利用する生態系が出現した時代と同じ進化が、再びこの地球で起きた。

 核汚染が、大気・海洋・大陸の隅々まで行き渡り終えていた現代こそが、地球の自然環境と言っても、それはもう過言ではなかった。


「美しいこの地で、人は共に生きられないなんて…」


「現在の生態系が核汚染の環境下で形成されているのなら、逆に汚染毒が無ければ、生息できない生物が既に存在するのかも。

 人類が核汚染種を世界に放出したのではなく――、

 地球が、人間を〝排泄〟する為に核を手に入れたかったのだとしたら……」


「おおうい、みんな、こっちに来いよ! 気持ちの良い所を発見だ!」

 皆から少し離れて散策を続けていたメキだ。

「何ー?」

 ファニタが気密ヘルメット越しだと言うのに思わず大声で聞き返した。

「まあ来てみなって。ヒャッホウ!」


 彼に誘われ、白くゴツゴツとした岩場が散在する、少しきつめの傾斜の緑地帯を皆で登り終えると、その向こうのなだらかな傾斜地には、小さな花々も咲く、見事な草原地帯が広がっていた。


 急な角度からゆるりと広がる山々の裾野から、湖に豊かな水量を供給する川筋の、その麓に延々と続く草原地帯だった。

 歓喜の声を発し、子どもの様に草原の中ほどまで駆け下る皆の姿が微笑ましい。

 だがシェリー・メアリーは、この高地に着いた時に感じていたものが確かになったと確信し、一人、しきりに辺りを見渡し、凹地の草原の中で少し小高い一画を見定めると、荷物を下ろし、その凸地へ歩み始めた。


 やがて凸地の天辺に着くとシェリー・メアリーはそれ以上動こうとはせず、ぽつんと一人、立ち尽くしてしまった。

 皆と少し離れたシェリーにリーダーが気づき、心配して声をかけるが、シェリー・メアリーは大きく手を振り返して「大丈夫」と合図を送ると、厚く雲のかかる空をゆっくりと見上げた。


