第1章 ~眠らないで~ 


 透き渉る青い空が静寂を装いながら、錆び茶けた大地を見下ろしている。

 温暖化による気候変動の暴風は、1万5000年もの間、地球環境を痛め続けた。だが、その猛威も今はすっかり息を潜め、空と大地は不気味なほど穏やかで優しげだ。

 赤茶色のまだら模様が織りなす、生理的に近寄り難い台地のさまは、悠久の時をかけ、生命を拒み続けた火星のそれとよく似ている。

 赤い地表の所々にたくましく群生する、見慣れない雑草だけが大地に抗い、時おり、息苦しそうにそよぐ風に背を向けながらも、まるでこの惑星のあるじであるかの様に、その存在を誇示している。


 焼け焦げた様な土肌が続く丘陵の、所々に突き出る〝針の束〟は、一度土砂に埋もれ石化し、風雨がその表層を永い年月を掛けて削り、再び顔を覗かせた樹木の成れの果てだ。 その見るからに痛々しい姿は、かつてはここが瑞々しい緑豊かな大地であった事を物語る。


 赤い大地は霞む彼方の地平まで続き、ぐるりを望むと、地平線上に人工物らしき物が見える。

 その上空まで近づくと、多角錐や曲線立体等の凝った建築美をようした、芸術性溢れる集合建築物だ。ただそれは、くたびれ切って、黄昏れの時に佇んでいた。


 この構造体が、当時ビリオネラと呼ばれた最上級富裕層のシェルターだった事は、そこかしこに誇張された、豪華で贅沢な装飾を見れば容易に想像出来る。 だが、かつては豪華ごうか絢爛けんらんだったシェルターも、その外郭がいかくには、無数の古びた風力発電装置と太陽光発電パネルがひしめき、建設当時の豪華さには程遠いいびつな進化を遂げていた。


 建築群の敷地内に入り、辺りを見渡すと、巨大な壁面に設けられた重機用エアロックが、今、開き終えようとしていた。



 ガロガロと唸る音と共に、薄黒い排気煙を大量に吐く大型車両が、のそり、と姿を現すと、彼はうめき声を上げながら重そうに加速し始めた。 気密防護服の数人がエアロックの脇で手を振っている。

 赤茶けた大地に黄色い砂煙を巻き上げ、ノロノロと遠ざかる大型車両の姿は、まるで、終焉を迎える年老いた大型哺乳類の様だ。


 車両に近づくと、その〝見てくれ〟は何処かいびつで、当時は他の目的で製造された専用車両であったろう車体は、今はあちらこちらに改造が施されている。 ドーザーやショベルの重機も組み込まれた、ごちゃごちゃした装置と共に、居住室も設けられた車両は、至る所に処狭しと軽金属製の貨物ボックスが積み重ねられ、固定網で頑固に縛り付けられている。


 居住室では、薄汚れた気密防護服に身を包んだ数名の男女が、山積みの貨物ボックスと共に、狭くなった室内で座席に揺られている。

 悪路で大きく揺れる度に、ボックスと固定網がギシギシと突っ張り、乗員は足で踏ん張り、手スリで支えなどして、乗り心地は良くは無さそうだ。

 その中の、20代半ばほどの女性が座席に揺られながら、車窓から赤茶けた大地を眺めていた――



  『私は生まれた。 この世界に  生まれた』



 灰色の小さな部屋がある。

 誰かの視覚の内側からその部屋を見ている。

 視界は歪曲し、中心から広がるほど霞み、ぼやけ、はっきりしない。

 視野の死角から、若い女性が目の前に現れ、顔一面にこちらを覗き込んできた。

 女性は優しい笑顔で、赤ん坊をあやす様に話しかけるが、声は幾重にも反響して聞き取りにくい。


 時が移り変わると、同じ部屋の床には、小さな女の子がぺたんと座り、如何にも手作りと分かる、縫いぐるみの人形で遊んでいる。

 他に楽しげな玩具も無く、部屋は質素で色彩も落ち着き、どこかしら寂しさがたたずんでいる。

 髪形や服装が少し変化した、先ほどの若い女性が女の子の名を呼び、抱っこした。

「シェリー、おなか空いてない?」

 抱っこされた女の子の瞳に若い女性の顔が映り、女の子の声だけが聞こえる。

「おなかちゅいてない まだあそぶの」


  『私の最初の記憶は、この小さな部屋の中』

  『でも、幼い頃、この部屋はとても大きくて広かった』


 4歳に成長した女の子に、母親が絵本の読み聞かせをしている。


  『私には名前があるという事を、初めて認識した日なんて覚えてないけれど、

  自分の名前を強く意識した時は、覚えてる。 それは、絵本に自分と同じ名

  前があった時だ』


「メアリー?」

 開いた絵本を見ている小さな女の子が、母に尋ねた。

「そうよ、シェリー・メアリー。 貴女あなたと同じ名前よ」


母娘の家に代々伝わる、メアリーとジョンの恋の物語が綴られた絵本。 それは、人類壊滅の年、其々それぞれのシェルターに避難せざるを得なかった主人公たちの悲恋を、いつか再び、両家の子孫が出会い実らせてほしいと〝初代〟メアリーが願いを込めて手作りした。


 女の子の母は何度も絵本を読み聞かせ、物語を我が娘の記憶に刻ませた。


女の子は絵本の中に出てくる〝小さな泉の、白い秘密のガゼボ〟が大好きだ。 お庭の緑に囲まれたこんな素敵なおうちが、きっと何処かにあると信じている。

 絵本に描かれる白いガゼボは、手入れの行き届いた茂みの中に忍ぶ様にたたずみ、壁と窓があつらわれ、まるで小さな家の様だ。


女の子の名は――

 シェリー・メアリー・イーブンソング。

 この時代の、人類の運命と共に生まれた。


   ***


 夜、眠る4歳のシェリー・メアリーは母と一緒に大きなベッドの中だ。

 少しむずかうシェリーは――

 古びたトンネル状の通路に、一人立っていた。


 風の様な何かが、シェリーを通路の奥の、薄暗い十字路へ引き寄せようとしている。それが風で無い証しに、通路の花壇に植えられた食性植物は少しも揺れない。


 ごうーっと、風でない音が絶え間なく聞える。十字路の中央には大きな縦穴が貫かれ、奥底は深淵の闇だ。 穴の中に引き込こまれまいと幼い彼女は抗うが、小さな身体は目眩めまいの様に自由が利かず、少しずつ十字路に引き寄せられて行く。


 シェリーは意を決し! 思いっきり息を吸い込んだ!

――すはぁっ!!――


 その夢は、必ず家の前の通路に立つ所から始まった。

 現実では何でもない通路が、夢の中ではとても怖い。 奥の十字路にある縦穴に毎回、彼女の意識が引き込まれそうになる。

 シェリーはその夢を4歳前後の頃、何度も見ていた。


十字路の縦穴は、シェルター建築当時に使用された地下水の通水坑で、文字通り地下深くまで貫通していた。

 シェリーの幼い頃は、既に格子状の鋼網が各階に設置され、事故が起きる事は無かったが、覗き込めば闇に吸い込まれるような怖さがあった。


夢の中の縦穴には鋼網がなく、幼いシェリーを引き寄せようとする。彼女は抗うが、体が支配されかけ上手に抵抗出来ない。『もうだめだ』と、意識がなくなる所で、いつも目が覚める。怖くて怖くて毎回ドキドキするのだが、夢だと分かっているから、また眠気に襲われて眠ってしまう……


 何度も同じ夢を見ていると、『ああ、これは夢なのだから引き込まれる前に何とかして起きなきゃ』と思う様になったシェリー・メアリーは、その夢だけは自在に目覚めるすべを身に付けてしまった。


 その方法とは――  


「思いっきり! 急いで! 息を! 吸うの!!」

4歳の彼女が得意満面に発した。


夢の中で素早く、勢いよく息を吸うと、現実に寝ている彼女も強く息を吸い、覚醒して目覚める事が出来る技だった。

 このを会得して以来、暗闇の穴まで引き寄せられる事はなくなったのだが、その事に安心したのがいけなかった。


「――穴の中に何があるのだろう?――」


 ある日、シェリーは怖さより興味が勝ってしまい、意識が引きずられるまま暗い縦穴の奥底に身を任せた。 闇の中で、何もかも渦巻いて回り始めると、直ぐに気を失い、目覚めると朝だった。 穴の中は最悪の気分で何か在る訳でもなかった……


   ***


「行ってきまーす」

 6歳に成長したシェリーが文具の入ったカバンを引っ提げてホームドアから飛び出した。 程なく通路を駆け抜けると、出口の先には巨大なドーム空間が姿を現し、小さなシェリー・メアリーが風景の中に溶け込んでゆく。


 その人工的な空洞は広大な屋内世界であり、明るく、景観は圧倒的だ。 見渡せば一回り小振りな二つのドームが、メインのドームを中心にL字型に連なり、巨大な地下空間を構成している。

 3つのドームは、中央に位置するメインドームを「ドーム1」、他の2つを「ドーム2」「ドーム3」と呼ぶ。 遥か昔は運動と公園を兼ねた、人々の安らぎと交流を目的とした、建築美溢れる緑化空間だった。 時を経た現代は老朽化した天井を支えるため、建築当時には無かった石柱があちらこちらにそびえ立つ。

 何世代にも渡って補修に補修が重ねられた三つのドームは、見上げれば壮大な前衛芸術の様だ。


 シェリーが息を切らせながら、十名ほどの同級生たちと教室の席に座っている。

 教室は簡単なパネルに囲われているだけで屋根はなく、巨大なドームの緑豊かな敷地内にあった。


「新入生の皆さん『青空教室』へようこそ!」

 屋根のない教室に女性教師が入ってきた。


シェリーは学校へ行く歳になった。教師は、この学校を昔で言う『青空教室』と言うが、新入生は『青空』が何の事か分からない。


 教室を囲うパネルは、座る肩の高さ程で窓はない。各教室は授業がうるさくない程度に離れている。学校全体はよく手入れのされた緑の植え込みの中にあり、心地良い学びとなっていた。

 席からドーム1を仰ぎ見れば、数十メートル上の天井には疑似自然光のライトが無数に照らされ、ドーム全体を明るくしている。

 遠い過去、シェルターに逃げ延びた人々が、世代を超えて生き続けなければならないと悟った時、子どもたちへの教育が始まった。

 当初は居住区の小さな一部屋だった。その内、せめてシェルターの一番広い所でのびのびと勉学をと、このドーム1の公共広場に学校を開設し、それが世界各地のシェルターへと広まった。


 雨は降らないので青空教室でも全く問題はない。尤も生徒たちが雨の存在を知るのは『水と食糧生産』を学んでからだ。


 教室の子どもたちが「雨」を教わり「わあっ」と驚いている。

 6歳のシェリー・メアリーも雨の存在に興奮気味だ。

そらからみずちてくるなんて、もう、本当ほんとうしんじられなかった!」

「そのはさっそく、バスルームで『雨遊あまあそび』をした」

あめたかいところからるから、シャワーをあかりにっかけてたら、ちておおきなおとがしたの。 おかあさまがびっくりしてんでて、私をギュッときしめたけど、しかられちゃった」



 6歳になると、シェリー・メアリーは自分の部屋を与えられ、大はしゃぎだ。

 彼女は早速、自分のベッドで寝るようになった。


 初めての自分のベッドでの夢。

 広々とした薄暗い草原に一人ぽつんと立ち、低く垂れ込む雨雲を見上げる、ワンピの寝間着姿の幼いシェリー・メアリー。


「どこからないところ」

「ここは…… シェルターじゃない……」

天井てんじょうのないところ。ドームよりも、もっともっと、ずっとたかい。 くらくてモクモクしたものが、とおくまでおおってる」

「おはなくさだけの地面じめんがつづいてて、ほかにはなにもないところ」

「とてもひろくておおきなところ、ことのないところ」

わたししかいなくて、一人ひとりぽっちで、こわくてたまらない……」


そらからみずちてきた!」

「たくさん たくさん!」

「ここは、とてもおおきなバスユニットなの?」


 一人ぽっちの怖さも忘れ、小さなシェリー・メアリーは、降り注ぐ小さな水の粒たちに、気持ち良さそうに打たれる。


「そうか これが『あめ』なんだ」


 小さなシェリーのほっぺに、幾つもの雨粒が、ゆっくりとした時間の中で、打ち滴る。

 薄明るい広大な草原の中で、6歳の彼女が両掌りょうてのひらを上に広げ、雨に打たれる事を楽しんでいた。


   ***


 青空教室で小さなシェリー・メアリーが学んでいる。

 天井は相変わらず高く、疑似自然光がまぶしい。 開放的で、落ち着いた勉学が出来ていた子どもたち。

 でも、たまに慌ただしい時間がない事もなかった。


 子どもたちの教室の直ぐそばを、フルハーネスの安全帯を纏った電気保守技師の大人たちが慌ただしく駆け去ってゆく。先生も不安そうに彼らを見つめている。

 電気保守技師たちが騒がしい時は大抵たいてい、電源喪失危機が訪れた時だ。

 シェルターの屋根や周辺には、無数の風力発電装置や太陽光発電パネルが設置されていて、この時代の人々の生活電源や冷凍睡眠用電源をまかなっていた。その一部でも不具合が生じれば、たちまちシェルターの生命維持が不安定になり、最終冷凍睡眠の人々にも死が訪れる危険が生じた。 シェリーの幼い頃は、まだ温暖化気候の湿った強風が吹き荒れており、不具合発生の頻度が高く、その度に慌ただしい技師たちの姿が見られた。


   ***


 教室の席に座る6歳のシェリー・メアリーに時が重なり、徐々に移り変わると、背丈がほんの少し伸びた、7歳のシェリーになった。


彼女たちが暮らすシェルターの世界はとても小さく、自ら囚われたのだと教わるのは、学校に馴染んだ1年生の終わり頃だ。

 外の世界がある。と言う事実は、学校で少しずつ学んでゆくが、それ以前に、シェリーはイーブンソング家の絵本から、過去の世界に何が起こったのか何となく分かっていたし、他の生徒たちも、大抵は親との日常生活の中で、知識を得ていた。子どもたちは外の世界はずっと怖い所と言う以上に、どこか、憧れる異世界でもあった。

 だが、人類がなぜこのシェルターに居るのかを教わるのは、『歴史』の授業が始まるまで待たなければならない。


 7歳のシェリー・メアリーが前衛芸術の天井を見上げ、空想を開始する――

 ドーム1の天井から、静かな雨粒が幼い彼女の顔を濡らし始めた。

「ほんとうのあめはどんなかんじなのかしら」

 背景はいつの間にか、若草萌える、あの夢の中の草原になった。

 空は薄い雨雲で覆われているが明るく、遠く雲の切れ間から優しい光が漏れている。

 目を閉じ、雨を楽しむ7歳のシェリー・メアリー。

何時いつものゆめ あめゆめ。 おなゆめかえし」

 怖い通路の夢はもう見なくなったシェリーは、代わりに草原の雨の夢を何度も見るようになった。


「なぜわたしおなゆめ何度なんど何度なんどるのだろう…… 

 ゆめって、いったいなんだろう?」


「シェリー、寝てるの?」

 女性教師の優しい声が、シェリーを教室に連れ戻した。勿論、ドームに降る雨はシェリーの空想だ。 シェリー・メアリーは雨粒の草原からハッと我に返り、今、自分は青空教室に居たのだと慌てると、急に席から立ち上がり先生に質問した。

先生せんせい! そと世界せかいはずっとずっと草花くさばながあるところなの?」

 教師は、突飛なシェリー・メアリーの質問に、ちょっと面喰らった。

「そ、そうねえ、そんな場所もあるかな――

 シェリーは、外の世界は草花がずっとある所だと思うの?」

 質問で返した教師に、今度はシェリーがしどろもどろになった。

「い、いえ、なんでもないんです。ごめんなさい」


 教師は草花の大地を否定も肯定もしなかった。

 荒廃した地上の先には、旧都市遺跡がある。大昔から資源調達もあった。小さな雑草たちも、汚染の中で生きていただろう。だが、幼かった子どもたちは、それを知る準備がまだ出来ていなかった。

 教師の沈黙は教育者としての、子ども達への配慮だった。


 ――外は人類が生きていた所。やがて天候が狂い始め、人工の毒が地球に蔓延すると、人々は今の家『シェルター』に逃げ込んだ。

 毒が消え去る10万年後、再び人類が外の世界で暮らせる日が来るまで、人々はシェルターで生き延びると誓った。

 冷凍睡眠が発明されると、エネルギー消費や逼迫ひっぱくしていた食料供給の問題が大きく改善された。シェルターの保全修理が必要になれば、多くの技師が冷凍睡眠から目覚め作業すれば良い様になった。

しかし、一人の保守技師がここを守る時間は、冷凍睡眠を利用しても数千年しかなく、人工の毒が無くなるまでの10万年と言う永い永い時間の間には、新たな技師の育成が必要となった。 



 それが―― シェリー・メアリーたちが生まれた理由だ。



   ***


「シェリー、この絵本、覚えてる?」

 自宅のテーブルで11歳のシェリー・メアリーと向かい合う母親が、幼い頃のシェリーに読み聞かせていた絵本を持ち出した。

「お母様、私、もう読み聞かせされる歳じゃないわよ?」

 11歳のシェリー・メアリーは母の意図が分からない。両手で頬杖を突き、口を尖がらせると、ほっぺをぷくりと膨らませた。

 母はシェリー・メアリーの不満顔を満面の笑みで見つめる。

「これは私の大切な宝物。この絵本は私のお母さん、つまり貴女あなたのお祖母ばあ様が、私が11歳の時に、私に下さったの」

「え?その絵本、私のじゃなかったの?」

「この絵本はイーブンソング家に代々伝わる原本を写本した物よ。 我が子が10歳を過ぎた頃に、親が写本して手渡す事が、何時いつの頃からかイーブンソング家の習わしになったの」


 母は、不透明パックに保管されている、初代メアリーが認めた原本と、母が写本した真新しい絵本を取り出した。 テーブルの上には今、同じタイトルの3冊の絵本が置かれている。そのうち、シェリーの母が写本した一番新しい絵本を見れば、この絵本の手作りの表紙絵が、素朴な美しさを放っていた。


{ ~忘れないで~ 私とジョンの10万年の恋の物語 }


「この新しい『10万年の恋の物語』は貴女のものよ」

「きゃあ♪」

「原本は貴女が二十歳になった時にプレゼントするわ。私も貴女のお祖母ばあ様からそうしてもらったの」


 11歳のシェリー・メアリーは母から手渡された自分の絵本に魅入りながらゆっくりと表紙をめくる。

 見開きに広がる、洒落たつる草模様の中表紙には、この絵本のタイトルの詩が綴られていた。



{ ~忘れないで~ }


 忘れないで

  私たちがこの星で生まれ 生き 死んでいったことを。


 忘れないで

  私たちの祖先も この星で いのちを紡いで来たことを。


 忘れないで

  私たちの子孫も また いのちを紡いでゆくことを。


 忘れないで

  この星に 私たちがいたことを。

 

