第2話 なんとかならんのわたし
「な、なんとかしてえーーーな、これええっ」
だが実際は、あまりに緊張していたのか、わたしの声は声にならなかった。
そんなわたしにも、クリスマスケーキの補助的装飾みたいな、まったく頼りない家族が存在してはいる。
これを感謝すべきなのか、呪うべきかの判断は、今のところ棚上げだけど、ドアを
「おう、なんか食うもんないか」
だと。母親のわたしがこんなざまで、今にも気絶しかけているというのに、腹が減っただと。それも後で聞いた話しでは、こいつは起きしなに朝飯と称して、昨夜のカレーを二杯たいらげたのだ。いちおう、こいつの名前は
それより、この腕をなんとかしろと怒鳴りながら、わたしは、肩口で突っ立つアーミーナイフを指差したね。
いや、そのつもりだった。
だが、実際は、
「オヴヴヴヴアーーー。おんぐあゔゔあーーー」
と不気味な雑音が轟いていただけであまりした。それも出どころは、わたしの股の下。つまり「ぶー」とか「ぷうー」とか、いやはや、どうもおならのようなのだ。
あらためてわたしは、
「ぶうーぐーぷすーっ」
これにはまいりました。わたしの声は純然たる放屁音になってしまったのですね。早い話が、話すことは屁を
この大珍事(腕は昆虫に変化)と小珍事(音声はおなら……に変化)が、母親の身に起きたことを、はたして金亀は、冷静に、しかも正確に、受け止めることができるのか心配だ。どうもさっきから様子を見ていますが、実に疑わしいんですわ。
だって朝起きて台所に母親はいないし、朝食もいない──でもって文句を言いにドアをあけると、今度は妙な腕をした母親が立ってこちらを睨んでいる。それもよく見ると右の肩口にはアーミーナイフが突っ立っている。ざっと書いただけでも、本人のわたしですら意味不明です。
ですので、こちらをじーっと凝視している息子の大脳が、はたしてどう理解しているのか、これはもう想像できるほうがおかしいってもんでしょ。
そこでわたしは、その現状分析の手助けのつもりで、昆虫の形をした右腕を動かして見せようとした。一見は百聞にしかずでだものな。見ると驚くぞ、こいつ!しかし、蟲腕はまったく動かない。しかたなく、わたしは蟲腕の手らしき部分を左手で押し広げて、ハァーイとばかり振ってみた。すると金亀は、わたしの表情から、奇跡的に意思を汲みとったのだろうね、ハァーイと返してよこした。
こいつ!あほか。
では次に、再びアーミーナイフを取ってくれとジェスチャーすると、ふんふんと合点している様子だよ。
やっぱ、こいつの頭脳はどこか変。でも、これでうまくいくぞ、とわたしは、気安く安堵した。ナイフを抜きやすいように金亀のまえにしゃがんでやると、息子は樹脂製のグリップを両手で握りしめ、一気に抜き取った。
やればできるじゃん、こいつ。
──!いやだ、この子、まったく後ろを注意してないじゃないっ。
しかし、母親の視線は見た。息子のよろっよろっと後退していくその先を!
そのままバックすると、あんた、棚の角におつむを激突しちゃうじゃないの。ぶつかっちゃうじゃないの!転ぶよ、あんたアッ!
わたしは反射的に手を差し伸べました。金亀の後ろを指さしました、見ろと。
だが、もう遅い。息子は絵に描いたように、両手をあげてバンザイしたままひっ転び、中空に放り投げたアーミーナイフが、逆襲とばかりに、金亀めがけて落下してきたのですわっ。
「おおおおっ」──と金亀の長い驚きの声。
その直後、わたしは息子の左手に、生目が吸いついたのでした。
小指の先っちょの形が変だった。まっすぐ平になっているんだ!爪がねえっ、ない!