「もうすぐ優しい雨が降る」

 感じたまま呟くと、間を置かず遠雷が聞こえ、本当にぽつりぽつりと小さな雨粒が草原を濡らし始めた。


「雨だ! 強くはならないと思うが、全員簡易テント設置!」

 リーダーが早急に指示し、先ほど一人離れたシェリー・メアリーを気にして目をやると、小高い天辺で動かずに、ただ立っているだけの彼女を確認した。

「シェリー、何突っ立ってんだ? テント設置急げ!」


 シェリーの時間が、まるで『ゾーン』に陥ったかの様にゆっくりになった。

 何故なら 今シェリーが立つ地は 彼女が幼い頃に「夢」で見た、


 あの雨の降る草原だったからだ。


 凄い事が起きたと、25歳のシェリー・メアリーは、夢の中と同じ風景を仰ぎ見る。


「――先生 あったよ。  草花の広がる大地が――」


 薄暗い雲の厚みが増していた。 雨足がほんの少し強くなった。


「あの頃はまだ小さくて、ワンピース一枚で…… 夢の中は……

 ――雨が頬を濡らしてた―― 」


 シェリーは気密ヘルメットのロックを解除すると、両手でひねり、ゆっくりと頭から外した。

 少し肌寒い外気が顔を撫でてゆく。

 雲を見上げるシェリー・メアリーの頬を、小さな雨粒たちがぽつりぽつりと濡らしてゆく。

 そのうちの数粒は目に入り、雨はシェリー・メアリーの一部になった。


「シェリー!」

 リーダーが慌ててシェリーの所へ走り出すが、ゾーンに陥った時間がもどかしい。

 草原の中腹でテントを設置していた皆がリーダーの声に驚き、更に気密ヘルメットを外しているシェリーを確認して酷く動揺する。


 目をつむり空を仰ぐシェリー・メアリーの顔に弾ける雨粒。

 頬がさらに湿ってゆく。

 ヘルメットがゆっくりと手からこぼれ落ちると、草たちの上にぽとりと転がった。

 だらりと垂らした両腕の、肘から先を少し持ち上げててのひらを上に向け、雨に当たる事をシェリー・メアリーは楽しむ。


「ふふふ♪シャワーとぜんぜん違う。とても優しい……」


 リーダーも皆もシェリー・メアリーの元へと駆けるが、ゾーンの時間がなかなか彼女へ辿り着かせない。


「汚染された雨 でも やさしい雨」


「幼い頃に見続けた夢も、正夢だっただなんて――

    こんなにも時を隔てた正夢を見るものなの?」


「雨粒たちが草原の中に消えてゆく時の、『サーッ』という静かな音。 雨の音」


「それから匂い。

 何かハーブティの冷めた様な匂い? 雨の匂い」


「どれも夢では気付けなかった…」

 シェリー・メアリーは思い切り深呼吸して雨の香りを楽しむ。



 リーダーが駆け上り終えた。

 大将リーダーは息を切らしている。 必死に駆け上って来てくれたのだ。

そのことを気にかけた、シェリーのゾーンが終了した。


 シェリー・メアリーはゆっくり目を開くと、リーダーに申し訳け無さそうに首を傾げ、微笑む。

 シェリー・メアリーの笑顔にリーダーも笑顔で悟ってくれた。

 ああ、雨を楽しみたかったのか と。

 皆も息を切らせながら次々と駆け上がって来てくれた。

「リーダー、みんな、ごめんなさい、もう少し…… お願い」

 シェリー・メアリーは顔を上に向けて、また目を閉じた。

「ああ ハアフウ、まったく フウヒイ、こりゃ フ~、帰ったら、フ~、謹慎ものだぞーっ ヒイフウ」

 ヤエルも息を切らしつつ聞いた。

「雨に打たれるって フウフウ、どんな感じ? フウ」

「とても気持ちいいの」

 シェリー・メアリーが目を細くした笑みで、本当に気持ち良さそうにしていると、なんと!

 リーダーのシンもヘルメットを取ってしまった!

「ほんとだ。気持ちいい。この気持ち良さはなんだ?」

 シンだけではない。リーダーの行動に促され、メキも、ファニタも、アラリも。そして、皆がヘルメットを次々と外す姿をキョロキョロしながら見ていたヤエルも!


 ゾーンの時間と共に静かに過ぎた、切なく危険な情景が、今は草原で雨を楽しむ6人を優しく包む。


― シェリー・メアリーの声 ―

「みんなが雨を楽しんでた」

「みんなも、 雨に打たれてみたかったんだ」


 みんな、 いつまでも雨を感じていた―― 


   ***


 雨の草原でも、汚染数値は安全値に至ってはいなかった。

 汚染されたシェリー・メアリーたちは、これ以上の探索は断念し、車両に装備された非常用水で緊急除染をしなければならなかった。


 車両まで帰り着き、除染処理をする頃には陽も落ち、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 車体を覆う防雨テントの内側で、皆は先ず防護服の上から、次に服を脱ぎ頭から、除染用の圧力シャワーを浴びた。


「私のせいでみんなの生涯汚染数値が跳ね上がってしまった……。

 でも、みんな笑顔だった。除染シャワーも水遊びの様に楽しんだ。

 誰も私を咎める事はなかった。

 尤も、私は誰かに咎められたなら『夢で見た場所なの』と言いたくてウズウズしてたのだけど、みんなは只、笑顔のままだった」



 早朝、大自然にそぐわない異質な人工物が、穢れた息をけたたましく吐きながらこの台地を後にした。

 シェリー・メアリーは座席から崖壁がいへきの彼方を見つめ、名残り惜しむ。

「幼い頃、何度も夢に見た草原についに巡り会えたのに、人生に何か大きな意味を持つイベントも特に無かった事に、私は大いにガッカリしてた。本当はもっとドラマチックなサプライズが起こりそうなものなのに……」

「これは、この事は、量子的な事と関係があるの?  

