第4話「嫌って言ったら、もちろん滅ぼすけど?」

 最近悪夢を見る。

 眠っても、大抵夢は見ないか覚えていなかった。それが最近、同じような悪夢を見る。

 目覚めて暫くすれば大方忘れてしまうが、それは確かに悪夢で、何とも言えない嫌な不快感が胸に残っている。

 その夢は、聞きたくない言葉を聞く夢だった。突き付けられたくない事実を突きつけられる夢だったと思う。分かっているから、ごめんなさいと只管謝っている夢だったと思う。

 そうして、不快な汗で気怠い朝を迎えて、一日が始まるのだ。



 今日の昼食は食堂で食べようということで、昼過ぎの少し騒がしい食堂棟へと向かった。

 食堂棟にはそれなりに人がいるものの、ハピーの存在を気に留める人は殆どいない。そのように支持を受けているのか、研究者という生き物がそうなのか分からないが、ハピーを刺激されないでありがたい反面、その不自然さに違和感を覚えてしまう。

 カレーをさらりと食べ終えた陽柄の前で、ハピーは幾つも取ったおかずのお椀を嬉しそうに口に放り込んでいる。白米をかき込んで、ずずっと味噌汁を飲み干して、満足げに手を合わせた。

 ハピーの食後の楽しみと言えば、購買部でのショッピングである。購買部に近づくなりお菓子の棚に一直線に駆け出した少女を眺める陽柄は、ふと見慣れた姿を視認した。


「山科くーん! もうお昼ごはん終わったんだ」

「あっ……あ、はい……摂津さんも……」

「あ、ハピーちゃんは大丈夫だよ。西大路さんが見てくれてるから」


 目が合って声を掛けられた瞬間、陽柄の目線が購買部に向いたのを見て、摂津は察したように控えめに囁いた。彼女の言う通り、ハピーはこちらの様子に気が付いていないようである。


「あのさ、山科くん、最近ちょっと疲れてそう……というか、元気なさそうだったから、心配で。どうしたのかなあって」

「え……」

「あ、えっと、いや! 言いにくいことなら無理しなくていいんだけどね! もし解決できるならしたいなって……」


 軽く世間話をした後、摂津は少し神妙な顔で切り出した。どきりとして思わず固まった陽柄を見て、彼女は焦ったように手をぶんぶんと振る。

 そんなにあからさまに態度に出ていたか? 話が上手くないなりに何とか想いを伝えようとする姿に、そこまで心配を掛けていたのかとお腹が痛くなる。


「……すみません、大したことじゃないのにそんな……」

「いやー! そんなことないから! その……なんか困ったことあれば、お姉さんに何でも言ってみな的な……?」


 よく手入れされた艶やかな茶髪が、ふわりと揺れる。目を泳がせながらも、最後にはしっかりと陽柄を捉えている。

 そんな言葉を投げかけられて、陽柄は困ってしまった。本心を開けっ広げにするのも、かといって嘘を吐くのも気が引けたからだ。嘘ではない程度に当たり障りのないことを言おうと、どうにか頭を捻らせる。


「……えーと、まあ……そうですね。なんか俺、こんな遊んでるみたいなことで、お金貰ってるのがちょっと、後ろめたい気がして――」

「それってあんたにも私らみたいなことが出来るって意味? 思い上がりも甚だしいよ」


 陽柄の言葉を遮るように、刺々しい声がした。振り返ると、ハピーの様子を見ている筈の西大路が不機嫌そうな鋭い目でこちらを見ていた。当のハピーは購入したお菓子を片手に唖然とした様子で立ち尽くしていた。


「あんたはここに来た経緯も私らと違う、だから他に出来ることなんかない。あんたはあんたに与えられた役割をこなせばいいんだから」


 つらつら述べられる言葉に、摂津と陽柄が反論も出来ずおろおろしているのがまた気に入らなかったのか、苛立った声で続けた。


「それとも何? 命じられた仕事をこんなことやってられませーん! って投げ出すのは、これまでの社会でも普通なの?」

「ちょちょちょっと待って西大路さん! 私、皆と山科くんの様子が変だから事情を確認してきてって話になってて!」

「えっ」

「え」

「……あ!」


 責め立てる言葉を遮るように摂津が放った言葉に、陽柄は固まった。西大路が見たことのないような呆けた顔で陽柄と摂津を交互に見る。

 数秒の沈黙の後、摂津は漸く失言に気が付いて青い顔をした。


「ご、ごめんね……、み……みんな心配してて……」

「……いえ! ご心配おかけしてすみません。心配には及ばないので……大丈夫って言っておいてください」


 また嫌なことを思い出した。殴られたみたいに意識が白くなるのを何とか戻して、精一杯元気な笑顔を作って見せる。まだ青白い顔の摂津と何も言えなくなった西大路に軽く一瞥して、ハピーの手を取って立ち去った。