 忘れないで

  私たちが 居たことを   忘れないで…… 



― 2見開き目 ―


 私はメアリー・イーブンソング。

 2011年、富裕層と呼ばれる一経営者の家庭に生まれました。父と母、そして祖母と私の4人家族です。

 幼少の頃は何不自由なく育ちましたが、父と母は仲が悪く、寂しい子供時代を過ごしました。 祖母は優しく、私を慰め諭す時、いつも『うふふ』と微笑み、不安や寂しさから私を守ってくれました。

 私は祖母のお陰で、笑顔で居る事が出来ました。

 私は―― 両親と住んで居るのに、おばあちゃんっ子でした。



― 3見開き目 ―


 ある時、お母様がお父様と大喧嘩をしました。お母様は家を出てき、二度と帰って来てはくれませんでした。 祖母はこの時も笑顔で、でも寂しそうに、優しく私を抱きしめてくれました。


 その頃、何処かのお屋敷で、私と同じ年頃の男の子と出会いました。 お互い自己紹介すると、お花がたくさん私たちに降り注ぎました。上のテラスで、大人たちがフラワーシャワーの祝福をしていたのです。

 私が花占いを始めると、その男の子は『花がかわいそうだよ』と花を花壇のふちに置き、花びらを元通りに並べました。

 その男の子が、ジョン・ユーラーでした。



― 4見開き目 ―


 14歳の時、大好きだった祖母が亡くなりました。

 寂しさが永遠に続く様な日々。 父は取引先の集いへ私を強引に連れ廻し、あの日も、ある結婚披露宴に出席させました。

 社交辞令の挨拶。悲しみを隠した笑顔。いつもと同じようにそつく過ごさなくてはなりませんでした。でも、その披露宴こそ、ジョンのお父様と、新しくお母様となるエレナの披露宴だったのです。

 私はエレナと出会い、彼女がジョン・ユーラーとの再会を導いてくれたのです。



― 5見開き目 ―


 その日、ジョンは初めて〝小さな泉の、白い秘密のガゼボ〟へ私を招いてくれました。

 彼が、幼い頃に亡くしたお母様と過ごした、彼の大切な思い出の場所。庭の茂みの奥に隠された〝秘密のガゼボ〟の、なんと素敵な事だったでしょう。


 私は、ジョンとユーラー家の人々との出会いに運命を感じました。

 なぜなら、ジョンとの再会に導いたエレナの仕草や口癖、優しさが、大好きだった祖母に、良く似ていたからです。


 ジョンと三度みたび会えるのは数年後でした。私が社交界へデビューする18歳の時、彼はまたガゼボへ招く約束をしてくれました。

 ですが時もなく、父が私の婚約を決めてしまったのです。


 微かな望みを胸に、電話を掛け、ジョンに伝えました。

 暫く自室の窓から玄関を眺めていると、彼が車で迎えに来てくれました。



― 6見開き目 ―


 私たちは誰にも気づかれずに白いガゼボで忍びました。


 二人だけの美しい時間。 

 月明かりのキス。

 あの日過ごしたガゼボの、なんと素敵な一時ひとときだったでしょう。



(6見開き目の文章はこれで終わり、月明りの中の、青白いガゼボの挿絵が全面に配置されていた。 その色合いや構成は見事で、見入れば、ガゼボの中には唇を重ねる男女の小さなシルエットが偲ぶ様に描かれている事に、誰もが気づくだろう)



― 7見開き目 ―


 私たちは結婚を誓い合いました。

 ですがその年こそが、人類壊滅の年だったのです。


 瞬く間に世界の終わりが訪れ、私たちは別々のシェルターへ避難しなければなりませんでした。

 それは、二人が二度と会う事の出来ない、運命の始まりでした。


 それぞれの避難先で僅かな時間、連絡を取りあえた時、ジョンは私に提案します。『お互い、今居るシェルターの人と結婚し、何時いつの日か、自分たちの子孫を結ばせよう』と。

 その願いを叶えるには、人類が解き放った毒が世界から無くなる、10万年後まで待たなければならないのかも知れませんでした……。



― 8見開き目 ―


 ジョンはあちらのシェルターで結婚し、子供が授かった事を見届けると、食糧生産設備構築の命がけのミッションを成し遂げ、一人旅立ってゆきました。幼い頃の彼とお母様との思い出溢れる〝小さな泉の白い秘密のガゼボ〟に帰る為に。

 私を置いて――  家族を残して―― 


 ジョンを失った私は、祖母から教わった先祖のお話を思い出していました。 中世欧州に興ったイーブンソング家。争いに敗れ、滅亡の間際、血筋を絶やさぬ様にと主家からめいを受けた一族の青年。

 彼が海を渡り、このアメリカ大陸へ逃れて来た時のお話を。



― 9見開き目 ―


 青年は、自分一人生き延びても、一族の血が薄まるだけなのではと不安に襲われます。ですが只一人、従者として連れ添った侍女が

『血は薄まるのではなく、あらゆる血が混ざり、貴方様の血はより濃くなるのです』 と説き、青年を導きました。

 青年は、この女性こそ我が伴侶だと、結婚を申し込み、二人は結ばれ、イーブンソング家の血を守り続けたのです。


 私の祖母の曽祖父母がその両人でした。

 私はイーブンソング家のこの物語を、子孫たちが伝え続けてほしいと願いました。伝え続ける事によって私たちの血は続き、いつかジョンの血と結ばれると、強く思ったのです。



― 10見開き目 ―


 ユーラー家とイーブンソング家の子どもたちにお願い。

 どうか、私たちの事を忘れないで。

 何時の日か再び、ジョンと私の血が巡り逢えますように。

メアリー・イーブンソングより、ジョンとメアリーの子孫たちへ、愛を込めて。



   ***



 ともすれば、子どもには見せ難い表現になってしまう物語だが、初代メアリーは十分に配慮した言葉使いと、優しい挿絵を添えて絵本として完成させた。

 特に月明かりのガゼボの挿絵は素敵だ。

 彼女が過ごした美しい時を、在るがままに描いていた。



 自分の所有物となった『10万年の恋の物語』を読み終え、そっと本を閉じた11歳のシェリー・メアリーはとても満足げだ。


 母が11歳のシェリー・メアリーに絵本を託した時、この物語は1万5000年前の本当の出来事だった事。 その後、子孫には男の子であれば『ジョン』を、女の子であれば『メアリー』をセカンドネームに付け、一族に伝え続けて来た事を初めて語った。


「そんな事、もう幼い頃に気づいてたっ!!」

 11歳のシェリーは母に向かい、両手で頬づえを突き、また口を尖がらせてほっぺたを膨らませた。


 絵本のお話は本当に有った事なんだと、幼い頃から少しずつ気づいていたシェリー・メアリー。 母からそれを聞く事で、ただの確信だったものが、運命へと昇華した。

 母は見事に一族の悲願の継承を成し遂げた。シェリーはユーラー家の子孫と結ばれる約束を果たす為、必ず結婚し子を授からなければならない枷を背負ってしまった。


 シェリー・メアリーが再び自分の絵本をめくり、一番美しいページを開いて母に尋ねた。

「ねえ、お母様、この秘密のガゼボは何処にあるの?」


 11歳の少女が無垢のまなこを母に向けていると、母は少し躊躇ちゅうちょしながら、優しく微笑み答えた。

「今でも何処かにあるといいわね」


 1万年以上前のガゼボが既に存在しない事くらい、母も容易に想像できたろう。だが11歳の娘にはそう言わなかった。 幼い頃の彼女も娘と同じ様に、あのガゼボが大好きだったからだ。


   ***


 12歳になったシェリー・メアリーはまた少し背が伸び、髪形は一本三つ編みになり、体型もひょろりとし始めた。


 子どもたちは12歳になると、人類の歴史を学ぶ。

 教室も上級生の部屋に移り、クラスメイトたちは新たな席で授業の開始を待っている。が、シェリーは今朝見た夢がとても気になり、どこか上の空だ。


 それは青空教室の夢だった。生徒に何かが配られ、それを手にしたシェリー・メアリーは酷く驚き、思わず自分の席から立ち上がってしまう――。


 シェリー・メアリーが我に返ると、生徒たちに教科書が手渡され始めた。

「人類の歴史」と題したこの教科書は、随分と使い込まれ、補修の痕があちらこちらにある。

 著者に〝スティール・ジョン・ユーラー〟の名を見たシェリー・メアリーは、目がどうにかなりそうな程に見開くと! ガタン! 大きな音を椅子にさせ、思いっきり立ち上がってしまった!


 絵本で何度も目にしてきた『ジョン・ユーラー』と言う名前。

 シェリーは著者の名前に、朝見た夢と同じ様に驚いて、しかも夢と全く同じ様に立ち上がったから、さらに驚きが重なって、もう、どうして良いのか全く分からない。


「シェリー、大丈夫ですか?」

 立ったまま焦点が定まらないシェリー・メアリーに、歴史を教える男性教諭が声を掛けた。

 シェリー・メアリーは我に返り、また慌てて自分の椅子にドスンと座った。


 最初の歴史の授業はこんな風で、シェリーは夢が現実になった事と、著者の事がぐちゃぐちゃに絡み合ってしまって、全く頭に入らなかった。

 授業の後で教諭に尋ねると、著者はUSA一般階級経営者用シェルター『チャールトン・ホソノ』の電気保守技師で、40歳になった西暦4569年から4589年まで保守業務に従事しつつ、この歴史書を完成させたという。

 間違いなく 初代ジョンとメアリーの、もう片方の家族、

――ユーラー家の人だ――


 シェリーは教師に「そのシェルターはまだ生き残っていますか?」

と当然聞いた。

 しかし、各シェルターの所在は上層部と一部の管理官にしか知らされてはいないし、当然、教諭は首を横に振るだけ。

 どうしてか?

 もし、シェルター間が行き来できる距離にあった場合、一方が壊滅した時に連鎖を防ぐ為だ。

 特に、疫病の連鎖は恐ろしかった。


   ***


「教えてくれれば良かったのにぃ!」

 帰宅した12歳のシェリー・メアリーが、母に向かって口を尖らせ、ほっぺを膨らませた。


 歴史の教科書は、ジョンの子孫が著述編集したものだった事を、母がとっくの昔に知っていて教えてくれなかった事に、シェリーは少し腹を立てて甘えた。母も少女の頃、当然歴史を習っていたから。

 母は「貴女から、授業で驚く権利を奪ったら悪いじゃない?」

と返した。


 幼い頃から不平不満を言う時に、口を尖がらせてほっぺを膨らませるシェリーの癖が、母は大好きだ。目を細め、我が娘を愛おしむ彼女の顔でそれがよく分かる。


 シェリーは不満げだったが、思い切って母に聞いてみた。

「ユーラー家のシェルターは今でもあると思う?」

 母は娘の目を真っ直ぐに見て、ただ黙って頷いた。

( ――そうよね。そう信じていないと―― イーブンソング家は〝存在のかて〟を失ってしまう)


 シェリー・メアリーの生まれて初めてのから始まった、歴史授業の騒動は何となく収束したが、この教科書はユーラー家とのえにしを繋ぐ、彼女のとても大切な『もう一冊』になった。



 一年に亘る歴史の授業はこうして始まった。

 始めに教わるのは『人類は地球と言うとても大きな外の世界で他の生命と共に進化した』と言う事。

 シェルターの世界しか知らない子どもたちに、外の世界、つまり外界がいかい(Outside-world)が遂に、正式に紹介された。

 授業が進むと生徒たちは、人類が外界がいかいでどの様に進化し歴史を築いたのか、驚きと共に、外の世界で生きた人類に強い憧れを持ち始める。だが、それは直ぐに打ちのめされる事となった。


 ~~年、〇〇の戦い ~~年、〇〇戦争 ~~年、〇〇紛争 ~~年、○○の軍事侵攻 ~~年   戦争、戦争、戦争! 人類はほぼ何時いつの時代も殺し合っていた。

 同級の女の子が、

「先生!なぜ人類は殺し合いばかりしてきたの!?」

と、泣きながら抗議した。

「だから人類は壊滅し、人間をけがしてしまった者達の子孫として生まれて来た私たちが、シェルターで生き続ける事で、その罪を償わなければならなくなったのです」

 教諭の言葉がまだ理解できない生徒たちだったが、シェリー・メアリーは、絵本の中に綴られていた『人類壊滅』という言葉の真実を、この歴史の授業で知る事になった。


   ***


 その日の授業は、生徒の親たちも参加した。シェリーの母も来ている。

 普段は見ない保守技師の大人たちも大勢、なぜか教室の外でウロウロしている。 生徒たちは、今日は何か特別な授業なのだとそわそわしている。


 教壇には白いスクリーン布が下がり、画像投影機が設置されている。

 男性教諭が当時の静止画像を投影機で映しながら、人類壊滅の歴史授業を始めると、その内容は徐々に核心に近づいた。


「地球温暖化危機が社会に警告されるようになっても、当時の資本主義は留まるべき着地点を見出みいだせませんでした。それ所か、経済発展を増々推し進め、温暖化も加速してゆきました。地球気候は大きく変容し、人類を育んだ生態系の変質も目に見えて明らかとなりました。人々は持続可能な社会の重要性に気付き始めましたが、そこに世界的なパンデミックが起き、温暖化回避の時を奪われました。

愚かだった人類は混乱に乗じ、ある国はクーデターを起こし、ある大国は軍事侵攻を行い、世界情勢が不安定になると、他の地域でも次々と戦争が始まり、連鎖し、拡大してゆきました。

 その間に気候変動は激しさを増し、一次産業が急速に衰退すると、地球規模の食糧危機が瞬く間に生じてしまったのです。

 人類は慌てました。科学者たちが何十年も前から何度も何度も警告していたのに。

 でも、お金を動かす事だけに長けた、政治的には全く無能な政治家ばかりを選んでしまっていた資本主義社会は、その時が近づこうとも有効な対策を見出そうともしませんでした。

 それはちょうど、出血が酷く緊急の処置が必要であるのに、医学を学ばず、経済に秀でた者達だけを、医療機関のトップに次々と配属していた様なものでした」


「最貧国の貧しい人々から餓死してきました」

 生徒たちが『餓死』に敏感に反応し、静かな悲鳴の様な声が教室に漏れ亘った。

「難民が各国に溢れ、世界が受け入れられない程にまで膨れ上がると、暴動と虐殺が日常的に発生しました。行きつく先は――

 ――最貧困国の、食料確保の為の戦争でした―― 」


「国連が戦争を抑制しようと軍事介入が行われましたが、戦局は一気に世界大戦の様相を呈してきます。この介入は新自由資本主義が利する為の介入だったとうわさされましたが、記録は隠蔽いんぺいされ、その後、抹消されたとの事です。

 事態は収束に向かわず、終にある国が、抑止力であった筈の核兵器を使用します。直ぐさま報復核攻撃が行われ、世界秩序がその時点で崩壊しました。 世界が狼狽えていた時、『食料確保が困難ならば、死なばもろとも』と、追い詰められ自暴自棄になった未核保有国が通常兵器を使用し、食糧生産が豊かな国々の原子力発電施設を破壊する愚行に及びました。

 核エネルギーが一瞬の内に破壊的な熱量に変換される核爆発よりも、長期間の照射源となり、重金属核種が放出される、核発電施設の破壊の方が、核汚染は桁違いに深刻でした。

 世界の数百基もの核発電所が次々と破壊され始めた時、富裕層と呼ばれていた人々が、世界から忽然こつぜんと姿を消しました」


 男性教諭の「富裕層」の言葉に、12歳のシェリー・メアリーは敏感に反応した。絵本の中で初代メアリーが〝私は富裕層の家庭に生まれた〟と…… 


「グローバル資本主義社会の、頂点に君臨していた者達の経済予測が戦争を予知し始めた時、彼らは秘密裏に、大規模なシェルターの建設を世界各地で推し進めていたのです」

 生徒たちの騒めきが、少しずつ悲鳴に代わってく。

「しかも、そのシェルターの建設でさえ、富裕層に販売される保険ビジネスでした。 当時の資本主義社会が温暖化を助長させ、貧困層を生み続け、格差社会を肥大化させながら、その富を独占し続けていた彼らだけが――、

 シェルターへのがれる事が出来たのです。

 人類の99%の、数にして約八十億もの人々が、戦争や核汚染症や飢餓や、あるいは、食料を求める殺し合いで死んできました」


 ここまで男性教諭が話し終えると、生徒たちの悲鳴は深刻さを増し、保護者がしっかりと子どもたちを抱き留めていなければならなかった。男性教諭は目を閉じ、一呼吸置くと静かに続けた。


「人類という同胞を見捨て、自分達だけが生き延びた富裕層を先祖に持ち、彼らの非情で無慈悲な罪の枷を背負って生まれて来た、その子孫が今の私たちなのです」



 子どもたちは保護者にしがみつき、もはや悲鳴もなく、何も見ようともせずに静まり返っていた。

「私もあなた達と同じ歳に、私たちが何者なのかを歴史の授業で知りました。あなた方のお母さんやお父さんもそうです。このシェルターで保守業務に従事している、全ての大人たちもまたそうなのです。さあ皆さん入って下さい!」

 男性教諭が最後の言葉をとりわけ大きく言い終えると、外で待機していた様々な保守職業の大人たちで教室は瞬く間に一杯になった。


「共に生き延びよう!」「私たちもそう教わったから」「大丈夫、俺たちがついてる」「大人たちを見てご覧なさいよ。全然平気でしょう?」

 教室に溢れた大人たちが、子どもたちを救済し、導いて行く。



   ***



授業を終えた子どもたちは、人類の歴史を、祖先の歴史を、嫌いにならない理由を、見出す事が出来なかった。


 自分たちが何者だったのか―― 下校時間を迎えた生徒たちは保護者に抱きかかえられる様にして家路に解き放たれた。

 シェリー・メアリーも終始、母にしがみついて家まで歩いたが、初代メアリーや初代ジョンも人類を見捨てた富裕層だった事が理解出来ないでいた。


「絵本の中のジョンとメアリーも人類を見捨てた富裕層だったの?」

 母に尋ねてみると、母らしい答えが返ってきた。

「その答えはあなたが時間を掛けてゆっくりと見つけると良いわ。私もそうしたから」

シェリーは微かに口を尖がらせ頬っぺたを膨らませた。


   ***


 保護者参観から数日が静かに過ぎた。今日も下校時間を迎えた生徒たちが、先生やクラスメイトと挨拶を交わし、帰り始める。

 12歳のシェリー・メアリーはと言えば、何かの書籍を読みふけりながら、巨大なドーム1の運動公園の帰り道を歩いている。


 緑の中の運動公園は広い芝生に様々な樹木が植えられ、あちらこちらにビオトープ区画もあり、花壇やベンチも整備された、ここで生きる人々の憩いの場所、いや、魂の場所とさえ言える精神的な空間だ。石畳の小道は散歩にも心地良い。 シェリーが母に抱き着き帰った道も、今、彼女が本を読み読み歩いているこの小道だ。


