第3話 亭主は警察官、作蔵

 気がつくと、まだときおり会話は不全状態に陥ることはあっても、そこは実の親子的対処で、言ったような、いやいや聞かなかったような、ともかく脈絡のない会話は成立してるらしい。

 ふと銀市が思いつき、黄色い三角巾を探してきて、わたしの蟲腕を肩から吊るすことになった。吊り下げてみれば、いっぱしの外来外科の患者さんのできあがりだ。

 いっときはどうなるものかとパニクっていたけど、キッチンの食卓に腰掛けると、そのうち〝日常〟という感覚が、のーたーと這い上がってきて、膝の上で一休みかな。そうなると、意味もなく、渋茶が美味しい。

 ついでにもうさば、さっきまで銀市が観ていたテレビのモーニングショーは、せせこましい芸能界ネタだった。だから、金と銀は、いかにも兄弟らしく、この手の番組には目がない。

 卓上には、金亀の輪島塗の箸が、十字になって皿に置かれており、齧りたての食パンが生々しくジャムで汚されていた。そういえば、息子は、あれからどうなったんだろう……。

 

 それにしても蟲腕はとにかく重い。だらんと肩から垂れさがっていると、イラついてくる。だからといって食卓のうえに置くと、不気味だし、臭いし、という理由で卓上から撤去命令が下された。銀市には逆らえないものな。きちんと揃えた膝の上に、猫のように置くことにした。腕の重量は五キロのバーベルが四、五本分はあるか。猫ならよかったのに。重さはじんじんと怒りに変換されていった。

「あさりの味噌汁はインスタントだよな」

 銀市が珍しく、わたしのお椀を間違えずに手にしていた。 

 ──猫舌だかんね。

「そんなのすぐに冷めるさ。でも飲めるの? 片手で。左利ひだりききだったらいいのに」

 ──こっち側も昆虫にしたほうがよかったか。(左手を振ってみせる)

「バぁカ。顔はすでに昆虫顔だし」

 ──そういえば、昔さ、カマキリ夫人ってエロ映画があってさ。

「なにそれ。どこがエロいのかわかんない。オスを頭からガキガキ食べるんだったらホラー映画じゃん。そこにバッタ男がバイクに乗って現れて、色恋沙汰になるって?」

 ──あらっ、そういうシーンあったんじゃないの? 

「ばっかばっかしい。それよりさ、朝ごはん食べたら、医者に行くんだよね。またまえみたいに、大ごとになってから慌てないよね」

 大ごとだから慌てたんだろう。

 

 とはいえ、それがどんな事件だったのか、自分で言ったくせに、はて? 出てこない。

 飛んでいった記憶は、手乗り文鳥みたいなもんで、呼んでも、はーいっとばかりに帰ってこない。本当にそんな出来事があったの? 自分で査問委員会でもひらきたくなるほど不安になった。

 そこをしつこく頭のすみっこをつついてみて、おらおら、なんとか出てきたね。 

 

 それは一昨年の「大腸炎とわたし」の小噺エピソードだ。ポリープをカメラで見つけた先生が、きれいにしておきましょうと二つ三つばかり摘出して、なんとか退院に漕ぎつけたが、それでもまだまだ血便が出る。わたしはこれでも女だから、あんまりおっさんに尻を見せたくはない。すると大腸カメラの検査日を先送りにしていた矢先に、便器が真っ赤になった。生理でもあれはないよね。あわてて救急車のお世話になって、専門病院へ担ぎこまれたが、ボリープ摘出の際に出来た傷の快復遅延が原因らしい。延期となった退院までの間、家族には面倒のかけっぱなしで、人一人が生きていることって、簡単なようで、実は奇跡的なんだなと痛感した次第だった。

 

 だが、こうして朝ごはんをスプーンでっこんでいると、わたしには、ある光景が、ふわりと立ち昇るのが見えてきた。その映像は、ちょうど、外科だか内科の医者が、わたしと一度も目を合わせずに、お大事に……と言うところでね。そして彼らはつづけて言うんだ。右腕部切除は検査結果を照らし合わせて考えましょう。紹介状は、いつでもどこでも書きますからね。心配しないでくださいね、と。

 ──あいつら、心配してんのは自分の病院のほうで、患者はあくまでも患者であって、患者以外のなにものでもないんだろう。面倒な患者はスルーしていかないと収益率は悪くなる一方だものね。さりとて「患者を選り好みしている」などとSNSに流れでもしたら、新規外来どころか顧客も目減りするし、営業力なくして医療倫理の出番はないし。