 自分がいないところで、みんなが自分の話をしている。胸を抉られるような、ぎゅうっと腹が痛むような、よく覚えのある心地。込み上げる嘔吐感。

 まだ乾ききっていない傷に、指を突っ込もうとしてしまう。思い出したくないのに、思い出そうとしてしまう。

 白く霞んだ頭に、忘れたかった数年の記憶がフラッシュバックした。



 初めに入社した会社は、それなりに恵まれた会社だった。ただ、妥協して選んだ接客の仕事があまりにも合わなかった。

 このままずっと何十年も、この仕事を続けるのか――考えた末に、早々に音を上げた。

 数か月でその仕事を辞めた後、環境を変えようと就いた二つ目の仕事。事務職は生真面目な陽柄に向いていた。漸く落ち着けたと安堵したのは束の間で、次に陽柄は人間関係で躓いた。

 陽柄は話すのが下手だった。新しい環境への緊張がそれに拍車をかけ、まず初手でコミュニケーションに失敗した。失敗はその後の緊張に拍車をかけた。後は転落するように失敗を繰り返した。


『山科さんって変な話し方よね。なんかずっと緊張して挙動おかしいし』

『ねえ、普通ああはならないよねえ。向こうの部署の子もあの子やばいって言っててさあ』


 自分の居ない場でそう言っているのを聞いたのが運の尽きだった。誰と何を話そうにも、その声が頭に響いてまともな会話が出来なくなった。

 この人もこの人も、陰でそう言っているかもしれない。人と話すたびに心臓が破裂しそうな程脈打ち、胃が抉れるように痛む。

 それでも何とかしようと足掻いた。前職を数か月で辞めた手前、またすぐに逃げ出す訳にはいかなかったからだ。

 それも一年と数か月で力尽きた。次こそは上手くいくと、明るい未来があるんだと、苦しい転職活動の末に何とか再就職した。

 そこで、どうして自分が上手く生きられないのか、どうして自分が社会に必要とされないのかを思い知らされた。

 仕事が出来ないからだ。


『前に教えただろ⁉ 何回同じミスするんだよ! 何度言ってもお前はちゃんとしたチェックも出来ないな』

『こんなこと少し考えたらわかるだろ⁉ 自分で考えて判断しろ!』

『これだけしか進んでないのか? サボってるんだろ、お前。嘘ついても分かるからな』

『お前、本当は何か病気とか隠してるんじゃないのか? 本当のこと言えよ』


 小さな確認不足から始まったミスが、怒号を飛ばされる度に正常な思考が出来なくなり、同じことを繰り返す。その度に耳が潰れそうな怒号を浴び、何も考えられなくなる。

 そんな状態では勿論時間までに仕事が終わる筈もなく、それにまた怒号が飛びながら、当然のように毎日サービス残業をする日々だった。

 日常の僅かな隙間は、只管考える時間に費やした。何をする気も湧かないので、自然と頭の中で話し続けていた。時間の流れが遅くて、いつまでもいつまでも一日が終わらなかった。

 陽柄を追い詰めたのは、辞められない事だった。毎日罵声を浴びせられても、逃げられないのはボロボロの職歴しか残らないからだ。どうしたって未来が無いからだ。

 どちらにしても絶望しかないのに、辞められないのは、変わることが怖いからだ。もう「正しい人生」「成功した人生」に戻ることが出来ないのが恐ろしいからだ。

 分かり切っていた。もうとっくに求める「正しさ」を手に入れることは出来ないのに――その終わりに待っていたのは、結局自暴自棄だった。


『馬鹿な真似はやめろ! そこから降りてきなさい!』


 追い詰められた末に、職場のあるビルの七階の窓から身を乗り出した。窓枠に足を掛けて見下ろした先は灰色のコンクリート。恐怖心は無かった。高揚した頭はふわふわとして心地良さすら感じた。