「先生! この教科書貸してください! もう、人類の一番酷い歴史は私、乗り越える事ができました! 大丈夫ですから貸してください! お家で読みたいんです!」

 シェリーは歴史の男性教諭に詰め寄り、スティール・ジョンの『人類の歴史』を 〝熱烈な剣幕で有無を言わさずに〟借りた。


 もちろん、シェリー・メアリーが知りたかったのは歴史ではなくユーラー家の事だ。

 ところが、著者の紹介欄では教師が語った情報しか見当たらず、シェリーは少しでも何か分かればと、本文を読む羽目になった。


 スティール・ジョンの歴史教科書にはこう書いてある。

『壊滅前、人類が物質的に一番豊かだった頃の社会は、労働者たちが使い捨てられ、地球資源が大規模環境破壊と共にむさぼられていた。

 労働者階級は定齢に達すると社会から離脱させられ、技術革新が利益追求の為に次々と起こり、高齢となった人々の経験や知識が瞬く間に無用のものとなり、人々は社会から振り落とされていった』


 今とは大違いだ と、スティール・ジョンは続ける。


『今の私たちは16歳から39歳まで保守技師としてシェルターと人類の存続を支え、40歳で冷凍睡眠に入り、この地球が無毒となる8万5000千年後の遥かな未来に、人類復興のいしずえとして再び目覚める。 あるいは、冷凍睡眠を選ばず、生涯シェルターの保守技師として人生を終える人もいる。 その人たちは老いて現場から離れても、熟達した経験と知識で若い保守技師の育成に貢献している。

 例えば、どこそこの装置はこんな癖があるからこう扱え、とか、あの一角は老朽化が激しいから大改修があるまではこのように処理すると良い、など、私たちの家『シェルター』で、私たちが安全に生き抜く為の、保守の知識と知恵と経験の全てを持ち合わせている。

 老いた者は己の人生の経験を若い世代に伝え、若者はその卓越した手腕の大先輩を敬い、自分たちも何時いつか彼らの様になるのだと憧れた。歳を取り身体が動かなくなっても、彼らは頼られ尊敬され、一生を終える事が出来ている』


 歴史教科書にはこうも綴られている。

『信頼し合わなければ生き延びる事が出来なかった。

 全てのシェルターが知恵を出し合わなければ生き続けられなかった。人々が生きてゆく為のぎりぎりの食糧生産と、老朽化してゆくシェルターの保守作業では、誰か一人でも欠ければ、たちまち生存が危ぶまれる状況が続いた。 一人一人が、一人一人の命を大切にする事が、我々が生き延びる為の必須条件となっていった。それは子どもたちへの教育にも反映され、他者への無理解や無関心が人類から遠ざけられ、人が人と対峙する事で生じる憎苦を、私たち生き残った人類から解き放つ努力がなされて来た』



 12歳のシェリーが〝ながら読み〟から顔を上げ、独り言を言う。

「人類が最も繁栄してた頃よりも、今の時代の方が人間らしい生き方が出来てるだなんて……」


 下校中の12歳のシェリー・メアリーが、運動公園の、花壇の庭の小道に差し掛かると、心地よい調べが静かに聞こえ始めた。


 小さな噴水の広場を見れば、4~5人の老人が楽器を手に、音楽を奏でている。


 この小さな噴水での演奏は、シェリー・メアリーが学校に通い始めた頃に気づいた。が、シェリーは特に気にする事もなく、いつも家に帰る時は彼らのそばを通り過ぎていた。


 奏でられる音色と共に、演奏する老人たちの姿が周りの風景を伴い遠ざかってゆく。

 シェリー・メアリーは本を抱きかかえ、ドーム壁面に幾つか設けられている居住区への登り階段を上る。


 ドームの壁面は人工物の壁がいきなりそそり立つのではなく、壁まで30度から40度程の傾斜掛かった、数段の石垣で囲われた緑化りょくか法面のりめんになっていて、大きくは成長しない樹木や草花、芝などが植えられていた。 これらの緑もビオトープ化され、ドームの景観を豊かな物にしていた。 3つのドームの緑化管理もまた膨大な手間暇が掛かっていたが、人々はその労を惜しまなかった。


 シェリー・メアリーは上り終えた階段の踊り場で足を止めると、ドーム1の全景を気持ち良さそうに眺めた。

 世代を重ね、補修を重ねた天井を支える石柱が、幾本もそびえ立つ、古びきった巨大なドームを望むと、運動公園や青空教室、演奏する老人たちや、今は管理区が入る、中央管理棟という名の、元展望タワーなどが見渡せる。

 シェリー・メアリーは広々としたドーム1を眺望できるこの場所がお気に入りだ。遠く老人たちが奏でる音楽の心地良い音色がここにも微かに届いてくる。

 この階段は、居住区にある、母と二人で暮らす彼女の、我が家に続く―― 素敵な帰り道だった。


 シェルターの居住区画は、極度に老朽化した巨大な宇宙船の内部の様な、古びた通路が幾つも広がる。 通路一つ一つには各家庭の玄関スライドドアが十分過ぎる間隔で並んでいた。それは住居の床面積が広い事を意味する。超富裕層のシェルターだったここは、建設当初から贅沢な造りだったが、人類壊滅後に人口抑制が始まると、居住区に住む人々は少しずつ姿を消した。長い年月が過ぎ去ると人通りも絶え、ゴーストタウンの様な、とても寂しい区画になっていた。

 その本当に長い年月に亘り、ここに住み続けてきた人々が丹念に補修を続け、食性植物を育てる花壇も並ぶこの通路は、古びてはいても思った以上に小綺麗だ。シェリー・メアリーにとって幼少の頃の悪夢を見た通路だが、我が家へ帰る素敵な家の前の通りだった。


「よいしょ、よいしょ」

 エアロック並の頑丈さと気密性のある、重い自動スライド式ホームドアは当の昔に通電しない。 何とか開け閉めして入ったこの住居こそ、生まれた時から暮らす彼女の家であり、初代メアリーから続くイーブンソング家の持ち家だ。

「ただいま……」

 まるで、一人で暮らしているかの様に、うつむきながら独り言を言うと、奥から明るい母の声が返ってきた。

「お帰りなさい、シェリー・メアリー」

 その声を聞いた途端、シェリー・メアリーに明るい表情が戻った。

「お母様!今日は定時だったの?一緒にお夕飯食べられるのね?」

 聞こえて来る母の声は、キッチンからだ。

「ええ、今日は電子機器の拡張チェックも無かったから。でも明日は食料生産のお手伝いがあるから、また遅くなるわ」

 母が言い終える前に、跳ぶ勢いで通学用鞄をベッドに放り投げ、掛けてあったエプロンに素早く袖を通し、母を手伝い始めた。

 何やら母娘で楽しく会話が始まっている。

「今日ね、先生に無理を言って歴史の教科書を借りてきたの。私、もの凄い剣幕でお願いしたの。すると先生がねぇえ……」


 母娘二人でも広すぎる家。それ以上に一人で居る時は何倍も広く感じる家だ。が、今日は母がいる。その幸せを感じながら、楽しいお喋りの夕食を終えた後、シェリー・メアリーは自分の部屋で歴史教科書を安心して広げた。



 シェリーは、壊滅前の人類の歴史のページは開かない。

 人類の歴史が大っ嫌いになったからだ。

だが、シェルターで生まれ育った世代からの、特に冷凍睡眠装置完成前後からの人類の歴史は、嫌いではなかった。

「お母さまの居る日はお母さまにまとわり付いて居たかった。でも、お母さまが居る幸せを感じながら、自分の部屋で何かに没頭する贅沢を私は味わいたかった。実際それは、とても贅沢で幸せな時間だった♪」


 歴史の授業の度に、シェリーはこの教科書を借りていたのだが、ある日、怖い物見たさで人類壊滅前のページを開いてしまった事があった。 幾頁かめくると、彼女は大切な『人類の歴史』を思いっきり壁に投げつけていた。


 娘の部屋の異音に気がついた母が「シェリー?」と、顔を覗かせた。 床に無造作に投げ捨てられていた本。机に臥せる娘を見て、母は優しく彼女を抱き包み、我が娘の魂を救済した。


「戦争でお金儲けをする人たちが居たの。

 その頁を見たとたん、私、本を払い落としてたの。

 ごめんなさい……」



 この歴史書の『編集後記』に書いてある。

 初代避難者から始まり、冷凍睡眠装置が完成される世代までの、幾多もの名も無き人々が命を賭けて外界から持ち帰った膨大な知識。それらを纏め上げたライブラリで、スティールが歴史に関する資料を検索中、彼と同じ様に歴史を編纂へんさんした人がいたと。

 その編者は人類壊滅後の時代を次の様に言い表していた。


『人類史上、初めて戦争の無い時代の到来』


 人類の存続が危ぶまれる時代になって、始めて人類から戦争が無くなった。この記述が例え皮肉と矛盾で一杯でも、シェリー・メアリーはこの辺りから人類史が好きになった。



「幾つか望んだ未来のたった一つを、私たちは選んだのね。

 その未来が今。 でも、『それは正しい選択だった』と、昔の大人たち… ううん否定、私たちの先祖は言うのかしら…。

 もし『この未来は違う』と言うのなら、正しい選択は何処に忘れてきたの?」


 自分の机で「人類の歴史」を読む12歳のシェリー・メアリーは、いつの間にか頬杖を突き、し始める。


 暫くすると開いたページはそのままに、いつの間にかベッドにあった枕を机の上に敷き、うつ伏せてすやすやと寝入っていた。


   ***


 13歳になったシェリー・メアリーは、また少し、背が伸びた。


「13歳になると、私たちはいよいよ専門課程に進むの。16歳で卒業するまでの3年間の内、2年間は全ての保守作業職を一通り実習しながら学んで、卒業前の1年間は与えられた適性職実習を熟し、即戦力を身につけるの。 各実習先には誰かの親も居て、日頃の働き方を人生の先輩として側で学べるし、それに、親たちと一緒に仕事が出来る事が楽しみだった」


 食糧生産・土木建築保守・基礎医療・電子設計・基礎加工技術、そして電気保守やシェルターの人々の暮らしを統括している管理区、それら全ての実習を現役先輩たちの指導で熟して行く生徒たち。

 皆が少しずつ経験を重ね、成長してゆく。

 充実した2年の実習期間は瞬く間に過ぎていった。


 14歳も終わろうとしていた頃、生徒たちは冷凍睡眠待機保守とじょうじつ生活保守の2種類の保守職業概念を学んだ。

 冷凍睡眠待機保守は、普段は冷凍睡眠で眠り、保守業務が生じたときに目覚め作業する形態だ。これによって日々の生活エネルギーや、食料を節約できた。 電源喪失危機の時、教室の前を慌ただしく駆けてゆく電気保守技師は緊急解凍された技師たちだ。

 常日生活保守は日々の生活を送りながら、主に食料生産に励む。 結婚し、子育てをする人々の職業であり、一部の管理官も常日生活保守を選択できた。


 生徒はこの授業で〝冷凍睡眠夢〟の存在を教わる。


 冷凍睡眠夢とは、保守技師たちが冷凍睡眠待機中に見る夢の事だ。

 シェリー・メアリーはその夢の存在に俄然、興味をそそられた。

 だが『なぜ冷凍中の脳が夢を見るのか』 解明は未だになされてはいない、との説明のみで授業は終わってしまった。

 「え?それでお終い?」

 シェリーは思いっきり不満だったが、実習に向けての職業選択に皆が忙殺されてゆき、冷凍睡眠夢はシェリー・メアリーの中でくすぶり続けた。


   ***


 15歳になったシェリー・メアリーはもう随分と背も伸び、少女の面影も消えつつあり、三つ編みも卒業。ひょろりとした体型なりにも筋力が付き、保守技師としての体力が備わり始めていた。


「生徒の親たちが『子供の成長はあっという間ね』と話すのを、この頃よく聞く様になった。私はこの2年間は多くの保守作業職を経験して、覚える事が山ほどあって、とても長い2年間だったと思うのだけれど、親からすればあっという間の事なのかな?」


「3年目の実習期間に入ると、15歳の私たちは、どの保守業務でも戦力としての基礎が備わっていた。

 卒業後に一つの保守職に就いても、各分野で人手が足りない時は協力し合う仕組みが出来ていたから。 実践を通して学ぶ、卒業までの最後の一年間、自分が赴く職種の選択はある程度自由にできた。

 私たち生徒は、どの職種が自分に相応しいのか、希望の職種に就任できるのか悩む事になるし、決定する側の管理区も悩み所だったみたい。でも先生たちの日頃の注意深い観察と導きで、私たちはほぼ、的確な職種に就く事が出来ていた」


「で、 私には少し、憧れる職種があった」


   ***


 15歳のシェリー・メアリーが着込むのは、工具がまとわり付く様な、電気保守技師の安全帯フルハーネス付き気密防護服だ。

 他の数名の実習生、そして、10名ほどの電気保守技師たちと共に、工具置き場の様な、薄暗いエアハッチの前で待機している。

 体力が付いて来たとは言え、男の子たちと比べれば一回り小柄なシェリー・メアリーには、フル装備の防護服はズシリと重く、立っているだけで汗が滲んでくる。 おまけにかなり不格好だし。


 現役の技師らに促され、実習生がエアハッチを開ける。その途端! 圧倒する強風と!暖かく湿った砂埃が轟音と共に室内に入り込んで来た!

 ハッチの向こうは、荒れすさぶ強烈な風が吹き荒れる――


 生まれて初めての外の世界 ――外界がいかいだ――。


 そこは実習生にとって狂気に満ちた黄色い大気の異世界だった。

 フジツボの群れの様に犇めく風力発電装置群の向こうは、細かい黄土の微粒子を含む強風で黄色く霞み、ここがドーム1の屋上だと分かる以外、外界の全体像は見えない。常に耳に障り続ける暴風の音以上に、風を受け、けたたましく唸る発電装置群のファンの轟音はことさら暴力的だ。

 この圧倒的な異世界にシェリー・メアリーは気を飲まれる。

 大人たちが何か指示する声がはっきりと聞こえる。

 無線は良好だ。だが、轟音と黄色い世界が意識を散漫にさせる。

 時おり吹く突風がシェリーを襲った時、風にさらわれ、転がり、そこらに引っ掛けてあった安全フックに、かろうじて救われた。


 大人たちはシェリー・メアリーだけを退避させ、他の生徒たちと実習を続けた。


   ***


 硬い透明保護板にラミネートされた、手書きの職種一覧紙。それをリングノート状にした分厚い冊子は、めくるのも少々面倒だ。

 それを、しょぼくれながらイーブンソング家の自宅リビングで、女性教師と一緒に眺めているのが、外界実習で見事、落第してしまった15歳のシェリー・メアリーだ。


 シェリーはスティール・ジョンの職業に惹かれて、電気保守技師に挑戦したのだが、よしんば冷凍睡眠待機の職業に就き、是非とも冷凍睡眠夢を見てみたいとの欲望が伴っての事だった。 その無謀は見事に打ち砕かれ、暫くは彼女の半径30㎝ほどはいんの気が漂っていた。3mでもなく、30㎝ではあるが……。

 それを見かねた女性教師が「外界作業の多い電気保守技師は、体力のいる男性向きだから気にしない気にしない」 と、職業一覧の重たそうな冊子を持って、家まで訪ねて来たのだった。


「初めての外界はどうだった?」

 冊子をめくるシェリー・メアリーに教師が話し掛けても、15歳のシェリーは陰の気にまとわれて返事も出来ずにいる。


「草花が続く外の世界は、先生、きっとどこかにあると思う」


 幼い頃の質問を、先生は覚えていてくれた。

 その事がとても嬉しくて、シェリーは少し、笑顔になった。


 新たな職業の適性クエストは続き、教師は一つシェリーに提案した。

「電子設計技師の才能が、あなたにはあるのだけど……」

「それって母の職場だ!」


 シェリー・メアリーは母と一緒に仕事が出来るかもと喜んだ。

でも―― 


 シェリー・メアリーは見つけてしまった。


 数ある職種一覧の、13歳からの2年間実習が含まれない巻末の『その他』という分野の中に…… 


〝冷凍睡眠夢の研究〟がある事を。


 シェリーの体に電撃が走った!

