蟲とわたし
能生 織成
第1話 わたし、めざめました
なんかむず
そのちょっとまえまで、わたしは夢を見ていたのだと思う。あまりいい夢でないのは確かで、その証拠に、右腕がむず
部屋は薄暗いのだが、もうカーテンの向こうは朝のはず。右腕の具合を見ようと持ち上げたつもりが、まだ腕だけ、夢魔の中に置いてきぼりで反応はない。枕元の灯りを点けて、目の焦点が合ってくるのを待つしかない。
その間にも、むず痒い右腕は、寝ぼけマナコでも、ぼってりと腫れているのがわかる。ただ腫れているだけじゃなかった。肌色もおかしいのね、これが。いや、なんか違う……な。いや、そもそも人の肌色なんかじゃあない! いや、何色というんだ、これ。絵の具のありったけを混ぜちゃったみたいな……いやちがうな。なんていうか、今のわたしには……見当もつかない色だよこいつは。
──っていうか、色なんてどうでもいいんだ、わたしよ!
ここは(カタチだの、形容だの、見てくれだのetc)──そいつがちげえってんだろっ。こいつは! わたしの腕というより、腕とはもうよべねえ代物なんじゃないの、これは!どこかで見覚えのある形状と色合いと雰囲気ではあるけれど、やっぱ、チガウ!とわたしは思うのよ。
ハッとして、わたしは左手の甲で
わたしA──いやいや、それは早トチリってもんでしょっ。
わたしB──わたしはそれを知っているんだよ。それがなんであるのか、よーくわかっているんだよ。
わたしC──でもここは、やっぱ全否定するとこなんだよなあ、よくあることだ、よくあることだってさ。
わたしD──いやいやいやいや、まてまてまてよ、わたし。
わたしE──これは、完璧に、言語道断! 完全却下っ! 満場一致! 即実行でしょう!
わたしF──わたしの右腕がだよ、こ、昆虫の一部であるはずがないだろうがよ。ぜったいに、です!
わたしB──正確には、肩口から先の形状が……。
わたしA、C、E──なんとっ! なんと! なんとな! 肩口から先だとな!
わたしF──それがなんという種類の昆虫の、なんという名前の蟲で、なんという部分か、わかりっこないし。
わたしB──えっ、さっきは知ってるふうに叫んでいたじゃん──それがわっからないって?
わたしたち──えっ、そう? わからないって?
けどさ、見た目がもう昆虫なんだから、ともかく、てっとりばやく、虫になっていたんだ、こいつは。過去形なんだよ。もう終わっちゃたことなんだよ。時間は逆行できるはずないんだよ。だから昆虫以外ってことは難しいんだよ、物理学的にも。医学的にも生物学的にも。それから……。
わたしたち──むし、むし、むし、むし。
そのどう見ても、昆虫の一部にしか見えないわたしの右腕は、せめて以前のように動けば、まだわたしの一部として認知してやれるのだけれど、できたのだけれど、これがひくりとも動かない。
う、う、動かない!
わたしD──いや、かえって動いたほうが、おぞましい。憎らしい。
わたしC──憎らしいっ!
わたしG──はあっはあっと荒い呼吸に、ひたひたひたと流れしたたる焦りの汗。じんじんと震えたるパニックの
わたしH──がくがくがく……と下顎が鳴るなり、がくがくと……。
わたしたち──そういえば、余談ですが、このところH《エッチ》してねえなあ。
ブッ。とわたしは吹き笑いした。それがスイッチしたんでしょうね、ここで気を失ったようだった。悪夢から脱出するのによくつかう常套手段だけど、リスタートしても、残念ながら、悪夢は続行中だった。それでも意識が再立ち上げしたら、それなりの整理整頓が好都合モードでなされていたらしく、パニックの嵐は去っていったんだわな。
えーっ、わたしたちのみなさん、大脳は日常的な働きに戻りつつあるようで、意識の白線から一歩下がって、ご安心くださあい。
まあ、ほんとうのところは、失神したことで、何かを期待していたんでしょうね。「なあんだ夢かァ」と右腕を愛犬のようにナデナデしたかったんでしょうね。でも右腕は蟲の状態。そのまんまだった。
でもって、他人みたいになった大脳が、いつもの機能を取り戻していくと、さっきからドアの向こうで物音がやかましいのに気づいた。
それは食器のふれあう音だと推察したね。そしてそれは、何かの他の衝撃音と連動していることもわかってきたさ。
そいつは足音だ。
しかしなんという力強い足音なんだ、ドスドスドスと。
おまえたち、床を踏み抜く気かいっ!