 止めようと近づいてきた上司は、あんなに恐ろしかったのに何も怖くなかった。勝ち誇ったような、昂った気持ちで声を張り上げると、男は蔑んだように眉を顰めた。


『本気で死ぬ気もないくせに、挑発するような真似はやめろ』


 すっと、胸の中に冷たい感覚が流れた――瞬間、足が滑った。

 目の前の景色が異様なくらいゆっくり流れた。スローモーションのように見えるのに、思考はやけにはっきりしていた。

 だから、間違えたことが分かったのだ。



「ヒガラ」

「っ!」


 右手に触れる感覚。少女のオパールのような瞳が覗き込んでいることに気が付いて、咄嗟に手を振り払った。すぐにまずいと気づいて弁明しようと思ったが、途中で考えるのを止めた。

 なんだかすべてどうでも良くなって、ソファに凭れかかって天井を眺める。世界なんて滅んでしまえばいい。俺の事も嫌いになって、全部全部一緒に消してくれたら楽で良い。


「ほんとはヒガラそんなこと思ってないよね」


 少女の指が陽柄の腕に触れる。何を思っても何を考えても、胸の中を我が物顔で踏み荒らす彼女が嫌だった。そうして全て分かったような顔をされるのが嫌だった。


「いっておくけど、ヒガラのこと世界でいちばん分かってるのはハピーだからね」

「……じゃあ嫌いになるだろ、こんな馬鹿で駄目で嘘つきな人間なんか」

「ハピーはね、ぜんぶ分かってヒガラがだいすきなんだよ」

「……俺は大嫌いだよ、お前。お前のせいで、俺の日常はおかしくなった。……もう、俺の前から消えてくれよ……死んでくれよ……」


 掠れるような声で絞り出した言葉が、部屋の静寂に溶ける。ハピーの顔を見ることはできなかった。胸がキリキリ痛む。陽柄の息の音だけが響く部屋の中、カチ、と金属がぶつかるような音がした。

 天井を見つめていた視線を目の前にやる。少女の指は銀の刃になって、自らの首にそれを突き付けていた。ぷち、と薄い皮膚を破る。


「ヒガラがほんとうにそう思うなら、そうするよ」

「……!」

「……ね! ほんとはそんなの思ってない、言うのもそんなにくるしいのに。優しくって勇気がなくって……だからヒガラが好きなんだよー」


 思わず目を見開いて身体を起こした陽柄を見て、ハピーはふにゃりと目を細めた。きまりが悪くなって俯く彼の耳に、少女の無邪気な声が響く。


「世界なんてほろべって思うのに、未来をあきらめられなくって、逃げ出せばいいってわかってても、幸せをあきらめられないの」

「……」

「あの時もそうだよ! 死にたいって飛び降りたのに、生きたいって思ってた! あきらめが悪くって、ゆうじゅう不断で……だからヒガラが好きなんだー」


 思い出したのは、逆さになった景色だった。

 全てがスローになったあの瞬間、間違えたと思ったのだ。「死にたい」のではなく、「楽になりたかった」のだと。

 逆さのビルが流れていた。もう死にゆくのだと分かっていたのに、それでもまだ「生きたい」と思っていた。地面にぶつかるその瞬間まで、「幸せになれる可能性」に縋っていた。


「ハピーといっしょに生きようよ。ヒガラにとって、ハピーといっしょに生きることが『正解』にしてあげる!」

「……そんなの、俺にはもう……」

「ううん、ヒガラはぜったいハピーといっしょにいるのが『正しい』って思うよ。だってハピーだよ? 何でもできるよー、のぞめば世界だってほろぼせる! ハピーと出会った人生が『正解』だって、思わせてあげる」


 少女の柔らかい指が陽柄の頬に触れて、顔を上向かせる。もう諦めている筈なのに、その光は縋りたい幸せに見えた。思う筈も、思いたくもない筈なのに、その高次元生命体を信じてしまいたいと思った。

 頬に触れた指から、陽柄が何を考えているかは全てハピーに伝わってしまった。満足げに口角を上げる少女に、彼は気まずそうに目を逸らした。


「あそーだ! ハピーが教えてあげる! まだ足りないから、ヒガラがすごいんだよってこと、教えてあげるねー!」

「……な、えっ……?」

(みてー、ハピーの記憶だよー)


 少女が無邪気に笑った瞬間、目の前がぐちゃぐちゃになった。

 この世の全部の色を混ぜたみたいな色――処理しきれない情報量の光景は、ヒトにはそう見えるらしい。それでもなお頭の中に流れ込んでくる情報に、頭を殴られたような痛みに襲われ目を閉じると、小さな手が額を撫でる感覚があった。


 ヒガラは大丈夫だよー、目ぇあけても。


 恐る恐る目を開ける。ぐにゃぐにゃの混沌は、液体のように常に変化を続けている。大音量でテレビの砂嵐を流しているようなノイズ音の中に、僅かに笑うような声が聞こえた。笑う声は沢山あったが、何を言っているかは理解できない。そうしている内に、胸の中にザワザワした不快感が流れ込んできた。