 意味があったのはあの場所ではなく、あの場所に現実に訪れた今でもなく、その場所を意識した時、つまり、夢を見たその時が何か意味のある事だったの?」

「それとも、例えば、1億年の時間をギュッと縮めて縮めて、うんと縮めて1年位にすると、私が幼い頃に夢に見たこの場所と、実際に私が出会ったこの場所の時間的差異は『無い』と言って良いほど、全く同じ瞬間だったのかも知れないし」

(この考え方って正しい?(汗))


 シェリー・メアリーは別れを告げる。立ち去れば、もう二度と訪れる事はないだろう。幼い頃、幾度も夢に見たあの草原に。


   ***


 数十日の予定を終えた調査車両が、採掘資源の詰まった貨物ボックスを山ほど積み、シェルターへ帰ってきた。

 久し振りに大きなエアロックが口を開け、技師たちが出迎えた。

 旧都市遺跡の資源採掘ベースキャンプでは、簡易除染しか出来なかった車両も人も、今から本格的な除染メンテナンスが待っている。

 車両は部品単位まで分解し洗浄され、放射性同位体となった金属部分はその汚染度合いにより破棄と継続使用の分類がなされる。

 シェリー・メアリーたちも細心の除染をしなければならないが、大雑把に説明すると、脱いだ服は洗濯され、人は除染浴をする。

 その〝お風呂〟で除染中の、ファニタ、ヤエル、シェリー・メアリーの3人の姿を覗いてみると――

 湯槽ゆぶねに浸かる彼女たちは賑やかしくお喋りを楽しんでいた。


ヤ「そっか。同い年の彼が34歳も年上になっちゃったのね」

シ「あの日からもう3年も経つけど…… ふふ」

ファ「一緒に住んじゃえばいいのに」

シ「え~?もう好きかも分からない30歳以上も年上の人と~?」

ファ「分からないからちゃんと確かめるのよ。ずっと悩んでたんでしょ? 忘れる事も出来ずに」

シ(ファニタ鋭い……(汗))

ファ「一緒に居る時間が増えるとそれが自然と分かってくるわよ? やっぱり好きだったと思えばもう一度くっつけば良いし、駄目だったら次の未来を選べば良いのよ。そもそも一緒に住みたい程じゃなかったらそれはもう好きじゃないのよ」

 25歳のシェリー・メアリーはとても久しぶりに「そうか」と、目から鱗がポロリと堕ちた。

 流石、時にシンを上回るリーダーシップを発揮するファニタの言葉は有無を言わせない。(汗)


   ***


 今回、雨を浴びた事で核汚染種の体内蓄積は早急に命を脅かすものではなかった。 皆40歳で最終冷凍睡眠を選べば人類解放の日には体内の汚染核種は放射線を放出し終えているし、生涯をシェルターで終えても重篤な汚染症には至らない程の量でしかなかった。

 ただし、僅かながらでも、汚染症疾患の可能性は確実に上昇したし、毎回、意図せぬ汚染に繋がる外界探索を続けてしまえば、数年後には細胞破壊による、複合的な疾患を招く恐れがあった。


 除染を終えた6人は、管理区へ今回の任務の報告に向かった。

 自ら汚染雨を浴び、仲間を同じ過ちに導いてしまった行動をシェリー・メアリーは義務報告し、シンはリーダーの責務を問われる事となったが、管理官が6名に下した判断を聞いてみよう。


管「そうか。 分かった。 こちらも多少の覚悟は出来てるつもりだったが、よく全員無事に帰って来てくれた。 どんな事があっても必ず帰って来てくれよ? 絶対、君達を守るから」


― シェリー・メアリーの声 ―

「6人全員、心で号泣だった」


「我らには雨に濡れてみたい願望があると思う。でもどうして実際そう言う事になったんだ?」

 管理官が訪ねた時、シェリー・メアリーは『来た!!』と思った。義務報告では言えなかった『幼い頃に夢に見た場所なの!』と言える瞬間が今、来たのだ! が、自分が声を発するより早く、ファニタがせんを制した!

