第9話
「……ええと。わたしは、大河内雅。あなたのプロデューサーであり、マネージャーであり……。とにかく、あなたの面倒を見る人。……そうだ、安心院さん。わたし、そのつもりはなかったんですけど、社長もやるんですか?」
「そのつもりもないのに、帰ってきたんですか? もちろんです。わたしは秘書ですから。あぁ、月森さん。わたしは安心院文と申します。基本的に、裏方はわたしがやることになると思います。よろしくお願いしますね」
よろしくお願いします、と桜子は大きく頭を下げる。
そのあと、何か言いたげにもじもじとしていた。
視線を彷徨わせながら、おずおずと尋ねてくる。
「あの……。わたし、雅さんと呼ばれていたので、そうお呼びしたのですが……。大河内さんと呼んだほうがいいのでしょうか……」
まるで学生同士のような質問に微笑ましくなるが、「下の名前でいいよ!」と言うわけにもいかない。同クラじゃないんだから。
苗字で呼んで、と雅が答えようとしたところで、安心院が「雅さんで大丈夫ですよ」とするりと答えた。
「安心院さん」
「わたしは雅さんとお呼びしているのに、ひとりだけ大河内さんは可哀想じゃないですか。雅さんも、わたしのことは昔みたいに文ちゃんと呼んでもらって構いませんよ」
安心院は無表情のまま、可愛らしく首を傾げる。
なんとなく思い出してきた。
そういえばこの人、昔から変なところで子供っぽいところがある人だった。
さすがに文ちゃんとは呼べないだろう、と雅が渋い顔をしていると、桜子が手を挙げた。
「あ、あの、わたしも桜子で大丈夫ですっ。下の名前で呼んでほしいです……っ」
……これもまた、学生由来のものだろうか。いや、彼女はもう学生ではないのだが。
雅はため息をひとつ吐くと、「桜子」と呼んだ。
するとすぐさま、「はいっ」と嬉しそうに彼女は笑う。
……かわいいんだけどな、本当に。
だが、その可愛さに癒されている場合ではない。
桜子を引き取るのであれば、対策を考えなくてはならない。
現状、月森桜子の持つ武器は、アイドルなら標準装備の『かわいい』と、ノイズになりかねない『歌唱力』。
その代わり、ダンスが致命的に下手、という非常に大きなデメリットを抱えている。
これを何とかしないかぎり、ほかの事務所に移ることは不可能だ。
これから、その大きな命題に取り組まないといけない。
「桜子。今日はもう特にやることはないんだ。今から、安心院さんと桜子のプロデュース内容を考える。だから、帰ってもらっていいよ。目途がつき次第、連絡するから」
その言葉に、桜子はほっと肩の力を抜いた。
予想外の展開に巻き込まれて、ずっと緊張し通しだったのだろう。
そのままふらふら帰っていきそうだったが、桜子ははっとする。
キャリーケースに目を向けてから、おずおずと口を開いた。
「あのう……。どこに帰れば……?」
「どこに? 家に帰ってもらっていいけど」
「いえ、あの……。わたし、家も何とかするって言われていたので……。その、寮とかあるものだと思っていて……」
「あぁ、なるほど。安心院さん」
場所、教えてもらっていいですか、と隣の安心院を見ると、彼女は目を細めていた。
基本的に感情を表に出さない人だが、その仕草だけで雅は背筋がぞっとする。
それでも、おそるおそる質問を投げ掛けた。
「……あの、安心院さん。この会社には、寮って……」
「ありません。所属タレントには、住居手当の類すら出ていませんでした。何を持って社長が何とかすると言ったのか、全くわかりません」
「……………………」
本日、何度目かわからない、スゥー……、という呼吸音が響く。
雅は手を合わせ、それを額に当てた。
高校をやめさせ、家の準備もなく上京させて、一体どういうつもりなんだ、クソ親父……。
死んだ父親に恨み節を言っても仕方なく、項垂れながらも考える。
桜子には今、家がない。こちらが何とかするしかないだろう。
最も簡単なのはホテル暮らしだ。
会社が負担して当面はホテルに住まわせ、仕事と住居を探させて、決まり次第、出て行ってもらう。
それが一番現実的で、取りやすい選択肢だ。
……でもなぁ。
子供ひとりでホテルに置いておくのは、どうにも不安だ……。
見ていて思うが、桜子は危なかっしい部分も多い。保護者なしで放っておいたら、変なところで何かに躓きそうで怖かった。
どこか向こう見ずで、変に思い切りがいいのは、この数時間でわかっている。
彼女はもうこの事務所のアイドルになるわけだし、別の事務所に引き渡すにしても、変なことでケチがついては困る。
それに、ホテルでの仮住まいは案外辛い。かといって、快適で値段の高いホテルに長期滞在させるのは現実的ではなかった。
雅はしばらく考え込んでから、桜子に詫びる。
「……桜子。申し訳ないと思うんだけど――」
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