その4

 もう何がどうなっても良かった。顔に波が当たり、次の波で私は水中に引きずり込まれた。波にもまれ右に左に体が流されたが、不思議と苦しいとは思わなかった。

 私は静かに目を閉じた。圧倒的な水に包まれてすべてが無になると思えた時、どこからか声が聞こえた。いつ聞いたか、どこで聞いたかも思い出せないけれど、たしかに聞き覚えのある声だ。


「約束を守ってくれたんだね」


 その声で、私はあの日のことをまざまざと思い出した。十年前のあの日、萎びていく浮き輪が私の重さに耐えられなくなり、私の体はするりと海に沈んだ。遠のく意識の中で、誰かが私に話しかけた。


「泳げないの?」

「おぼれてるの?」

「助けてほしい?」

「また会いに来てくれるって約束するなら助けてあげる」

「クジラの国で会いましょう」

 その言葉と同時に、私の体は何かに押し上げられた。海面がゆらゆらと揺れるのが綺麗だった。次に気づいたときは病院で、母が声を上げて泣いたのを覚えている。


「あのとき助けてくれたんだね、ありがとう」

 私は姿が見えない存在にお礼を言った。

「約束を守ってくれたね」

「今日も溺れてるの?」

「助けてほしい?」


 今はわかる。これは海の生き物の声だ。たくさんの声が私を救おうとしてくれている。


「私もみんなの仲間になりたいな」


「仲間?」

「仲間になるの?」

「でも、泳げないんでしょ?」

「泳げないの?」

「泳げないんだ」

「泳げないと一緒に行けないよ」

「行けないねえ」

「じゃあ無理だよね」

「泳げるようになったらまた来てよ」

「そしたら一緒に行けるよ」

「約束だよ」

「また来てね」


 声が聞こえなくなるのと同時に、私の体は上昇し始めた。今日も水面はきらきらと揺らいでいる。綺麗だなあと私は思った。私はいつだってここに戻ってきていいんだ。それなら、私の人生はそんなに悪くない。


「また、クジラの国で会いましょう」

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クジラの国で会いましょう いとうみこと @Ito-Mikoto

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