第2話

         2.五月二六日(金)


 むせかえるような血の匂いが、濃い。

 たえまなくあふれる血流の海を泳いでいるかのようだ。

 もうあれから、五年という歳月が経過している。

 もう五年なのか、まだ五年なのか……。

 あのときのことは、忘れたくても忘れられない。恐怖、というものは不思議と薄れていた。

 恐怖よりも、絶望。

 圧倒的な絶望感に襲われたとき、人は感情を無くすのだ。あのときの自分は、人形だった。

 息をするだけのもの。

 死を待つだけの哀れな存在。

 いや……、存在すらしていなかったのかもしれない。

 魂の抜けた、ただの「いれもの」。

 なぜ、自分だけが助かったのか。

 あのとき……どうして、みんなといっしょに死ななかったのか……。

「ひより? ひより!?」

「──え?」

 吉原ひよりは、その呼びかけで、いやな悪夢から解放された。どうせ、またすぐに繰り返されるのだろうが……。

「どうしたの? 悩み事?」

 ううん──と、ひよりは首を横に振る。

 親友の夏美は、素朴にこちらをみつめている。

 キャンパス内の庭園は、日差しを浴びて平穏に輝いていた。大きな木の下にあるベンチに、ひよりと夏美は腰掛けている。日陰にさえいれば、心地の良い暑さだ。

「恋の悩みとかじゃない?」

 好奇心をたたえて、夏美は会話を続けようとする。

「そんなんじゃないって……」

 ひよりの気分は晴れない。

 その理由を夏美は知らない。知っている人間は、この大学の生徒にはいない。職員のなかでも、学長をはじめとした、ごく数人しか。

 知らないほうがいい。世間からは、もうとっくに忘れ去られた事件。いまでもたまに、ニュースで取り上げられることはある。だが、そこから自分が事件の関係者──被害者であることはわからないようになっている。一般の視聴者にとっても、あのおぞましい事件の唯一の生き残りのことなど、興味はないはずだ。

「なんか、顔色悪いね。体調崩してる?」

「ちょっと、イヤなこと思い出しちゃっただけ……」

 力なく、ひよりは応えた。

 突然、フラッシュバックを起こす。

 PTSD。医者は、簡単にその病名を告げる。

 極度のストレスを受けた記憶が、いつまでも心の傷となって残っているのだと。選択的セロトニン再吸収阻害薬(SSRI)の処方などによる対処療法や精神生理学的治療(EMDR)による症状の軽減は可能だが、根本的な特効薬はなく、時間が解決してくれるまで待つしかない。よく耳にする病名だが、ファッション感覚でつけられたようで、ひよりは好きになれなかった。

「ときどきあるよね、ひよりが元気なくなるの」

「そうかなぁ」

 そのとおりだと思いながら、ひよりは曖昧に受け流そうとした。

 知られたくなかった。PTSDのことも、心の傷のことも、暗い暗い過去のことも。

「そうそう、あれ、忘れてないよね?」

 幸運なことに、夏美のほうから話題を変えてくれた。

「え? なに?」

「サッカーよ、サッカー。せっかく手に入れたチケットなんだから、絶対行くからね!」

 ひよりは、サッカーに興味があるわけではない。海外の有名なリーグに所属するチームが、日本に来て公式戦をおこなうのだそうだ。国外で公式戦をおこなうことは、伝統あるリーグでも初のことらしく、チケットはプレミアがついているらしい。

 夏美にもサッカー観戦の趣味はなかったはずたが、どこかでチケットをもらったようで、だいぶまえから誘われていた。

「もうリーグの優勝は決まっちゃってるみたいなんだけど、それでも生で観れることはすごいことなのよ!」

 知ったかぶりするところは、夏美の悪い癖だ。

「日本のJリーグは、三月から十二月までなんだけど、ほとんどの海外リーグは、八月にはじまって五月までなのよ。まあ、今回は日本に来る都合上、六月まで予定がずれこんじゃったみたいなんだけど。うちらが行くのは最終戦。チョー貴重なんだから。普通、シーズンオフになってから海外遠征はするものなのよ」

