第27話
毎日が、忙しなく動いていく。
雅が日本に帰国してから、桜子が事務所にやってきてから、目まぐるしく日々が回っていた。
転びそうになるくらい。
やることが多くて、安心院とともに駆け回っている。
たったふたりで動くとなると、今までとは勝手が違い、右往左往することも多かった。
だからだろうか、夢の中でも雅は走りまわっていた。
その容姿は、今よりも随分と若い。
髪の毛を後ろで括る髪型は相変わらずだが、スーツは今よりも安いものだし、その横顔には屈託のない笑顔があった。
隣にいる少女は、同じように雅に笑いかけているようで――、顔が黒く塗りつぶされている。
そのままふたりは、深い深い穴の中へと進んでいった。
それを雅は、後ろから眺めている。
そっちに行ってはダメなのに。
止めようと思っても、声が出ない。息ができない。
ただ無意味に手を伸ばして、遠ざかるふたりを見るだけ。
だって、ここは夢の中で。
今の自分は、日本にいるのだから。
「……あぁ」
ぼんやりと意識が覚醒して、真っ暗な天井を雅は見上げる。
いい加減見慣れた、床からの寝室の光景。
寝起きの悪い雅には珍しく、ぱっちりと目が覚めた。
その理由は、カーテンの外が真っ暗なことで納得する。まだ朝ではないのだ。
妙な夢を見た気がして、雅はぼんやりと視線を動かす。
すると、隣の部屋からわずかに光が差していた。
隣のベッドを見ると、その中身は空である。
立ち上がり、そっと扉を開けた。
リビングのテーブルの前に、桜子が座っている。耳にはイヤホンが付いており、スマホと繋がっていた。
テーブルの上にはスタンドライトが置いてあり、卓上の紙と筆記用具を照らしている。
「桜子」
声を掛けると、彼女はビクっと身体を揺らす。
慌てたようにこちらを見た。
「雅さん。ごめんなさい、起こしちゃいましたか」
「いや、桜子のせいじゃないよ。ちょっと、夢見が悪くて」
もう覚えていないが、嫌な夢を見た気がする。
だが、それを雅の冗談だと思ったのか、桜子はふわりと微笑んだ。
「怖い夢を見ちゃいましたか」
気の利いた桜子の冗談に、雅は何も返せない。
ただ黙って、桜子を見やる。
可愛らしいピンクのパジャマに、薄いカーディガンを肩に掛けている。
パジャマの生地は薄いようで、彼女の身体のラインがある程度わかった。立派な胸の形が主張しているが、それでも上品に見えるのが不思議だ。
顔と手、足くらいしか肌は見えていないのに、なんだか色気がある。十七歳の女の子だというのに。
それは、アイドルとしては喜ばしいことだけれど。
「桜子は、作詞?」
テーブルに手をつき、彼女の手元の紙を覗く。
それらしい詩が、丸みを帯びた文字で綴られていた。
桜子は反射的に隠そうとしたが、相手は雅だ。もとより見せる相手だと思いつつも、それでも恥ずかしいらしい。中途半端に浮いた手が、行き場をなくしていた。
「まだ書きかけなので、あまり見ないでもらえると……」
「失礼。完成を楽しみにしてる。でも桜子、あんまり夜更かしはしないようにね。明日も朝からバイトでしょう」
「そうですね。程々にしておきます」
微笑む桜子は、風に揺れる花のように可憐だ。
それをずっと見ていたい衝動に駆られるも、先ほど見た夢がどうにも腹の中に残っている。
なんだか、上手く表情が作れない。
その歯がゆさのせいなのか、雅は頭に浮かんだことをそのまま口に出した。
「ねぇ、桜子。今、アイドルをやっている実感はある?」
突然の質問に対し、桜子はきょとんとする。
しばし間を置いたあと、照れくさそうに頬を掻いた。
「正直なことを言えば、あまり。いろんなことが動き出してドキドキしてますけど、やってることはパン屋さんのバイトと、バンド練習と、作詞なので」
「まぁアイドルというより、バンドマンって感じだね」
学校をやめて、身ひとつで上京して……、というのは、なんともロックだし。
デビュー前だから仕方がないのだが、あまりアイドルらしいことができていない。
けれど彼女は、やさしい笑みを浮かべる。
「――でも、今、とても充実しています」
「……そっか」
