第3話「そんな顔するくらいなら、滅ぼそっか?」
ちゃぷん、と水の音。
少しして、小さな身体が勢いよく飛び出して、激しい水飛沫が上がった。
「プールサイドは走らないように。滑って転ぶ」
「タカツキうるさ~い! ハピーはすべって転びませんよーだ」
「万が一怪我したら大変だ」
「ハピーがケガするわけないじゃーん! べぇーだ」
波立つ水面から顔を出して、ハピーは得意げに舌を出した。彼女と高槻の応酬を眺めて、陽柄は呆れた溜息を吐く。
ピンクでフリフリの可愛い水着を着て、浮き輪にビーチボールにバナナボートとおもちゃを一杯浮かべて、ハピーははしゃぎながら水の中を遊泳している。
凡そヒトでは出せないスピードでプールを突っ切っては、浮いているおもちゃにしがみついてきゃあきゃあ騒いでいた。
陽柄はただ水の中に突っ立っていた。胸くらいまでの深さの水は程よく冷たくて心地良いのだが、高い天井と薄暗い照明、そして人の居ない静けさが何処か不安になる。
「ていうかここ……普段何が入ってるプールなんだ……」
「それは極秘事項なので俺も知らない。ちゃんと人が入っても問題ないよう清掃はしたそうだ」
「ええ……それはそれでなんか気持ち悪いな……」
「ヒガラ! ビーチバレーだよー! いくよー」
「うっ」
イルカみたいに水中から飛び出したハピーの撃ち込んだビーチボールは、見事陽柄の顔面に直撃した。
水面に倒れ込んだ視界で、飛び散った水滴がビーズみたいにキラキラしていた。
前回のお願いはプールに使った。今回のお願いは新しいゲームソフトに使うらしい。
ヘルスチェックを受ける研究室の匂いは、少し病院に似ている。採血の為に腕を差し出していると、目の前の男が眠たげに欠伸をするので、陽柄はびくりと肩を揺らした。
「ほんまに、堪ったもんじゃないすよ……職人の人機嫌悪いし、実技と座学でもうマジ……一週間寝なかったっすもん。一週間休みなし働きづめとか……」
「特別手当出るでしょ。なんでいつまでグダグダ言ってんの?」
「そんなん手当分だけじゃ足りてませんよ! それ入れてもサビ残三昧やし。社畜や~社期の奴隷や~……」
わざとらしく気だるげに振舞う岸辺だが、採血の腕は鈍っていない様子で、淡々と注射針を刺してまた欠伸をした。
先日の花火の為に、岸辺は単独で職人の下に派遣されたらしい。人を呼ぶことが出来なければ、内部の人間に全部覚えさせれば良いという事だった。
「組織」の圧力と財力で無事送り出された彼は、一週間で各種資格の関門を突破し、花火の打ち上げを出来るようにしたという。
感受性豊かな陽柄は、彼の口ぶりを聞いて、色々と思い出すことがあった。
「あっ社畜と言えば、山科さん詳しそうすよね」
「……う」
「お前さあ、その人の地雷踏むやつ、わざとやってんの?」
とどめを刺されたように、思い出したくない記憶が堰を切って溢れて、陽柄は机に突っ伏せる。視界が暗い机で埋め尽くされ、背後からわざとらしく弁解する軽薄な声が聞こえた。
ヘルスチェックは、メンタルに問題ありで経過観察となった。
陽柄の胸の内が曇るのは、それだけが原因ではなかった。
ハピーと部屋に戻ると、彼女だけを残して再び部屋を出る。向かったのはこの研究棟の会議室だ。
二か月に一度、陽柄は外部の人間とやり取りをすることが出来る――パソコンの画面越しだが、家族と会うことが出来る。陽柄は用意されたノートパソコンの前に腰掛けると、物憂げに溜息を吐いた。
程無くして、パソコンの画面に二人の姿が現れた。母親は陽柄の顔を確認するなり、電気が付いたみたいにぱっと表情を明るくした。
「陽柄! 見えてるー?」
「母さん……うん、最近どんな感じ?」
「それはこっちのセリフじゃないかしら! 陽柄こそ、無理してない? なんかちょっとやつれてない⁉」
「いや気のせいだよ……俺は特に何も。前から変わらずって感じ」
いつも嬉しそうに早口で迫ってくる母親に、陽柄は思わず少し仰け反りながら苦笑した。画面の向こうで、その隣の父親の口元が少し緩むのを見て、陽柄はほっと胸を撫で下ろした。