「これ何だろう!? 授業で教わらない職業がある事にもびっくりだけど、『冷凍睡眠夢』の研究職があるなんて!」


「ああ!まったくもう! これは『幸運の青天の霹靂』だあっ!!」


「先生!この職業は何!?」

興奮しながら教師に聞いても、

「さあ、そんな研究があったのね」と、教師は急によそよそしい。


 兎に角、詳しく知りたくて居住区にある教職員ルームまで急ぐと、他の先生方もなぜかゴニョゴニョとハッキリしない(汗)。

 そこへ、授業を終えた歴史の男性教諭が帰ってきて――


「シェリー、君の大好きな『人類の歴史』の著者ステイ―ル・ジョンが夢研究の立ち上げに関与してるんだよ――」

 男性教諭は話を続けるが、15歳のシェリー・メアリーの耳にはもう入らない。

「これは運命だーーー!!」

 シェリーが雄叫びの様な大声を出すと、先生みんなから注意されてしまった。(汗)


   ***


 冷凍睡眠区は、何部屋にも亘り冷凍睡眠カプセルが縦横に所狭しと並ぶ、じょうじつ生活区には無いおごそかな雰囲気に包まれた区画だ。

 シェリー・メアリーは2名の管理官と共に、担任の女性教師に付き添われ、ちょっと緊張しながら大人たちの後に付いて歩く。 皆、上着を一枚多めに羽織っている。息が少し白い。

 区画通路から一室に入ると、あるカプセルの前で管理官が立ち止まった。操作パネルをリズミカルに触れると、音声が蘇生の経過を告げ始めた。

「蘇生開始より17分が経過。体温・脈拍正常、意識回復レベルに移行中――」


 程なく待つと、装置が蘇生終了を告げ、「プシュ」と、エアの抜ける音と共にカプセルのロックが解除された。

「扉を開きます」

 管理官がカプセルの蓋を開けると――


 年老いた、いかつい顔付きの男性が、片目を半開きにして、シェリー・メアリーたちを睨み付けていた。


「なんだ? もう朝が来たのか?」

 老人は場の雰囲気を見定めると、不機嫌そうに上半身を起こした。

「もう少しッ、死なせておいてくれても良かったんじゃないのか?」

 冷凍睡眠専用スーツを身に着けた身体つきは、細身だが異様な程にガタイが良く、古代の剣闘士の様だ。

 彼はカプセルから出ると無造作に「んあ」と息を漏らしながら、その上に腰を下ろした。

「何ジロジロ見てるんだ? もう10万年過ぎちまった訳じゃないんだろ? 俺の、ムウッ、研究の続きをさせて貰えそうな雰囲気でもなさそうだッ」


 15歳のシェリー・メアリーは彼の異様さに只々ただただ 気圧けおされていた。



 電気を節約する薄暗い通路の先に上り階段がある。上は明るく、専用スーツから普段着に着替えた老人と、シェリー・メアリーたちが階段に向かって歩いている。老人は管理官らと何か小難しい話をしていて、空気化は済んだ等と聞こえる。後ろからいて歩くシェリー・メアリーは、並んで歩いてもらう先生にヒソヒソ声で話しかけた。

「私、死んだ人が生き返ったのかと思っちゃった」

 先生は静かに人差し指を口元に当て、シェリーをいさめる。

 すると、老人の耳に入ったのか、彼は目玉を後ろの二人にジロリと向けた。が、咎める事は無く、再び管理官たちと話し始めた。

 シェリー・メアリーは生きた心地がしなかった様で、ほんの数歩、両瞼まぶたをぎゅっと閉じたまま歩いていた。


 通路から続く階段を上ると、ひらけたドーム1に出た。

 老人は明るさに目を細め、感慨深く辺りを見渡した。


「何も変わってないが、すっかり変わっちまったな」



   ***


 薄暗い室内の窓越しから、ドーム1と部屋を繋ぐ通路が見えている。 吹き抜けに架かる橋の様な通路に、老人と先生、シェリー・メアリーの3人が現れた。管理官らは途中で別れ、管理区へ戻ったようで、彼らの姿は見えない。

 3人が部屋の前まで来ると、古びた気密スライドドアが引き開けられ、老人が二人を室内へ促した。

「さあ、入ってくれ」

 シェリー・メアリーと先生は、不安そうに入口の外から顔だけをのぞかせる。

 明りが点くと、部屋の中はスチール製の机が連なり、その上に、少しばかり埃を被る長期保存用の窒素ガス袋に収まる、端末が幾つか並んである。

 どうやらここが、冷凍睡眠夢の研究室らしい。

 通路に沿った窓側には応接用のソファとテーブルがある。

 老人は埃よけのシーツを外すと、深く柔らかそうなソファに「んあ」と息を漏らして腰を落とし、訳の分からない事に念を押す。

「このソファはオレ専用だ。絶対座るなよ?」

 二人の客人の思考が(何?)と一瞬止まる。

「そっちのソファのシーツを外して座ってくれ」 

 小さなテーブルを挟んだ、如何にも硬そうなソファに二人が腰を落ち着ける間、老人の文句の様な独り言が続く。

「1000年単位で目覚めて、蓄積データーを調べる流れが邪魔されたが、まあいい」

「で?」

 先生と生徒が座り終えると、老人は二人の顔をギョロリと覗き込み、要件を言う様に促した。



「そうか、幼い頃の悪夢と、何度も見る外の世界の夢と、そして予知夢か。それで夢の研究に興味を持って、俺を叩き起こしちまったって訳か。でもまあ、そんな事より、君がスティールの許婚いいなずけたぁ恐れ入ったよ」


 つい今し方、シェリー・メアリーは思いっきりの勇気を出して冷凍睡眠夢研究への動機を、ユーラー家とのえにしを交えて話したのだが、それを小馬鹿にする老人にムッとしてしまった。「許婚じゃありません」とも言えずに。

「私も始めて聞いたわよ、そんな話……」

 先生がそっとシェリー・メアリーに耳打ちするとシェリーも困った顔をしながら先生に小声で返す。

「だってえ、言える訳ないでしょ? そんな話ぃ……」


「俺はスティールとは通信端末でじかに話をした事があるよ」

「うっそ!?」先生とシェリーは老研究員の言葉に釘付けになった。


   ***


 老研究員が最終冷凍睡眠を選ばずに冷凍睡眠夢の研究者になると決めた時、初めてスティール・ジョン・ユーラーと会話したと言う。

 その時スティールは60代だった。


 まだ40代になったばかりの老研究員がモニターに映る高齢のスティールと会話している。ドット抜けの激しいモニターが向こうを鮮明に映す事はなく、スティールの容姿は目を凝らしてもはっきりしない。

「スティールかい? 初めまして。私はデイビット・ビンセント・アトウッド。ウッドと呼んでください。私も氷漬けにされてる時、夢をよく見るんだ……」


 シェリーはウッドと名乗る老研究員の話に、目を輝かせながら聞き入っている。

「スティールも良く夢を見ていたと話してくれたよ。『冷凍状態なのに何故夢を見るのだろう?』と、ずっと不思議だったそうだ。その内、彼の技師仲間も冷凍睡眠中に夢を見ている事を知って、上層部に『冷凍睡眠夢の解明を』と、嘆願書を出した。で、当時の技師たちが40歳になると、そのうちの何人かが最終冷凍睡眠を選ばずに、冷凍睡眠夢の研究者になったのさ。それが冷凍睡眠夢研究の始まりだよ」


 二人の小娘が自分の話に食い入るように聞き入っている。ウッドも弁が弾む。

「これは内緒の話だぞ? スティールが存命中だと知り、伝手つてを頼って連絡を取る事が出来たのは、オレがまだ40歳の時さ」

「オレは、彼がてっきり冷凍睡眠夢の研究者だと思ってたから、

『私は電気技師を引退した後は歴史研究家になったんだよ』 って突っ返された時は、とても恥ずかしかったよ。わはは」

 15歳のシェリー・メアリーは、目をきらきらさせ、身を乗り出してウッドに質問を浴びせかける。

「ねえ、スティールってイイ男だった? 背は高い? 体形はどうなの? 緊急時の予備食料の保存はちゃんとしてる人だった? それから――」

 小娘の連射質問に、ウッドは困惑した様な、面倒臭そうな、どうでもいい様な、不思議なしかめっ面をするばかりだ。


   ***


 老研究員ウッドとの出会いから瞬く間に1年が過ぎた。

 彼の研究所に実習授業で出向していたシェリー・メアリーも、そろそろ16歳になろうとしている。

「この薄暗い研究室でこれから1年間、このおじいちゃんと二人っきりなの?」

 目眩のする1年前のシェリー・メアリーだったが、敵もさるもの。

「1年間もションベン臭い小娘のお守りなんざイヤなこった!

 俺と、世代を超えた世界の研究仲間の成果を丸々渡すから、ちゃんと目を通しておけっ」

 捨て台詞を吐いてウッドは3日後には、さっさと冷凍睡眠に戻ってしまった!

(15歳のシェリー・メアリーが腰に手を当て、『信じられないでしょ?』と、顔を左右に降っている)


「向こう1年間、子守りが続くと思ってウッドは早々と冷凍睡眠に戻ったのね。私、すごくうるさかったのだろうな…… ふふ」


「あ、それから、彼が冷凍睡眠に戻る前に思い切って聞いてみたの。

『あなたが研究者になって今まで、シェルターの壊滅はあったの?』って。 ウッドは目をぎょろりとさせて『いいや無いよ。何でだ?』って聞き返してきたから、私は『ううんすっとぼけ、別にぃ』と、明後日の方を向いて白を切った」

『何だ?何処かのシェルターが崩壊しちまったのか?』

『いえ、それ、私が今、あなたウッドに聞いてるんです(汗)』

「――なんて、やり取りもありながら、私は確信した。

 ユーラー家のシェルターは、まだ生きてるって。

 ウッドが気を利かせて、優しい嘘を付いていなければだけど……」


   ***


 シェリー・メアリーの一人きりの実習期間は、青空教室で卒業に向けた科目もあり、彼女は孤独感もなく過ごせた。 1年が過ぎ、ウッドが実習を評価するために再び目覚めた。

 緊張するシェリーに『まあこんなもんだろ』と、あっけなく合格(汗)


 シェリー・メアリーは卒業を迎える年に無事――、

 冷凍睡眠夢研究員となった♪


 16の歳、生徒たちは卒業し、人類存続の為、保守技師として其々それぞれの現場に巣立ってく。

 だが16歳の意味はそれだけではない。彼らは16歳から20歳を迎える前日まで――


 結婚が許されていた。


   ***


 ウッドは、今回は1年間、みっちりシェリーを指導するのだろうと思いきや『結婚を邪魔しちゃ恨まれそうだ。君が20歳になるまで、年度末に一度、目覚めてやるから、進捗状況を報告しろ』と言うなり彼はまた寝てしまった。


 シェルターで、人類が生き延びてゆく為の、厳しい生存システムの下、人々は20歳を過ぎると、結婚できない。


 しかも、人口調整は現代の人類が生き延びる為の、最も大切な制度の一つであり、全ての若者が結婚を許される事は無かった。

 その上で、シェリー・メアリーには結婚しなければならないイーブンソング家のかせが、遙か1万5000年前から授けられていた。


 シェリー・メアリーが生きる時代は結構なディストピアなのかもしれない。だが、独裁者が居たわけでも、極端な同調圧力社会でもなかった。

 今、世界各地で細々と生き残るシェルターも同じだ。 独裁や全体主義に陥ったシェルターは早い時期に滅んだ。


シェルターでは、幼少から命を大切にする教育を受ける。

 生き延びる為、一人一人が生き易いシステムを少しずつ構築した。

 人を大切にする社会性が、実はシェルターを何処よりもユートピアにしていた。

『本当の桃源郷ユートピアは、汚染される前の、穏やかな気候だった頃の外の世界ですよ』 と歴史の教諭は言うのだが。


 その教師も本年度で40歳を迎え、最終冷凍睡眠に入る。

 シェリーは最後の授業の日、彼に呼び止められた。

『歴史好きの貴女あなたにこれを』

 それは教諭が大切にしていた、状態の良いスティール・ジョンの「人類の歴史」だった。


「私、歴史好きじゃなく、ユーラー家の事が知りたかっただけなのに、絶対それ言えなかった。

 先生、ほんと、ゴメンナサイ(汗)」



 卒業式は厳かに行われた。

 本来であれば晴れた日の外界がいかいを経験する〝卒業旅行〟があるのだが、それは晴れの日までお預けとなった。

 365日、ほぼ黄色い大気の湿った暴風が吹き荒れる世界。

 晴れの日が訪れるまで、数年待つ事も稀ではなかった。

 尤も、外界を経験する旅行と言っても、巨大なエアロックから、ほんの数歩、外へ出るだけの事だった。 一部の生徒は実習で外界は経験済みだが―― それは晴れの日ではなかった。


 生徒たちは、晴れの日がどんな天候なのか、想像すらできなかった。 その〝卒業旅行〟はその年には終に行われず、卒業生は、来たる日を待ち侘びた。


 シェリー・メアリーのもう一つの人生の一大イベント、結婚の話だが、16歳になったばかりの頃はまだ余裕だった。そのうち結婚相手は見つかるだろうと高をくくっていた。 だが、彼女の母は違った。

『クラスメイト同士でいつの間にか婚約成立してるので、とにかく男の子に声を掛けなさい』

『各実習先に良さそうな人は居なかった?』

『来年16歳になる男の子や、再来年16歳になる男の子も視野に入れると少し心に余裕ができるわ』

 などと言い始め、シェリー・メアリーは「私の知ってるお母様じゃない(汗)」と閉口した。


 仕方のない事だった。

 15歳までは勉学に集中できる様に婚活禁止の法があり、

 20歳を過ぎれば、全ての人員が平等に保守業務に専念できる様に、子孫を残す為の婚姻が禁止されていた。

 この制度下で、母も16歳から19歳の間、同じ経験をして来たのだ。


   ***


― 16歳のシェリー・メアリーの声 ―

「気がつけばもうすぐ17歳。 

 年に一度、ウッドが私の研究の進捗を確かめる為に目覚める日が来る。でも、たった1年で私の研究は行き詰まってた」

「先人たちが調べた以上の研究対象が、現在進行形で現れないのよ。

 その上、結婚相手もまだ見つかってないし。 つまり、私の人生は十代後半で早くも、何もかも上手く行かなくなってたってコト!」


 一年前と同じ様に、

ウッドが冷凍睡眠装置から、また〝しかめっ面〟で起き上がる。

 二人の管理官と共に出迎えていたシェリー・メアリーの顔色は、良くない。研究が頓挫とんざしている事を知れば、どんな嫌味を言われるのだろうと気が気でない。


「シェリー・メアリー、一昨日別れたばかりなのに、また一段と背が伸びたじゃないか」

 ウッドが話しかけると、シェリー・メアリーは「あ、そうか」と思った。彼女からすれば1年振りの再会だが、ウッドからすれば、つい2日前、シェリーに会ったばかりなのだ。それなのに昨日の小娘とは雰囲気が少し違っていて、背も伸びている。


 それから、ウッドがしかめっ面をしながらも愛想が良い。

恐い顔で何をニコニコしてるのだろう?


「この研究そのものが頓挫してるのさ」

 研究室の〝ウッド専用ソファ〟に深々と腰を沈め彼は言う。

「つまり君は、この研究の最先端まで辿り着いた訳さ。おめでとう」

 シェリー・メアリーは自分の机の側で棒立ちになったまま少し頭が混乱している。

(おめでとうって何? 私が研究の最先端に?)


「君はまだ15歳だったよな」

「もうすぐ17歳です」(何この人 私の歳も覚えてないの?)


「ああ、そうだったそうだった。 なあシェリー・メアリー 君は研究員として籍を置いたまま、他の保守作業を手伝え。その方が新たな研究材料が見つかるかも知れないし、結婚相手も探せるぞ」

 シェリー・メアリーは不躾ぶしつけな言葉にドキリとした。嫌な気分だ。

「だが、君が結婚して子供を生み育てたいのであれば冷凍睡眠夢研究は頓挫し続けるだろう。なぜなら、この研究は既に超長期研究期に移行してしまっているからだ」


「俺が冷凍睡眠を使うのも、その為さ。新たな研究材料が揃う可能性のある未来で、この研究を継続・完成させる為にな」

「もし君も長期冷凍睡眠を選ぶのであれば、家族や故郷、親しい人々、その他全ての大切なものから君は去る事になる」


 まだ16歳のシェリー・メアリーは突然、得体の知れない旧人類の何者かから、今にも乱暴されそうな感覚に襲われた。


「つまり、この研究職は人生の行方ゆくえが大きく変容してしまうのさ。

 それでも冷凍睡眠夢を探求する強い思いが君にあるのなら、家族や故郷や、親しい人々から去る事への覚悟が、君に芽生えるのであれば―― この研究の探求は君の人生そのものになる。だが、そうでないなら、この研究は君の人生を奪いかねないのだよ」


 まだ10代の女性からすれば、思いもしない残酷な未来の選択肢に、シェリー・メアリーの目からはポロポロと雫が落ち始めた。

 泣く16歳の女の子を気にもかけず、この老人は深く腰掛けていたソファからゆるりと上体を起こして話を続ける。

「俺は研究が行き詰まった時から、その打開策として、時をまたぎ、研究データを採取し、分析を行う道を選んだ。その事に情熱を捧げてきたが―― 」

 ウッドは視線を何処か他所よそらし遠くを見るように続ける。


「 ――その代償は、いつまでも俺を支配し続けているよ」


「今の時代、俺達の人生には色々な枷がある。君にもあるだろう?

 それでも人生を選び貫く自由はいつでも何処にでもあるよ。

 君が何を選べば、自分の生き方に責任と誇りと喜びが持てるのか、シェリー・メアリー、君の人生はこれからだぞ」


ウッドがシェリー・メアリーを指導する期間は少なくとも2週間だったが、『言うべき事を言って君に教える事は無くなったよ、おめでとう』と、今度は、たったの1日で冷凍睡眠に戻っていった。


 ウッドが『またな』と、軽く手を上げ、にこやかに研究室から出てゆく姿は、時間が引き延ばされたように感じられる。

 シェリー・メアリーは頬を濡らした顔で、ゆるりと立ち去るウッドの姿を、ボーゼンと見送った。


「ウッドは、この研究職の決定的なデメリットを伝える覚悟をしていたのかも。

 私がこの研究職から去るのか、残るのか」

「だから、しかめっ面をしつつも優しかったんだ。 愛想がいいと思ったのは私の勘違いだったみたい(汗)」


「次にウッドが目覚めた時、私はまだここに居るのかな…… もし居なかったら   ウッドは酷く残念に思って、彼の人生に一入ひとしおの寂しさが重なるのかな……」

 ウッドが眠りにつき再び研究室に一人となった、もうすぐ17歳のシェリー・メアリーが、薄暗い部屋を静かに眺めている。

 ドーム天井の疑似自然光が夕暮れ時を演出し始めていた。薄明るい橙色の光が室内まで届き、一人で居る事の寂しさを静かに演出しているかの様だった。


「私の人生が一気に複雑化した事は理解できたけど、何をどう考えて行動すれば良いのか分からなかった。ただ、ウッドが言う様に、私の人生を選ぶ時間は十分にあった。では、先ず何を最優先すれば良いのか考えた。 答えは―― 」


「『結婚相手を探せ』だった(大汗)」


「ふふふ、何だか笑っちゃうわよね。でも私や、イーブンソング家にとってはとても大切な事だった。

 それでもなかなか 〝お相手〟は見つからなかったけれど……」


 薄暗くなった自宅前の帰り道、1秒が、10秒ほどにも感じられる時間の中を歩く17歳の後ろ姿は、どこか淋しげだ。 

 ゆっくりと流れる時の中で我が家に帰宅すれば、母が優しくシェリー・メアリーを抱擁する。

 優しくて切ない運命の音色が、母娘二人を包み込んでゆく。


   ***


シェリー・メアリーが18歳になろうとしていた頃、彼女の焦りは頂点に達していた。母もまた同様だ。見る夢は、何をやっても失敗ばかりする様な、何だか辛くて苦しげな夢ばかりだ。

 ウッドの、1年に1度の〝再起動〟も間もなくだ。


 そんな時なのに、

 本当にそんな時なのに、突然、ついに、 


『晴れの日』が訪れた。


   ***


 古びた気密防護服に身を包んだ20名ほどの〝子羊たち〟が、大型重機用の、薄暗い巨大エアロックの中に集まっている。

 簡易宇宙服の様な気密防護服は、元は純白だったろう、だが今は薄汚れ、ツギハギだらけで、何世代も大切に使用されて来た、その記憶さえも縫い刻まれているかの様だ。

 子羊を長年教室で導いて来た〝羊守り教師〟たちが、準備万端抜かりなく動き回っている中、子羊たちは落ち着かない様子で、ザワザワ、ソワソワしている。


 羊守りの一人が子羊たちに号令を発した!

「みんな準備はいい? カウントダウンでエアロックを開けるわよ!」

「10!9!8!・、・・・3!2!1!」

「ゼロ!!」


 零の掛け声と同時に、巨大な軋む音がエアロック内に響いた。

 外界を隔てた壁から、縦に切り裂く強烈な一筋の光が、子羊たちの目の前に忽然と現れた!