彼女のそんな言葉で胸のつかえが取れるのだから、よほど疲れているのかもしれない。
こっそり深呼吸していると、桜子がこちらをじっと見上げていた。
なあに? と声を掛けると、意を決したように桜子が口を開く。
「あの、雅さん。このまま、わたしたちはバンドを続けていくんですよね」
「そのつもりだけど」
「それなら、わたしも何か楽器ってできないでしょうか」
突拍子もないことを言われ、雅は眉を上げる。
どうやら桜子も思い付きで言ったわけではないらしく、ぽつぽつと言葉を落としていく。
「今のメンバーは、わたしと葵ちゃんと詩織ちゃん……。わたしがボーカルだと、楽器はギターとドラムのふたりしかいません。わたしは詳しくないですけど、これってバンドだと寂しいんですよね?」
それは桜子の言うとおりだ。とても寂しい。
ベースは絶対に欲しいし、ギターももうひとり欲しい。キーボードもいると嬉しい。
ただ、それは雅の考える事柄ではなかった。
ここから人数を増やすのはスターダスト・ブロッサム的にはありえないし、増やすにしても別の事務所に移籍してからの話になる。
なので雅には関係ない話だが、桜子がユニットのことを真剣に考えているのはいいことだ。
桜子の提案どおり、彼女が楽器を演奏できたら幅も広がる。
ただ。
「桜子、何か楽器できる?」
「やったことないです……」
しょぼん、と肩を落とす。
だから、何か始められないか、という相談なのだろう。
「うーん……」
雅は腕を組んで、天井を仰いだ。
五年ドラムをやっている詩織ですら力不足で、彼女の練習には特に力を入れている。葵とはまるで釣り合っていないからだ。
そんな中、完全に未経験者である桜子がやれることなど、あまりに少ない。
ベースにしろ、キーボードにしろ、今入れるのなら相当な経験者でないと見合わない。
見合わない、のだが。
「……ギターを練習するのはいいかもしれないね。ギターがふたりいると、音の厚みがぜんぜん違うし。もちろん、物凄く練習する必要はあるけど……」
葵のギターがあの調子だから、サイドギターとしてなら、いつかは参加できるかも……?
少なくとも、今からベースやキーボードを桜子に練習させるよりは、まだ可能性はあるだろう……。
その程度の苦し紛れの提案だったが、桜子はふんふんと頷いた。
「それならわたし、ギター練習します」
「桜子はボーカルなんだし、やることも多いんだから無理しなくていいんだよ?」
「それはわかっているんですけど……。わたしにできることは、なんでもやりたくて……」
前のめりな気もするが、まぁ気持ちはわかる。
とにかく頑張りたい時期はだれにだってある。
頑張りすぎる危険性はあるが、ここに住んでいるうちは雅がブレーキを踏んでやれる。
それに、将来的に彼女がギターを弾けるようになれたら、プラスなのは間違いなかった。
「わかった。それなら、わたしがギター、教えてあげるよ」
桜子のひたむきさに穏やかな気持ちになり、特に考えなしでそう伝える。
すると、桜子は意外にも立ち上がらんばかりに喜んだ。
「え、本当ですかっ」
「うん。わたしも昔はギター弾いてたし。初心者に教えるくらいならできるよ。もちろん、葵とは比べ物にならないけど……」
そこまで考えて、葵に教えてもらえるのは大きいかもしれない、とも思う。
上手い人に教わるのが一番だ。
葵も性格的に、人に教えるの好きそうだし。
「それなら、ぜひ。約束ですよ」
桜子は宝物をもらう約束をしたかのように、力強く言った。
雅は大げさな、と笑いながら、実家の自室を思い浮かべる。
ギターやアンプはまだ残っているから、そのまま桜子に譲ろうか。
それを伝えてもいいが、彼女は興奮して寝つきが悪くなるかもしれない。
もう深夜だ。
雅も桜子も、ちゃんと寝なきゃいけない。
桜子の頭の上に、ぽん、と手を載せてから、雅は踵を返した。
「あんまり根を詰めないようにね。おやすみ」
「おやすみなさい……」
彼女の声が耳に残っているうちに、布団に横になる。
今度は夢を見ずに眠れるといいな、と目を瞑った。
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