第2話
指定された住所は、駅から結構離れたオフィス街の真ん中。
人気の少ない道を通っていくと、こぢんまりしたビルが建っている。ほかの建物に挟まれて肩身が狭そうにしており、ビル自体もやや古い。
キラキラした芸能界にアイドルを送り込む、輝かしい事務所のビルとは思えないが、芸能事務所にはよくあること。
アイドルが常駐しているわけでもないし、裏方が仕事をする分には十分だ。
四階建てのビルで、一階に事務所、地下にスタジオがあるようだ。
それをしばらく見上げてから、雅はふっと息を吐く。
日本に帰国し、マンションで引っ越し作業を行い、一度実家にも顔を出してから――、秘書の安心院に指定された日にやってきた。
数日ぶりにスーツを着込んでいるが、やはり落ち着く。肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、メイクで顔を整え、鞄には様々な書類。戦闘態勢で雅はこの場に立っていた。
腕時計で時間を確認してから、ビルの中に入っていく。
中も外観と変わらず、どこか寂れた雰囲気を醸し出している。廊下には人気もなく、やけに静かだった。
そこで、おや、と思う。
今日は金曜日。平日だというのに、人の気配が感じられない。
不思議に思いつつも、簡素な表札が付けられた扉のひとつをノックした。「はい」と返事があったので、扉を開く。
「失礼します。今日からお世話になる、大河内雅で、す……」
「お疲れ様です。はるばる遠いところから来て頂き、感謝いたします」
雅は言葉を失う。
扉を開けた先に立っていたのは、とても綺麗な女性だった。
感情の読めない真っ黒な瞳、きゅっとした真一文字の唇、通った鼻筋。どれもが整っていて、それぞれを引き立たせている。よくできた芸術品のようだった。うなじが見える程度の髪をさらりと流し、白い首筋がやけに色っぽい。
彼女はいわゆる、事務服に身を包んでいた。ブラウスの上に紺のベストを羽織っており、首元には小さなリボン。下はスカートだ。足はそれほど見えていないが、パンプスと相まって女性らしい魅力を感じる。
背は低く、歳も若い。雅より目線が少しばかり下で、年齢も同じように下に見えた。
だが、驚いたのは彼女が綺麗だったからじゃない。
「え、文ちゃん?」
雅はその女性を見て、頓狂な声を上げてしまう。
そして、すぐにその失言を恥じて詫びた。
「……失礼しました。容姿が昔の文ちゃ……、安心院さんそっくりだったので、つい……。安心院さんの娘さんでしょうか」
ゆっくりと首を傾げる彼女に、雅は慌てて言い訳を口にする。
先ほど言葉を失ったのも、昔の知り合いそのままの姿が出てきたからだ。
安心院文は、父である阿久津宗助の秘書。雅も何度か会ったことがある。
無表情で何を考えているかわからない女性だったが、雅を可愛がってくれて、雅もよく懐き、「文ちゃん」と呼んでいた。
何なら、父よりも彼女に懐いていたくらいだ。
離婚してからはさすがに会うことはなく、寂しく思っていたのが、二十年前。
そこに昔見たままの姿で現れたものだから、頭が一気に過去に引き寄せられてしまった。
娘さんにしてもそっくりだ……、と、雅がまじまじ見ていると、彼女は薄く微笑む。
「娘ではなく、安心院文、本人ですよ。お久しぶりです。雅さん、大きくなりましたね」
「は?」
信じられないことを言われ、雅は目が点になる。
確かにそう微笑む姿は年上の慈愛を感じさせるが、本人だって?
「え、ええと。安心院さんって、会うの二十年ぶりくらいなんですけど……。その頃と、見た目が変わってなくないですか……?」
「あら。随分と大人になったように見えましたが、お世辞も覚えたんですね。本気にしてしまいますから、程々にしてください。とにかく中に入ってくださいな」
安心院は二十年前と変わらず飄々とした受け答えをして、踵を返した。
雅は彼女の背中を追いながら、問いかける。
「安心院さんって、今おいくつでしたっけ……」
「女性に年齢を聞くものではないですよ」
しずしずと歩く安心院にぴしゃりと言われるが、その背中はとても年齢を重ねた人のものには見えない。
妖怪か……?
雅は困惑していたが、そこでさらに大きな違和感に気が付く。
安心院の異常に若い見た目に気を取られていたが、それと同じくらい、おかしな光景が広がっていた。
「……?」
事務所内は、それほど広くはない。学校の教室程度の大きさだろう。
事務机がいくつか並んでいるが、そのほとんどは卓上に何も載っていなかった。
壁際には棚があり、印刷機も置いてある。奥には応接間らしき空間があるが、仕切りがあって詳細は見えない。
さらに奥には別の部屋があり、給湯室も確認できる。
それほど変哲のない、ごく普通の事務所の光景と言える。いくら芸能事務所と言えど、こんなものだ。
ただ、不審なことがある。
「だれも、いない?」
人の姿がないのだ。
この空間には、雅と安心院のふたりしかいない。
芸能事務所に所属タレントが常にいるわけではないし、マネージャーだって外に出ていることは多い。
だが、デスクは会社にいることがほとんどだし、ここまで席が空いているのは不自然と言えた。
なにより、綺麗に片付けられている事務机がほとんどだ。
引っ越しでもするのか、と思える光景である。
人の気配がないだけでなく、会社としての温度が感じられない。
ここで毎日、だれかが仕事をしているという空気が全くないのだ。
「あの。今日は、ほかの方は」
そばに立つ安心院に尋ねる。
何かしらの事情があって出社しておらず、安心院だけが雅の対応のために出てきたのかもしれない。
そう思って彼女に尋ねたが、安心院はゆっくりと首を振った。
「ほかの者はおりません。この会社に残っている社員は、わたしだけです」
「……は?」
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