カフェ・ハイヌウェレへようこそ
戸波ミナト
夜のモーニング(前)
日付が変わったっていうのにスーツのおっさん達はまだまだ元気だ。ラメ入りドレスのお姉さんを左右に侍らせて談笑するおっさんに背を向け、僕はエプロンを外す。
「お先でーす」
板前さんもおかみさんもすぐそばにいるのに挨拶は返ってこなかった。
裏口を出ると水の匂いがした。僕のバイト先は繁華街の隅っこにある小さな料亭で、主な客層はそこそこ金のあるおじさんとか同伴のおねえさん。店の中はそれなりに騒がしいけれど裏口を出れば世界が一変したみたいに静かで、目の前の川原にしばし心を奪われる。
鼻先を掠める風は冷たい。何か忘れているような気がしたけれどぼんやりした頭ではどうしても思い出せず、僕は川沿いの道を歩き始めた。
赤い提灯を掲げた中華料理屋の前でチャイナ服の女の子が肉まんを売っている。店先に蒸し器を置いて、両手でもて余すようなデカい肉まんをあつあつの状態で出してくれるのだ。スパイスと肉の旨みが鼻先をくすぐるといつもならつい手を出してしまうのに、今日はなぜだか気分が乗らない。客にならない気配を察したのか売り子も僕に声をかけなかった。
アパートまでの道のりがひどく遠い。
空気の冷たさが指先から染み渡り、足もなんだか感覚が鈍い。歩くうちにだんだん灯りが少なくなり、いつの間にか道を照らすのは月あかりと川面だけになっていた。
進学して、家を出て、一人暮らし。
高校を卒業するまではどこか子ども扱いされていたのが大学生になると一度に『大人』に切り替わったような気がする。
二十歳になったから酒も飲めるしサークルの友達と夜中まで遊んでいても咎められない。彼女とかえっちなこととかはまだ全然気配もないけれどたぶんきっと絶対出会いはある。はず。
僕はもう子どもじゃない。
ひとりでも十分楽しんでいける。
足元がおぼつかなくたって。
「……?」
青白く照らされた道にひとつ、あたたかな光が灯った。
墓標めいた雑居ビルの足元にオレンジ色の小さな照明が輝き、古びた木の看板を浮かび上がらせる。
『カフェ ハイヌウェレ』
『モーニングあります』
この時間帯にはあまりにも不似合いな宣伝文句だ。
眉をひそめた僕の前でオレンジ色の光がひとつ、またひとつと増えていく。人感センサーでもついているのか、半地下の入り口に続く階段が僕を導くように照らし出されていく。
その光に誘われて視線を移すと、年期の入った木製の扉に行き当たった。人が出入りする気配もないのにドアベルがちりんと鳴る。
僕はそれこそ光に誘われる蛾のように、ゆっくりと階段を降りていった。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか」
一礼して出迎えてくれたのは僕と同年代の女の子だった。茶色く染めた髪に一房緑のメッシュを入れた――クラシカルな眼鏡メイドさん。小さなピアスがひとつ、アンティークの照明に照らされている。
他に接客している店員はいなかった。四人掛けのテーブル席がひとつ、二人掛けのテーブル席がふたつ、カウンターには丸椅子が四つ。僕以外の客といえばカウンターの一番奥の席に黒いコートの男が掛けているだけ。
赤いビロード張りのソファや飴色のテーブルは古めかしいけれど汚れやシミはなく、カウンター奥の食器も高そうなものばかり。見回せば見回すほど、僕がいるのが場違いなお高いバーである。
「あの僕、お金そんなに持ってないんですけど」
「?」
メイドさんが目をぱちくりさせる。思案は数秒、長いスカートを捌いてテーブル席に歩みより、メニューを持って戻ってきた。
「大丈夫ですよ。うちはぼったくりじゃないんで」
目を通してみると確かに、書かれた品目も値段も普通の喫茶店だった。チャージ料の記載もない。
ひとまず胸をなでおろした弾みでぐうと腹の虫が鳴いた。そういえば昼飯を食べ損ねていたし、バイト先で賄いを食べたかどうかも覚えていない。僕はメイドさんに促されるまま二人がけの席についた。
あらためてメニューを確かめると裏面に『モーニング』の文字が並んでいた。
僕の知っている喫茶店のモーニングとはドリンクを頼むとトーストやサラダが出てくるサービスだ。本家本元の地域だと一日中モーニングサービスをしている喫茶店もあるらしいけれど、基本的には朝食用のサービスだと思う。
深夜営業の喫茶店でモーニングサービスというと変な感じだが、中途半端な空腹を抱えた状態だとちょうどいいかもしれない。トーストセットかおにぎりセット、ちょっと迷ったうえでトーストを注文した。