 ヘルメットを手で覆い、目を守りながらも、彼らは今までに見た事もない閃光を恐々こわごわと見続ける。 

 光の筋は徐々に大きくなるにつれ、柔らかく穏やかになると、

その向こうには――


 無限の青い空間が 絶対的な存在として現れでた!


 子羊たちは永遠の空間に恐れ戦き、座り込んだり、悲鳴とも歓喜ともとれる奇声を上げている。シェリー・メアリーと言えば、今、自分たちの目の前に立ちはだかる外界がいかいが、実習の時に体験した、黄色い大気の世界と同じ空間なのだという事を全力で理解しようとしても、身体が、五感が、それを頑なに否定しようとする。

 子羊たちは羊守りたちに促され、一歩ずつ〝未知の向こう側〟へ我が身を向かわせる。彼らは〝歓喜の阿鼻叫喚あびきょうかん〟の真っただ中だ。

 ある子羊は空に吸い込まれそうな目眩を覚え、またある子羊は、生まれてこのかた、有限の世界に囲まれ生きてきて、いきなり無限なるものに遭遇した、例え様のない恐れに対し〝これは恐怖じゃない、これは恐怖じゃない〟と、必死に言い聞かせている。

 群の混乱の中、まだほんの少し17歳の、シェリー・メアリーの表情をヘルメット越しに覗き込むと、彼女は息遣い粗く瞳孔どうこうは限界まで開き、何処までも続く蒼空を只々ただただ驚愕の顔で見入っていたが、幾人かの子羊たちと同じ様に、急に地面に倒れ伏して放心状態になってしまった。

 彼女も他の子羊たちと同じ様に、永遠の青い空間に吸い込まれそうな目眩に襲われ、それに耐えられなくなって、地面にしっかりと捉えられていたかったのだ。

 我が身を押さえ付け、離さないでくれている地面に、無意識のうちに目をやると、シェリー・メアリーは自分の影に気づいた。


「なんて濃い影なんだろう……」


 ドームに放たれる疑似自然光が醸し出す陰影とは明らかに違う、本当の日の光の影が今、ここにあった。 強烈な影を生み出す最強の光をもう一度確認しようと、シェリー・メアリーが太陽を見上げると、真白しんぱくの輝きに瞬殺されてしまった。

 風力と太陽光の発電装置が犇めく、巨大なシェルターの外郭屋上に目をやれば、多くの電気保守技師が保守点検に出向いていた。

 エアロックの外へ出た子羊たちを見守っていた大人たちは、初めて青空の大地を踏みしめた子羊たちに惜しみない祝福を捧げている。

 子羊たちもその事に気づいた。

 大人たちに見守られながら、平常心を取り戻した子羊たちは、再び地面から立ち上がり、暫くの時間、太陽の眩しさと青い無限の空間を存分に堪能した。



― 17歳のシェリー・メアリーの声 ―

「一生忘れる事のない人生初の晴れた日の外界体験は、もう、あのひと時だけで暫くはお腹一杯だったのに、なんと! 外界でのイベントは その日の夜 もう一度行われたの!」


 照明を落とした暗いエアロック内に、羊守りと共に子羊たちが集まっている。 夜の闇独特の怖さの中、昼間とは異なり、子羊は皆、肩や腕を互いに掴んだり、手を握り合ったりして、くっ付き合っている。

 17歳のシェリー・メアリーも皆と団子になって、エアロックの壁に、じっと焦点を合わせていた。


 壁面から、昼間とは違う大きく軋む音がすると、巨大な扉が開く遅さに合わせ、今度は暗闇の上空の遥か彼方から、無数の小さな光たちが少しずつ、子羊たちの前に姿を現し始めた。

 昼間は無限の青い空間だったものが、今は漆黒の天空の隅々にまで小さな光たちがちりばめられ、連なり、きらめくそれは、只々、


 〝美しかった〟


「無限の空間に存在する、今まで見た事もない輝きたちは、昼間の青空が粉々に砕け散って一気に収縮し凝縮した欠片かけらたちなのかも知れないと、私は本気で思った」


 気がつけば、

闇夜の子羊たちの周りには、エアロックを囲む大人たちのヒューマンチェーンが連なっていた。

 大人たちは光度を落としたランタンで優しく足元を照らし、子羊たちが夜の外界で必要以上に怖がらない様に配慮していた。

 大人たちに囲まれた子羊は安心して、天空の隅々まで広がるこうぎんにいつまでも魅入られていた。


   ***


 数年振りの〝晴れの日〟は3日続いた。4日目の未明に空模様が怪しくなり、昼過ぎには黄色く蒸せた暴風の世界に戻った。

 普段は冷凍睡眠で待機する、発電装置の保守点検に駆り出された大勢の保守技師たち。4日目の今日はシェルター内のあちらこちらにうじゃうじゃ湧き出ている。この賑やかさは人類壊滅前の休日の大型テーマパークを思わせる。 シェルターの人々にとって、総点検明けの日は、賑やかで騒がしいお祭り気分が味わえる日でもあった。 あちらこちらでハグをする人たちがいる。久しぶりに家族と過ごせる人も。昔の恋人とも再開できるうるわしい日。


「幼い頃から、人々がドームや居住区にも溢れて楽しげな日があった。 それは、総点検が終わった技師たちが、再び冷凍睡眠に入る前の体調調整日だと気づいたのは、何歳の頃からだったろう」


 ドーム内は夕暮れ時になると人々が集まり、貴重なお酒や保存食が振る舞われ、賑やかしさは就寝時間まで続いた。


   ***


 体調調整を終えた保守技師たちは、次々と冷凍睡眠に戻り、シェルターにいつもと変わらぬ静けさが戻った。 それから少し月日が過ぎ、ウッドがまた研究室へ戻ってきた。


― シェリー・メアリーの声 ―


「『そうか、晴れの日が訪れたのか』(シェリーが真似をするウッドの声色こわいろ

 生まれて初めての、晴れの日の体験をウッドに報告すると、彼がそう聞き返したので、私は、青い空と夜の星々を見た時の興奮と素晴らしさを一気に語り始めたのだけれど、『ああ分かった分かった、もう十分に分かったから』と話をさえぎられ、両手で『もう良いから』とジェスチャーまでされちゃったの」


 ウッドが五月蠅うるさがるのはシェリーも分かっていたが、彼が話をマトモに聞かないので、シェリー・メアリーは少し不機嫌になって、知らず識らずの内に口を尖らせ、ほっぺたを膨らませていた。


「君は怒ると面白い顔をするんだな」


 十代半ば以降は母にしか見せた事のなかった癖を、素っ頓狂すっとんきょうな声でウッドに見咎められた17歳のシェリー・メアリーは、見る見る顔を真赤にすると

「知らないっ!」と、増々口を尖らせ、ドカドカと研究室から出ていってしまった!

「おい、まだ進捗報告を聞いて――」

 今度はウッドが変顔になりながら我が研究生を呼び止めはしたが、それはもう、最高に後の祭りだった。



 次の日、シェリー・メアリーが出所すると、既にモニターを覗き込んで作業をしていたウッドが、ぎこちなく「おはよう」と挨拶してきた。 昨日、彼女がこっそり研究室に戻った時にウッドの姿はもうなく、気まずさは今日も続いてしまい、シェリーは何となく「フン」「ツン」と、怒っている振りをしてしまった。

 するとウッドが

「昨日は茶化して済まなかった。怒るとは思わなかったんだ。今日は君の話を黙って聞く事にしたから、存分に話してくれ」

 ときた。

 俄然!思わぬ大逆転大勝利を手にした様な、異様な顔つきになったシェリー・メアリーは、堰を切って喋り始めた!

 まるで、口元だけタイムプラス撮影早送りになったかの様なシェリー・メアリーの連射トークに、作り笑顔で時おり頷くウッドの忍耐の時間は、、続いた。


 今回のシェリー・メアリーとウッドの1年越しの再会は、ウッドの苦行で幕を閉じ、彼はまた眠りに着いたのだが、シェリー・メアリーの方は酷くスッキリしていた。


   ***


 さて、シェリー・メアリーは18歳になった。母は相変わらず結婚相手の事ばかりを娘に促していたかと言えば、そうでもなく、結婚できなかった時の準備も大切だと説き始めていた。

 ここ1~2年の母に娘は多少うんざりしていて、シェリーは母から遠ざかる為に、研究室に泊まり込む事も珍しくなくなっていた。


 研究室で日々黄昏れる18歳のシェリー・メアリーの前に、四度よたび、ウッドが姿を現わした。

「おめでとうシェリー・メアリー。18歳から俺の許可でライブラリが使えるぞ」

〝久しぶりだな〟や〝また背が伸びたな〟とか〝無言でギョロリ〟でもなく、1年振りに会って(最もウッドからすれば数日程ではあるが)開口一番、ライブラリの使用許可だったので、18歳のシェリー・メアリーは酷くびっくりして喜んだ。

「え?何それ? ホント? ウッド♪」

「俺の許可でだぞ?」

「え? 何それ……」



 管理区は、各保守職の管理運営に当たる、言わばシェルターの存続を司る中枢だ。

 中央ドーム(ドーム1)、第二ドーム(ドーム2)、第三ドーム(ドーム3)の3つのドームが、L字に連なる、各ドームの接点に位置した〝中央管理棟〟が、管理区だ。

 元々このタワーは全ドームが見渡せる展望レストランだった。

 人類壊滅後、ドーム屋上からの電源供給を制御する器機が無造作に運び込まれ、電源管理の拠点となったのだが、3つのドームを一望できるここは、シェルターの状態観察にもだったので、そのまま保守管理のかなめとなっていった。


 その管理区の中央制御室となった、広々としたラウンジに、ウッドがシェリー・メアリーを伴い現れた。

 シェリーは1年生の時に見学に、二度目は管理実習の時に訪れていたが、此処からの各ドームの見晴らしはシェルター一だ。 シェリー・メアリーはキリリとした顔つきを装ってはいるが、ドームを見下ろせる眺望の良いデッキを通り過ぎる時は、眼下に広がるドームの景色に自然と顔が崩れてしまう。


 ウッドは管理官と何か話すと、三人はラウンジの奥にある、複数の小部屋の一室へ移動した。その小さな部屋には、使い古されたモニターと、経年劣化してはいるが、綺麗に手入れがされたキーボードなどがセッティングされてある。


 ここが『ライブラリ』と呼ばれる、人類の記録データーを閲覧できる、十数室並ぶ内の一室だ。


 人類の崩壊から15000年が経ち、冷凍睡眠装置を稼働させる人々だったが、未だに崩壊前の化石の様なコンピューターシステムしか存在しないのは、冷凍睡眠装置の安定的な供給のための、資源の決定的な不足だけではなく、人類の文化そのものが停滞しているあかしでもあった。


 ライブラリの一室を前にした18歳のシェリー・メアリーは、もう大人の仲間入りをした歳なので、小娘の様にはしゃぐ事はしないが、目はキラキラだ。

 ところが、ウッドが意地悪そうに念を押した。

「俺の許可が下りるまでこれは使えんぞ」

「条件は何よ?ウッド」

 シェリー・メアリーもここは負けてなるものかと、ウッドの挑戦を受けて立つ。



 ライブラリのデーター収集は、冷凍睡眠が開発される前のシェルターの人々が生き延びるために、苦し紛れに生きる目的を見出すために、成された偉業だった。

 皆、知識を求め、集め、整理し、保存する事に没頭した。自分たちがなぜここに居るのか、その苦悩をなぜ背負わなければならないのか、先祖が犯した罪は何だったのか、そのおぞましい出来事までも全て記録した。核汚染毒に我が身を蝕まれてでも外界に挑み、生き残っていた電子機器の記録装置やディスク、古いテープや書物を持ち帰り、シェルターが汚染されぬ様、居住区から隔離された一画でその偉業を成し遂げた。

 そうする事で生き続ける事が出来た。そうしなければ生きる事さえ出来なかった。

 そのぼうだいなデーターは、世界のシェルターとリンクされ、纏められ、人類共通の財産として、世界に残存するシェルター一つ一つがバックアップの機能を果たした。

 人類壊滅以前、何ギガバイトもの容量を、全世界に瞬時に送信できたWEBや衛星通信は失われて久しく、データーの送受信は電離層を利用した複合周波数電波で行われた。だが不安定な大気に阻まれ、データー転送の成功率は極めて低く、数メガバイトでさえ幾日も掛かったという。

 永遠に続くかと思われたデーターのやり取りも、やがて成し遂げられると、シェルターで生き延びる為のしるべとして、ライブラリにまとめられ、保守、研究、生活、医療、教育などの各分野に分類し、人々がシェルターで持続生存する知識の中枢となっていった。



 ウッドはシェリー・メアリーの本気を推し量る。

「ライブラリには旧人類の闇が多く保存されている。無造作に閲覧すると君の心が破壊されかねない代物だ」

 ウッドの目付きが穏やかながら真剣だ。

「見たくない物、見るべきではなかった物が『見たい物』の中にごまんとあるのさ。あれはキツイぞ」

 シェリー・メアリーはウッドの言わんとする所を理解した。

 そうなのだ。私は大嫌いな旧人類の歴史に触れてしまうのだ、と。


 18歳のシェリーが真顔でウッドの目を見つめる。

「それほど旧人類の時代は酷かったという事なのね」

 ウッドがシェリーの真剣な眼差しを確認した。

「旧人類の恐ろしさを知り、旧人類の狂気に支配される事なく、ライブラリを使い熟す事。その為にも今から人類の醜さが詰まったテスト用の映像を観てもらう。それに耐える事。これが許可の条件だ」


 ウッドに「分かった」と返事をする代わりにシェリーは放つ。

「だったらテスト用なんかじゃなく、一番キツイ映像を幾つか、お願い! 私が発狂しそうになったらその時は助けて!」

(この小娘、やるじゃねえか) ウッドは脳天に何か喰らった様で、彼も覚悟を決めざるを得ない。

「よし! 一番キツイ奴3本だ」


― 18歳のシェリー・メアリーの声 ―

「私の突発的な提案で、人類の歴史の一番酷い映像を3本も観る事になった。でも私は人類の歴史になんか、絶対負けたくない。負けてしまえばライブラリは遠ざかり、私の夢の探求が終わってしまう」


 ウッドが見守る中、彼が用意した3つの映像の、最初の1本が始まった。

 緊張感に支配されるシェリー・メアリーの、破裂しそうな鼓動が聞こえる。


   ***


「最初の1本は――、人が大勢、死んでいた。

 無限の空の下の、広大な大地で!

 死んでいた人々は皆、兵士だった。でも画像はモノクロームの粗い静止画で、最初はそれが人だとは分からなかった。 動く白黒映像が始まると、多くの、本当に多くの兵士が武器を手に大地を駆け抜けようとしてた。人よりも大きな兵器が火を吹き煙を吐くと、大地が次々と沸騰ふっとうし破裂した。兵士達が吹き蹴散けちらされ、ゴロゴロと転がった。二度と起き上がらなかった」

「モノクロームとは言え、地球の大地と大空を始めて見たのに、それは人がたくさん殺し合う映像だった……」

「1本目は続き、次は天地を焦がす大爆発だった。また多くの人々の遺体が、今度は戦場ではない所で、兵士でもない人々が、破壊され尽くした瓦礫の中で、横たわってた。最初、私はこの場所は、何かそう言った不浄の地なのかと思ってた。 でもここは嘗て、美しい街だった。今は破壊され焼かれた日常の残骸に、遺体となって我が身を埋める人々の、日々の暮らしがあった。

 授業では決して見る事のなかった、黒く焼け焦げたお母さんと赤ちゃんの姿を見た時、私は涙が止め処もなく溢れ、過呼吸となった。

 映像が終わっても暫くは放心状態で、何も出来なかった……」


「席を外して少し休憩するか?」

 ウッドが心配していた。

「続けてお願い」

 シェリー・メアリーは涙で濡れた顔で、2本目に挑んだ。



「2本目もまた人々が殺し合う映像だった。時代が進むに連れてモノクロームからカラーになり、解像度も鮮明になって、見たくなかった物、曖昧な映像のままであってほしかった物が、何が映っているのかはっきりと分かる様になった。でも1本目とは何かが違う。

 何が違うのだろうと観ていると、世界のあちらこちらで紛争と呼ばれテロと呼ばれる殺戮さつりくや、大国の呆れ果てた大義名分による『軍事侵攻』が頻発ひんぱつし、人々が虐げられ、凌辱りょうじょくされ、殺され、焼かれたのち、生き残った人々が故郷ふるさとから追い出される映像が、時代ごとに、これでもか!これでもか! と流れた。

 相変わらず大地は無限に続き、空は青く透き通ってた。その空と大地の下に、人々の、無抵抗の人々の死体が横たわってた。これは戦争ではない事に気がついた。1本目とは何かが違うそれだった。

 武力を手にした者が利己と欲望の為に『正義』とのたまい、人の知性を悪用し、理性を葬り去り、動物以下の振る舞いで同胞を虐殺してゆく映像だと気がついた。はらわたのない幼い子の遺体がゴミ捨て場に投げ捨てられていた。難民キャンプで子ども達の誘拐事件が頻発したその目的は――、 臓器売買だった」



「これが人間…… 


 これが人間


 これが人間

 これが……   」



 聞き取れない程の小声で、シェリーの錯乱が始まっていた。


「2本目もまだ続いた。1本目の続きの様な映像ばかりになった。

 巨大な雲の大爆発が世界各地で起こり、人々が故郷を、今度は自ら捨てて大勢で逃げ惑い、食料を奪い合い、殺し合っていた。

 世界の核発電施設が破壊され、自然界には存在しない大量の核種が放出された。逃げ延びていた人々にも核汚染症が蔓延し、血を吐きながら死んでいった。大人や子どもや、赤ちゃんの遺体が大地を埋め尽くしていた。世界の川に死体が流れ、世界の浜辺にはもっと多くの屍が打ち上げられてた。犬が遺体を貪り、その犬達も多くの動物達と共に汚染され死んでいた。核攻撃に曝され破壊された都市では横倒しに潰れたビル群の残骸の中で、多くの死体が皆同じような姿恰好で黒焦げになり横たわってた。生き残った何万人もの人々は熱線で皮膚がただれ、真っ赤な肉をき出しにしながら群れとなり『助かりたい』とただ只管ひたすら当所もなく彷徨さまよい歩いてた。彼らが歩く道の脇には息絶えた何十万もの人々の遺体が転がっていた」



「これが人間 これが人間 これが人間 これが人間これが人間これが人間これが人間 これが人間!これが人間!これが人間!これが!これが!これが! これが人間!これが人間!これが人間!これが!これが!これが! これが! 