「そうね―― 私たち人類も、まだこの地球の生態系の一部なのだと実感したかったのかも。

 例え1万6000年以上も今の地球生態系から、自らを隔離しているとしてもね」


 彼女の非の打ち所のない完璧な答えの後で『私が夢に見た場所なの!』 と続ける事はとても流れが悪かったので、シェリーは、またまた何も言えず仕舞いだった。(ファニタ完璧すぎる(汗))


「という事で私たちは無事解散したのだけど、私には3日間、リーダーのシンは2日、他のみんなは1日、 自宅謹慎処分になった。 みんな、ほんと、ごめんなさい(汗)」


   ***


 シェリー・メアリーの自宅謹慎が一日過ぎ、二日目も過ぎ、最終日は流石に休み疲れでイライラしていると、お昼過ぎにドアをノックする音がイーブンソング家に響き渡った。


「誰?(歓喜!)」

 シェリー・メアリーの顔が一瞬で真昼のドームの様に明るくなった。でも、2.0秒後には

「誰よ?……(不審)」 と、自宅前の通路の様に静かになった。 

 1000年間も空き家だった一人住まいの家に、訪ねて来る人など先ず居ないからだ。

「もしかしてヒュー?」 そう思うと一気に緊張してきた。(汗)

「探索チームの誰か?」 少し気持ちが楽になった。

「ウッド?」 寝てる寝てる(汗) 


 恐る恐るドアを開けると…… 


 誰も居ない…… 


 と思いたくなるほど、目の前には50代のヒューが居た(大汗)。

(いえあの、彼が嫌いという意味じゃなくて(汗))


「やあ(汗)、シェリー・メアリー。 今日、謹慎の最終日だと聞いて、それで、よ、様子を見に…… その、ほんとに久しぶり(汗)」

シ(ヒュー凄く緊張してるし、何か手荷物たくさん持ってるし♪)

 そう言うシェリー・メアリーもド緊張してるし。

「3年振りねヒュー。まあ、入って座って」

 ヒューは彼女の入室可の〝あごをクイっとする仕草〟にホッとして、

少し笑顔になった。

シ(せっかく来たんだから家に入れてあげなきゃね。手荷物も気になるし)


シ「で? 何故あなたが私の謹慎処分を知ってるの? 冷凍睡眠待機中じゃなかったの?」

 (私、いきなり問い詰めてるし(汗))

ヒ「君たちが謹慎処分を喰らった初日、『雨に濡れる権利』について緊急招集があったんだ。 で、たたき起こされたのさ」

シ「???」

 ヒューは沢山の手荷物をぶら下げたまま、まだ突っ立ってる。

ヒ「2日間議論を重ね『雨に濡れる権利』が俺たちの物になったよ」

シ「??? どゆこと?」


「空を見たいと思う権利、太陽が眩しくて暑いと感じる権利、星空を見たいと思う権利、これらシェルターの人たちの外界へ憧れる権利の中に、今度は『雨に濡れたいと思う権利』が追加さたんだ。つまり、シェリー・メアリー、君が『雨に濡れたいと思う権利』の先駆者になったのさ」

 これはいけないまずい事になったとシェリー・メアリーは焦る(汗)。

 ヒュー、まだ突っ立ってる(汗)。

「で、僕も電気保守技師の一人として解凍、招集され、その会議に参加。意見を適当に述べた後、昨日議決解散。今日は体調調整日になったのでここに寄ってみようと、その、思って……(汗)」

「私! 雨人間第1号になっちゃったの!?」

「記録上はね。おめでとう。あ、これオレが貯め込んでた長期保存食糧。少しだけどお土産替わり」

(来た♪)「うきゃ♪ うそ~? 私にぃ~? ありがとう~♪ ままま、立ってないで座って座って♪」

 ヒュー、やっと座れた。

「それからコレ」

 ヒューが別の手荷物から取り出したのは――

「お酒!?!?!?」

 ヒューはドヤ顔だ。彼はあの日、シェリー・メアリーが飲みかけたまま立ち去った数年前のあの日、酒房にグラスを返却する際、

「いつもあの、このお酒頼むの?」

 と特別に注文していた―― やるなヒュー(汗)


「少しはお酒を嗜むようになったんだって?」

(げ? 何故そんな事知ってるんだろう?)シェリー・メアリーはちょっと恥ずかしそうに頷く。

「初めて出会った時、君べろんべろんに酔っぱらってたのに(笑)」

「それ言わないで~(ハズカシイ)」

「でも次の日この家にお邪魔した時の君はとても眩しかったよ」

(ドキッ♪)「え? そ、そう~?」

 ヒューはボディラインが見える薄いワンピ姿のシェリーにやられてしまった時の事を懐かしく懐かしく思い出していたのだが、シェリー・メアリーはベッドにちょこんと座ってとてもキラキラ輝いている自分を想像して・ま・し・た。