 悲しいのか、怒りなのか、虚しいのか――プラスの感情ではなかった。混沌の中で、やり場のない感情が混ざり合っていた。これはハピーの感情だと、そこで気がついた。

 何をするにも悲しくて辛くって、解決する術のないそれを抱きながら、混沌に開いた細い隙間を見ていた。その隙間からは、次元の異なる世界が見えた。

 何の面白みもない世界を眺めて、時折気を紛らわせようと、いたずらに指を突っ込んで遊んだ。あまり下次元の世界に介入するなと。○*☆♪が怒って注意してくるので、ちょっとだけ指で掻き回すだけにした。

 こんなに嫌な気持ちなのに、自分の感情を表す方法がなかった。誰も分ろうとしてくれなかった。誰もが☆☆♡*。○に興味がなく、誰も☆☆♡*。○を見てくれなかった。

 いつまでこれが続くんだろう、いつからこうなったんだろう。何も分からなくて悲しくて、苦しくて、恐ろしくて――考えるのをやめた。隙間の向こうで流れる時間と景色をただ瞳に映すだけ。長くて短くて長い間――時間というものを忘れてしまった頃、その瞬間だった。

 ぱちん、と目の前で宝石が弾けたみたいなキラキラの衝撃で気がついた。

 深い茶色の瞳と目が合ったの。

 隙間の先で、くたびれたあなたは虚な瞳で☆☆♡*。○を見ていたの。

 この瞬間、ヒガラが、ハピーを見つけてくれたの!


(……あ⁉︎ 見てない! 見てない見てない、全然! 誤解! 勘違い!)


 ハピーがそうってんだからそうなの!

 はじめて嬉しくって、嬉しいって気持ちがはじめてで、それからハピーはヒガラに夢中になった。

 ずっと見ていたの。朝起きて昼が過ぎて、夜を超えてまた朝がくるまで、ずっと見ていたの。

 気が弱くって優柔不断で、自己肯定感が低いのにプライドも理想も高いの。変わるのが怖くて何も変われない。

 でもね、どんなにつらくされても人に優しくするのをやめられないの。

 どんなに追い詰められても、死にたいって思っても、生きたいって、生きなきゃって立ち向かうのをやめられないの。

 どんなに打ちのめされても、どうせもう無理だってわかっているのに、まだ幸せになりたいって――幸せになれるって信じてるの。

 ヒガラの心はおもしろかったの。思っているのに、矛盾したことを思っているの! ヒガラの心はいっぱい移り変わって、色んな色で色んなふうに輝くの!

 おもしろくて、綺麗で、不思議で、すばらしかった! ヒガラがハピーを見つけてくれたのは、ハピーがヒガラを見つけたのは、間違いじゃないって……正しかったんだって分かった!

 ヒガラをずっと見てたんだよ。しんどそうに朝起きて、青い顔で昼を過ごして、ボロボロになって夜を超えて、また絶望の朝がきて、あなたが同じ灰色の毎日を繰り返して、空を逆さに落ちて、地面でぐちゃぐちゃになるまで!

 ハピーは「恋」を知っちゃった。いてもたってもいられなくて、世界も身体も全部捨てて、ヒガラのとこにきたんだよ。もうあそこに戻れないって分かってたけど、それでいいと思ったから。


 立ち上る爆炎の中、ぐちゃぐちゃに曲がった男の身体を持ち上げて、頭に翼の生えた少女がボロボロの青年を抱きしめる光景が見えた。

 記憶はそこで途切れた。


 見慣れた部屋が目の前にあった。身体は汗だくで、数十分走った後のようにひどく息が切れている。ぜえぜえ鳴る喉を押さえていると、ハピーは陽柄の両手を取ってぴょんぴょん跳ねた。


「やっぱり! ほらあ! ヒガラはハピーの記憶をあげてもおかしくならないよ! さすがハピーの見込んだ通りだねー特別なんだー!」


 当惑する陽柄を他所に頭の翼を羽ばたかせて喜ぶ少女の姿を暫く眺めて、ふと何かに気づいたように彼は呟いた。


「……もしかして、我儘放題な行動も、俺の心を見るために……」

「それって『考察』⁉︎ ハピーヒガラに考察されちゃった! えへへ、でもそれはふつうに、ヒガラと一緒にいてあふれ出る感情を抑えきれないゆえにだよー!」

「……」


 ……余計なこと言わなければよかった。陽柄の言葉に一段とはしゃぐハピーを見ながら、熱くなる顔を俯かせる。一頻り喜びの舞を踊り続けた後、彼女は漸く落ち着いたのか、改めて陽柄の前に立ってその手を握った。


