宇宙の向こうと繋ぐ架け橋
ハイド伯爵の家で私は意外と静かな生活を送っていた。
「静か」とはもちろんそのままの意味。だれとも会話することのない生活。この家の使用人たちは、言葉の通じない異邦人と話すことはない。
唯一言葉が通じるハイド伯爵とも話す機会がないの。ここに連れられる時に、馬車の中で少し話をしただけ。
「其方の世話其方の名前を一つ残らず明かしなさい」とハイド伯爵は私の向かい側の座席に座っていた。厳しい感じはするけど、昨日よりは優しそうな声だった。
ミドルネームのことかな、と直感した私は「アケミ•エリザベス•ディオリ•ガヴィーナ•エアリーです」と正直に答えた。
ハイド伯爵は私をギロリと睨みながらこめかみをゆっくりと突つき始めた。少し怖い、怒らせた? ハイド伯爵は深々とため息を吐くと「其方はエリザベス•ハイドとする。私の死んだ叔父の娘ということにしておきなさい」と命じた。私はこくっと頷いた。怒っていた原因は平民のくせに名前が長すぎたから?
「エリザベス。これからはガヴィーナと名乗らぬように」とハイド伯爵は言った。
私は緊張して反射的に「はい」と答えた。それから言われた内容に気がついて「なぜですか?」と上目遣いでハイド伯爵をキョトンとしているように見つめた。
冷えた風が馬車のカーテンの隙間から忍び込み私はブルリと震えた。12月6日だか、12月25日だか分からないけど寒い。夕日も沈んだ今、馬車の外は軽くホワイトアウトしている。
✳︎
ハイド伯爵がほとんどこちらに寄り付かなくなってから2ヶ月経ち、3月になった。彼によるとこちらは別邸らしい。
こちらを見て侍女たちがヒソヒソと声を交わし合う。きっと私が傷つくような話をしているのだろう、でも私には言葉が通じないことになっているから問題がない。
侍女の声のトーン、顔色、身振り、相手の反応。それらを見れば何を話しているのかは察しがつく。最初に覚えたのは代名詞や指示語だった。侍女が相手を指差せば「あんた」、あの侍女の上下関係は分かるようになった。自分のスカーフを幸せそうに指差せば「これ」、新品なのだろう。私を指差せば「あのお嬢さん」、わずかに嘲笑う響きが籠っている。
何かを指差してから指差す向きをクイっと変えたら「〜をあっちに持っていって」。このフレーズを覚えてから名詞のレパートリーも増えた。
ピアノで鍛えた耳を、4歳の頃から各国を1人転々とした私の頭を舐めないで。
うん。また何かを話している。
ここは私の部屋なのに何で堂々と長々とおしゃべりをするなんて。舐められたものね〜。
ジェニンナが侍女頭のマーサに何かを報告しているみたい。お腹を摩っている。寒いのかな? 寒いよね。ジェニンナのかおは紅潮している。マーサは驚いているみたい。
『あたし……しました』と、聞き取れた。何したのかは聞き取れなかったけど、何となく分かった。分かっちゃった…………。おめでとう……だよね。
私が生まれた時、喜んでくれた人はどのくらいいたんだろう? 父は? 母は?
婚約者がいたのに駆け落ちして私を産んだ母。母方の実家は、私が生まれたのを契機に母と絶縁した。きっと母は私を誕生を喜ばなかった。喜んでくれる母であれば再婚相手より私を愛して。
父は……分からない。でも喜んでくれる父なら通りすがりの子どもより、娘との未来を優先してくれたはず。
マーサは労るようにジェニンナの肩を撫でて何かを言った。どうせ、おめでとう、とか、体をだいじにしてね、とか言ったんだろうなぁ。
妊娠の知らせを喜び合う彼女たちは、まるで遥か彼方の星々のように輝いている。その光は私には眩しくて眩しくて涙が目がジリジリと焦げる。彼女たちが笑い合う声は、私の耳にまで届いてしまう。私は、どこの星からも弾き出された存在。ぬくもりが欲しくて宇宙を彷徨った末、ただ片隅で「寒い」と感じながらも息をしている。宇宙の片隅とあちらの世界が繋がることはない。
ため息を押し殺し、窓辺で頬杖をついた。雪はまだ止まない。
馬車が来た。ハイド家の馬車だ。私はマーサに身振りで馬車が来たことを伝えると、マーサは慌てて私の身支度を始めた。ハイド伯爵が私を呼んだ時には、私の身支度はすっかり終わっていた。
朱色のドレスで、クリーム色に金縁のウエストリボンがついている。裾はくるぶしまでの長さがあり、袖や裾に段々のフリルがついていて、動くたびにふりふりと揺れる。髪はハーフアップだけどリボンが編み込まれている複雑で私にはマネできない髪型。
突然私が住むことになったものの時間がなかったから、もともと本邸に何枚か置いてあったものをお直しして着ている。伯爵の姉妹のものなのかな。
この別邸での伯爵の私室に通され、優雅に見えるよう伯爵の向かい側のソファに座った。
「其方は本当に何でも似合うな。その髪の色や肌の色合いによく映えるな」と伯爵は珍しく誉めてくれた。
この朱色とダークブロンドの髪は相性がいいのかな?
