第一話 旅立ちと焦燥

 湖のほとりを進む瑠璃の胸は、不安と緊張に満たされていた。目の前を歩く老人の背中はまるで岩壁のように堂々としているが、どこか近寄りがたい威圧感も漂わせている。


「足元にお気をつけを」

 老人の声に瑠璃ははっとし、急いで足元を確認する。転がった石につまずきかけ、ぎこちなく足を踏み直した。


 やがて、一軒の小さな庵が見えてきた。湖畔にぽつんと佇むそれは時代を感じさせるが、不思議と整然とした気配があった。


「こちらへ」

 老人は戸を開けると瑠璃を中へ促した。



 ▫️庵の中で


 庵の中は質素そのものだった。火鉢が温かな光を放ち、壁際にわずかな道具が整然と並んでいる。

 老人は床几しょうぎに腰を下ろし、手で近くの座布団を指し示した。


 瑠璃は緊張しながら座り、しばらく沈黙が続いた。老人の鋭い視線に促されるように口を開く。


「私は…村で行われる祭事で巫女役に選ばれ、その役目で湖で祈りを捧げていました。目を閉じて…、……気がついたらここにいて……」


 瑠璃は自分の現状を訥々とつとつと語った。


「ここは……どこなのでしょうか」不安げに尋ねる。


 老人は静かに目を閉じ、ここは月流湖げつりゅうこという湖だと答えた。

 しかし、故郷──カガミ村から出たことがなく地理に疎い瑠璃には、それがどこにある場所なのかも見当がつかない。


「では、その村について何かわかることは」


 老人に問われ、瑠璃は考えた末にぽつぽつと話し始めた。

「孤児院ではたくさんの兄妹たちと暮らしていました。村では…小麦や野菜がよく採れるんです。あとは、村の中心にある桜の木がすごく大きくて、春になると満開になって……」


 話しながら瑠璃は老人の反応を窺ったが、その顔はまるで彫像のように動かない。瑠璃は恥ずかしくなり、うつむいて小さく呟いた。

「……すみません……」


 しばらくの沈黙の後、老人が口を開いた。

「……少なくとも、異国というわけではないようですな」


 瑠璃の心に少しだけ希望の光が差し込んだ。もしかすると歩き続ければ、村に戻れるかもしれない。



 ▫️戦う術を求めて


 瑠璃は立ち上がり、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。私は村に戻らなければなりません。それで……」


 老人の傍にある刀を見た後、決意を込めて続けた。

「どうか、私に戦う術を教えていただけませんか」


 その言葉に老人は驚いたように眉を動かし、静かに立ち上がる。

「理由を聞いても?」


「…村では、ずっと守られる立場でした。でも、これからは自分で道を切り拓きたいのです。何かあったときに、誰かに頼るだけではいけないと思うから…」


 老人は少しの間考え込むように瑠璃を見つめ、やがて静かに頷いた。


「ありがとうございます」瑠璃は再び礼を言った。そして、自分がまだ名乗っていないことに気づく。


「改めまして、私は瑠璃と申します。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 老人はわずかに口を開き「私は、吉良玖郎きらくろう──」と言いかける。


