夜のモーニング(後)

「あたしは久々利ゆい。K大文学部の二年生」


 緑メッシュの女の子はテーブルに学生証を出してみせた。たしかにうちの学校の学生証で、右半分には彼女の顔写真が載っている。

 友達は早々に帰り、ふたりきりになったところで彼女に談話スペースに引っ張ってこられた。暦のうえではもう秋真っ最中だというのに窓に差し込む日差しはまだ鋭い。患者が面会にきた人と話したり、暇を持て余した患者のじいさまばあさまが駄弁ったりする場所だが、今この場所には誰もいなかった。


「あたしの事覚えてる?」

「はえー……」


 僕はハイともイイエともつかない吐息を漏らし、久々利さんから視線をそらした。

 彼女は僕の夢に出てきたメイドさんそっくりだ。あれは確かに夢で、現実で彼女と会った事は一度もない。僕の妄想の産物がなぜ現実に出てきて、同じ学校に通っていて、しかも僕の彼女なんて思われているんだろう。


「こっち向きなよ。命の恩人に向かって失礼じゃない?」


 現実逃避しかけた僕に白い手が伸びる。両手で頭を挟まれ、思った以上に強い力で正面を向かされると、いたずらっぽい笑みが僕を迎えた。


「アカペラサークルの人に平野くんの様子見に行けって連絡したの、あたしだよ」

「は?」

「平野くんと知り合いだった? って訊かれて、つい彼女ってことにしちゃった」

「は??」


 頭がついていかない。

 僕はアパートの自室で頭をぶつけて気絶した。もちろん部屋の中から鍵をかけていたし、管理会社とか県外に住む親くらいしか合鍵を持っていない。なのに初対面の女子が僕の異変を察知してサークルの知り合いに連絡したというのは--


「ストーカー?」


 思わず椅子を引いた僕を見て、久々利さんはぐったりと肩を落とした。


「……うちの店に来たの覚えてない? それか夢でも見たと思ってる?」

「夢っていうか……うん、夢の中で変な喫茶店みたいなとこに入って、久々利さんに似た店員さんがいた、けど」

「あんバタートーストセット。赤だし味噌汁とヨーグルト食べ損ねたんだよね」


 久々利さんは眉をへにゃりと下げて僕を見た。


「夢じゃないんだよ。平野くんは幽体離脱して、魂だけうちに来たの」


 いわく。

 あの喫茶店は『人ならざるもの』の憩いの場で、普通の人間には知覚さえできない。生きた人間であの店にたどり着けるのは霊能力を持つ人や死に近づいた人。

 頭をぶつけたはずみで幽体離脱しかけた僕は自分が魂だけだなんて気づかないままバイト先をうろついた末に店にたどり着いたとのこと。


「あたしとおねえは霊能力のあるほうね。おねえの彼氏が吸血鬼でさ、人間じゃなくなってからも地元みたいなモーニング食べたがってたのがきっかけで夜のモーニング始めたわけ」


 久々利さんはそこまで言って、両手でなにかを脇に置くようなしぐさをした。


「ま、今の全部冗談だと思っていいよ。あたしがここに来たのは口裏合わせのためだし」

「口裏合わせ」

「緊急時とはいえ付き合ってるって言っちゃったもん。本当に彼女とか彼氏いたら迷惑じゃん? あたしがアタックしてお試しで付き合ってみたけどすぐ別れたって、そういう事にしよ」


 笑みを貼り付けて早口でまくしたて、僕の答えを待たずに立ち上がる。そうして彼女はもう用は済んだとばかりに--あるいは何かから逃げるように、談話室を去っていった。

 つるつるとした白いテーブルに影が落ちる。窓の外では街路樹の葉が揺らぎ、重苦しい雲が見る間に太陽を覆い隠していく。通り雨でも来るのかもしれない。



 臨死体験も入院なんて非日常も過ぎ去ってみれば居眠り中の夢みたいなもの。アパートのドアを開けたとたんに現実がなだれ込んでくる。

 洗濯機の中でくしゃくしゃに丸まった洗濯物。保存容器に入れようと思っていた、鍋の中のカレー。進捗率五割のレポート。

 シワだらけのシャツが西日に照らされるのを横目にパソコンを開き、レンジであっためたカレーを掻きこみ、まだ痛んでいなかったと安堵の息をつく。

 そうしてやっと僕は現実に戻ってきた。

 入院したけど大したことない、親の離婚なんていってもそうそう環境が変わるわけじゃない。『過ぎ去ったこと』として過去に置き去りにして、たまに思い出して笑い話にできる。

 激安だったルーはちょっと僕には辛すぎたみたいだから、冷蔵庫からヨーグルトを取ってきて舌を休憩させる。200グラムの紙パックに直にスプーンを突っ込むスタイルだ。あの喫茶店で食べ損ねた小鉢のヨーグルトより見た目もきっと味も雑だけどそれでいいんだ。