「ふーん」

「ねえ、どうして日本に来るか知ってる?」

 その理由ぐらいは、ひよりにもわかる。昨年加入した日本人選手の活躍により、日本からの観戦者が増えているという。リーグとして、もっと日本に売り込み、さらなるジャパンマネーを獲得しようという戦略なのだ。

「その話は、今度ゆっくり──」

「ん? だれだろ、あれ?」

 ひよりの希望が神様に通じたのか、夏美の関心はすでに移っていた。

 だれかが、こちらめがけてやって来る。

 行き交う学生たちのなかにあって、その人物はどこか異彩を放っていた。

 スーツ姿。教授や講師、学校の事務員ではない。もっと硬質の雰囲気が漂っている。

「あんな人いたっけ?」

「さあ」

「なんか、イケてない?」

 夏美のストライクゾーンは広いから、どこまで本気で言っているのか判断できない。

 近づいてくるにつれ、その男性の細かな容姿までが明確になる。

 肌の色は白く、あきらかな文化系だ。年齢は二十代後半ぐらい。鼻筋は通っていて、輪郭もシャープだ。全体的に理知的で冷淡な印象をあたえるが、瞳だけがやさしげで、どこか気弱な雰囲気もあわせもっている。

 まるで、自分たちがいま座っているベンチに来ることが目的のように、歩を進めている。日差しのなかは暑いはずなのに涼しげに見えるのは、男性のイメージがそう感じさせるからか。

「知ってる人?」

 ひよりは慌てて、身振りで否定する。

 しかしそれに反して、男性はベンチの前で止まった。

「吉原ひよりさん、ですよね?」

「だれですか?」

「ぼくの名前は、桑島です」

「桑島……さん?」

 やはり聞いたことのない名前だ。

「なんだ、やっぱ知り合いなんじゃん! 紹介してよ!」

 喜々として夏美は言った。男のことになると、とても無邪気だ。

「知らないって……」

「あ、ぼくはね、寮の管理を任されている会社の人間なんです」

「? 管理会社の人?」

 たしかに、ひよりは大学の寮に入っている。が、その寮がどういうふうに運営されているのかなんて考えたこともなかった。

「それで、わたしにどんな……」

「ちょっと話を聞かせてもらえないかと思って。住み心地ですとか、ここが不便だとか、なんでもいいので」

 そこまで説明して、管理会社の桑島と名乗る男性は、微笑んだ。ゆるやかな流水のように、冷たさとやわらかさが同居する笑みだった。

「は、はあ……」

 ひよりは、承諾するような、困ったような……そんな、どちらともとれる返事しかできなかった。そもそも管理会社の人が、わざわざ大学まで話を聞きにくるだろうか。いや、大学の寮なんだから、そのほうが自然かもしれない。

 頭のなかも、まとまりがなかった。

「では、いいですか?」

 桑島という男性は、夏美に視線を合わせた。

「じゃ、じゃあ……わたし、さきに行っとくわ」

 気をきかせた夏美が、立ち上がった。「さきに行く」といっても、教室へ直行するにはまだ早いし、かといって、ほかに足を運ぶべきところもないはずなのだが。

 その去り際、夏美が耳元で囁いた。

「連絡先、聞いといてね」

 まったく……。ひよりは、心のなかだけで、ため息をついた。

 ベンチの周辺には、二人だけしかいなくなった。近くを通りかかる生徒たちはそれなりにいるが、こちらに興味を示すようなことはない。

「となり、いいですか?」

「ど、どうぞ」

 男性も、ベンチに腰をおろした。

「いい天気ですねぇ」

「そ、そうですね」

 どうでもいい会話だと感じたが、口には出せない。

 しばらく、沈黙がおとずれた。

「あ、あの……」

「そうですね、話をしましょうか」

「午後の講義までには……」

「大丈夫ですよ。わかってますから」

「本当に、寮の人なんですか?」

 膨らんでいた疑問が弾けてしまった。聞かずにはいられなかった。正直、男性が会社員のようには思えなかったのだ。

「じつはぼく、こういうものなんです」

 男性は、あるもの出した。これまでに、何度も見たことのあるものだった。

 普通の人にとっては、ドラマのなかでしか眼にすることはないだろう。

 警察手帳。

 開かれたそこには、身分証と記章がかかげられていた。

 すぐにもどされる。

「やっぱり警察関係者が近づくのって、イヤでしょう?」

「……」

 あの事件のことだ。辟易するとともに、この男性を受け入れなければならないという使命感のようなものも存在する。

 きっと自分は一生、警察と関わり合いをもたなければならない──そんな、あきらめにも似た宿命を感じる。たとえ、あの事件が解決しても、それに終わりはこないのではないか……。

