その2

 最寄りの駅を降りると、海は見えないものの既に潮の香りが漂っていた。これも意外だったのだが、不思議と恐怖心はなかった。それは海が見えた時も同じで、怖いというより、むしろ懐かしいような気持ちになって自分でも驚いた。


 目的の海の家は派手な装飾のいかにも若者向けの店だった。店先で出迎えてくれるという話だったが、少し早かったのか人影はない。私はベンチに座ると改めて海を見渡した。あれ程嫌悪していたはずの海は、私の目の前に悠然と広がって私を歓迎しているようにさえ見えた。ただ店の入り口に並ぶ貸し出し用の浮き輪を見た時だけは、体が小さく震えた。


「もしかして、ユミちゃん?」


 不意に声を掛けられて立ち上がると、背後によれたタンクトップと短パンを着た茶髪の男が立っていた。とても客商売とは思えぬ身なりだが、その端正な顔立ちと引き締まった体つきは芸能人かと思うほどで、想像していたイケメンの遥か上をいった。とてもじゃないが中学からずっと女子校の私には刺激が強過ぎだ。私は全力で真顔を作って頭を下げた。


「は、はい、はじめまして、飯塚由実です。今日から一週間よろしくお願いします」

「事情は聞いたよ。急で悪かったね。俺は羽田陸斗はたりくと、プロのサーファー目指してて、夏はここの雇われ店長してるんだ。よろしくね」


 見た目と違って、彼は落ち着いた大人の口調で話す人だった。その甘い声と整った顔を思い切りしわくちゃにして笑った顔に、私のハートはあっけなく射抜かれてしまった。

「じゃ、早速仕事について説明するからこっち来て」


 昼近くになると客が押し寄せてきた。案の定彼目当ての女性客が多く、あちこちで写真をねだられている。清潔感のあるシャツとジーンズに着替え髪を整えた彼は、時折黄色い歓声に包まれていた。私はと言えば、指示されるまま右往左往して、あっという間に一日が過ぎた。自分で言うのは悲しいが、全く役に立たなかったというのが正しい評価だ。自分で選んだ仕事じゃないとはいえ、さすがに落ち込んだ。


 灯りが落ちた店先で呆然と座り込んでいると、彼が向かいの席に座った。手には焼きそばとコーラが載った盆を持っている。

「お昼ろくに食べてないでしょ? 一緒に食べよう」

 私に向けられる笑顔は、昼間の女子たちに見せていた顔よりも随分と優しく感じた。

「すみません、私、全然使えなくて、却って足手まといで……」

「そんなことないって。皿洗いが早くて丁寧だってパートのおばさんが褒めてたよ」

 キラキラな笑顔でそう言われて、私は自分の頬が赤らむのを止められなかった。

「明日はもっとちゃんとやります! 頑張りますっ!」

「うん、わかったから、食べよ?」


 彼の焼きそばは、それまで食べたどんな焼きそばより美味しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る