わたしは、反射的に、ある人物たちの名前を呼ぼうと、息を吸ったさ。でも呼べないんだ。呼ぶより早く、「彼ら」の笑顔が、脳裏を
彼らは、アルバイトの時間に遅れてはまずいんだ。何故って、わたしは彼らの母親。当然のように同居していれば、彼らの朝食や、お弁当の世話や、起床ラッパの役をこなしている。しっかし思うにこの日は、その起床ラッパが鳴らなかった。わたしがこの樣だから、彼らは寝坊に手足を生やして起きてみたりしたんだろう。でもって台所にはいつもの母親の姿はない。朝メシの用意もない。そこで彼らは、健気にも母親不在の台所で、この窮地をなんとかしようとドタバタしてるに違いない……。
そうとわかれば、わたしも母親らしく立ち上がろうと、
うらめしく蟲腕をにらんでやると、相当にまずいんじゃないのォと胃酸がこみ上げてきた。
蟲腕は存在感を一層みなぎらせ、したり顔で、ぐちゅぐちゅと疼いている。いや、その容態だと、きっと腕は疼いているはずなのだ。こんなぐちゅぐちゅしているのに、痛みがないなんて、せめて
迫りくる吐き気を荒い呼吸でやりすごし、広い背中を、ぬるりぬるりと、垂れ流れ落ちる汗が、これまた妙に蟲っぽく、せめてパニック状態だけはごめんとばかり、下顎に拳を撃ち込みつつ、なんとか
そうしたら、下顎は
なんか非日常の出来事が、あたりまえに起きると、破綻してくる日常感覚や、乱れてきた論理思考の面倒は見づらくなってくるよね。そんなときはこれに限る。
ああ、そうだ。笑顔だ。笑うんだよ、こんなときは。辛いときこそ笑えと言うじゃないの。
とはいえ、こんなときに、笑える奴の気が知れない。摘出臓器じみた怖い笑顔で、わたしは、蟲腕を、しげしげと見下ろした。
喰らえ、これがわたしの笑顔だ!
やるせないため息はリアルだったよ。ついで、なげやりの独り言さ。
なんなんの、これはぁぁぁぁ……。
順序が、とっちらかってしまったけど、ようやくわたしは物事の原点に立った気がしたたのね。
いっぱしの社会人として、ここは右腕の観察なんぞをすべきなんでしょうが、なにせ昆虫は嫌いで、知識も情報もなにもないでしょ。人間の腕と比較して、どこがどうなのか、解剖学者でもアルマーニ、まったくわかりっこナイキ。思えば、さっきは動けという命令に、こいつは無反応ダッツンDで、この蟲腕は、わたしの一部ではない可能性が高イーオン。そこで、念のため、もう一度右腕に、「動け」と命じ、つづけて、「じゃんけんのパー」と念じてみたのさ。
すると! おっどろっくじゃねえか。突然、右腕の先端部分に裂け目が現れ、一本、二本、三本とそれは増えていくんさ。その有様がいかにも昆虫らしく──何を指して昆虫らしいのかは不明──どーんっと吐き気が込み上げてきたね。ですが、ここはこらえて、わたしは実験を続行するのさ。腕に向かって、まさにペットに向かって命じるように、右に動けだの、下を向けだのと、穏やかに言ってみたのさ。
しかし結局のところ、さきほどの裂け目は合計四本で終わったようなのさ。これがわたしの命じた〝じゃんけんのパー〟をつくれの命令に則したものか、判断はむずかしいですがね。ではもう一度、パー。
突如として、裂け目が割れ目となり、腕の先端は五つの
見ようによっては、五つの塊が五本の指に似ていなくもない。
とんでもない親近感が腕全体から這い上がってくる感じだったね。自分の腕なのだから当然なんでしょうけど、昆虫の腕に親近感を覚える自分が、今度はおぞましくなってきたのさ。
