第7話



 雅自身の人生を捻じ曲げられたのは、この際いい。報酬も用意されていた。


 だが、高校生の女の子の人生をここまで狂わせるなんて、どうかしている。


 どおりでキャリーケースを持っているわけだ、と嫌なタイミングで納得してしまう。


 彼女は、上京してきたのだ。オーディションを合格したから。


 高校も辞めて、アイドルとして生きていくために。 



「…………………………っ」



 まずい。


 まずいまずいまずいまずいまずいまずい。



 雅は口元に手を当てて、ぐるぐると頭を回す。


 このまま、桜子を放り出すわけにはいかなくなった。


 桜子を中卒にして東京に引っ張り出したのは、父親だ。桜子の人生をここまで壊してしまった。このまま地元に返しても、彼女は元の生活には戻れない。



 かといって、彼女はアイドルにはなれない。致命的な欠陥を抱えている。


 ならば、どうすればいい? どうしてあげればいい?


 すがるようにプロフィールに目を落とすと、備考欄に続きの記載があることに気付いた。



『歌 ◎』


「……月森さん、歌、歌えるんですか?」



 ダンスと同じく、隣には動画ファイルが添付されていたが、雅は直接尋ねた。


 さっきまで高校の話をしていたのに、急に歌の話を持ち出され、桜子は面食らったようだ。


 それでも素直に答える。



「あ、は、はい……。歌える、というか……、歌が好きで……。よく歌っていました……」


「今、歌えますか」



 唐突であり、不躾な要求に、桜子は目をぱちぱちさせる。


 けれど、嫌な顔せずに、「はいっ」と立ち上がった。


 何かの試験だとでも思っているのかもしれない。


 桜子は緊張した面持ちで、雅を見下ろす。



「歌はなんでも、いいんでしょうか」


「はい。得意な歌をひとつ、歌って頂けますか」



 雅の真剣な表情に、桜子は頷く。


 桜子は胸に手を当てて、何度か咳払いをして喉を整えていた。


 やがて、ゆっくりと歌い出す。



「――――――――――」



 今日、何度驚いたことだろう。


 彼女の歌は一瞬でこの事務所中に広がっていき、雅たちを呆気に取らせた。


 生み出された歌声はまっすぐ雅たちに伸びていき、自由奔放に外にまで飛び出していく。


 清流を思わせる透明感のある声に、それに反するような力強い歌い方。鳥が空を舞うように軽やかで、それでいて安らぎを覚えるほどに安定していた。音程を丁寧に踏みしめながらも、大胆なアレンジに心を奪われる。



 雅の鼓膜を震わせ、抱き締めるように染み渡っていく。


 思わず目を瞑り、桜子が作る音楽に身を寄せたくなった。


 ここまで綺麗な高音を出せるのか、と雅は目を細める。桜子が拳を握ると、駆け抜けるような勢いと、どっしりした歌い方にため息を吐きそうになる。たったの数十秒で、彼女の歌声に夢中にさせられていた。