 しかし、あのとき刻印された『絶望』よりは、だいぶやさしいものだとも思った。

「刑事さんに見えませんね」

 冷静さをとりもどして、ひよりは言った。覚悟を決めなければ、会話などできない。もう子供ではないのだ。悪夢のなかに足を踏み入れよう。

『精一杯、がんばりなさい』

 いつか、だれかに言われた励ましの言葉だ。だれの言葉だったのかは、不思議と思い出せない。自身を鼓舞するときに、いつも言い聞かせている「おまじない」のようなものだ。

「よく言われるよ」

 それは軽い冗談のように聞こえたが、真実のようにも受け取れた。

 一般の会社員には思えなかったとはいえ、犯人を追い詰める職業の人にしては、迫力が不足している。これまで知り合った警察関係者とはちがっていた。

 これまでの刑事が、みな屈強な猛者だったという意味ではない。むしろ外見は、どこにでもいる会社員のようだったことのほうが多い。警察署よりは、役所にいるほうが似合っていた。が、そういう人たちでも、言葉の端々や話し方、所作のどこかに棘を感じてしまうものだ。

 この男性には、それがない。

 温室育ちの警察官がいるとしたら、この人になるだろう。そんな、つまらないことを考えた。

「強いんですか?」

「強い?」

「ケンカです」

 よほど意外な質問だったのか、男性──桑島刑事は、眉根に皺を寄せていた。

「強く見える?」

「見えません」

 正直に答えた。

「だろうね」

 別段、気分を害したようには感じない。ユーモアのセンスはあるようだ。これも、これまで会った刑事のなかではめずらしい。

「大丈夫なんですか?」

「なにが?」

「犯人に勝てるんですか?」

「大丈夫だよ。ぼくが弱くても、警察官は全国にいっぱいいる。必ず犯人は捕まえる」

 頼りなかったが、その言葉に決意が込められていることはわかった。

 と──、桑島の視線の動きに気がついた。

 左手の甲を見られている。

 いまでは、なにもない。

『絶望』──。 

「知ってるんですね」

 桑島はうなずいた。

 頭の回転は見た目通り、はやいらしい。

「ぼくは、きみの事件しか捜査しない」

「そんな刑事さん、いるんですか?」

「ここにいるよ。きみ専属の捜査官だ」

 ひよりは、それを冗談と受け取った。

「おもしろい」


        * * *


 なんだか、心理テストをされてるみたいだ──桑島は、そう思った。

 この女性──吉原ひよりは、こちらの性格や能力を会話から読み解こうとしている。これまで資料でしかわからなかったが、聡明な女性であろうことは予想がついていた。

 心理分析官の研修も受けている桑島から見ても、彼女は優秀だった。

「桑島さんて、まだ若いですよね」

 それは、経験不足で頼りないですね、という意味が込められている。

「その通り。ぼくは、現場の経験にとぼしい新米捜査員だよ」

 正直に告白した。彼女のように賢い女性には、下手な嘘は逆効果になる。安心させようとして、逆に不安を膨脹させる結果になるのは避けたかった。

「階級は、警視なんですね」

 警察手帳は一瞬、開いただけなのに、それを読み取っている。普通、階級までは気にしないものだ。

「ってことは、キャリアさん?」

 さん付けするところに、まだ少女チックなところが残っているのか。それとも、意識して使ったのだろうか。

 髪は長く、艶のある黒。むしろ、そういうふうに染めているのではないかと思えるほどに鮮烈だ。肌は透き通るように白く、紫外線に仕事をさせていない。桑島自身も色白と言われることは多いが、彼女の透明感は見蕩れてしまうほどだった。