 そのとき、庵の外から低い唸り声と共に草を踏む音が聞こえた。



 ▫️現れる獣


 瑠璃は思わず体を強ばらせた。


「ここに」

 老人はすっと立ち上がり、庵を出た。瑠璃は恐る恐る扉の隙間から様子を窺う。

 そこには、一匹の野犬が牙を剥いて立っていた。


 どうしよう、と思う瑠璃だったが、老人はあっという間に腰の刀を抜き放ち、一閃で野犬を仕留めてしまう。


 老人が刀を収め、振り返る。

「私の指導は厳しいが、よろしいか」


 瑠璃はその言葉に、一瞬怯みそうになったが、意を決して笑顔で答えた。

「はい、玖郎殿!」


 老人は微かに頷きながら、再び庵へと戻った。



 瑠璃が老人――玖郎の後をついて庵の奥に進むと、そこには様々な武器が積み重ねられていた。刀、弓、槍、薙刀――どれも使い込まれた道具ばかりだ。

 玖郎は武器の山を眺め、一つを手に取る。


「これを」

 そう言って渡されたのは一本の薙刀だった。瑠璃はそれを両手で受け取り、その重さに思わずよろける。


「間合いを取れるこちらを使うのがよろしいかと」

 玖郎は静かに、端的に説明する。その目には確信が宿っていた。


 瑠璃は薙刀を握り直し、力強く頷いた。こうして、二人の鍛錬の日々が始まった。



 ▫️鍛錬の日々


 玖郎の指導は厳しく、時には冷酷に思えるほどだった。しかし、それは的確で無駄がなく、瑠璃の動きの一つひとつを見逃さない。

「腕をもっと引き上げなさい。その角度では敵に隙を晒します」

「目線が甘い。次を読める者が相手なら命取りです」


 瑠璃は汗を流しながら、必死に玖郎の教えについていった。動きはぎこちなく、薙刀が思うように振れない。それでも、心の中には揺るがぬ決意があった。



 休憩中、瑠璃は火鉢に湯を沸かしながら、ふと玖郎に声をかけた。

「あの、玖郎殿……」


 玖郎は顔を上げる。

「いかがされたか」


 瑠璃は少し戸惑いながらも口を開いた。

「玖郎殿は私よりずっと年上で、しかも教えていただいている立場です。だから、その……敬語は使わなくてもいいんですよ」


 玖郎はしばらく沈黙した。重々しい空気が流れる中、やがて静かに口を開く。

「……お嫌ですか」


 その言葉に、瑠璃は慌てて首を振った。

「いえ、嫌というより…ただ、申し訳なくて……」


 玖郎は首を横に振った。

「これは私の性分ゆえ。どうかお気になさらず」


 瑠璃は困惑しつつも、その態度に誠実さを感じ、深く頷いた。そして、再び鍛錬に戻るのだった。




 ▫️村での騒ぎ


 一方、瑠璃が忽然と姿を消したカガミ村では、大騒ぎが起きていた。

 特に朱華は取り乱し、何も手につかない状態だった。


「どうしてこんなことになったの!?瑠璃がいなくなるなんて……」

 朱華は孤児院の中を行ったり来たりしながら、風吾に詰め寄る。


「落ち着けよ、朱華。ただの迷子かもしれないだろ」

「ただの迷子なわけない! 何かあったに決まってる!」


 朱華の声は震えていた。彼女の中で、瑠璃の存在は特別なものだった。幼いころ、ひとり塞ぎ込んでいた自分を助けてくれたのが瑠璃だった。その恩を返すため、今度は自分が守りたいと思っていたのに――。


 風吾はそんな朱華の心情を理解しつつも、自分にできることを模索するばかりだった。



 数日が経過した。

 村の大人たちは「巫女役の瑠璃が消えたのは神の意志だ」と口々に囁き、やがて何事もなかったかのように日常へ戻ろうとしていたが、孤児院の中だけは沈んだ空気が立ち込めたままだった。

 瑠璃は帰らず、朱華の不安は限界を迎える。

「もう待ってられない! 私が探しに行く!」


 そう言って、朱華は荷物をまとめ孤児院を飛び出した。その様子を窓から見ていた風吾は、ため息をつきながら腰を上げる。



 孤児院の前で朱華に追いついた風吾は、いつもの調子で声をかけた。

「一人で探す気か? 無茶だろ。俺も行くから、少し冷静になれよ」


「邪魔しないで!」と怒る朱華に、風吾は軽く肩をすくめる。

「はいはい、どうせ止めても行くだろ? 一緒に行ったほうが安全だって」


 朱華は少しだけ考え、渋々頷いた。

「……分かった。でも、足を引っ張らないでよね」


「お前に言われたくないけどな」

 風吾は笑みを浮かべ、短刀を腰に差し込むと朱華に歩み寄る。


 互いに険悪そうな雰囲気を保ちつつも、不思議と歩みを揃える二人。瑠璃への思いが、彼女らを同じ方向へと向かわせていた――

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