これが人間!!」


 2本目を観終えた18歳のシェリー・メアリーは、モニターの置かれたテーブルに臥せ、うわごとを言い続ける。

 過呼吸は限界に達し、口を大きく開け、目は見開き、テーブルは涙とよだれが入り混じっている。

 死相の様な、人が死ぬ間際の形相ぎょうそうで放心する彼女が不気味に笑い始めると、その声は徐々に深い悲しみの泣き声に変わってゆく。


 暫くシェリーの様子を見守っていたウッドが声を掛けた。

「3本目はもう見るのはすか?」

 シェリー・メアリーは顔を臥せたまま、彼女とは思えない震えた恐ろしい声で返す。

「もうこんなの見ない…… こんなの、 絶対見ない……」

 まともな受け答えをするシェリーに安心したウッドは畳みかける。

「最もキツイ最後の映像を見なければ、君はライブラリを使えなくなるが、その覚悟があるか? 冷凍睡眠夢研究を諦めるのか?」

 今、一番酷い状態のシェリー・メアリーに、人類の最もおぞましい映像を見せよう見せようとしているウッドは、急に人をおとしめる権化になったかの様に見える。

「君は人類の歴史に負けるつもりか?」

ウッドが放つと、シェリー・メアリーは間、髪を入れず、

「見る」 と、一言だけ言ってのけた。


― 18歳のシェリー・メアリーの声 ―

「あれほどおぞましい人類の過去を立て続けに見てしまったのに、それ以上の酷い映像がある事が、怖くて怖くてたまらなかった。

 ウッドがとても恐ろしかった。何故? でも私から見ると言ったので最後の映像は目を瞑っていようと思ってた」


「でも…… 本当の涙は、最後の3本目の映像だった」

「3本目は……」

 シェリー・メアリーが涙声になってゆく。

「3本目は……」


   ***


「最初はクジラだった。クジラの親子が日の光が届く海の底でゆるりと泳いでた。光が揺れる水の中で優雅に漂い、子クジラが親クジラにたわむれていた。揺らぎながら海底に届く水面みなもの光と親子の影が優しく美しかった。

 次は鳥たち。空を飛ぶ鳥を生まれて初めて見た。この映像はどうやって撮ったの? すぐ横で鳥と一緒に飛んでいる。鳥たちは気持ち良さそうに空に舞う。 とても 気持ちよさそうに。

 映像が次々に移り変わった。

 走る動物に人が乗っている! あれが馬!?

 大勢の人が天井のないドームで大興奮している。凄い!凄い!! こんなに沢山の人が居たの? 走り、泳ぎ、宙を舞い、チームに分かれてボールを追っかけたりしてる。選手の一人が空を見上げると、一筋の白い雲が青い空を貫いている。雲の先端がキラキラと輝いてる。何故だろう? そうか、あれが飛行機だ!


 何処までも続く青い空と白い雲。

 なんて自由なんだろう。

 世界は―― 何て広いのだろう!


 大空から地上を見下ろす映像に変わると、大地は緑一色だ。ドームでは見かけない多様な樹木が、凹凸おうとつのあるいつまでも続く地表を埋め尽くしている。その樹木たちを隔てる様に水が大量に流れている。あれが川? 緑掛かった透き通る青い水が、高い処から、今度は真っ白になって一気に落ちてゆく! 大地を埋め尽くす木々の中に映像が入ってゆくと、木漏れ日掛かるこけ絨毯じゅうたんで小鳥や小動物が餌を取り合いじゃれている。本当の木漏れ日の影はとても濃かった! 私はこの緑の木漏れ日の中に入って行きたかった!

 空が優しい桃色に染まり始めると、薄い透過光の黄色に変わり、やがて橙色にうつろう時、太陽が見た事もない、真紅の光を放ち始めた! 白かった雲たちも、黄昏時の空を従えて黄金に輝く!!


 今まで見た事もない美しいものたち……


 黄昏終えた空には『卒業の日』に見た星々が煌めき始めた。星空の映像に見惚みとれていると、果てしない彼方に存在する宙空が現われた。この世のものとは思えない美しい色彩の、本当に美しい色彩の数多あまたの星雲たち! 見とれる時もなく映像が深淵の空間から振り返れば――

 そこには大きな星が一つ、浮かんでいた。

 私は『これは惑星? 空の様に青い……』と小さく呟いた。

 口がほんの少し、ぽかんと開いていたと思う。

 映像が、青い星の夜の部分に降下し、星々の様な光の集まりに近づくと、それは人類壊滅前の大都市の見事な夜景だった」

「私は何処かで気づいてた。この青い星は地球だと」


 バラード調の楽曲がシェリー・メアリーの耳に静かに届き始め、映像も、都市の夜景を見渡す波打ち際の浜辺に落ち着くと、美しい旋律に切ない歌詞が重なり、夜の風景を感傷的に映し出していた。

 やがて素敵だった楽曲も終わる頃、空は白み、グリーグのペールギュント組曲〝朝〟が流れ始めた。

――空も雲も、世界の全てが輝き、解き放たれた――。



「朝の美しい陽射しが世界を光で溢れさせるラストに、私は心揺さぶられた。映像が静かに終わりを告げ、画面から消えて行く時、私は思わず『行かないで』って、言ってた」



 最後の映像が終了すると、シェリー・メアリーは先程までとは全く異なる涙で溺れていた。

「ウッドずるい、ウッドずるいよ~」

 たった今まで恐ろしいと思っていたウッドの目が今は優しい。

「よ、夜になる前の、あの、オレンジ色に、に、に、美しく、、、輝いているのも、のも、空なの?」

 泣きじゃくりながら聞くと

「ああ…… ああ」

 と、ウッドもちゃんと声が出ない。


 外界とは、地球とは、世界とは、こんなにも美しかったの? シェリー・メアリーは唯々、狂おしいほど涙に溢れた。



― シェリー・メアリーの声 ―

「ウッドが選んだ最後の1本が、本当の意味で一番キツかった。

 美しかった地球を、私たち人類が、私たちの先祖が、ことごとく破壊し尽くしていたその現実を、逆に突き付けられる映像だったから。

 1本目の涙が、真実を知らなければならない涙だったのなら、2本目はその真実に、心が破壊される涙だった。3本目の涙は、何の涙だった? 1本目や2本目の歴史の真実から私を救った、3本目の涙は……

 寂しさの涙だったのかな……」


「ウッドが執拗しつように『3本目を見ろ、3本目を見ろ』と言ってた様な気がする。

もし、最後の映像を見ていなければ、私は暗黒面ダークサイドどころか超巨大暗黒質量面ブラックホールサイドとでも言うべき所に永遠に囚われていたかも知れない」


   ***


「暫くは、3本の映像が交互に頭の中に現れて、精神状態は不安定だったけれど、徐々に3本目の映像ばかり思い出す様になって、それは他の2本に勝ってた。 でも他の2本も決して忘れる事は無かったし、忘れてはいけない映像だった」

「それにウッドが、 いつもは直ぐ冷凍睡眠に戻っていたウッドが、かなりの間、一緒に研究室に居てくれた」

「私の事を心配して。 ふふ♪」


「私の精神が随分と落ち着いた頃、ウッドがまた去った。結果、私はライブラリに入り浸りになった(笑)」


 去る前のウッドが、昔の保安官の様な管理官と何か立ち話をしている。

ウ「あの、俺が居ないとライブラリに引き籠って暴走するだろうから見守ってやってくれないか」

管「ああ、任せてくれ。あんたを叩き起こすと言えば正気に戻るさ」

ウ「あまりイジメないでくれよ? 俺の可愛い研究生なんだ」


シ「ライブラリに入り浸り始めた当初は、管理官に同席してもらってたけど、管理官が居ない時や、途中から退室した時、私は『美しい地球』『素晴らしい地球』等の検索キーワードで、研究とは全く関係ない綺麗な映像ばかりを探してた。人の目の届かない時の私はとてもワガママで、小ずるくて、自分勝手だった。でも生命に満ち溢れていた地球の映像は、ズルをしてでも観たかった。私は暫くの間、美しい地球の虜になった」


ウ「オレも若い頃、初めてライブラリの使用許可を貰った時は暴走したよ」

管「あれはヤバかった」

ウ「あんたもか!」 

ウ・管「うはははは」


シ「映像に記録されていた生命いのちたち、もう地球には居ないのかな?

 人類壊滅前の私たちの祖先が、彼らを死地に追いやり続けていたと歴史の教科書にあった。

 シェルターに避難した最初の先祖がこの世界から去った後、今度は自らの子や孫を、子孫を、つまり私たちをも、死地に追いやり続けているのだとも綴られてた」


管「でもよく残しておいてくれたよ。あれほどの量の記録を」

ウ「ああ同意。地球の生命を蔑ろにして、世界を壊滅に追いやったのが俺達の先祖なら、あの膨大な地球の記録を残してくれたのも、数世代後の俺達の先祖だよ」

管「ああ。そうだな……」


シ「でも、やがてお腹が一杯になる時が来た。ウッドは私を勝手ワガママさせる為に、ライブラリの使用を許可したんじゃない。ウッドたち先人が、自分の人生を費やして研究して来た、貴重な資料に連なる映像がやっと閲覧出来る様になったのだから、私はそれに挑まなくては」

「とは言え、研究資料に記録されている映像の詳細を理解して、研究の成果により詳しくなっても、頓挫している研究が進む訳じゃない。 私はもう少し視野を広めて、冷凍睡眠前の人々が残してくれた、映像資料の海の中に飛び込まなくてはと考え始めてた」


「 ……海 ……か。 

 あのクジラという魚の親子が泳いでた海の中…… 凄く綺麗だった……」

 シェリーは何気なく〈クジラ〉と検索した。

「??ええ? クジラって魚じゃなくて哺乳類なの??? うっそお???」


「あ、それから、 私がライブラリに入り浸りになったのは、別の理由もある」


「結婚相手を探し疲れたの…… 」


 事実、ここ最近のシェリー・メアリーは―― 

 何人かの同級生に断られ――

 一つ上の食料生産のお兄さんに辞退され――

 一つ下の電子設計の人には既に奥さんと赤ちゃんが居て――

 16歳の新卒業生には年下が好きなんだと言われ(汗)――

 俺の彼女にならないかと言ってきた土木建築保守技師の超オジサン(50代!!)にはシェリー・メアリーの方が「絶対イヤです!」と、断固として拒絶した!!


「……と言う訳で、私はイーブンソング家が滅ぶ恐怖から逃れる様にライブラリに入り浸ってる」


 気が付けばシェリー・メアリーも19歳。あと1年で婚期の終了と共に、母親が冷凍睡眠で眠る日が来る……。


   ***


 19歳になってしまったシェリー・メアリーが、いつも通り、ライブラリでモニターと睨めっこをしている。

 つい先日、ウッドがまた目覚めて彼女のライブラリでの成果を指導していたのだが、「ま、こんなもんだろ」と、また3日ほどでさっさと寝てしまっていた。


「私が、研究には全く関係ない別の映像を観まくっていた事は、大丈夫。バレてない(汗)」


 少しの間、彼女の作業の手が止まると、何か文字を打ち始めた。


〈スティール・ジョン・ユーラー在住 USA一般階級経営者用シェルター『チャールトン・ホソノ』所在地:検索〉


「禁止キーワード」の検索エラーが表示されると、シェリー・メアリーは残念な様な、それでいてホッとした様な表情を見せた。


 再びモニターと睨めっこが始まり、静かな時間が少し過ぎた。

 画面を覗くと「量子脳理論」とあり、小難しそうな文章が並んでいる。かと思うと次の画面では「心霊とオカルト」とあり、怖そうな写真付きの資料を、目を見開き口に手を当て、ゾクゾクしながら見入っている。

 お昼時。携帯食料の手弁当を手に、ライブラリの個室を出ると、いそいそとデッキテラスに足を進める。 途中、中央制御室のラウンジに居る管理官に軽く手を振り挨拶をすると管理官は「ウム」と笑顔でうなずく。 ラウンジから続くデッキテラスには幾つかのテーブルと椅子があり、その一つがシェリー・メアリーのお気に入りの席だ。


― 19歳のシェリー・メアリーの声 ―

「もう、本当に、冷凍睡眠夢の研究者になって大正解だった。だって、こんなステキな所でお昼が過ごせるのだもの。これで結婚相手が見つかれば大ハッピーエンドなんだけど」


 1万5千年も腐食しない何か特別な金属で出来たテラス席。ここから俯瞰するドームは格別だ。今日も青空教室で授業を受ける生徒たちの姿が見える。これで鳥のさえずりでもあれば文句無しだ。が、シェルターで暮らす人々は〝鳥のさえずり〟を知らない。

 シェリー・メアリーはライブラリで見知っていただろうか?

 そのライブラリでの日々が彼女の新たな日常となり、それは少しずつ過ぎ去っていった。


そしてまた、不意にその時が訪れる。


 それは、いつもの様にシェリー・メアリーがライブラリに籠っていた時だった。

 非常用の、か細いサイレンが管理区内に響いた。

 何?と、シェリーがラウンジへ様子を窺いに行くと、管理官たちが真剣な面持ちで、冷凍睡眠待機中の保守技師たちを緊急解凍していた。


 電源喪失危機だった。


「シェリー・メアリー、少し手伝ってくれ」

 管理官が彼女に気づくと、極めて冷静に助太刀を頼んだ。

 シェリーも学生の頃の実習で何をすれば良いのか心得ている。指示に従ってテキパキと熟すが、流石に緊張は隠せない。

「大丈夫、いつも通り上手くいくさ。後は安心して見ててくれ」

 管理官はそう言っておきながら、蘇生した数名の電気保守技師たちが状況確認に来ると、とても怖い報告をする。

「ドーム3の外郭屋上の数十機から電気が来なくなった。下手をすれば1000人単位の生命維持に危険が生じる」

 状況説明と指示が終わり、技師たちがドーム3外郭へ向かいがてら、一人の技師がシェリー・メアリーに声を掛けた。

「君、管理官なのか?」

 なかなかの好青年だが歳の頃は20代半ばから後半辺りだ。残念。

「いえ、私、冷凍睡眠夢の研究者です」

「うわマジか? つい今まで夢を見てたんだ。作業が終わったら話を聞かせてくれよ」

 彼は緊張感のない態度で他の技師たちと現場に向かった。

 シェリー・メアリーは普段からよく見かける管理官を捕まえ、覇気のない技師らに呆気に取られながら話しかけていた。

「ねえシェリフ、1000人単位の危機ってすごく大変な事態だと思うのだけど、あの人たち、結構呑気じゃない?」

「? 大変な事態に決まってるじゃないか。だがな、必要以上に緊張してちゃ十分な力を発揮できないんだ。身も心も萎縮しちまってな。だから彼らは平常心で普段の訓練通りに事に当たるんだ」

 シェリー・メアリーは「あ、そうか」と合点の行くキョトンとした顔つきで、管理官の説明にふむふむと頷いている。

「ところでそのシェリフってのは何だ?」

「え?」

 管理官〝シェリフ〟の返しに、シェリー・メアリーは言葉が続かない。

シ「あ~の~、貴方の事をどう呼び止めて良いか分からなくって、私が咄嗟とっさに付けた呼び名よ」

管「ふ~ん…… なんでオレの呼び名がシェリフなんだ?」 

シ「だって、ウッドが自己紹介もさせてくれなかったから……」

管「いや、そうじゃなくて、なぜシェリフになっちまったんだ?」

シ「……何となく、そんな感じがしたから?……」

管「ふ~ん……」

「よし、じゃ、自己紹介だ。オレの名は、

『シェリフ』だ。この呼び名、気に入ったよ。宜しくなシェリー・メアリー」

「え~??? ホントの名前教えてくれないの???」

「今日も外は蒸し暑い強風が吹き荒れてる。さあ、彼らとリアルタイムで連絡を取り合わないといけない。見学してくか?」

 管理官『シェリフ』は強引に仕事の話に戻して呼び名の件を終わらせてしまった。シェリー・メアリーは「あ、名前教えたくないんだ」と思いながらもコクンと頷いた。


 シェリフは屋外作業の連中と手際よく連絡を取り合い、冷静に状況を確認し、電源供給の状態をリアルタイムに技師らに伝える。

 だがやはり緊張感は否めない。

「おっと!」 強い声と共に何かが激しくぶつかる音がスピーカーに響く。シェリフが「大丈夫か?」と返すと「ふう、風に飛ばされそうになっただけだ。大丈夫!」と返ってくる。シェリフも、外にいる連中も真剣そのものだ。

 幼い頃から電源喪失に遭遇するシェルターを見続けたシェリー・メアリーだったが、現場がどの様に動くのか目の当たりにすると、彼らの仕事ぶりに止めどもない感動が湧き起こっていた。



 非常用サイレンから5時間近く経った頃、電気保守技師たちから無事、作業終了の連絡が入った。

 彼らの屋内収容完了の報告を受けた管理官シェリフは、携帯食料と、それから貴重なお酒をほんの少しばかり、いそいそとラウンジ内のテーブルに用意し始めた。


「シェリフ、何してるの?」

「命懸けの仕事を終えた連中には、いつもご馳走してるんだ」

 彼はおふざけでウインクする。

「シェリー・メアリー、君も一緒にどうだ?」

「え? 私?」

 シェリー・メアリーは意外な展開に少し戸惑ったが

「今日の手伝いは完璧だったから、俺にご馳走される権利は十分にあるぞ?」

 と言われると、これは食べない訳にはいかない♪


「腹減ったあ!」

威勢よく彼らが帰ってきた。


 用意された食事を瞬く間に平らげ、作業報告と、今後トラブルが起こりそうな予想をテキパキとこなす彼ら。最後に貴重なお酒をほんの少しグラスに分け、皆で乾杯して食事&報告会は終わった。


「シェリー・メアリー? 君、もしかして『お酒デビュー』か?」

 暫く雑談している間に、虚ろな目でニコニコしているシェリー・メアリーにシェリフが面食らった。

「え?マジか? 冷凍睡眠夢の話をしたかったのに」

 修復作業が始まる前に、シェリーに話しかけた彼が残念がった。


   ***


 シェリー・メアリーが目覚めると、ベッドの中だ。

 ここは、 彼女のベッドだろうか? それとも――


― 〝ほんのちょっぴりの量の、初めてのお酒で、前後不覚になってしまった〟19歳のシェリー・メアリーの声 ―

「朝、目覚めると 見知らぬ男性が ベッドの中の 私の隣に…… 


 な~んて事は無くて、母が水を持ってきてくれた」

「おはよう!人生初の二日酔いむすめ!!」

 シェリーの、自分の部屋のベッドだ。(汗)


「少し頭が痛いけれど、昨日の事は何となく覚えてる。 母が――


 見知らぬ男の人と…… 


 私を抱きかかえて家までくれた」


「何が楽しかったのか全然覚えてないけど、何だかとっても楽しかった。ふふふ♪ いたたたた」

 シェリーは指先でこめかみをグリグリしている。


 シェリー・メアリーの母が言うには―― 

「管理区から突然〝娘さんを引き取って欲しいのですが〟と連絡があった時、私、本当にびっくりしたわよ。 でも管理官が貴女の事、褒めてたわよ? 電源回復の職務を立派にこなしたって。

 でね、電気保守技師のヒューが――」

 途中で言葉を切った母が、顔をグイと近づけると、

シェリーの耳元で言い放った。 

「彼、未婚で19才よ。最後のチャンスよ」


「母の目が血走ってた。

 私の目も 電光石火で血走った」


 シェリー・メアリーの母はギラギラした眼つきで話を続ける。 

「今日は体調調整日だから、あなたに会いに来てもいいかって言うのでOKしたわよ? 冷凍睡眠夢研究の話が聞きたいのですって」


「今度は 私の体中の血が沸騰した」


「たぶん、恐らく、確実に、その19歳のヒューが私を家まで送ってくれたその人なのだろうけれど、母がそれを私に伝えるのも、私がその事を母に聞くのも、そこら辺の事は吹き飛んでしまってた」


「鼻息が荒くなるって、こういう事なのね」


   ***


 おめかしおめかし。 

 メイクは派手にならず、ナチュラルに可愛く。お洋服も普段着ぽく可愛く。髪型も完璧にせずに、まとめつつも少し乱れた感じで、

……などという完全武装をする間も無く、彼が来てしまった!