「それともうちで斬り落とすかい、その腕……」

 と銀市がシリアスな医者の声音(こわね)で言いました。

 ──斬るのは容易だが、後遺症は怖いんだよね。

「嘘っぽい経営コンサルタントみたいなこと言ってないで、もうタクシー呼ぶよ」

 ──いやいや、ちょっと待て。医者にも、それなりの説明がいるんじゃないの? 鼻水が出るだの、熱や咳がひどいだの、ありきたりの自覚症状を言わなきゃならんじゃないの。診察室で風邪をひいたとでも言おうものなら、『それは医者が決めることで、患者のあんたが決めることじゃない!』とツバされるのがオチよ。まして、腕が昆虫だよ。それも今朝、目覚めたらだよ。こんなことって今までに聞いたことってある、のう。

「そのまま、嘘偽うそいつわりなきよう、全部しゃべっちゃうの」

 銀市がしれっと言った。

 

 ──信じるかね。


「事実は現実より出でて、現実よりそれっぽいの」

 と銀市は、どこの三文劇で仕入れてきたのか、意味のわからん言葉を並べたよ。その間、スマートフォンのタッチパネルの上を、三本の指が、くねくねと踊っているし。すると、

「あー、こちら墨田丘町二丁目の須貝です。タクシーの小型を一台、お願いします。予約じゃなくて、今です──」

 銀市は、わたしの姿を今一度、荒野の聖人みたように凝視していたね。

「え、はい。その角の家です。電柱にペット霊園の看板が貼りつけてあります。はい、おねがいします」

 で、こっちを向いて、

「あと五分もしたら来るよ。でさあ(指先で、わたしの頭から足元まで示す)それってパジャマだよね。着替えるよね」

 わたしは呑みかけの味噌汁をシンクに捨てて、ネズミのごとく自室へ滑りこみました。着替え、着替え、着替えと三度唱えて、ウオーク・イン・クロゥゼットと呼んでいる押入れから、適当な服を選ぶと、もう外には自動車の停まる音がしたのでした。

 鉄アレイ、じゃなかった蟲腕の重量が邪魔して、支度はなかなかはかどらない。あせる、あせる、あせせる。玄関のドアで物音がする。はぁーいと銀市がどこからか走ってくる。

 でもさ、察するに、タクシーの運ちゃん、かなり気の早い奴だよね。こちらが鍵を開けるまえに、もうドアを開けているんだものさ。

 

──?っ「あれっ」


 銀市の間抜けた声が聞こえた。

 わたしはようやく着替えを済ませて、ふたたび食卓室へもどった。すると銀市の向こうに黒い物体が、揺れ揺れで玄関を上がって来るところだった。

 銀市がそれを見て、反射的にうごいた。キッチンに何かを取りに行ったのだ。

 銀市がいなくなると、その揺れ揺れの物体がよく見えた。同じ背格好の男たち二人だった。

 手前の一体は、息子の金亀で、小指に包帯が盛大に巻かれ、ゴルフボールのように丸くなっていた。

 そしてもう一体の黒い男の方は、ああ──あれは、確か……。

 またもや記憶のブレだ。ハッキリしているくせに、おぼろげなんだ。

 てっとりばやく、数々の男たちの顔写真を、そいつに重ねていくと、ようやく、誰だったのかが判明した。 

 いやいや、もう笑わんでくれ。この男は別居中の亭主なのさ。須貝作蔵すがさくぞうだ。

 御年五十五才、の筈。職業は地方公務員。巡査部長。どこでどうしてこの男と知り合い、一緒に暮らすことになったのか、それはまた追い追い話すとして……実は記憶があまりにも頼りないんだ。ぼけっぱなしなんだ。

 そのうえ、何故かわたしの身体が、緊張してきて仕方がない。なんだこいつ!

 

 作蔵は、寂れた革ジャンじみた顔をしていた。服装はしっかり労務者そのもの。何か意味があるのか、あの紺色の制服ではなかったね。わたしの右腕をチラリと目をやってから、頭をさげて挨拶するのかと思いきや、黒い帽子を派手にとった。いや、それはハンチングでもキャプ帽でもなく、まして黒猫の死骸でもない。あいつの「ヅラ」だった。

 べったりした油染みた帽子のようなヅラさ。むろん、ぷーんっと臭ってきて当然。そこへ銀市が現れた。手慣れた様子で、両手に厚手のタオルを広げる。作蔵は無造作にヅラをタオルの上に置く。銀市はタオルを半分に折り重ねてヅラを隠した。ちょっと懐かしい、別居まえと変わらない我が家のルーチンなんだなこれが。