 いつの間にか、ぞわっと鳥肌が立っていることに気付く。彼女が上品なビブラートで声を震わせるたび、雅の身体が嬉しそうに反応した。


 瞬く間に時間が過ぎて、桜子は躊躇いがちに口を閉じた。


 歌声の残滓を、ぼんやりと目で追う。深い余韻に、雅は捕らわれていた。


 もっと歌ってよ、と子供のようにねだりたくなるのを、雅は堪える。堪えながら、思う。



 ……逸材だ。


 彼女の歌声は、圧倒的な力を持っている。


 だが。


 ――だが。



「……雅さん」


「……えぇ、わかっています」



 おそらく、安心院は「はしゃぐなよ」と注意してくれたのだ。


 彼女の歌唱力は凄まじい。


 今の歌を聴いて、おっ、と腰を上げるプロデューサーはきっと多い。


 けれど、彼女の志望を思い出し、そろそろと腰を下ろすだろう。



 誤解を恐れずに言えば――、アイドルに歌唱力は必要ない。


 必要なのは、調和だ。


 ソロならともかく、グループの中でぶっちぎりで歌唱力の高い人がいたら、むしろ歌が濁ってしまう。


 もし、桜子がどこかのアイドルグループに入り、歌うことになっても、自己主張は抑えるよう指示される。



 桜子の歌唱力は発揮されない。


 彼女の歌は武器にはならない。


 だからこそ、何度も言われているだろう文言を桜子に向けた。



「月森さん。歌手になってはいかがですか。あなたの歌声と容姿があれば、欲しがる事務所はいくらでもある。お望みになるのなら、わたしが紹介します」



 人によっては、目を輝かせて食いつく提案だ。


 特に、この状況なら。


 けれど、桜子は気落ちしたようにスカートをきゅっと握った。



「いえ、わたしはアイドルになりたいんです……。歌は歌いたいです。でもそれはアイドルとしてであって、歌手としてではありません……」


「なぜ?」



 確固たる理由がなければ、ここまでこだわりはしない。


 雅のまっすぐな質問に、桜子はぽとぽと声を落としていった。



「わたしの両親は……、わたしが子供の頃に事故で亡くなりました。それから親戚の家に預けられて……、楽しいことなんて、なにひとつなくて。でも、テレビでアイドルを見て、少しずつ元気をもらいました……。本当にキラキラしてて、可愛くて……。あんな世界があるんだ、すごいな、って思ったんです。わたしも、その世界に行ってみたい、って……。元気をくれた人たちに、今度はわたしがなりたいって」


「…………」



 意固地になるくらいだ、相応の理由があるとは思ったが。


 桜子が持つ雰囲気に少し影が差しているところも、主張が強いのも納得できる。


 高校を辞めて上京する思い切りのよさも、その親戚の家とやらが無関係とは思えない。


 普通のアイドル志望の子が持つ空気とは、彼女は確かに違っていた。



 彼女は漠然と憧れているわけではない。


 桜子にとって、アイドルになることは悲願なのだ。


 普通の人生を過ごすのが難しくなった彼女が、選択がおそろしく狭まった彼女が、一直線に目指せる世界。そういった理由もあるのだろう。


 歌手でも、いろんな人に勇気を与えられるよ。


 そんな言葉は意味がないし、彼女も何度も言われてきたに違いない。



 わかる。わかるよ。


 桜子はアイドルに心が捕らわれている。


 同じ人間とは思えないほどの圧倒的な輝き、一目見るだけで震えるようなときめき。


 心の昂ぶり。


 他人に凄まじい感情を叩きこめてしまう、アイドルという光。


 桜子は、アイドルの持つ魔性に虜になっている。



「わたしは、アイドルになりたいんです」



 桜子は、雅をまっすぐに見ながら、そう宣言した。


 その瞳は吸い込まれそうなくらいに綺麗で、どんな美しい景色にも敵わない輝きを放っていた。


 しばし、見惚れる。


 雅さん、と安心院に肘でつつかれて、我に返る。


 ふっと息を吐いてから、背もたれに身を寄せた。



 しばらく考え込んでみるが、頭の中に生まれた選択肢は消えてくれない。


 そういう意味では、もう自分は彼女に捕らわれたのかもしれない。


 雅は頭をガリガリと掻いてから、タブレットを机に置いた。


 降参、とばかりにそれを口にする。



「わかりました。月森さんは、うちで面倒を見ましょう」


「本当ですか……っ⁉」


「雅さん」



 雅の返答に、桜子と安心院が同時に立ち上がる。


 片や泣きそうな表情で両手を合わせ、片や信じられない、と見下ろしていた。


 いろいろと言いたいだろう安心院から目を逸らし、桜子に詫びる。



「すみません、月森さん。少し、一服してきます。ここでゆっくりしていてください」


「あ、は、はい。わかりましたっ」



 突然の喫煙宣言に桜子は困惑していたが、健気に元気に返答していた。


 今度は安心院を見て、雅は淡々と伝える。



「安心院さん、一本どうですか」


「……お付き合いしましょう」



 意図が通じた安心院とともに、事務所を出ていく。



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