第8話
廊下の一番端には、喫煙スペースが用意されていた。
スタンド灰皿がそっけなく置いてあるだけの、申し訳程度の喫煙所だ。
雅が内ポケットから煙草とライターを取り出すと、安心院は眉を上げる。
「雅さん、吸うんですか」
「あっちでは気軽に吸えないんで、一度やめたんですけどね。こっちで懐かしくなって一本吸ったら、もう。安心院さん、どうですか」
「いただきます」
彼女に一本差し出してから、ライターを近付ける。安心院は慣れた様子で顔を寄せ、煙草の先に火を灯した。
雅も煙草をくわえ、手早く火を点ける。
ふたりでしばらく、無言で煙を浮かばせた。
「雅さん。月森さんの面倒を見るって、本気ですか」
吐き出した煙が消えたころ、安心院が咎めるように尋ねてくる。
指に煙草を挟んだ姿がやけに様になる彼女に、雅は言葉を返した。
「えぇ。そうします」
「うちで、ですか? ご存じのとおり、もう廃業の準備が進んでるんですよ」
「わかっています。ですが、うちの親父が……、この会社が、彼女の人生を明確に狂わせてしまった。その責任は取らなくてはいけません。大人として、落とし前を付ける義務があります」
「それは……、そうかもしれませんが……」
安心院は顎に指を当てて、目を伏せる。
彼女だって、桜子の現状を憂いではいるのだ。
安心院はしばらく固まったあと、静かな瞳をこちらに向けた。
「ですが、具体的にどうやって?」
「会社の資金、あれって自由に使っていいんですよね?」
「? はい。雅さんの好きにして構わないと思いますが」
それが何か? と首を傾ける彼女は、とても年上だとは思えないほどに愛らしい。
雅は口から煙を吐いたあと、ゆっくりと続ける。
「彼女に、アイドルの基礎を叩きこみます。アイドルとして一人前に育て上げて、そうしてからほかの事務所に移籍させる。今のままでは所属は厳しいでしょうが、ある程度まで整えれば、もらってくれる事務所はきっとあります」
「……そこまでするんですか」
「しなきゃいけません。親父がどういうつもりで彼女を入所させたかはわかりませんが、彼女はもう後戻りできません。だから、安心院さん。力を貸していただけませんか」
安心院をここまで連れてきたのは、それが理由でもあった。
安心院の目を見つめながら、ただ愚直に頼み込む。
「いくらあの子ひとりだけとはいえ、わたしだけでは限界があります。デスクを担当してくれる人は必要です。もう少しだけ、この会社に付き合って頂けませんか。もちろん、以前と同じお給料はお支払いします」
彼女がいてくれれば、桜子を送り出すことくらいはできるはずだ。
逆に言えば、安心院に断られ、雅ひとりで動くとなるとだいぶ厳しい。
安心院は指に煙草を挟んだまま、何も言わずにこちらを見返す。
ふっと小さく笑うと、煙草を灰皿に押し付けた。
安心院はこちらに手を伸ばし、雅の頬に手のひらを当てる。
「本当に大きくなりましたね、雅さん。そんなことを言えるようになりましたか」
「……子供扱いは勘弁してくれませんか」
「わたしからすれば、十分に子供です」
雅が子供のころ、会うたびに安心院はこうして頬に手を当て、「大きくなりましたね」と言ったものだった。
当時はなんだか嬉しかったものの、さすがにこの年齢では恥ずかしさが勝る。
安心院は手を離すと、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。お付き合いしましょう。わたしも、責任を感じております。社長のそばにいたのに、わたしは全く知りませんでしたから」
「……ありがとうございます。助かります」
安心院の返答に、ほっと息を吐く。
はっきり言って、安心院には何のメリットもない話だ。断られても仕方がないと思っていただけに、快諾してくれたのはありがたい。
ただ、安心院が口にしたことで、元々あった疑問が膨れ上がる。
長年秘書を務めあげ、この会社の最後を任された安心院でさえ、桜子の一件は知らなかった。
呼び戻された雅に、廃業寸前の事務所に入れられた桜子。
「一体、親父は何をしたいんでしょうか……?」
「わかりません。全く。こんなことは、初めてのことです――」
安心院は目を瞑り、何かに耐えるようにそう答えた。
煙草を吸い終えてから、雅と安心院は事務所へ戻った。
彼女は言いつけを守る犬のように、ちょこんと椅子に座ったままだ。
ふたりが戻ってくると少しだけ嬉しそうな顔をして、ぺこっと会釈をする。
……本当、可愛らしい子ではあるんだけど。
もったいない逸材だな、と思いつつ、雅は椅子に腰を下ろす。
桜子は先ほどと違い、安堵したように肩の位置を下げていた。
彼女からすると大きな問題が片付いて、一安心と言ったところだろうが。
申し訳ないが、あまり期待されても困る。
最初に言っておくべきか、と雅は釘を刺しておいた。
「月森さん。まず言っておきたいんだけど、過度な期待はしないでほしい。スターダスト・ブロッサムと言えば、昔はアイドル事務所として名を馳せたけど、今はこの有様だから」
雅が空っぽの事務所に手を向ける。
これを見て期待するほうが難しいかもしれないが、念のためだ。
桜子は、こくこくと頷いている。
「もし見限りたくなったら、すぐに言ってくれて構わないから」
むしろ、さっさと見限ってくれたほうが助かる。
よその事務所に声を掛けられたら、そのまま移籍してほしいくらいだ。
けれど、その願いは通じていないようで、桜子は少し前のめりに返事をする。
「わ、わかりました……っ。よろしくお願いします、雅さん、安心院さんっ」
それにきょとんとしてしまう。
アメリカなら下の名前で呼ぶことは珍しくないが、こちらではあまりないのではないだろうか。
困惑していると、安心院から肘でつつかれる。
「雅さん。大事なことを忘れています。我々、自己紹介をしていません」
「あっ。……そういうことでしたか」
「おかしなところで抜けているのは、父親譲りですね」
安心院は本当に柔らかな笑顔でそう言う。今までの比ではないやさしい笑みは、思わずドキリとしてしまうほど。
けれど雅にとって、父親の遺伝はあまり嬉しい情報ではない。
それは安心院も気付いたらしく、すぐに真顔で「失礼しました」と続けた。
今さら間抜けではあるものの、雅と安心院は自己紹介を始める。
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