 目鼻だち、唇は、どちらかといえば薄い印象のする造形。最近の美人像は、彫りの深いハーフ顔だが、彼女はそれらとは対極の可愛らしさがある。と同時に、暗い過去があるからだろうか、控えめな落ち着きのある清楚感もかもし出していた。

「よく知ってるね」

 桑島は、本心からそう言った。

「警察との関わりは、長いですから」

 おそらく同世代の女子で警察の階級制度を理解している者は、ほとんどいないはずだ。警官をめざしている女性でも、わかっていないことのほうが多い。

 ノンキャリの場合、警視まで昇格できれば、その人の警官人生は大成功といえるだろう。

 制度的には、警視監まで上がることはできる。しかし、それはほんの一握りであり、そこまで夢を見ているノンキャリアはいない。ちなみに昇級試験があるのは、巡査部長、警部補、警部、警視までで、それ以上は実務の評価──いや、実際には政治的な思惑がからんでくる。つまり個人の能力だけで上がれるのは、警視まで。

 ノンキャリアがそこまで上がるのは、どんなに早くとも三十歳半ば、ほとんどが四十を大きく超えている。

 桑島の年齢で警視というのは、キャリア以外ありえない。

 しかも、キャリアに昇級試験は一切ない。

「管理職なんですよね?」

「ぼくはちがう」

「え?」

 彼女は、素直に驚いたようだ。

 警視なのだから、たしかに普通なら何人かの部下を従えている。警視庁でいえば、管理官の階級が警視だ。警察庁では係長クラスになる。所轄警察署の場合は、何人かどころか、警察署長でもおかしくはない。

「ぼくは、一人。部下も上司もいない」

「でもさっき、仲間が大勢いるようなニュアンスのこと、言ってませんでしたっけ?」

「全国に警察官は『いっぱいいる』と言っただけだよ。べつに、ぼくの部下が、とは言ってない」

「は、はあ……」

 より一層、彼女のこちらを見る眼から、期待感が消えていく。きっと、頼りなさげに映っているのだろう。

「事件のこと、いいかな?」

 ようやく、本題に入った。

「……どうぞ」

「犯人とは、なにかコミュニケーションをとってた?」

「話はしていません」

 彼女は、食いぎみに答えた。いままでに、何度もおこなってきたやり取りなのだろう。だが、桑島の言う意味はちがう。

「言葉ではなく、身振りや表情での会話はしなかった?」

「……」

「どうしたの?」

「覚えてません」

 静かに、彼女はそれだけを口にした。

 十二人すべてではないだろうが、何人かの殺害は目撃している。その彼女に、当時のことを克明に思い出させるのは、残酷というものだ。

「ただ……」

「ただ?」

「一人では……いえ、なんでもありません」

 彼女は、それきり押し黙ってしまった。いまはまだ、これ以上、深く掘り下げるわけにはいかない。もっと、彼女からの信頼を得なければ……。

 自分に、それができるだろうか?

「ごめんね。今日は、もういいよ」

 あえて大学を最初の面会場所に選んだのは、恐怖心を薄れさせるためだ。自宅への訪問は閉塞感を生み、恐怖を増幅させてしまう。こういう開けた場所であれば、たとえ記憶を鮮明に思い出し、当時の恐ろしさを体感したとしても、気分は晴れやすい。たくさんの人が行き交い、太陽も明るい。

 彼女自身の部屋であれば、そうはいかない。話を聞いた直後は持ち直したとしても、夜一人でいるときに、ふと恐怖を感じてしまったら……。自宅では、逃げようがない。

 だから桑島は、彼女の部屋で事件の話をしようとは考えていなかった。今後も、会うときは外、しかも日中にする。

「じゃあ、ぼくはこれで。午後の講義、がんばってね」

 講義を聞くのに、がんばりは必要ないだろうと感じながらも、桑島はそう言った。

「考古学専攻なんだって?」

 彼女のことなら資料を通して、すべて頭に入っている。

「はい」

「いいよね、歴史ロマンって感じで」

「興味あるんですか?」

「ない」

 キッパリと桑島は答えた。

 彼女が、満面の笑みをみせてくれた。

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