 ヅラは、このあと消毒と消臭をしなけりゃならず、銀市が、わたしに手渡すということは「おまえがやれ」ということなんでしょうな。


「面倒なことになっちまったな」


 作蔵は木魚じみた頭部に地味な目つきで、わたしの目線を捉えました。そこに何の意味が読めるのか、わたしにはわかりませんが。銀市が、さっきまでとは打って変わって、やけに神妙でした。それは金亀も同じで、小指のゴルフボールを得意げに、クイックイッと動かし見せつけていたのでした。

 わたしはともかく、うんうんとうなずいてやった。

「それでさ──」

 ついわたしはしゃべっていた。むろん、声など口から出やしない。ぶぶぶぅぉぉぉぉんっと過激なオナラが放たれるだけだった。

 

 家族はみな、無言のまま廊下から逃げてしまった。


「またぁ、それ! もうっ、かあさんたら!」

 

 銀市はキッチンの換気扇を回して叫んだ。

「ふんでも臭くないよ」

 

 金亀が心配そうにこちらを見ながら笑いだした。

 

 作蔵は呆れて声はなし。そのまま洗面所へ行ってしまう。わたしは少しばかりしょげてみんなのところへ向かった。

「おとうちゃんに偶然会ったんだ」金亀が小指のゴルフボールを指人形のように動かしてわたしに見せた。「もうこれ痛くないぜ」

「花菱整形で何していたん、おとうちゃん」

 銀市が金亀の小指を睨みつけて言った。

「……いや、会ったのはそことは違う。雷銅通りのスマートボールのまえだ」

「ハァッ? 藤袴ふじばかまのばっちゃんのとこ? だからそこでおとうちゃん何していたん?」

「お父ちゃんは警察官だろっ。言うわけないじゃん」

「だってさ、おとうちゃんはもう半年も家にいなかったんだよ。それが突然現れてスマートボールかいっ。かあさんがあんなことになってんのに。息子が小指落とされたというのに」

「くっついて、ながったんだ、もうそれはいいだろう」

 と、そこへ作蔵が、のっそりと現れた。顔を洗ってきたらしい。わたしの手元に視線を打ちこみ、ヅラの面倒を重ねて頼んでいる。仕事柄、こいつの視線はいつも痛い。そのうえいやらしい。どこがどういやらしいのか、男ってもんはそういう目しか持ってないんだ。

 ──こんなときもヅラの心配かよ。わたしのことはどうでもいいのね!

 わたしが半ば睨んでテレパシーしたけど、夫婦ってもんはそういうものなんだろうね。通じているのかどうなのか、そのへんもわからない。じつはさっきからガチャガチャと意念をぶち込んでやってるんだけど、子供たちみたいに伝わっている気配はまったくない。

「明日、稲田のはこ長……に会うんで、それまでにきれいにしてくれないか」

「ああ。でもさ、タクシーどうしたっけ」

 銀市がスマートフォンをめくりながら言った。

「タコシーって、それ、さっき俺が睨んだやつだろう。拳骨げんこつふって見せたら、へらーと行っちゃったさ」

「家の商売が警察だから嫌ってんのかな」

「切符のゴマカシうまいからな、あいつら」

 と作蔵は空惚そらとぼけて、そのまま食卓の椅子に座ると、テレビのリモコンに手を伸ばす。チャッチャッチャとチャンネルを飛ばしはじめた。わたしの蟲腕に関しては、今ところ昆虫だけに無視か。無視できないように、作蔵の隣の席に座って、これみよがしに食卓に蟲腕を乗せてみた。

 普通の神経の持ち主であれば、無視はできない。黙っておられるはずがない。だが、この男は、それができそうで怖い。いや、実際にそうだ。だから、わたしは左手を使って筆談を強いることにしたのだった。

 新聞の広告の裏に、わたしは書いていった。文字はのたくり……フォントだ。

 

 ──《≪見ての通り、これは昆虫の一部だよね。見えるよね≫》。

 

 作蔵はテレビ画面から瞬間的に視線を卓上に落とし、わたしのなぐり書き文字を見た。


「済まない」


 だけ言って、またテレビへ視線を転じる。

 ちょっ、ちょっと、あまりじゃないの。バカ息子なみに、脳ミソどうかしちゃってんじゃないの? わたしはボールペンを走らせる。

 

  ──《≪あのうう、もしもし。須貝の作蔵さん? あなた、まだわたしの夫よね。戸籍上で家族しているわよね。だったら、それはないでしょ。わたしの腕、右腕、この有様を一体がどう見えるわけ? それとも、いつのまにか、その金壺マナコは、老眼がひどくなっちゃったわけ?≫》