注文を聞いたメイドさんがカウンターの向こうに行くのをなんとなく眺める。「おねえ……じゃない、店長」という呼び掛けに応じてキッチンから顔を出したのは僕よりひとまわり年上くらいの女の人だった。こちらはブラウスの袖をまくってデニム生地のエプロンをつけた普通の格好だ。店長はメイドさんとなにか言葉を交わし、僕の視線に気づいたのかふわりと笑い掛けてきた。
花が開くような、雲の切れ間から光が差すような、僕の語彙力じゃとうてい表しきれないきれいな笑顔。
目を奪われて、それから見ず知らずの異性をじろじろ見ていた事に気づいて慌ててうつむく。こんなときに限ってスマホ充電中だからうろうろと視線をさ迷わせるしかなかった。
気まずい時間はバターの香りで中断される。
「おまたせしました。ホットミルクティーとトーストセットです」
メイドさんがモーニングセットを置いてくれた。
ティーカップの中で淡い茶色のミルクティーがゆらめく。口に含むとスッキリした香りとわずかな苦味が牛乳の甘さに包み込まれていった。ミルクたっぷりなのは夜に働く人たちの胃を労る気遣いかもしれない。
セットとして出されたのはバターとあんこを乗せたトースト、コールスローサラダ、茶碗蒸し、赤だしの味噌汁、ヨーグルト。バラエティで見た東海地方のモーニングそのものだ。
まずトーストをいただく。
分厚い食パンを半分に切ったものだ。きつね色の表面がざくりといい音をたてて香ばしさが鼻へ抜けていく。染み込んだバターのコクと塩気が口の中に広がり、あんこと混じりあう。舌がうまさで震えるというか、幸せを口一杯に頬張っている感じだ。
コールスローサラダはキャベツがいい感じにドレッシングと馴染んで旨みとシャキシャキ感のバランスがいい。ドレッシングに混じった粒マスタードとコーンが口の中で弾ける食感も好きだ。
こんなふうにじっくり食事を味わうなんていつぶりだろう。自分で作った食事なんて適当すぎて食えればいいの精神だし、だいたい友達と喋りながらかスマホいじりながらの食事になるから、僕のなかにこんなふうに食事そのものと向き合う心があるのに自分でも驚いてしまう。
「おいしそうに食べるね」
くすくすという笑みが降ってきた。
さっきのメイドさん、もといシャツワンピに着替えた女の子が僕の向かいに座る。
「生きてるって感じするっしょ」
そう言って彼女はスマホをいじり始める。どこかで見たような気がするけれど僕に彼女なんていないし、友達にもサークルの仲間にも緑メッシュの女子なんていなかったと思う。ひょっとしてやっぱりここは女の子が接客するような場所なんだろうか。他に店員さんいないけど。
「僕ほんとにそんなにお金ないんですけど」
「いいのいいの。ほら食べな」
メイドさん(元)が手のひらで茶碗蒸しを指し示した。
モーニングといえばゆで卵とか目玉焼きとかのイメージがあるけれど卵料理っていうカテゴリでいうなら茶碗蒸しもありなんだろう。ぷるぷるの茶碗蒸しは木製の匙ですくうとほとんど重さを感じさせない。具材は少なく、口の中で卵の甘味とあつあつの出汁が溢れる。
「これうまいですね」
お冷やでクールダウンするのが惜しいくらい。やけどしそうになったら水を飲み、器が空になったあたりでふと、
「うちの茶碗蒸しは具だくさんだけど味が薄かったな」
そんな言葉を吐いてしまった。
「ふうん?」
「僕K大の二年で……実家は県外なんですけど、母親がたまに茶碗蒸し作るんです。蒸し器とかないから鍋にアルミホイル敷いて」
緑のメッシュがさらりと揺れる。初対面の女子に唐突な自分語りなんて気色悪いにもほどがあるのに、口だけが別の生き物になったように言葉を吐き出していった。
別に不幸な生い立ちなんてない。両親は夫婦共働き、三つ年上の姉は結婚して家を出た、平凡な家庭だと思う。
メッセージアプリで母親から『お父さんと離婚する』と告げられたのは昨日のこと。夫婦仲が悪かったわけでもなく借金や浮気なんかのトラブルとも無縁、子どもが巣だったタイミングでの熟年離婚は今や珍しくないらしい。
僕だってもう大人だ。親の庇護が必要なくなったのだから親の離婚にとやかくいう筋合いはないし、お互い合意のうえなら好きにすればいい。
両親は持ち家を手放してめいめいアパートを借りるという。次に長期休みが来てもあの家には帰れないのかなんて甘ったれた感傷だ。口に出すのも恥ずかしいから飲み込んで飲み込んで、僕は、
「ドジだなぁ」
女の子が笑い、人差し指でテーブル下を指す。つられて覗きこんだ床にはただ僕の足があるのみ。
親指の先が薄くなったグレーの靴下。
靴を履いていない。
「……!」