「こっちも何もないわ。あ、でも陽柄の事が心配でね~全寮制の会社で、連絡とるのも禁止だなんてもう……心配で心配で」
「それ毎回言ってない? ほんと普通に……元気に会社員やってるよ」
「ならいいんだけどね。それと……お金もありがとうね、もっと仕送りの金額減らしてもいいのに」
「いやいいよ、欲しいものもないし……母さんたちに使ってもらうほうが有意義だから」
お決まりのフレーズを決めて、母はほろりと涙を拭く仕草をした。陽柄は笑って流しているが、両親が心配するのは尤もである。
電話連絡や面会は勿論のこと、SNSのやり取りすらも陽柄にはできない。この二か月に一度の対面が、肉親との唯一の会話だった。
だから、陽柄は極力心配させないよう気丈に振舞っている。疲労と苦痛でぺしゃんこになっている内心を隠し通すと決めていた。
ただ、こうやって両親に隠し事をすることも苦痛の要因ではあった。
「ほんとに、元気なら良いけどね。……しんどくなったら、いつでも辞めて帰ってくるのよ」
やり取りの最後に、母は決まってそう言った。その言葉の度に、陽柄の潰れた心はきしきし痛んで、涙が出そうになるのを堪えた。
辞められるものなら、辞めたかった。帰りたかった。ここに来る前からずっとそうだった。
喉の奥に込み上げてくる感情をぐっと飲みこんで、彼は笑顔を作った。それができるのなら、どんなにか幸せだろうと思った。
「今の所は大丈夫だから。ありがとう。またぼちぼち帰省できないか聞いてみるよ」
「そ! 久々に生陽柄の顔見たいわ~」
母親の笑顔と父親の微かな笑み。久々に過ごす家族団欒は、幸せでもあり苦痛でもあった。
この「普通の幸せ」に、もう戻ることが出来ないと思い知らされるからだ。
「あ、そういえば忘れてたわ! お兄ちゃんの奥さん、赤ちゃんできたって! 予定日が来年の三月でねえ」
母がふと思い出すように言った言葉に、陽柄は胸の中がすっと冷たくなった。
陽柄は「普通の幸せ」を得たかった。
二つ上の兄のことを思い出していた。
兄に対して、特に好きや嫌いという感情はない。特に仲が良いわけでも、悪いわけでもない。ただ、羨ましいと思ったことは何度かある。
兄は特段優秀では無かったが、それなりの学生生活を送り、それなりの企業に就職し、それなりの社会人生活を送っていた。それが羨ましかった。
陽柄は生真面目で、人並み以上に努力した自覚があった。学生時代までは、その見返りがあった。人並み以上に努力して、「人並みの幸せ」を得られるのは当然だった。それなりに生きていた兄より自分が幸せなのは当然だった。
その「人並みの幸せ」が、社会に出て崩れ落ちた。
陽柄には人より努力した自負があった。ずっと真面目だったし、悪いこともしなかった。ただ、陽柄は仕事があまりできなかった。
そうしてずるずると滑り落ちて、崖の上に追い詰められている間に、兄は「普通の幸せ」を――「正しく成功した人生」を得ていた。
人並みに働き、人並みに恋人を作り、人並みに結婚し、人並みに子供を作る。それに比べて、自分はどうだろうか。
仕事も出来ず追い詰められた挙句、飼育箱の中で観察され続け、拒むことも逃げ出すことも出来ない。
欲しかった「普通の幸せ」はもう手に入らない。もう「正しく」なれない。
同じ腹から産まれてきたのに、ずっと努力をしたのに、自分だけ「正しくない」ことが恨めしくて、羨ましくて、悲しかった。
「ヒガラおかえり! ナナジューニあるよ!」
居住スペースに戻ると、ハピーはソファに寝そべって携帯ゲーム機を掲げていた。陽柄の顔を見てゲーム機を机に置くと、飛び起きて駆け寄ってくる。
冷凍庫からアイスの箱を取り出すと、自慢げに持ち手の部分を開けて見せる。色とりどりのアイスが並んでいる。彼女はパステルカラーのアイスを手に取って舌なめずりをした。
「一こ目はパチパチのやつにしよ! ヒガラどれ?」