 

 これだけ左手で書いていると、時間のかかること、かかること。

 その間に、作蔵はテレビの前から立ち上がって、冷蔵庫を開けていた。ゆっくりと中を見回している。まさしく鑑識課のまなざしだ。誰の指紋を探しているんだおまえは。

 そこへ銀市が近寄った。おそらく作蔵の好きな、青森産の生乳がないことを告げようとしているのだろう。金亀が全部呑み干したままだよ。で、その長男は、さっきからわたしの書いている文面を読んでいた。読みにくいのか、意味わかんないのか、どっちにしてもムカッとする。

 冷蔵庫の作蔵に筆談の紙(広告の裏)を渡せと、わたしは金亀に下顎で指示を出した。

 紙を差しだして、息子は言い添えた。「お父ちゃん、これ読めってさ。おかあちゃんの腕が変になってんだろう。心配しないの?」

 だが作蔵は一顧だにもせず、広告をひっくり返し、そこにロースハムと粒餡つぶあんのパックを乗せ、くるくると包んでいった。

 これまたムカムカ……!と、わたし。自分の目つきが鋭くなるのを感じた。やばぃ!夫婦喧嘩の前兆だ。

 ぎゅいと握りこぶしをつくって、テーブルをドシンと叩く──そのつもりだった。

「わかった!」作蔵が声をあげた。「わかったから、まず聞け」

 作蔵はあきらかに狼狽していた。幾分か蒼ざめて、わたしの右手を喰い入るように見入っていた。それもそのはずで、わたしは、強く握った右腕が、蟲腕だったことを忘れていた。腕を隠すように包んでいた、黄色の三角巾などもう意味がない。緑色と赤茶色のだんだら模様した、ながさ十五センチはある突起物が飛び出ているのだ……。


「そ、それって何?」銀市が声をつまらせて言う。


「ツノ? 爪? トゲ?」金亀が目を丸くして言う。


棘刺角きょくしかくと言うんだそうだ」作蔵が眉間に皺を寄せて言う。


「えっ、なんて? 」姉と弟が同時に訊いた。


「棘を刺す角という意味らしい。本庁のレクチャーでは棘皮型きょくひがたの武器だと説明があった」


「キケンそう……」

 


 銀市が半歩退がる。金亀は前のめりになって、わたしの右腕を瞠目どうもくする。作蔵は困惑した様子で、ぶつぶつとつぶあんがつぶやいていた。

 わたしは三枚目の広告をめくり、ボールペンで書き殴った。

 

《≪声がちっちゃあいいい!≫》──なに言ってるの、聞こえない。


「済まない。でも、どうしておまえ、しゃべらんのだ。声が出んのか」


「うん、なんか声が、おならみたいになっちゃうのよね」銀市が説明。


「でもそれほど屁は臭くなかった。さっき嗅いだもんな」金亀が補足する。


「そこまで聞いてないな。対象者は利き腕から始まって──あっと、これはもう守秘義務だ。済まない、話してあげられんのだ」


「家族にも?」


 銀市が訴えるような視線で、父親を射る。息子も右ならえで作蔵を見つめた。


「警察官として、一公務員として、しゃべってはいけないことになってるんだ……」


「じゃあ父親として、男として、どうなのよ」銀市の声は震えていた。「おかあさんがこんな身体になっているのよ。おかあさんなのよ、よく見てよ。若い日のおとうさんが、結婚してくれってお願いした人は、この人じゃないの? あなたの、その切ない願いを笑顔でかなえてくれたのは、この女の人じゃないの?」

 

「どこが女の人」だとツッコミがない分だけ幸いだな。でもって、銀市は続けた。

「ねっ……おかあさんがいたから、大切な家族ができたんでしょう。その家族を助けてあげられない男なんて、嘘つきで、サイテーで、まぬけで、それって犯罪者以下の警察官ぢゃないのさ」

 

 作蔵の顔が、しだいに革ジャンから梅干しのようになっていった。

 しばらくのあいだ、わたしは家族たちを見つめていた。

 銀市が妙な角度でいきり立っていたのは、他でもない、作蔵のしでかした過去の浮気が原因しているのだ。きっと彼女は、それまでの父親に対する信頼感が、ズタズタにされて人間の見方を新たにしたんだろう。そのへんは、金亀はどうだったのか、わたしは男をやったことがないので微妙にわからないところはある。でも、まちがいなく、どれも家族だった。どう見ても家族だった。だけど、今、わたしだけが、家族とは思えないし、家族もどう感じているのかよくわからない……。

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蟲とわたし 能生 織成 @tomemono

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