 久々利さん、は。

 ちょっと電波な女の子に電波な事を言われた挙げ句一方的に振られたみたいな、スルーして忘れる一択のアクシデントだ。

 だけど。


『冗談だと思っていいよ』


 信じてもらえないと分かっているのにわざわざ、僕に迷惑をかけないようにと、荒唐無稽な話をしに来た彼女の笑顔が頭から離れてくれなかった。


 僕の通う大学は山の上にある。

 麓のバス停の行列を尻目に自転車を走らせ、講義を受けてサークルに顔を出してバイトにも行って、数日。


「興味ないって言ってるんですけど?」


 とげとげしい声が僕の耳に突き刺さった。

 駐輪場の狭い空きスペースになんとか自転車をねじ込もうとしていた僕は、その声につられて振り返った

 落ち葉を蹴散らす蛍光色のスニーカー。苛立ちをあらわすように大きく振られるシャツワンピースの袖。足早に歩く久々利さんの後ろから、茶髪の男が長身の背を丸めてついてくる。


「そんなこと言わないでよー。ね?」


 目元が隠れそうで隠れない長い前髪やこざっぱりとした服装、視線を合わせようと背を丸めたしぐさがどこか人懐こい大型犬を連想させる。あたりを見回すものの『飼い主』の姿は見当たらなくて、僕はそっと物陰に移動した。

 ウチのサークルの有名人、更井先輩。

 女の子と遊ぶのが生き甲斐みたいな人で暇さえあればナンパしているとかなんとか。真面目が服を着て歩いているような木庭先輩にガチ目に叱られているのが日常風景と化している。

 そんな人がよりによって、久々利さんにちょっかいを。

 腹の奥にもやっとしたものが沸き上がる。ほぼ初対面の他人みたいな電波女子がチャラい先輩とどうなろうが僕には関係ないのに、僕はその場から動けない。


「嫌です興味ないです」

「平野とはお試し交際して、すぐ別れたんでしょ? だったら俺とも試しに付き合って?」

「うるさい」


 どれだけ塩対応されてもめげない大型犬。きゅんきゅん鳴きながら後をついてくるのが可愛いと一部界隈では人気らしいが、久々利さんには刺さらない。

 更井先輩はしきりに『お試し』『お試し』と繰り返す。

 ひょっとして。

 僕との口裏合わせのせいでこの先輩は彼女を『遊びで付き合える子』だと思ったんだろうか。

 紅葉が日差しを跳ね返してきらめく。

 気づくと僕は大股で前に出て、久々利さんの腕を取っていた。


「あのー、すいません先輩。なんか誤解があるみたいで」


 ふたりのキョトンとした視線が僕に集中する。今さらだけどこの後どうしたらいいか分からなくて、ぎゅうと心臓が縮み上がった。


「平野、別れたんじゃなかった?」

「そうですけどそうじゃなくて……」


 関わらないほうがいい。僕の知ったことじゃない。

 でも久々利さんは僕を心配してくれて、僕の迷惑を解除するために嘘をついた。

 付き合うつもりなんてないけど、彼氏彼女とかよく分からないけど、知らん顔するのは気分が悪い。


「い、いきなり彼女じゃなくて、友達から始めようって事にしたんです! なので僕と約束があるからだめ、です!」


 吹き抜ける風は冬が近いと教えてくれる。どこかでホイールが風車のように回り、きりきりからからと音を立てている。更井先輩はぽかんと口を開けて、それから腹を抱えて笑い出した。


「あはははは! それじゃしょーがないな、ごゆっくり! またいつかデートしてねゆいちゃん」


 先輩は目尻に涙さえ浮かべて、よろめきながら去っていく。

 残された僕らの間を落ち葉が舞う。今さらながら火照ってきた頬を冷たい秋風が引っかいていく。

 あの先輩が子どもみたいな言い訳で引き下がるなんて思わなかったし、自分が口走った台詞が恥ずかしすぎて正直ダッシュで逃げたい。


「……約束?」


 ぽつりと呟いた久々利さんをまともに見る事ができない。僕は自分の爪先に向けて言い訳を重ねようとするけれど頭の中が真っ白になってしまう。


「平野くん。今日、何限まで?」

「二限」

「あたしも。じゃあ十二時半に食堂ね」


 へへ、と気の抜けた笑い声。

 顔をあげると、頬を染めて笑う久々利さんと目があった。


「友達だもんね。そういうことでいいんだよね」


 僕はきっと大バカだ。関わらないほうがいいと分かっているのに、目の前の女の子が大切な宝物を抱きしめるように『友達』という言葉を口にする、たったそれだけで理性的な判断ってやつを投げ捨ててしまえるんだから。

 僕はおずおずとスマホを差し出す。


「一応……連絡先交換、しとこっか」

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