「ちょっとお待ち下さいね! すぐ部屋を片付けますので~!」 

 母が機転を利かせた。

「あなた、そのまま寝てなさい! 正直に二日酔いで頭が痛くて横になってると言えばいいわ。女性の寝姿はどんな魔法よりも強力よ!」

 シェリーは母のその言葉に目をパチクリさせている。

「あ、まって、そのパジャマ着替えなさい。薄めの、ボディラインがはっきり見えるネグリジェ系のワンピが良いわ。急いでね!」


 などと言いながら、シェリーの母は自分でクローゼットを引っ掻き回すと、手頃なワンピを見つけ出して娘に放り投げ、部屋を飛び出して行った。神業だった(汗)。

 シェリーの母は一体どんな人生を歩んできたのだろう。(汗)


「そう言う事でしたらオレ、帰りますから」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ。娘も貴方に会いたがって、その、昨日のお礼が言いたくて、ずっと待っていましたのよ?(必死)」

 ホームドアから聞こえて来る二人のやり取りを、軽い頭痛を覚えながら聞き耳を立てつつ、急いでワンピに着替え、急いでベッドに潜り込み、少しドキドキしながら、まるで〝眠れる森の美女〟の様に準備が整った! 頭に花飾りは特にないけれど。 


 会話が途切れ、開いている部屋の入口からその彼が恐る恐る顔を覗かせた。 見てくれは20代半ばから後半のあの好青年だっ♪

 二人とも目が合うと異様なほどにお互いを凝視をしている。

「あ~、あの~、シェリー・メアリー、き、昨日はどうも…… 二日酔い大丈夫?」

 シェリー・メアリーは少し緊張しながら、いつもより高いトーンで可愛く言葉を返す。

「き、昨日は、家まで付き合わせてしまってごめんなさい。と言っても、私、全然覚えてなくて……」

「え?うそ?あれだけ冷凍睡眠夢研究の事を話してくれたのに?」

「え? そ、そうなの?」

 やっぱり彼が送ってくれたのだ。

「私、どんな事話してたの?」(何を話したのだろ? 変なこと話してなきゃ良いけど)

「量子脳理論とか言う難しそうなやつ。脳神経も分子原子レベルでは広大な空間があって、その空間に別次元の意思の様な物が存在する、てのをすっごい大声で話してたよ」

(あちゃ~)(>_<;)

 シェリー・メアリーは別次元でも頭が痛くなってしまった。

 たった今、話題を、とても、正しい方向へ!持ってゆかねばならない緊急ミッションが発生した!

「あ、あなたが見た冷凍睡眠夢のお話を聞かせてほしいわ♪」

 シーツに顔を半分沈め、両手でそのシーツをぎゅっと掴んで、とても可愛らしくお願いするシェリー・メアリー。

「ああ、やっと話せるのか♪ 昨日は話したくて話したくてウズウズしてたのに、君の方がず~っと話しっぱなしだったからね」

(た、正しい方向へ持っていけてない……(汗))


 彼は大興奮で自分の冷凍睡眠夢を話したが、先達の研究者たちが収集した内容と代わり映えのしないものだった。それはそれは『素晴らしい!』『なんて素敵なの!』『それはとても凄い事よ!』を連発して、彼を雄弁にさせたのはシェリーだったが。


「どうだった?オレの夢、研究の役に立つかな?」

(この人は親切のつもりで自分の見た夢を得意満面に話したのだろうか?(汗))

「ええ、とっても。私も冷凍睡眠夢を見てみたくなっちゃった」

「へえ、そうなのか。変わってるんだな、君は」

 シェリー・メアリーは彼の質問は適当に処理して自分の話に持って行ったのだが、変人扱いで返されてしまった。

(ムカッ。私の一体何処の何が変わってるのか、それは彼の浅い人生経験でしか測られない事だから気にはしない様にした!)


 などと言う二人のやり取りを、いつの間にか、母親が壁の向こうで聞き耳を立て、様子をうかがっている。


「じゃあ、僕はそろそろこの辺で。明日はまた冷凍睡眠に戻らなくちゃならないから」

 彼のいとまの挨拶に母と娘は瞬時に反応した!

「もっとあなたとお話ししていたいわ! 私の事も話したいし!そうだ!私よく正夢を見るの! 幼い頃は何度も同じ夢を見て――」

 シェリー・メアリーは支離滅裂になり始めた。

 その上、壁向こうから突然現れた母は母で――

「お茶のおかわりはいかが? 自家製のハーブティをまだお出ししていないわ。そうだ! 自家製のケーキ作りを一緒にいかが?」

 と、こちらの支離滅裂ぶりも中々のもので、二人とも、てんで方向性の違う提案なのに、見事な辻褄つじつま合わせをやってのけた。

娘「あなたのお話を聞きながら私の話をして」

母「そうそう、私のハーブティを飲みながらね」

母・娘「そうね、自家製ケーキを作りながら、おしゃべりしながら」


 二人をキョロキョロと見ていた彼が一言、ぼそりと返した。

「あの、お二人とも、結婚を前提に会話を進めようとされてます?」


 シェリー・メアリーは彼の図星に変な汗が一気に吹き出し、押し黙ってしまった。が、母はニコニコ顔で連射トークが炸裂した!

「そうなんです!なんて明瞭な頭脳の持ち主なの。シェリーも貴方も19才。婚期終了前の若い二人にこんな機会は滅多に無いわ! これはきっと神様の思し召しよ。運命だわ!」

 母の、この、間髪を入れぬ反応が娘より何が一枚上手なのか、それとも何が一枚ダメなのか、良く分からない(汗)。


「僕は、10代の割と早い頃から『結婚しない』と自分自身に言い聞かせて来たんです。ごめんなさい」


 シェリー・メアリーは彼の覚悟の様なものに二の句も無く、再び反応できなかったが、母はこれさえも瞬時に応じた!

「なぜ?もったいないわ?子どもは!作るべきよ?私たち!シェルター人は!そう思い続けて!今まで!生き延びて!来たのよ?あなたも!そう・する・べきだわ!」

 シェリーの母は、何かにかれた様にヒューを問い詰め、にじり寄ると、ヒューは「え?え?何?」と、シェリー・メアリーの顔を見い見い後ずさる。

「お母様!」

 シェリーは慌ててベッドから飛び出し、母の両肩をおさいさめた。

 この時、ヒューはシェリー・メアリーの露わなボディラインに釘付けになり、柔らかくて甘い花の様な香りに魅了されてしまったのだが、その事は絶対内緒にしておかなければっ!!


― 19歳のシェリー・メアリーの声 ―

「母は、自分が絶対正しくて相手の方が間違っているのだ、という考えの持ち主ではなかった筈だけれど、今日に限ってはそうだった。 

それで、今は自責の念に駆られて、身も心もグズグズだ。

 私は、複合的に、多次元で、頭が痛くなってしまった(汗)」


 ヒューは自分がなぜ結婚しない人生を選んだのか、母娘二人に丁寧に説明した。

 結婚を選ばなければ、18才から冷凍睡眠を利用した長期保守作業に携われる事。結婚を選ぶと、憧れの冷凍睡眠待機での電気保守技師の道を選べなくなる事を。

 ヒューは電源喪失の時、まっ先にシェルター外郭の発電機群に赴いて修復作業をする、誇りある職業に小さな頃から憧れていたのだ。


「ごめんなさい。ごめんなさい。私、取り乱してしまって、 ごめんなさい……」

 母親は娘のベッドに座り込み意気消沈中だ。両隣に揃って座る娘と客人に慰められている。 シェリー・メアリーは母を許してという意味で、ヒューは大丈夫だからという意味で、母親越しに互いに目配せをしている。

「お母様、ヒューさんはそろそろお帰りになるから、私、お見送りするからね?」

 母はうつむきながらコクンコクンと頷き、一言返す。

「その透けてそうなワンピのままで大丈夫?」

「きゃあ!向こう向いてて! すぐ着替えるから一寸待ってて!」

 途端に顔を赤らめ視線をそらしたヒューは、沸騰したように真っ赤な顔になったシェリー・メアリーから背中を押され押されして、部屋の外へ押し出されてしまった。


 シェリー・メアリーが着替え終わると、「僕はここで」と、ホームドア前で挨拶するヒューに、半ば強引に「見送りついでに外を散歩したいから」と、一緒に出て行ってしまった。

 この行動は流石、母のの片鱗を覗かせていたのかも知れない。


 さて、二人が出て行くと、先程まで意気消沈していた母親がすっくと立ち上がり、腕を組み組み、急にドヤ顔になった。

「若い男女に共通のトラブルがあれば、自然と二人は急接近するものよ。先ずはここまで、完璧だったわね。私」

(汗)


   ***


 1~2時間もすれば、午後のドーム1も夕暮れ時を迎える。

 緑化された小高い丘の上の道を、ヒューとシェリー・メアリーが二人揃ってゆるりと歩いている。

 樹木に囲まれたその小道は、淡い木陰が程良く二人を照らしては去ってゆく。

「イーブンソング家の血を絶やさず、開放の日にユーラー家と再び巡り会う為に…… 人には色々な人生があるんだなあ」

「私、人を好きになる事よりも、子供を産む事の方が先になってしまって、何だか恥ずかしい。本当にごめんなさいヒュー」

「謝らなくてもいいよ。君は君の人生の運命と対峙して、とても正しい選択をしようとしたのだもの。

 僕らは、この閉ざされた世界で生き延びるために、苦しみや悲しみを背負いながらも、その運命を受け入れざるを得ない存在さ。 その中でみんな、幸せを見つけて生きようとしてる。

 だからシェリー・メアリー、君は間違ってないよ」

 ヒューの言葉に、シェリー・メアリーはほんの少し、『がびーん』と来て、〝ぽわん〟と、頬に薄く紅が差した。


― 19歳のシェリー・メアリーの声 ―

「『じゃ』と言って、ヒューは自分の居場所に帰って行った。

 木漏れ日落ちる並木道を通り抜けて。

 私は―― 彼の後ろ姿を見送る事しか出来なかった…」


 シェリーは小さくなってゆくヒューを残念そうに見送り続けた。

 こめかみを少しグリグリしながら。



 それから四日程が経った。

 シェリー・メアリーが相も変わらずライブラリに入り浸り、カタカタとキーボードを打ってはモニターに噛り付いていると、シェリフがコッコッとドアをノックした。

「何?シェリフ。どうぞ?」

 ドアが開くと目の前にはヒューが居て、声には出さず手を上げ「やあ」と挨拶している。

「ヒュー!?!?!?」

「どおーぅしたのっ?冷凍睡眠に戻ったんじゃなかったの!?!?」


 ヒューが「ここじゃなんだから」と、二人はライブラリから離れ、デッキテラスへと向かった。

 中央制御室のラウンジを通ると、シェリフが遠巻きから何となくこちらを見ている。

 シェリー・メアリーは中腰になり、数歩前を歩くヒューの背中を両手で示しながら「彼、何故ここに居るの?」と、シェリフに、ジェスチャーで聞くも、の管理官は肩をすぼめ、両掌てのひらを小さく広げ「さあ?」と返すだけだ。


 デッキテラスへ出ると、シェリー・メアリーはお気に入りのテーブルにヒューを案内した。

「私、いつもここでランチをするの」

 何だか緊張しているシェリー・メアリーは、社交辞令の様な言葉しか思いつかない。

「ここはランチをするには最高の場所だね」

 ヒューも、そんな返ししかしない(汗)。

「で、ご用件は?」

 座りながら緊張感MAXで尋ねると、ヒューも座りながら言う。

「僕の人生の真正面に君という存在が突然現れて、僕の生涯の計画が少し狂ってしまった」

「え、何!? 私に文句言う為にわざわざ来たの!? 信じられ……」

 目だけが今のシェリー・メアリーだ。と思うほど彼女は目を丸くして、文句を文句で返そうとした。その言葉を遮って、ヒューが魔法の言葉を解き放った。


「結婚してくれないか?」


 この、史上最強の呪文に、シェリー・メアリーは、一気に絶対零度までフリーズしてしまった!

 反応レジストなどもっての外の、このフリーズの魔法はかなり強力だ。身体中が沸騰しているのに、身体の表面はカチンコチンなのだ。

 こんな時でも母は反応するだろうか? 僅かに思考する彼女の頭の中は、高速回転する巨大質量の遠心力の様でグルグルだ。


「君んちから帰った日の夜、なかなか眠れなくって、ずっと考えてたんだ。今日の事は僕の人生に何か意味のある事なのだろうかって。

 すると朝まで寝付けなくって、体調調整は見事に失敗。3日間の調整延期を申し入れた。でもまた色々考えてしまって……」

 ヒューはそう言うが、実はシェリー・メアリーの悩ましい容姿と香りが頭から離れなかったのだ(汗)。

「もし君が僕の運命なのだとしたら、その事を確かめようと思って今日ここに来たんだ。勿論、これはまだ愛ではないのかも知れない。 でも、 確かめたかったんだ」


 シェリー・メアリーは、なかなかフリーズから抜け出せない。

「? シェリー・メアリー、聞いてるか?」


「も、も、も、もちろん、聞いてるわよ(汗)」

 シェリー・メアリーは澄ましてはいても、目はカッと見開いていて視点が定まらず、心臓はバクバクだ。


「僕と結婚するか?」

「も、も、も、もちろん、聞いてるわよ(大汗)」

「え?いやそうじゃなくて……」

「も、も、も、もちろん、聞いてるってば!!」


 どうやらシェリーの中のAIチップが熱暴走してTC思考回路が吹っ飛んでるらしい。(生身の人間だけど(汗))


 ヒューは、為す術もなく頬杖を突いてしまった。 ちらりとガラス向こうのラウンジを見ると、シェリフがずっとこちらを見ていたらしく、目と目が合ってしまった。 シェリフは目をパチクリすると肩をすぼめて両手を広げ「オレ見てないから」と、小刻みに首を横に振っていた。 ウソつき。



― そろそろ20歳になる19歳のシェリー・メアリーの声 ―

「正直に言うと、あれからどうやって家に帰ったのか、いつヒューと別れたのか、また覚えてない(汗)」

 シェリー・メアリーが、ヒューに自宅まで送り届けられたのはこれで二度目だ。

「母が何だか異様な喜び方をしてたのは覚えてる」

 ヒューが帰ると、母親が拳を振り上げガッツポーズをしている。

「すっごく喜んでるお母様と、しばらく抱き合っていたのも、なんとなく覚えてる」

「……あ、そうか。ヒューがまた私を家まで送ってくれたんだ……」


   ***


― シェリー・メアリーの声 ―

「次の日、私たち3人は管理区へ結婚申請に出向いた。だって、お母様がどうしても一緒に行くというのだもの」


「でも私たちは、これが幸せの一歩にはならない事も、覚悟してた」



 中央制御室ラウンジには、レストランだった頃の、長々と湾曲したカウンターテーブルがあり、背もたれの無い丸椅子ハイスツールが、テーブルに添って並んでいる。 そろそろ20歳を迎えるシェリー・メアリーとヒュー、そしてシェリーの母3人が丸椅子に腰を下ろしていると、シェリフが静かに現れた。

「幾度かデーターを弄ってみたんだが…… ダメだったよ」

 彼は俯き加減で僅かに首を左右に振る。


 結婚の承認は下りなかった。

 母はシェリフに何か話していたが、3人はラウンジを後にした。


 中央管理棟を出た3人の足取りは重い。暫く、まだ日のあるドーム1の石畳をだらりと歩いていると、母が二人より数歩前に出て、と振り返り、優しい笑顔で二人を導いた。

「どこかベンチに腰を下ろして、この火照りすぎる運命を少し冷ましましょ」


― シェリー・メアリーの声 ―

「お母様の笑顔がまた私を、ううん言い直し、今度はヒューも一緒に救ってくれた。 気づけば通学の頃の、小さな噴水のある、あの道にいた」


 3人がベンチに腰掛けると、母が話し始めた。

「安心して。イーブンソング家の血を絶やさずに済む、最後の望みがあるの……」


 母の言う最後の望みとは、受精卵の冷凍保存だった。


 受精卵冷凍保存の制度を婚姻期の若者たちが知るのは、規則上、19歳で婚姻不可を告げられたカップルに限られた。

 4年間の婚姻期にこの制度を適用しないのは、過去、安易にそれを選ぶ人が増え、人口調整がより複雑化したからだ。

 シェリフが、シェリーとヒューに制度を知らせようとするど、母が『私から二人に伝えるから』とお願いした。


 シェリーの母はベンチで受精卵の冷凍保存を二人に提案し、顔を赤らめる両人を前に、イーブンソング家の本当を打ち明けた。


「過去にも一度、イーブンソング家の結婚が承認されずに、受精卵が冷凍保存されたの」


「その受精卵は1万年が過ぎた頃、19歳だった貴女シェリーのお祖母ばあ様の体内に移され、私が生まれた。

 そう。イーブンソング家は一度滅んでいたの…… 」


― シェリー・メアリーの声 ―

「祖母はイーブンソング家直系の人ではなかった……

 私は少しの間、何も反応できなかった。

 でも母は『彼女は私を生み育ててくれた本当のお母様よ。あなたがまだ1歳にならない頃、お祖母ばあ様がいつもあなたを抱っこしてたの憶えてないでしょ?』 と言うので『覚えてるはずないじゃない。ふふ』と、私は何とか反応して返したけど、 あの時の祖母を思う母の顔は――