昔、まだ私が学生だったころ、叔父から妙な話を聞かされたことがあったさ。人体実験で昆虫にされた男の話だったよ。人間のスケールと昆虫のスケールが同一スケールで捉えていること自体が「はあ?」だったけど、男は緑色のバッタにされたのさ。わたしはまずこの話を拝聴していて、人間と昆虫との融合性について深ーく考えさせられたね。どうしてこの悪の科学者は男をバッタにしなければならなかったのか。きっとバッタの驚異的身体機能を、人間の男性に附与したかったのかもしれないけど、それより人間の頭脳をバッタに移植して、知識の共有による世界平和を目論んだほうがよかったのではあるまいか。その証拠に、バッタ男は事もあろうに、バッタ型バイクに乗って、ライダー! と叫ぶのだった。戦艦でもなければジェット戦闘機でもなくて、バイクだった。二輪車という、不安定なくせに、乗ってみると、半ぶっとび状態的に気持ちのいい、機械だったのだ! その後は、人体実験をした悪組織に復讐しようと、暴れまくるから話しはどこへいくのか、いきたいのか。
ライダー! は、バッタになった男がバイクに乗って、復讐しようと戦う?
……喜劇ならそれなりの結末が期待できるんだけど、なんかやたらと湿っぽいのさ。画面の粒子が黒カビのごとく、それは見ていてじーんっと本能的に、無目的に……
そこまで現実逃避のつもりで、昔話を引っかきまわしていたが、もう現実のグロさには勝てない。なんでわたしの腕が昆虫なの!復讐劇をしろってか!誰に。
だからこの驚愕の瞬間、わたしは、バッタに変えられた男の気持ちを、痛切に理解しつつも、吐き気をこらえながら、机の引き出しにしまっていた、アーミーナイフとかいうバカでかいナイフを思い出したのさ。と同時に引っぱりだし、迷うことなく、必然的に、腕の付け根あたりに突き刺したのだよ!
刺した後に、人はいろいろと考えるものらしくて、わたしも御多分に洩れず、自分の大脳が何を考えているのかわからなくなった。でも行動は常に、あとから理屈を付加するというよね。そうさ、グロい蟲腕は切断すればいい。なんと明快で根本的な対応処置ではありませんか。だが切りにくそうだ。硬そうだ。切りにくいのであれば、ナイフの角度を変えればいい。ほうら、ぐいっぐいっと容赦なく。硬いのは外皮だけで、
見事な手さばきと正確さだったね。それがパートの仕事先で、わたしが重宝される
昆虫の接続部分はハッキリしているから、そのへんはわかりやすくてたすかった。たすかったのは、痛みがなかったことだと、あとになってわたしは驚いたけど。昆虫って痛覚はないのかしらん。
五センチは突き刺さったはずの肩口のナイフは、その後、関節のどこかに
──ここで、いくばくかの経過あり。
肩口で、ゆうらりゆうらりと揺れる動く巨大ナイフは、何事もなかったように、わたしを見下ろしているよ。いまではもう、あの滑止めグリップまで左手はとどきません。腕の長さを
またまた笑いが込み上げてきたね。奇術師なら拍手喝采でしょうね。
もう一度ここいらで、気を失ってもいいけど、後片づけが気になって、わたしは開き直ったさ。観察するのだ、もう一度、はじめっからって。観察なくして人類化学なしって。
当然でしょうけど、生物なのだから、なにかしらの体液ぐらいは出るよね。実際わたしの肩の傷口からは、真っ赤な液体ではなく、真っ白いカルピスみたいな体液が流れていたのよ。つまりこれは蟲腕のもので、わたしの赤血球主体のものじゃない。すこしは安堵したね。にゅるにゅるぽとぽとと、白い体液は腕をつたって、床を濡らしはじめていたけど。
しっかし、こいつがなまら……に臭い。刺激臭というのか、爆裂臭というのか、頭の芯まで腐りそうだ。
1、2、3、……!
8秒後、我慢の限界がやってきたね。そうさ、そこでようやくわたしは遅ればせながら、心底から絶叫をあげたんだ。
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