湖月の瑠璃

阿部 吉

序章 湖にて

 大地に多くの湖を抱える国、澪津みおつ。その国の人々は湖を清浄なるものと考える一方、災いをもたらすものとも実しやかに伝えられていた。


 瑠璃るりは、生まれたときから湖と共にあった。

 幼いころ、湖のほとりで見つかった赤子だった彼女は孤児院の優しい手によって育てられ、いつしか村の一員として穏やかな日々を送っていた。

 大切な幼なじみたちと、兄妹のように過ごす日々。

 笑い合い、助け合いながら過ごしてきた生活に、不満はなかった。


 けれども瑠璃には、一つだけ悩みがあった――それは、時折見る妙な夢だ。



 ▫️奇妙な夢


 夢の中、瑠璃はいつも何かに見下ろされている。

 それは最初はぼんやりとした形で、何かも誰かもわからなかったが、年月を重ねるごとにその視線の重さが少しずつ鮮明になってきているのを感じていた。


 近頃は、その視線の主が人であることがわかるようになっていた。

 だがそれが誰であるか、何を意味するのかは依然として掴めない。


 瑠璃の中には薄い焦燥感が渦巻いていた。

 その夢は、ただの夢ではない。

 そう思わせるほどに、それは強烈な感覚を伴っていたからだ。



 ▫️選ばれた巫女


 ある日、村の祭事で瑠璃が巫女役に選ばれた。

 はずれにある湖で祈りを捧げ、村へと降りかかる災いを防ぎ、平和を願う重要な役目だ。


「祈りなんかで災いを防げると思う?」


 幼なじみの少女、朱華しゅかは呆れたように言った。


「最近、盗賊だの悪人だのが多いのは、祈りが足りないせいじゃなくて、世の中が乱れてきてるだけだろ?」


 同じく幼なじみの少年、風吾ふうごも同意して肩をすくめる。


 けれど、瑠璃は穏やかに微笑んで答えた。

「それが村のみんなの安心になるなら、私は喜んで務めます」


 朱華は不満そうに唇を尖らせ、風吾も苦笑するしかなかった。



 ▫️祈るだけではなく


 祭事が明日の夜に迫っていた。準備を進めている最中、瑠璃はぽつりと漏らす。

「私も…戦えるように…」


 その言葉に、朱華と風吾は驚き、顔を見合わせた。


「祈る以外にもできることがあるはずです。いつも朱華たちに頼りっぱなしだから……」


 そう言った瑠璃を、朱華は真剣な表情で見つめた。


「瑠璃がそんな危ないことをする必要はないのよ?」


 風吾は思案しながら、

「護身術くらいならいいんじゃないか?」と提案するが、朱華に睨まれ、話をやめた。


「どうして急にそう思ったの?」


 朱華の問いに瑠璃はしばらく迷った末、夢のことを話した。


 その内容を聞いた二人は心配そうな表情を浮かべたが、

「気にするな。そんな夢、大したことないさ」と風吾が励ます。

 朱華も「きっと疲れてるだけ」と付け加えた。


 瑠璃は、複雑な表情で頷いた。



 ▫️祭事の夜


 そして祭事当日。


 瑠璃は白い衣を纏い、湖のほとりに立った。

 満月の光が湖面に揺れ、あたりは静寂に包まれている。


 背後から村の人々の視線を感じながら目を閉じ、瑠璃は祈りを捧げた。


 ――この村が、皆が、いつまでも平穏でありますように。


 心を込めて祈る。

 その瞬間、瑠璃はふと奇妙な感覚に包まれた。目をゆっくりと開ける。



 そこは見知らぬ土地だった。


 周囲を見渡しても、見慣れた村の風景はどこにもない。

 湖だけが目の前に広がっているが、それも自分の知る湖とは違う。


「…朱華!風吾…!」


 名前を呼んでも、返事はない。


「ここは……どこ……?」


 戸惑う瑠璃の背後から、冷徹な声が響いた。


「何者だ」


 驚き、恐る恐る振り向く。そこには厳格そうな老人が立っていた。

 その腰には一本の刀が差してあり、彼の鋭い眼光が瑠璃を射抜く。


「…何者だ」


 瑠璃は震える声で答えた。

「わ、私は……村で祈りを…ここがどこなのか、わからなくて……」


 老人はその言葉を黙って聞いていたが、しばらくの沈黙の後、警戒心をわずかに解き低い声で言った。

「ついてこられよ」


 踵を返す老人。


 瑠璃はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、はっとして慌てて彼を追いかけた。


 瑠璃の運命を大きく変える旅が、ここから始まろうとしていた――。

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