鈍器で殴られたような激痛に襲われる。頭だ。体をふたつに折って呻く僕の上にのんきな声が降りかかる。
「K大二年の平野侑くん。アカペラサークルの子だね」
「い、医者……!」
初対面の女の子がなんで僕のことを、なんて考える余裕はない。このままではヤバいと本能が告げていた。
アパートで孤独死なんて冗談じゃない。
なんで板前さんもおかみさんも肉まんの売り子も僕を素通りしたのか。どうして賄いを食べた覚えがないのか。
僕は今ワンルームの部屋で意識を失っている。
離婚の知らせを受けて上の空だった僕は食事をするのも面倒だった。午後から講義がないのをいいことに部屋に戻ってレポートを書いて、バイトに出掛けようと立ち上がったらめまいがして――倒れたはずみで頭でも打ったんだろう。
「もう大丈夫」
女の子がそっと頭を撫でてくれる。アパートで倒れたんだから今ここにいるのは幽体離脱した僕だろう。僕に触れられるこの子も、この喫茶店も、死に際に見る夢なんだろうか。
小走りの足音が近づいてきた。足音はひとりぶんなのに増えた声はふたつ。メイドさん(元)と店長さん、それからしわがれた低い声が僕の頭の上を飛び交う。
「この小僧、まだ生きておるのか」
「魂はね。体のほうは間に合う?」
「アカペラサークルに知り合いいるの。その子がアパート行って、救急車呼んだって。今連絡きたわ」
「よかった」
ぼやけた視界の中で店長さんが微笑む。その肩の後ろには白いもやがかかり、老人をかたどった面がもやの中央に浮かんでいる。老人の面がぐるりと向きを変え、カウンターの奥を睨んだ。
「だそうだ。こやつを食うてはならぬ」
「あァ……それは、残念、だ」
ひとことひとこと区切って話すコートの男。その肌は異様に青白く、前歯の犬歯だけが長く長く伸びていた。
――気づけば僕は病院のベッドの上だった。
死ぬかもしれないと思ったけれど運よく貧血と脳震盪で済んだらしい。実家から飛んできた両親にはめちゃくちゃ叱られた。離婚するとかいう割にふたりとも険悪な様子はなく、けれどこれをきっかけによりを戻すでもないらしい。
持ち家を手放してそれぞれアパートを――同じ建物内の別々の部屋を借りて、適度な距離感で暮らすんだそうだ。まじで勝手にしてくれ。
入院といっても一泊程度、離婚といってもご近所さん。いろいろバカらしくなった僕は大部屋でふて寝するしかない。暇潰しでSNSを眺めているとふいに極厚ホットケーキの写真が流れてきた。『腹へった』なんて引用コメントつきで、フォロワーのひとりがグルメアカウントの投稿を拡散したのだ。東海地方のとある喫茶店のモーニングセット、ドリンク代プラス300円で布団みたいなホットケーキの三段重ねが食べられるとか、モーニングセットに茶碗蒸しがつくのは東海地方でも一部だけだとか。
あの店の茶碗蒸しもおいしかったな。
あるはずもない喫茶店を思い出す。
深夜にモーニングを提供する喫茶店、吸血鬼みたいな客、喋るお面。あんなのが実在するはずがない。きっとぶつけたはずみで頭の回線がバグったんだろう。
思い出すのはやさしい手のひら。
足首まで届くクラシカルなメイド服がよく似合うあの子は、僕の妄想の産物だから当たり前なんだけど、僕の人生で出会った女の子の中で一番かわいい。自分の好み直球な美人にメイド服着てもらってよしよししてほしいなんて甘ったれた願望が僕のなかにあると思うと恥ずかしくて死にたくなるけど。
叶うなら、夢の中でいいから、もう一度会いたかった。
「……」
僕はため息ひとつで妄想を追い払い、指の一振りでホットケーキの画像を画面外に追いやった。
扉がノックされ、友達がひょこりと顔を出す。
「平野、出てこい」
そのまま入って来ればいいのに、友達はなぜか覗き見でもするように顔半分だけ出して僕を手招きする。
「なんだよ」
「お前に面会」
「だったら突っ立ってねえで入って来いよ」
「俺じゃねえよバカ裏切り者」
唐突に罵倒された。
僕と同じく年齢イコール彼女いない歴の友達はわざとらしく顔を覆う。
「あんなかわいい彼女がいるなんて聞いてねえ……!」
「は?」
お前まで頭打ったのか、とは言えなかった。
扉の隙間から友達の頭が消え、いっぱいに開かれた扉から小柄な少女が入ってきた。
前髪の一房を緑に染めた茶髪。シンプルなTシャツとジーンズの上にシャツワンピースを羽織り、細いフレームの眼鏡をかけた、僕が出会った女の子のなかで一番かわいい子が。
「元気そうだね。平野くん」
腹立つくらいきれいな笑顔でそう言った。
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