第22話
事務所の中を歩き回る、黒い影がある。
雅はそれをふわふわしたところから、見下ろしていた。
どうやら、浅い眠りの中で夢を見ているらしい。
スターダスト・ブロッサムの事務所内は数回訪れただけだというのに、夢はきっちりと実際の事務所を象っていた。
黒い影は、楽しそうに笑う桜子たちをじっと見つめている。
影は人の輪郭を保っているものの、それがだれかはわからない。
……親父?
こういった夢は、亡くなった人間が出てくるのが定番だ。
雅は別に父親に会いたくなかったが、現実では父の影を感じることが本当に多い。
夢に出てくるのも、仕方がないと言えた。
その黒い影は、いつの間にか雅を見つけていて、こちらを見ていた。
〝……また、同じ過ちを繰り返すの〟
そんな声が聞こえて、雅は首を傾げる。
男性にしては、随分と声が高い。
ぼんやりとした意識は、そんな的外れな感想を述べた。
〝……そうやって、最後にはあっさりと捨てるんでしょ?〟
そこまで聞いて、ざわっと鳥肌が立った。
ようやく、これが悪夢だと気付く。
その黒い影は、少しずつ輪郭がはっきりしてきて、雅の記憶の中の人物と重なった。
父親なんかよりも。
はっきりと雅の中に根付く、ここにはいない人物だった。
その人は、雅を崖から突き落とすように、決して聞きたくない言葉を告げる。
〝――わたしのように〟
「雅さん。朝ですよ。起きてください」
身体を揺らされて、耳が人の声を拾っていることにようやく気付く。
頭のそばでスマホがけたたましくアラームを鳴らしているが、意識は霧の中のように不明瞭だった。
んあ、やら、ほげ、みたいな声を出すと、くすりと笑われる。
「寝ぼけているんですか? 雅さん、もう朝ですよ。起きてください。会社、遅れますよ」
そこまで言われて、やっと視界が少しずつ開けてきた。
桜子が顔を覗き込むようにしながら、雅の身体を揺すっている。
「……あぁ……、ごめん……、桜子……。起きる、起きるよ……」
担当アイドルに情けない姿を見せてはいけないという使命感から、(もう遅いかもしれないが)必死で上半身を起こす。
しかし、慢性的な睡眠不足と低血圧が、雅の頭と身体に重みを残す。
ふらふらと揺れるだけで、立ち上がれる気が全くしなかった。
「雅さん、もうわたしバイト行きますからね。朝ご飯、置いてありますから、食べてください。二度寝しないでくださいね?」
桜子が心配そうにこちらを見ているから、傾いた身体で手を振る。
桜子は小さく笑って、パタパタと出て行ってしまった。
桜子はいっしょに朝ご飯を食べたそうにしているし、希望を叶えてやりたいが、どうにも朝はよくない。
よろよろと布団から抜け出し、寝室から出て行く。
今、寝室には元々あったベッドと、新たに買い足した布団一式、そして桜子の私物が置いてあった。
さすがに、ずっとソファで寝ていては身体がおかしくなる。なので布団を買ってきた。桜子はバイトを始めていたが、まだしばらくはどうせ居候の身だろう。
桜子は、それならば自分が布団を購入する、それで自分が床に寝る、と言って聞かなかったが、「元々客用布団を買うつもりだったから」で押し切った。
雅には家に呼ぶような友人はいないが、十七歳アルバイトにお金を出してもらうほど困窮していない。
それに、毎回おいしい食事を作ってもらっている。これくらいの感謝をしても、ばちは当たるまい。
ベランダに出て煙草を吸っていると、ようやく目が覚めてきた。
あれから、数日が経った。
結局、月森桜子、北条詩織、田川葵の三人はオーディション合格者として、スターダスト・ブロッサムに所属することになった。
デビューに向けて、雅と安心院は奔走し続けている。
決まったのは方向性のみで、それから詰める作業は安心院とふたりで行う。
アイドルのデビューには慣れている雅と安心院だが、これがふたりだけでやるとなるとそう簡単にはいかない。
桜子たちは動き出した実感がないだろうが、裏方ふたりはてんやわんやだ。
一方三人は、ひとつの曲を演奏するために、自主練に励んでもらっている。
詩織が過去に演奏したことのある曲を挙げてもらい、葵はギター、桜子は歌と、合わせるためにそれぞれ練習中だ。
ほかのふたりは数日見ていないが、桜子は毎日事務所に来て、地下のスタジオで歌い続けていた。
「……あ。桜子」
ベランダで煙草をふかしていると、外を歩く桜子の姿が見えた。
制服を着ていたのは事務所に来た一日目と翌日くらいで、今の彼女は私服で生活している。
今日は桜色のワンピースを着ていて、とても似合っていた。
桜子がこちらをちらりと見上げ、雅が煙草を吸っていることに気付いたらしい。
はにかむように手を振るので、雅もそれに応えた。
心なしか足取りが軽くなり、彼女は前に向き直る。
雅はフゥー……、と煙を吐き出し、心のむず痒さに耐えた。
「なんだか……、随分と懐かれてしまった気がする……」
まだ数日しか寝食をともにしていないのに、彼女はかなり心を開いてくれている気がした。
それも、桜子の境遇を思えば仕方ないのかもしれないが。
なんだか弱みに付け込んでいるようで、罪悪感がないわけでもない。
「ま……。それも近いうちになくなるか……」
桜子は近いうちにここを出ていく。そうなれば、やがて適切な距離に収まっていくだろう。
煙草を灰皿に押し付け、リビングに戻る。
テーブルの上には、桜子がバイト先でもらってきたクロワッサン、小さなオムレツ、昨日のサラダの残りを加え、カリカリのウインナーも付属していた。
よくもまぁ、バイトに行く前にこれだけきっちり朝ご飯を準備していくものだ。
クロワッサンをかじりながら、彼女のバイト先を思う。
桜子は近所のパン屋で、葵とともにアルバイトを始めた。
平日はきっちり週五で入っているらしく、この調子なら引っ越し資金もすぐに貯まる。
まともなご飯を食べられるのも、今のうちだ。
「……葵、桜子がやめたらどうするんだろう」
葵は桜子に泣きついて同じバイト先で働いているが、桜子が引っ越すとなればバイト先だって変わるかもしれない。
それとも、いっしょについていくのだろうか……。
むぐむぐとクロワッサンを胃の中に押し込んでいると、スマホに連絡が入った。
安心院からだ。
今日は三人揃っての、初の練習日である。
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