第26話
◆
とあるパン屋さん。
小麦の香りが店内には常にいっぱいで、扉を開けた瞬間にお客さんの顔がほころぶ。
奥の厨房ではスタッフが忙しく動き回っているが、レジのふたりは比較的動きが少ない。
それでも評判のパン屋なので、レジには常にお客さんが並んでいた。
「いらっしゃいませ。お持ち帰りでよろしいでしょうか? 食パンが一点、あんぱんが一点、クリームパンが一点……」
桜子はレジの前に立ち、お客さんが持ってきたトレイを確認する。
会計を打ち込み、お金をもらい、お釣りを渡し、パンを袋に詰めて、お客さんに渡す。
「ありがとうございました」
桜子は満面の笑みでお客さんにパンを渡す。
お客さんは若い男性だったので、桜子の笑顔に少し目を見開き、照れくさそうにパンを受け取った。ぎこちない様子で一度桜子を振り返ってから、名残惜しそうに出ていく。
やった。
桜子は内心で喜ぶ。
これは、雅に言われていたことだった。
『せっかく接客業をやるんだから、お客さんを自分のファンだと思って、練習してみて。笑顔笑顔。絶対わたしのファンにしてやる! くらいの気持ちで、お客さんと接するの。大丈夫、桜子かわいいから。あ、でも、本当に惚れられてなんか言われたら、責任者に報告してね』
ひとりひとりのお客さんに全力で愛嬌を振りまくのは疲れるけど、アイドルの予行練習と考えると耐えられた。
第一、自分がアイドルになってお客さんを前にすれば、この比ではない頑張りが必要になる。
やる気も出るというものだった。
仕事自体も、それほど難しくはない。
最初はパンの名前を覚えることと、レジの操作に戸惑ったけれど、こんなものは要領だ。桜子は今までいくつかバイトをしてきたので、あっという間に慣れた。
ただ、隣の少女は今でも大変そうだ。
「い、い、いらっしゃい、ませ……。お、お持ち帰り、でしょうか。え、あ、はい……。く、クロワッサンが一点……、カレーパンが一点……」
青い顔をして、パンを確認する少女。
同じアルバイトである、田川葵だ。
普通の調理服の上に、店名ロゴが書かれたエプロンと帽子をかぶっている。髪は両脇でくくってラフに垂らしており、メイクの類もしていない。着飾っているのは、耳に光るピアスくらいだろう。
一見すれば、地味な店員さんにしか見えないけれど、ちゃんと見ると物凄くかわいい。
なんで何もしていないのに、ここまでかわいいんだろう……。
桜子が羨ましく思っていると、葵のレジで問題が発生したのを見つける。
ぼそぼそ値段を言う葵を止めて、桜子はそっと指摘した。
「葵ちゃん。そのカレーパン、卵入りのやつ」
「えっ……。あ……。お、お客様、こ、これ、卵入りの、やつ……、でした……」
カレーパンは中身によって値段が違うため、入力を間違えると値段の差異が出てしまう。正しい入力をしなければならない。
なので桜子が指摘したのだが、彼女はパニクってお客さんに言葉が足りない説明をする。
お客さんは眉を寄せて、何を言っているんだという顔をしていたので、桜子がさらに助けに入るか迷っていると……。
「お客様、大変失礼いたしました。こちらのミスで、カレーパンと卵入りカレーパンを入力間違いしてしまいました。会計し直しますね。あ、田川さん、もう下がって」
後ろから先輩社員が現れて、にこやかに説明するも、葵への声は冷たかった。
葵はガーンという顔をしたあと、しょぼしょぼと後ろに下がる。
先輩社員が手早く処理すると、葵には特に何も言わずに奥へと戻っていった。
ようやく客の列が途切れたころ、葵は半べそになりながら桜子に訴える。
「わ、わたし、こんなの、向いてない……。な、なんでよりによって、接客業……。あ、合ってなさすぎる……」
「……でも、葵ちゃん……。たぶん、接客業が向いてないなら、アイドルも向いてない……」
「うう~……」
それは葵も理解しているのか、人差し指を突き合わせながら肩を落とした。
向き不向きはだれにだってあるし、接客業が苦手なら別の業種をやったほうがいいと思うけど、葵はアイドルになる。
それなら、人には絶対に慣れなきゃいけない、と雅は嫌がる葵にこんこんと説教していた。
接客業をやることは渋々認めたものの、ひとりでは不安だったらしく、葵は桜子と同じバイト先で働いている。
桜子としても、知っている人がいるのは嬉しい。
けれど、なんだか葵の監視役のようで落ち着かない部分もあった。
葵はなおも、桜子にこの状況を嘆く。
「わ、わたしの可愛さなら、も、もっと楽に、たっぷり稼げる仕事なんて、い、いくらでもあるのに……! た、宝の持ち腐れだとは思わないか……?」
「そ、れは、思う……けど……。でも、そういう仕事って、危ないこともあるかもしれないし……。これからアイドルになるんだし、普通のバイトのほうがいいんじゃない……?」
「こ、こんなにかわいいのに……」
葵は悔しそうに、形のいい唇を曲げる。
時折面喰らってしまうけれど、葵の自己肯定感はおそろしく高い。
そしてそれは、周りの評価ともズレていなかった。
事実、葵は物凄くかわいい。
これを商売道具にすれば、確かに楽に稼げるかもしれないが……。
葵は自分を売ることに躊躇いがないうえに、行き当たりばったりなことも多い。とんでもない危険に足を突っ込む可能性は十分にあった。
事務所での、雅との会話を思い出す。
『……葵はかわいいけど、ネットで配信とかはしようと思わなかったの?』
『お、思ったけど、よ、よくわからなかったから、やめた』
『……葵がそういうのが得意でなくて、よかったよ』
『? な、なんで』
『葵、絶対調子に乗ってコメントに言われるがままに、やっちゃいけないことするから』
『や、やらないよ』
『い~や、絶対にやる。服は絶対脱ぐ』
『や、やらない! ば、バカじゃないの』
『い~や、やるね。全裸になってBANされる』
葵は否定していたが、桜子もそう思ってしまう……。
でも今は、道を踏み外すことなく、普通のアルバイトをして、自分とともにアイドル――、アイドル・ガールズバンドをやろうとしている。
仲間として、いっしょに頑張っていきたい。
だから、このアルバイトも頑張ってほしい。
「ほら、葵ちゃん。お客さん来たよ。ファンだと思って、笑顔笑顔」
「うう~……、こ、こんな時給じゃ笑えない……」
葵が泣きそうな顔をしているので、桜子は彼女の唇の端を指で持ち上げた。
◆
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