「…… …… …… 」

 久し振りの二人は何を話して良いのか会話が続かない(汗)。

 シェリー・メアリーからすれば今のヒューは恋愛対象からは程遠い年上の男性だし、ヒューからすればシェリー・メアリーはずっと年下の女の子だった。

ヒ「じ、じゃ、オレ、帰るよ」

シ「あ、そ、そう?」

 ヒューは座って数分も経たずにもう椅子から離れてしまった。

「またな。シェリー・メアリー」

 50代後半のヒューは、自分の若い頃から寸分も変わらない可愛い嘗ての恋人の姿を、名残り惜しそうに、本当に名残惜しそうに見つめながら暇を告げると、シェリー・メアリーが声を掛けた。


「ヒュー、あのね」

「何?」


「一緒に住んでみたいの」



 さあ、そこからのヒューの行動は量子テレポーテーションよりも早かった!(科学的には完全に間違った表現だ(汗))

 長期生活申請を管理区に提出、じょうじつ待機電気技師としての勤務変更と、それから、結婚生活とは異なる恋人同棲登録を済ませた。


シ「ただし」

ヒ「え?」

シ「恋人としてではなくて、家族として」

ヒ「(大汗)父と、娘?」

シ「と言うより、叔父と姪っ子みたいな感じ?」

ヒ(微妙~)

 それでもヒューの量子テレポーテーション的速さは緩まなかった。 

なんつったって何と言ったって

34年間+3年、思い続けてきた女性が34年前と変わらぬ姿+3年大人になった姿のまま、一緒に暮らせるのだ。こんな凄い事は人類の長い歴史の中で先ず、あるもんじゃあない。

『どうだ、羨ましすぎるだろ?』

 外見は男らしくオヤジ臭い容姿のヒューが、どこに向けるともなくドヤ顔で〝また泣いてる〟


   ***


 ヒューの部屋で一緒に住み始め十日程が経った。だが叔父と姪っ子としての約束をヒューは守り続けていたので大丈夫。

 彼は十分過ぎるほど成長した大人の男だ。若い頃の様に我慢出来ずに暴走するなんて事は―― 


 あれ?

 ウソ?(大汗)


 ヒューのベッドで二人がシーツに包まり、シェリー・メアリーは素っ裸で背中を向け、赤ん坊の様に丸まり、スヤスヤと寝入っている。 ヒューは青い夜の明るさの中、シェリー・メアリーの露わな背中を見守るような、優しい眼差しで見つめている。


 シェリー・メアリーが若かったのだ。

 彼女が若くて暴走してしまったのだ。

 優しい眼差しのヒューの目にまた涙が溢れていて、彼の事はホント見ていられない。



― 25歳で再び、ヒューに、その(汗)、XXれてしまったシェリー・メアリーの言い訳 ―

「ヒューと暮らし始めると色々な事が楽しくて仕方なかった。シェリフの思い出もたくさん話してくれた。私の知らないシェリフが居てとても嬉しかった。私の事もたくさん覚えててくれてた。私が忘れていた事まで覚えてて、彼の記憶で自分の事を思い出すほど。

 ああ、この人はやっぱりヒューなんだと、日に日に感じてた。 そしてある日、気が付いた」


「大人のヒューの事も、私、好きになってた」


「ずるいと思った。大人のヒューは私の事を何でも知ってるのだもの。私は大人のヒューの事、何も知らなかった」


「彼は本当に私を大切にしてくれてたけど、何だか腫れ物に触る様な日々だったので 『私を壊れ易い品物の様に扱わないで』と、文句を言ったら 『君との生活その物が美しくて折れ易いガラスペンの様なものだから』って、格好付けた事を言ってたので、私、頭に来ちゃって 『私あなたの女神じゃないの。ちゃんと一人の女として愛してください!』 って、気がついたら彼の目の前で私……全裸になって……(恥ず)その、……ま・し・た♪」