「ねー、ハピーといっしょに生きてくれるよねー?」


 その質問に、拒否権は無いのだろう。何でもできる、望めば世界だって滅ぼせるこの高次元生命体は、一つの答えしか知らない。少女の形をしたそれは、可愛く上目遣いで陽柄を見つめた。


「……嫌って言ったら」

「もちろん、ほろぼすけど?」


 悪辣に目を細めて、口角を上げる。頭の翼を威圧するように大きく広げる。子供っぽい悪い顔をして、たった一つの答えを待っている。

 掴んだ手から全部分かっているだろうに、陽柄の口がそう答えを紡ぐのを待っている。


「……分かった。これからも、ずっと、一緒にいよう。ハピー」

「……じゃー仕方ないね! 世界滅亡はまた今度にしてあげる!」


 少しの間を空けて、陽柄が出した答え聞くなり、ハピーは満足げに笑みを浮かべてそう言った。

 陽柄は呆れたため息を吐いた。いつものように、雑な感情や沢山の言いたいことを飲み込んだ、何とも言えない顔。今日は仄かに微笑みのようにも見えた。

 かくして、世界は七六度目の滅亡の危機から救われたのだった。



――――


「お前は何で、そうやってすぐ辞めるの? そんなん繰り返してる人間、どこの誰が必要とすると思う?」


 黒い人影がそう言った。

 鉛筆で塗り潰して上から指で擦ったみたいなそれは、兄の姿になってそう言った。


「現状を悲観するだけで改善しようとしない、そのくせプライドだけは一丁前に高くて妥協もできない」


 分かっている。自分が一番よく分かっている。

 黒い人影がそう続けた。

 遠くに見える不定形の黒い形は、瞬きの度に形を変えた。


「今思えば、昔からちょっとおかしかったわ。喋り方だってずっと変だったし、人との関係も希薄で」


 ずっと分かっている。何とかしようと足掻いて、上手くいかなくて、どうにもならなかった。

 黒い人影は兄だった。母だった。父だった。誰か忘れた、正しく成功した人生を送る人だった。

 走っても走っても、黒い人影はずっと同じところにいた。耳を塞いでも目を閉じても、黒い人影はそこにいて語りかけてきた。


「嫌われるのが怖くて人に頼る勇気もない、心を許して欲しいのに、自分が心を許す気は微塵もない」


 どうか許してください。

 正しく生きられなくてごめんなさい。変わる勇気がなくてごめんなさい。

 泣きながら謝る声は届かず、白い壁に吸い込まれて消える。

 黒い人影は何度も形を変えて、ただ佇んでこちらに向かって言葉を続けた。呪詛のように繰り返した。


「うるさーーーーい!」


 大きな手だった。

 眩しいくらい白一色の視界に現れた異形の手が、黒い人影をその指で弾き飛ばした。

 豆粒のように小さくなって、黒い人影は彼方に消えた。

 立ち尽くして狼狽えていると、何処からか甲高い声が聞こえてきた。


「わかっ■って言って▲じゃーん‼︎ しつこーい‼︎ わかって■るからも■いーんだよ!」


 耳が潰れそうなくらい、身体がびりびり震えるくらいに大きな声。音は潰れて何を言っているのかよく分からない。

 異形の手は重たげな音を立てながら、こちらににじり寄ってくる。あ 身体が動かない。そのうちに十三本の指が身体に巻き付いて、ぎゅうと握り締められた。


「★ガラは全部わか○て*て、そ♢%自分が嫌で、今変わって#ところなの! 一番いーところ! ジャマしな♪で!」


 硬い指が身体を締める。冷たくて乾燥していて、深い皺がある長い指が痛いくらいに抱き締めてくる。

 あんまりにも怖くて叫んでいるつもりなのに、恐ろし過ぎて声の無い悲鳴が喉で空回った。じたばた動いても異形の手はびくともしない。


「キャハハハハ! おもしろいねえ! たのしいねえ! これからも、ずっと毎日、たのしみ!」


 うるさくてきつくて恐ろしいのに、上から聞こえる声はずっと楽しげに弾んでいた。

 動けないまま、声も出せないまま、ただ割れそうに大きくて楽しそうな声を浴びていた。

 全てが恐ろしくて恐ろしくて堪らないのに、降ってくる声だけが楽しそうに響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る