「あっぎぎぎきっ」
金亀は引きつづき絶叫をあげて中腰になり、鶏のように部屋中をうろうろしはじめした。
──何かを探しているんだこいつ。
そのうち、部屋のすみっこに、それを見つけたらしい。しゃがむと何かを拾ったようだ。よく見えなかったが、小指の先端に、ビタッとそいつを押しつけたところを見ると、切断された指の先端部分なんだろう、きっと。その成果に自己満足したんだな、息子。一度ニッコリと笑みをつくり、くるりと回れ右をした。そして、わたしのハンカチを見つけると指先をくるくるくると包み、
「ぐおおおおおっ」──書かなくてもわかるでしょうが、再び金亀の雄叫び。
長男は床を踏み抜く勢いで、家を飛び出していったのですわ。
ドアぐらい閉めていけ!わたしはドアの把手に左手を伸ばすと、不意に、その手を誰かがつかむではありませんか。むんず、と。
「かあさん、騒がしいんだけど」
ドアの外に忽然と現れたのは、長女の
その銀市が、どうもさっきから、開けっ放しのドアの陰で
「あんたさ、そこでつっ立ってないでともかく座ったら」──と長女は床を指さして、わたしに言った。
冷静の鬼だ! 中央署のクズ巡査そのままの仕草だ!
それもそのはずで、こいつは、れっきとした巡査の娘なんだもんな。そいつが冷静に事態の把握と書類作成についての詳細事項手記と称して、愛用の熊之パーさんというキャラクターの手帳に、ちまちまと何やら書き込んでいるのさ。ついでに、わたしの姿をスケッチしているし。目測による寸法なども書き入れているし。スマートフォンを取り出して、写真撮影慣行へと一挙手一投足に如才はないときた。
どうしてこの娘とあの息子を、わたしは生んだのか、常々不思議に思うところ。これもまた、まだ結論に達しておりませんがね。
わたしの言語による意思伝達機能は失われているようですが、聴覚、というより大脳の機能はそのまま、いや増し増しモードかもしれない。妙に時間に対する相対的感覚というのか、ずれているみたいなんだな。だから、さきの金亀の動きもスローモーションで見えたように感じたのさ。それが証拠に銀市の次に言う言葉が、ばっばっばっと脳裏に浮かんでは弾けるのだな。気泡のように。花火のように。その証拠に、
「あんた、その腕の付け根から吹き出している粘液、それが乾いたところ確認してくれる」
と、銀市は言うはず……で、実際には、二秒ほど遅れて、銀市の言葉は、そっくりリピートしてきました。むろんわたしは即時応答してやったさ。
「ぶーうーーーーーーッ!」
とね。ですから、銀市の声と、わたしのおならは重なって、混濁ユニゾンとなったのだ。
「うっさ。くっさ。ともかく確認して。触るだけでいいって。そしてできれば指先で採取してみて、その体液?」
「うっさ。くっさ。ともかく確認して。触るだけでいいって。そしてできれば指先で採取してみて、その体液?」
この二秒のずれは、間抜け野郎がトイレにしゃがんで、この後どうすんだっけと思案するところを横目で見ている気分だった。気持ちの悪い時差なんだなあ、まったく。そのうえ、「うっせえは」をおならで表現すると、
「ブスブスブゥゥンー」
となっちゃうし。すると、銀市は、
「それ以上屁たれているなら、蹴り、入れるよ」
ここだけは二秒のズレを追い抜いて、銀市の声は走ってきた。つまり普通の会話進行ができたというわけさ。思うに、なにか目まぐるしい変化が、矢継ぎ早に発生しているようなんだわ。腕が昆虫に変貌したんだから、なにか他にも変になったところが出てきても、ここは臨機応変に対処していくしかないけどね。
わたしは、どんなときにも冷静な娘の指図通り、腕の粘液に触ってみたさ。
なるほどなるほど、銀市の考えがわかったような気がしてきたよ。床に垂れた粘液は、すっかり乾いて、指先には付着せず、乾いてしまうと、キラキラと
「ソレハ、金カぁ」
気づくと銀市は、鼻をつまんで、わたしの真ん前にしゃがんでいた。