 とても素敵だった」


 男親のいない家庭は大体が受精卵出産だった。

 自然妊娠の他に、管理区の人口調整で未婚の出産が許される事があった。遺伝子の先細りを防ぐため、冷凍保存された受精卵や卵子・精子の移植でこの時代の人々は生まれていた。

 冷凍された卵子・精子・受精卵には、提供者の記録が義務付けられ、人が持てる程度の貴重品の保管も許された。

 冷凍受精卵の選出はランダムに行われる。シェリー・メアリーの祖母が母を宿した時、イーブンソング家の貴重品の中に、あの絵本と、イーブンソング家の人々の手記が幾つか保存されていた。


「母は『復活したイーブンソングの血が、今度は何代まで続くのか楽しみにしてたのだけれど』と、笑ってた。 母の…私の幼い頃からの母の行動が―― 理解出来た様な気がした」


 シェリー・メアリーは、ヒューとの受精卵を残すため、卵子の摘出手術を受けた。


   ***


 清潔感溢れる医療区の、白く明るい病室のベッドでシェリー・メアリーが目覚めた。ヒューが安堵した表情で、すぐ傍に腰掛けている。

 彼に気付いたシェリー・メアリーは、笑みを返した。

「ただいま、ヒュー…」

 シェリーが弱々しく手を差し出すと、ヒューは両手で優しく包む。

「おかえり、シェリー・メアリー」

「あれ? お母様は?……」

 力なく、か細い声で尋ねた。

「摘出手術が無事成功したと聞いたとたん『ヒュー、側に居てあげてね』と言って、何処かに行ってしまったよ」

「ふふ。近ごろ私、自分の母親が何者なのか、分からなくなる事が多くなった」



 シェリーはそう言ってしまったが、母は、眠る祖母の所へ報告に行ったのだと確信していた。



 その後、体外受精が行われ、幾つかの受精卵が無事冷凍保存された。

「僕の血もイーブンソング家の濃い血の一部になって、やがてユーラー家の血と一緒になるんだね」

 イーブンソング家の血に自分の血が加わった事に、ヒューは感慨深かったようだ。


 二人の小さな小さな子どもたちは眠り続ける。

 遥か未来に、再びイーブンソング家の血を受け継ぐ女性ひとが現れる日を夢見て。


少し時も経ち、ヒューも20歳を迎えると、二人は恋人同士として、

シェリー・メアリーは冷凍睡眠夢の研究者、ヒューは常駐の電気保守技師として、新たな人生を歩み始めた。


 子どもたちの為に、シェリー・メアリーは手作りの絵本を完成させた。

 母から貰った一冊はシェリーの手元に。シェリーが手作りした数冊と、初代メアリーの原本は、受精卵の貴重品として大切に保管される事となった。


― シェリー・メアリーの声 ―

「そして、 母の眠る日が来た」


   ***


 冷凍睡眠カプセルが所狭しと並ぶこの区画は、冷凍システムを的確に機能させるため、いつも肌寒い。

 専用の白いスーツを身にまとった母が、娘と娘の恋人、2名の管理官に付き添われて今、カプセルに入った。


「お母様、20年間、私を導いて下さって本当にありがとう」

 母は、娘の頬にそっと手を添え慈しみ、答える。

「私の可愛いシェリー・メアリー。今度会う時は同じ40歳ね。違う部屋で寝ている貴女のお祖母様も40歳。貴女はどんな40歳になるのかしら。みんなで目覚めた時は、賑やかな三姉妹の様なイーブンソング家でしょうね」


― シェリー・メアリーの声 ―

「私の婚姻期だった16歳から19歳の4年間は、何処かギラギラしてたお母様が、やっと私の知ってるお母様に戻ってた」


「私もお母さんになりたかったな。赤ちゃんを生んで、育ててみたかった」

 母を見送る20歳のシェリー・メアリーが、今まで押し隠していた物をほんの少し洩らしたのは、まだまだ母親に甘えていたかったからだろうか。

 母は娘を見つめ、小さく頷くと、可愛い声で御ねだりをした。

「ねえシェリー、あれ、やってよん」

「え~?今ここで? ヒューが見てるから」

「なんだい?」と、ヒュー。

「おねが~い」

「しょうがないなあ、もう~」

 シェリー・メアリーはヒューが居る手前、照れくさそうにしながら、口を尖らせると、ほっぺたをぷくりと膨らませた。

「そうそう、それそれ♪ 私の大好きなシェリー・メアリーのぷくぷくほっぺ♪」

 ヒューは、ほっぺを膨らませるシェリー・メアリーが、あまりにも可愛かったので内心、とても酷く、思いっきり! 「がびーん!」と来て、絶対後で「オレにもやってよ」と言おうと決心した!


 母は娘の膨らんだほっぺを人差し指でとする。

「じゃあね 私の可愛いシェリー・メアリー」

「娘を宜しくねヒュー」

 待機する管理官に「もう良いですよ」と目で伝え、彼女は静かに瞼を閉じた。カプセルの蓋が閉じられ冷凍睡眠装置が作動し始める。

 装置の動作を何かに例えて説明するならば、人類壊滅前の〝電子レンジで物を冷やす〟が最も近い表現だ。安定すると動作は静かになる。 音声信号が眠りの状態を刻々と告げ、順調に冷凍が進むと睡眠完了を知らせる音声と共に、シェリー・メアリーの母は8万6千年後に目覚める為の、永い永い眠りに着いた。


「またね。 お母様」

 シェリー・メアリーもまた、慈しむ瞳で母を見送った。


   ***


 シェリー・メアリーが20歳となって母が去ると、ウッドとも別れる日が訪れた。彼も研究材料を求め、長期冷凍睡眠待機に戻るからだ。 シェリーもいよいよ研究者として独り立ちする事になる。 


「やあ、シェリー・メアリー、君は日を追う毎に大人になるなあ」

 ウッドがいつもの調子で研究室にやってくると、いつもの台詞せりふで〝おはよう〟と挨拶してきた。ウッドの目から見ればまさに、シェリーは日に日に1年ずつ大人になっていった。

 シェリー・メアリーは自分の席に、ウッドはいつもの自分専用ソファに「んあ」と言いながら、バフり、と腰を落とす。

ウ「ライブラリの映像、たくさん見まくったか?」

シ「もちろんよ」

ウ「関係ない映像もたくさん見たか?」

シ「…… …… (汗)」

ウ「オレは若い頃、研究とは全く関係ない映像を見まくったぞ?」

シ「え?ウッドも? …あ、しまった(汗)」 シェリーは咄嗟に

両手で口を塞ぐ。(バレた! いえ、バレてた?)

ウ「うははは。それでいい、それでいいんだシェリー・メアリー」


ウ「冷凍睡眠夢という現象が起きる根本原因は何だと思う?」

 このお爺さん、笑ったかと思えばいきなり最後の講義を始めた。

 シェリー・メアリーは慌てて答える。

シ「思考・意思は、脳とは別次元で行われる説を重視しています」

ウ「うん、それで?」

シ「量子脳理論が最も有力な仮説だと理解してます」

ウ「私たちの身体にある物理的な脳は只の飾り物なのか?」

シ「ううん否定、脳は思考を身体に伝え、身体から得た情報を思考へ伝えるとても大切な器官なのよ」

ウ「その仮説を立証するにはどうすればいい?」

シ「仮説を立証するにしても、『間違った説だった』と否定するにしても、人類が壊滅前の様な繁栄を復活させて、1000を超える程の専門家が叡智を結集しなければならないわ」

ウ「だが今の我々の力では何もかもが足りなさ過ぎる」

シ「でも時間だけはたっぷりとあるわウッド」

ウ「そうだシェリー・メアリー、その通りだ」


「だからウッド、貴方は眠るのね」

 ウッドは頷くと冷凍睡眠待機での超長期研究の意義を強調する。

「1000年単位で現れるかも知れない有用なデーターを幾つか探し出し、それらを蓄積する事ができれば、量子脳理論は必ず新たな段階に到達できる。1000人の研究者が50年100年掛けて到達する科学を、私たちは数人で数万年掛けて達成させるのさ」

 ウッドはシェリー・メアリーの成長に笑顔で答えた。

「二度目のおめでとうだな、シェリー・メアリー。やっとオレと肩を並べたな」


 ウッドは再び、1000年後に目覚める為に眠りに就いた。今生の別れかも知れなかった。ただ、シェリー・メアリーがそう思えなかったのは、研究において重大な発見や進展があればウッドは起きる約束をしてくれたからだ。

「この研究を大きく発展させてオレを叩き起こしてみろ」

 にこやかにギョロリとしながら、彼はいつもの様に去っていった。

 流石に少し寂しくなったのか、シェリー・メアリーは、ウッドが研究室から立ち去る後ろ姿を静かに見送った。

 ただ、その寂しさは新人研究者として過ごす間に別の複雑な想いも加味された寂しさでもあった。

「この研究は、技師たちの冷凍睡眠夢への疑問と不安を解消する為だけにあるのかも。 だから先生たちは口ごもり、職業一覧では末尾の端に――」


   ***


 ウッドが去った次の日、シェリー・メアリーは珍しく、ライブラリではなく研究室に籠もっていた。


「なぜ、私たちは冷凍睡眠中に夢を見るのか。

 ウッドを含めた当時の引退技師たちが、残りの人生を研究者として探究した成果を、私なりにまとめてみる事にした」


古びたモニターに向かってシェリー・メアリーがパチパチと軽快にキーボードを叩き文章を打っていく。

『完全凍結睡眠では思考も停止し夢を見る事などできる筈が無かった。でも現実に夢を見ている人々。 初期の仮説では人体が冷凍睡眠に移行する僅かな時間と、目覚める僅かな時間に夢を見るのだと考えられていた。

 そこで、その時間域に脳波が確認できるのか調査が行われると、それは計測され、夢を見る問題は解決したかに見えた。

 でも、一部の研究者から「冷凍睡眠中でも夢を見るのでは」と異論が出る。その根拠は、スティール・ジョンと彼の仲間たちが体験した、長い夢をよく見ていた事に起因する。実際、当時から多くの技師たちが長い夢をよく見ていた。

 冷凍睡眠開始・終了前後の、僅かな時間に、それほど長い夢を見るものなのか? との疑問が当然、他の研究者からも出ていたが、人が事故などに遭遇した刹那、感覚的な時間が長く感じられる心理的現象「タキサイキヤ現象」や、極度に集中する事で脳の情報処理が加速する「ゾーン」と呼ばれる脳処理状態を例えにあげ、「短い時間でも長い夢を見うる」と言うのが主流派(冷凍睡眠中に夢は見ない派)の主張であった。

 夢肯定派と主流派の主張は対立したが、主流派が「夢を見ない」確かな証拠データを得る為、冷凍睡眠中脳波の測定を提案した。主流派が正しければ冷凍睡眠時に検出される脳波は平坦な波形である筈だ。

 だが驚いた事に……』


 シェリー・メアリーのキーボードを打つ音が止まった。


「ここは『だが驚いた事に』じゃなくて、別の表現が良いかな?」


『するとどうだろう――

完全冷凍の脳に不安定な波形が確認されたのだ。

 主流派はこの脳波は冷凍睡眠特有の機械干渉的な物であろうと主張した。つまり、思考による脳波は存在せず、冷凍睡眠装置からの人体への帯電や、干渉変調のたぐいだとの主張であった。

 そこで夢肯定派は世界の残存シェルターの保守技師たちに、長期冷凍睡眠時の脳波計測の協力を求めた。

 主流派も、この不安定な脳波が、ある一定のパターンとして測定されれば、それは夢ではなく機器からの影響だと証明できると歓迎し、時を置かず各シェルターでの実験が行われた。

 だが、驚いた事に、』


 シェリー・メアリーが少しドヤ顔になった。

うん確信、ここはこの表現で行かなきゃね」


『だが、驚いた事に、

 測定された個々の脳波は全て関連性の無いものであった。

 この結果は冷凍睡眠夢の存在を逆に証明しうる物となったのだ。

 更に調査は進められ、多数の被験者の冷凍脳波でも、夢を見た時と見なかった時の波形がはっきりと区別される結果も表れた。

 主流派は一時混乱はしたが、時を経て遂に冷凍中に夢を見ている可能性を肯定せざるを得ないとの結論に至った』


『しかし、あり得なかった。

 なぜ、完全凍結に近い脳組織が不規則な脳波を発するのか……』


 シェリー・メアリーはモニターから目を離して肩をほぐす。

「ふふ、私完璧。間違いはウッドが正してくれる事を祈る(汗)」

 一息こうと小さなキッチンで湯を沸かし、モニターを見い見い薄めのお茶をカップに注いですする。


『――なぜ完全凍結に近い脳が不規則な脳波を発するのか――

 ある仮説が現れる。

 思考によって発せられる微弱な電流、つまり脳波は、脳そのものが思考して発するのでは無く、脳は思考を伝達する媒体に過ぎないのではないのか、というものだった。

 この仮説は初期の冷凍睡眠夢研究の一素人研究者が、膨大なライブラリの中から〝発掘〟した『量子脳理論』によって導き出した。

 思考の主体である意思は、脳内に独立して存在し、脳を介して思考を生命個体に伝える。また、脳は生命個体から得られる情報を、意思に還元する役目も担うと言う。

 我々人間は外意志に身体や自由思考を操られているのか?

 違う。意志が人間という一個体の生命と共存し一人の人間として人格が誕生する。

 生命と意志は元々分離していると言うのか? 馬鹿げている。

 確かに馬鹿げた推論だ。いや、駄論、妄想と言っても良い。

 だが、生命活動が停止している冷凍睡眠下で、夢という思考が起こる現象を、辛うじて上手く説明出来ており、冷凍睡眠思考の仮説の一つとして排除され難かった』


『その後、冷凍睡眠夢研究は停滞した。

 この受け入れ難い仮説が現れた事がその証左だと言わんばかりに』


『意思、意識、とは、どの様な存在なのか?

 当初から否定された体外意思仮説は、その否定を決定付ける確固たる〝意思や意識の定義〟も確立されていなかった為、一つの参考資料として冷凍睡眠夢研究の資料の中にひっそりと保存されてきた。

 その資料の表題は次の様に綴られていた』


『冷凍睡眠脳は量子領域で夢を見るのか』


   ***


 お昼になると、シェリー・メアリーはいそいそと管理区まで出向き、いつものデッキテラスでランチタイムを過ごした。


― 20歳のシェリー・メアリーの声 ―

「なぜ、研究室からわざわざ足を運んでまでデッキテラスへ? と問われれば『そうしたかったから』 としか答えられない。

 それは私と言う意思の純粋な思考なのか、それとも生命としての生理生物学的な欲求なのか―― 」


 テラスで過ごすランチタイムの風景はいつもと変わらなかった。

 いつもと変わらないのに、何かが全く違う感じがするのは、母の姿もウッドの姿も、もう見る事のない時間軸に来てしまった事がどうやら関係するらしかった。


「私の傍にはヒューが居てくれた。でも、家に一人居ると母を思い出し、研究室で過ごすとウッドが不意に現れる様な気がして寂しさが募った。当然(オホン…)私はヒューの家に泊まったり、ヒューを自宅へ招いたりして孤独を癒やしてた」



 それは今まで見慣れていたイーブンソング家や研究室ともまた違う感じの部屋だ。

 この如何にも殺風景で、独り身の男性が暮らしていそうな部屋は、独身用アパートメントにあるヒューの住まいだ。

 ガランとしてサッパリした様な、むさ苦しい様な、男やもめの空間だが、女性が出入りする様になれば、例えどの様な部屋でも何処か良い香りが漂う様になるものだ。


 部屋の奥を見れば、21歳になっていたシェリー・メアリーが、ヒューと一緒にベッドに潜り込んでいる。 寝室の窓からは擬似自然光が朝を告げていた。


 目が覚めたシェリーがおぼろに思考した。

「量子脳理論の探求はウッドの時代から全く進展していない。

 ウッドは私が自分と肩を並べたと評価した。でもそれはライブラリを伴った当時の研究成果に追い付いただけって事。

 ウッドがなぜ眠るのかを理解した今、それは現実的に私の問題として立ちはだかってる…… 」


「ねえヒュー」

 眠たそうな声でシェリーが話しかけると、虚ろに彼が答える。

「何だい?」

「私、眠るわ」

 シェリーは、じっと、只々じっと、 ヒューを見つめていた。

 ヒューはシェリー・メアリーが、今、只、眠たいのだと思った。


  ***


― シェリー・メアリーの声 ―

「私もウッドの道を歩まなければならない事に気づいた。

 ヒューは、 ヒューは私の我が侭を許してくれた。

 私はベッドの中で彼にしがみついて泣いた。

 私が決断した事なのにね……」


 21歳のシェリー・メアリーがヒューの部屋から去ってゆく。

 ドームに出ると途中何度も、ヒューの住む独身用アパートメントを振り返る。 彼の部屋までの、階段の踊り場には、普段はそうしないヒューが、シェリー・メアリーを見送っていた。


「ヒューが泣いてた。私も泣いた。自分が誰かから去るなんて夢にも思ってなかった。 ううん言い直し、誰かから、ではなくて全ての人からだ。今この時間軸に存在している、何もかもから、だ」


「ウッドも初めて長期冷凍睡眠待機を選んだ時、こんな思いだったのかな…… 」



 シェリー・メアリーは、生まれて初めて冷凍睡眠装置に入るその日、朝早く起きてドーム1を思いっきり散歩した。


 朝の清しい空気、

 いつも通っていた道、

 ヒューと並んで歩いた道、 そして―― 


 我が家までの 帰り道――


 散歩のお終いは、お気に入りの階段の踊り場から、自分が生まれ育った世界に『さよなら』を刻んだ。



 自宅と研究室を低温窒素保存した後、シェリー・メアリーは自分が眠る冷凍睡眠区へ姿を見せた。母と同じ様に白い冷凍睡眠スーツに身を包むと、おずおずとカプセルに入った。


 シェリーが眠るカプセルは祖母とも母とも違う区画だ。

だがヒューが付き添ってくれていた。彼も近い内に冷凍睡眠中の仲間たちの処に戻る。何よりも、今日の担当管理官はシェリフだった。


「シェリフ、ありがとう」

「ああ。もう、二度と会えないのかも知れないが、サヨナラとは言わないぞ」

 管理官シェリフはいつもの様におどけてウインクをする。


 ヒューとは、只々見つめ合うだけで良かった。昨日の体調調整の就寝時間ギリギリまで、たくさんたくさん、二人の事や、それぞれの人生をどう歩むのかといった事や、どこかの時間軸で会えたらいいねといった事や、それから、二人はもう二度と会えないのかも知れないねと言った事を、とことん、

〝語り合った〟のだから。


 シェリー・メアリーは静かに目を閉じる。

 カプセルの中では蓋を閉じる音が大きく響き、身体がピクリと反応した。気温が下がってゆく事が皮膚を通して分かったが、寒いと感じる前に、シェリー・メアリーの意識は遠のいていった。












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