「じゃあこのクッキークリームのやつで」
「あーハピーにも一口ちょーだい! あとねー、食べたら対戦しよー!」
プラスチックのスプーンに掬ったアイスを、大口を開けて放り込む。口の中でキャンディが弾ける音が聞こえる。
クッキークリームのアイスを口に含む。舌の上の冷たさを溶かしながら、カップの中のアイスを眺めていた。これはとても幸せな味だ。部活帰りに友達と食べて帰ったのを思い出す。
最近はハピーの機嫌も良く、今日も平凡に一日は始まって終わっていく。何も心配することのない平凡な日常は終わることなく、何処までも続いていく。
この上なく幸せなはずなのに、ずっと腹が鈍く痛んで、息が苦しいのだ。
子どもの機嫌取りをしているだけなのに、ただ平穏を享受していることが、真面目で神経質な陽柄にとっては後ろめたくて堪らなかった。
「……ハピーはね、ヒガラにとって大切で、ヒガラのためだから~しかたなく一人でお留守ばんしてるんだけどー。これの後いつもさ、ヒガラ元気なくてぼーっとしてない?」
「……え、ああごめん……ありがとうな」
「そんな風になるなら、行かないほうがいーんじゃないってハピー思うんだけど」
気が付くと、隣でハピーが不機嫌そうに目を細めていた。慌てて言葉を返そうとするが、いつもより幾分素っ気ない声に遮られる。
すべての原因元凶はこの高次元生命体なんだよ。一瞬そう思ったのを掻き消して笑顔を作る。ぎこちなく笑う彼を見て、少女は口を一文字に結んだ。
「心配かけてごめんな、でも……親にはあっておきたいから。留守番させてごめん」
「……ま、ヒガラがいーならいーよっ」
「食べ終わったら対戦しような」
彼の言葉に、ハピーは訝しげに陽柄を見つめた後、やれやれとため息を吐いて両手を広げた。
二人でアイスを二つずつ、八個あったアイスの半分は瞬く間に無くなった。残りは晩御飯の後のデザートらしく、冷凍庫に丁寧に仕舞った後、二人はハピーが最近没頭しているテレビゲームに興じた。
ハピーは血走った目でテレビの画面を見つめ、必死の形相でコントローラーをカチカチ鳴らしている。これは陽柄にも馴染みのある格闘ゲームだが、接待プレイは禁止されている。
「はじめは弱くって、強くなって一度まけた相手に勝つやつ! 少年マンガのやつやるの!」とのことで、今はそれほど強いわけでもない陽柄に完敗を喫する日々であった。
「……ぬぬ、ぐぬーッ! あーッ即死コンボ! ハピーもきめたい!」
「俺もそんな上手くはないけど……」
「ぬーッ! もう一戦!」
また敗北したハピーはリモコンを放り投げた。安全の為にストラップで手首に繋いだリモコンは宙に弧を描いて、戻ってきて彼女の腕にぶつかった。高次元生命体でも、ヒトの形での細やかな指先操作はまだ難しいらしい。
困ったように眉を下げる陽柄を他所に、ハピーのゲーム熱は冷めることなく、数時間の対戦と練習に休憩はなかった。
「来週ねー『エイルド』のソフト届くからさー来週までにつよくなる……あ、エイルド届いたら一緒にやってねー!」
夕飯の時間に差し掛かり、漸くリモコンを手放したハピーは、ぐったりした様子でソファに凭れかかっている。
次はクリエイト系のゲームをやるらしい。ハピーの流行は過熱しやすく過ぎ去りやすい。ゲームのし過ぎで凝り固まった身体を解すべく、両足をぴんと伸ばして、頭の翼を大きく開いてぐっと伸びをした。
「でもさーハカセもヘンだよねー。実験、あんなのムダってハピー言ってるのにねー。ハピーもうこの次元に落としたから、あっちに戻れないのに」
伸びきった身体をだらんと緩めて大きな欠伸をする。用意された夕食が配膳されたテーブルを、陽柄はぼんやりと見つめていた。
用意された平凡な日常は、彼の意思にかかわらず続いていく。白く霧掛かった思考の中で、陽柄はそれを受け入れるしかなかった。
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