「彼、また泣いてたけど。 うふふ」


 以上、若いシェリー・メアリーが暴走した言い訳でした。(汗)



「でも―― みんな知ってた」

「私がこの時代から再び去ってしまう事を」


「勿論ヒューも、ううん言い直し、寧ろヒューの方が私よりも理解してた」



 同棲生活も1年が過ぎ、シェリーも26歳になっていた頃、

 バスルームで、二人が〝雨の中のキスごっこ〟にとろけていると、シェリーを抱き包んでいたヒューが彼女を見つめながらささやいた。

「君はまた眠るんだろう?シェリー」

「……うん? どうして?」

 キスの余韻にと浸りながら、シェリーが聞き返した。

「近頃ずっと、何か思い悩んでいるから」

 シェリー・メアリーは何も言わずに、寂しそうな微笑を彼の濡れた毛むくじゃらの胸の中に埋ずめてしまった。

 シャワーの打ち滴る音だけが、蒸せるバスルームに響いていた。



「私はこの幸せがずっと続けばいいのにと思ってた。でもそれは再び眠らなければならない覚悟の裏返しだった」

「ヒューはその事に気づいてた。 ああ、だから、ヒューは、私が再び去ってしまう事が分かっていたから、だから、二人の暮らしが『ガラスペンの様に折れ易い』と、言ったのだと、やっと気づけた」

「今までその事に気づけなかった自分が とても……

 寂しかった……」


「答えを見つけるまで諦める訳にはいかなかった。

 私の正夢や不思議な夢たちが一体何なのか、気がつけば、人生を賭けて知りたいと十代の頃から思い続けてた」


「もし諦めてしまった時、幼い頃の自分にどんな言い訳をするのだろうと考えた事があった。

 幼い私が目の前に現れてこう言うの」


『私の未来、今のあなたはどんななの?』


「幼い私が『なぜ諦めたの?なぜ夢を追いかけなかったの?』と問い掛けたなら、私はどう答えれば良いのだろう――」


「小さな頃の私を見た時から、夢を諦める選択肢は無くなった。

 もし諦めてしまえば、生まれ育った時代を後にしてまで旅立ったその意味は何だったの?と、我が人生を問い詰める後悔がその後の私を支配しただろうから―― 」


   ***


 26歳のシェリー・メアリーが二人の管理官に付き添われ、再び1000年の眠りに着くため、冷凍睡眠区へ赴いた。


 彼女が眠る冷凍睡眠室はドーム2から階段を上る先にある。

 その階段を上り終え、踊り場から今、歩いて来た石畳の小道を見下ろすと――


 ヒューが彼女を見上げていた。


 彼は以前の様に、シェリー・メアリーがカプセルに入る所までは見送らなかった。

「1000年後に目覚めた時、たった今まで居た貴方ヒューとシェリフが居なかった事がなんだか不思議で寂しかった」

 いつか彼女が漏らした言葉だ。 ヒューはその言葉を思い出し、今日の、この別れが今生の別れになるからと、シェリーが目覚めた時、彼女の人生が迷わず前を向けるよう、別れの覚悟の記憶をシェリー・メアリーに刻んで欲しくて―― ヒューは階段の手前で踏み止まったのだ。


「シェリー・メアリー、あなた本当に今の暮らしを捨てるの?」

「ヒューとの幸せを終えていいの?」

「探索チームのみんなとお別れしていいの?」

「再び馴染んで来た、古くて新しいこの故郷とお別れしていいの?」

 シェリー・メアリーがこの数か月、ずっと思い悩み続けてきた言葉たちが、今も彼女に優しく切なく纏わり続ける。


 ヒューは、ただ、シェリー・メアリーを見上げていた。

 すると――


 今日の彼は泣いてはいなかった。


 一本の樹木が視界に入る、芝生に敷き詰められた石畳の小道に堂々と立つヒューのは、今日は泣いていない彼の、男の格好良さと品格を最高に引き立てる構図となって、シェリー・メアリーの目に、心に、焼き付いた。

 シェリー・メアリーを見上げるヒューの、

 胸を張り、目を細め、口角の少し上がった精悍な顔つきは、



 最高に男らしかった。








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