朝の歯磨きした後なのでしょうね、銀市の吐く
「無理に喋るな。無理に動くな。無理に屁をこくな」
──では、どうせよと言うのだ、娘よ。
すると銀市は変な映画を観てきたせいか、自分の
「こいつは大事件なんだよ、母上殿!」
──!って。何がだよ。いや、そうだな。
話がのたうつように展開していくと、行き先々が心配になってきた。そうです。大事件なんです。腕が腕が、お母さんの腕が、事もあろうに、昆虫になってしまったんです、娘よ。
わずかに涙目になっているのが自分でもわかった。このまま涙が目蓋の土手を這い上がり、
「どうでもいいけど、そのナイフ、なんとかしない?」
──!って。わたしの思考の縦軸と横軸とがずれている。そんな気がしたね。だってさ、ついさっきまで肩口に突き刺さって抜けなかったアーミーナイフがさ、気づくとほらこれ、左手が握っているぢゃん。どうやったのか説明なんかできないけどさ、うっすら想像はできるけどさ、左手は偉いんじゃないの。
「そいつって、親父の署内夏祭りの懸賞品だよね。ほんでも殺人事件の物証だという噂もあるほどよく切れる。その分すげー重いよな。それをどうしようというんだい」
──そう、それはわたしも思っていたよ。右腕が昆虫の腕になってんだから、左利きならいざ知らず、大型ナイフは扱いにくい、とね。そのくせ、さっきから離そうとしないのは何故なんだろうとも考えたけど。
「で、答えは」
──答え? そんな都合よく出てこんよ。わたしの頭は、わたしの腕のことなんか、いちいち責任とれんとヨ。
「だったら、反射だな。反射的な生体反応。そのへんのカラクリなんじゃないの?」
──どういうこと? ねっ、反射というのは、神経系の仕業だと言いたいの?
「そんな難しいことわかんねえよ。ともかくナイフは放せ。わたしは刃物に耐えられるような強靭な皮膚してないから。さっきみたいに指先だけならいいけど」
──えっ、あんた、気づいてる? あんたとわたし今、自然に話してんぢゃあないの? そのなんだ。銀市は、わたしの思ったことがわかるわけ?
「……!」
また銀市の吐く生気が近くなった。無言のまま、おでことおでこをひっつけて、わたしの目を覗き込んでいるのだ。そこに文字でも書いてあるのぅ?と訊きたくなるほど視線が近い。
「ギェッ。どいうこと?」
──展開的には無理はない。物事の変貌はね、一度始まると、連鎖反応的に加速していくんだよ。心と心が対話しているんだよ、きっと。
「そりゃ無理、無理。半分ばけもののオバハンと意思疎通なんか無理。そのうえテレパシーだと言いたいんだろう?でもそんなのはあってはいけないの!」
──おまえ、そんなこと言ったって、現実でしょう、現実。現実よりリアルなことってあるの? ないでしょ。
「めんどうくさああああっ!オバハンって、そういう進化だか、変身だかするんだ。いつも」
──そんなこと知んないよ。進化も変身も今まで関わり合いなかったし。ただ、あんたと金亀を産んだあたりは自己増殖型分裂ていうのかね。へっへっへへ。
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。それ貸しな。危なくてしょうがねえ。金カメの指みたいにわたしの首でもやられたら、それこそ取り返しがつかねえじゃんかよ!」
ガッツんと銀市の左肘カウンターを食らって、なんか知らないけど、日常的な感覚が蘇生したらしい。というより、奇妙奇天烈な出来事がまき散らした異常感覚が、ひょんなことで日常化したといったらいいのか。
ともかく、ようやく反射とやらで固まった蟲腕からも、力が抜けたらしい。バカでかいナイフが床に落ちて突き刺さり、蟲腕もだらんと
ついでにわたしも失神したようだった。二度目だけど……。いや、何度目かの……。
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