「ありがとう存じます。閣下におかれましてはいかがお過ごしでしたか?」
「いつも通りだ」と伯爵は首を振り「そのようなことより、其方の春の衣装の仕立ては来週来ることとなった」と話を変えた。
「そうでございますか」と私は笑顔を見せて「閣下、ありがとう存じます」とお礼を言った。
伯爵は微かに眉間に皺を寄せ「そなたは15であるから、春になればようやく丈を伸ばせるな」と謝罪とも取れるようなことを言った。
こっちだと15歳になったら女性は足先まで届くくらい長いドレスを着るらしい。でも屋敷にあったドレスの中で私の体の大きさに合うドレスは少女向けのもの、裾がふくらはぎの中間までものしかなかった。そこで全部のドレスにフリルを足して、見苦しくない程度に裾の長さを調整していた。
「いえ、閣下にはいつもお気遣いいただき、感謝ばかりです」
伯爵は私の目を見た後、こめかみを突き目をキョロキョロと動かした。
「しばらく来られなかったが、困っていることや変わったことはないか?」と尋ねた後、ティーカップを持ち上げた。
困っていることはない。侍女のおしゃべりを止めさせられたら言葉を覚えられなくなるもん。本音を言えば、そろそろ教科書がほしい。そうだ、
「私、こちらの言葉を覚えましたの」
伯爵はティーカップをガチャリと置き「何と言った?」と聞き返した。厳しさより困惑の感情が伝わってくる。
「少しだけですが、こちらの言葉を覚えました」、それから私はにっこりと微笑んでから「あれは花瓶です」と窓辺の花瓶を指差した。「あの花を生けたのはマーサです」
伯爵は愕然としているのか、口がくるみ割り人形のように開いている。次は何を言おうかと、私は部屋を見渡した。マーサが震えている、普段の自身の会話の内容を思い出したのだろう。
ジェニンナは近寄り「閣下、失礼いたします」と伯爵に一声かけてからゆっくりとゴーディラック語で私に尋ねる。「お嬢様、あの花の出来はいかがでごさいますか?」
私は頭の単語帳をパラパラとめくり「春思わせます。知っています。あれ冬の花だと言うこと」とジェニンナと伯爵の両方を見つめながら答えた。興奮に頬が熱くなっている。
伯爵は「其方は……どのようにして覚えたのだ?」と深々とため息を吐き出した。
「ジェニンナたち話からです」と答えながら、接続語が曖昧だなぁと考えた。だからフランス語で続け「私、先生か教科書が欲しいです。おしゃべり好きな女中でも、雑誌でもいいんです。この国の言葉を覚えたいんです」と訴えた。
伯爵は私の隣に移動すると、私の頬をスルリと優しく撫でた。
「其方の努力は素晴らしい。賞賛に値する。だが、なぜ言葉を覚えたいのだ? フランス語で十分であほう」
私は首を振った。「フランス語だけだと私が話せるのは閣下だけではありませんか。それだと閣下がいらっしゃらない間、私はひとりぼっちです」
伯爵は考え込むように頭を抱え、高速でこめかみを突き始めた。
それから、伯爵は立ち上がった。私も後を追うように立ち上がる。もう帰る時間のようだ。
伯爵はチュッとチークキスをしてから「1人適任者がいるので遣わそう」と耳元で囁き、立ち去った。「寒いから」とお見送りをさせてくれなかったけど、怒ってる?
あ! 私の方が思いっきり目下なのに! お辞儀しなかった!
✳︎
あれから3日経ち、65歳くらいの女性がやって来た。
伯爵のご尊父の乳母で伯爵の養育係だった、と伯爵からの手紙には書かれていた。
さぞかし、躾に厳しい女性だろう。
カチコチと応接間に向かった。入室すると、初老の女性はゆったりとお辞儀をした。幾重にもスカーフを巻き、顔を上げると柔らかな青い瞳が微笑んだ。
「お初にお目にかかります」柔らかで穏やかそうで春の訪れを感じさせる声の持ち主は「私、エリザベス様のお供を務めさせていただきますフリーダ•ド•ローレンスと申します」と名乗った。
柔らかな雰囲気の人。
私は雰囲気壊さないよう気をつけながら「あの、エリザベス以外の名前で呼|んでいただけますか? ベスとかエルサとか」とお願いした。『エリザベス』だなんて呼ばれると雷を落とされそうでされそうで怖い。
気分を害した様子のないフリーダは「ではエルサ様、とお呼びしますね」と、カチコチだった私を一瞬で解かしてしまった。
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