第4話. 積み重なる疑念
セシルとエルナはクロノスに腕を引かれ、視線を下に向けながら崖を離れ、しばらく森の中を歩いていた。
「...」
三人の間には言葉はなく、ただただ重い空間が漂っていた。
すると、クロノスが突然立ち止まった。
セシルはどうしたのだろうと視線を上げる前に、重い沈黙を破るかのように、場違いな陽気な声が響いた。
「よーよー♪ さっきの揺れ凄かったね~。おや、しけた顔しちゃって、何か
その先には、揚々とした態度で立つ男の姿があった。長身で細身の体をウキウキしながら動かし、彼はどこか楽しげにクロノスを眺めていた。
(誰...この人...?)
セシルが心の中でそう思っていると、クロノスに掴まれている手に力が入ったように感じ、思わず彼の顔を見上げた。
「...っ!」
見上げてみるとクロノスの顔には、今まで見たこともないような、険しく睨みつけるような表情が浮かんでいた。
陽気な男に向けられたその視線は、怒りとも敵意とも取れるものであり、セシルは、その迫力に思わず喉を小さくひゅっと音立てる。
そして、それと同時にある違和感が胸をよぎった。
(...あれ?耳が......)
クロノスの耳に違和感を感じ思わず凝視してしまうセシル。
しかし、疑問が膨らむより早く、陽気な声が再び静寂を打ち破った。
「おーこっわーい。クロノス、その顔やめろよ~。流石の僕でもビビるぞ?」
その言葉にセシルは意識を戻し、目の前の男を注視した。
「それより、君たちー。村でのあれ、色々大変だったでしょ、ここまで逃げ出してきて」
ケッケッケッ、と笑う男の無遠慮な態度に、セシルは
すると、エルナが一歩前に出た。
「あなた...一体誰なんですか? あの村での出来事を知っているような口ぶりだなんて...」
すると男は口元を隠すように手で抑えた後、少し落ち着いた声で話し出した。
「僕は、そこに突っ立ってるクロノスの主...と言えばいいかな?」
「...主?」
エルナはその言葉を復唱し、セシルはその単語に首を傾げた。
謎の男は腕を組み、片方の手を伸ばして手のひらを広げながら、軽い調子に戻り言葉を続けた。
「君たちさ、強くなりたくない~?どうかな?」
その目がセシルとエルナをじろじろと眺める。
セシルは男の軽薄な態度にいら立ちを覚え、何を目的にしているのか理解できず、警戒心を隠せなかった。
「...何が目的なんですか」
セシルが低い声で問い詰めるような視線を向けると、男は薄笑いを浮かべてこう言った。
「いやぁ~、今の君たちじゃ、守りたいものも守れないでしょ?」
エルナとセシルは思わず顔を見合わせた。セシルは警戒心を隠せなかったが、エルナの方は何かを期待するような微かな希望を帯びた目でセシルを見つめている。
「ん〜、ダンマリ? まぁいいよ、今すぐ答えなくてもさ。あ、俺のことは”アキラ”って呼んでね〜」
すぐに返事をしない二人を見たアキラは、わざとらしく首を傾けながら軽い口調で自分の名前を告げた。
そして体を後ろに向けたまま、顔だけをこちらに向け、薄い笑みを浮かべながら話し始めた。
「気になるなら好きに付いてきな~。行くぞ、クロノス」
アキラはそう言い放つと、振り返ることもなく勝手に歩き出した。
クロノスは何も言わず、一瞬だけエルナたちの方を見やると、黙ってその後に続いた。
「えっ......クロノス!待ってよ!」
エルナは驚きの声を上げると、セシルの腕をしっかり掴み、置いていかれまいと慌てて彼らの背中を追いかけた。
村も家族も失い、行き場を失った彼女たちは、僅かな希望に
◇◇◇
「いや〜、ちゃんと付いてきてるね。優等生だね~♪」
アキラは足を動かしながら振り返り、セシルたちとの距離感を確認すると、満足げに笑みを浮かべた。
その様子は陽気というより、どこか不気味さを滲ませている。
「...アキラ様、一つ聞きたいことが」
すると、アキラの横に並んだクロノスは声を潜め、後ろのセシルたちには聞こえないほどの小声で話しかけた。
「ん〜?」
「あの二人を......これからどうするつもりなんですか?」
その問いにアキラはわざとらしく考えるそぶりを見せ、にやりと笑った。
「そりゃぁね〜、最初のプラン通りさ。ま、あんたには関係ないことだけどね♪」
アキラは指で空中をかき回すようにクルクルと動かしていた。
その仕草には無意味な軽さがあり、クロノスの表情がさらに硬くなる。
「......」
「それにしてもさぁ――」
アキラが急に声を弾ませた。彼の足取りは軽やかで、口元には笑みが浮かんでいる。
「クロノス、お前どうやってあの二人と合流した時、なんて言い訳したんだよ」
「...果物の匂いを辿ったと」
「ケッケッ、何その嘘。傑作すぎて超受けるんだけど」
アキラは腹を抱えるように笑い声を上げたが、その笑いには明らかに冷たさが混じっていた。
「...」
クロノスは何も言わず、ただ沈黙を貫くが、彼の拳がかすかに震えていた。
「そうそう、それよりさぁ、さっき聞こえてきた悲鳴、最高だったよな。絶望に満ちたあの声......いやぁ、耳に残るわ♪ ねぇ、あれってどっちの声なの?」
アキラの言葉が空気を切り裂くように響く。
その瞬間、クロノスの目がわずかに揺れた。アキラはそれを見逃さず、にやりと笑みを深める。
その表情は獲物を追い詰める捕食者そのものだった。
「……っ」
クロノスの反応を捉えたアキラは、さらに追い打ちをかけるように一歩近づき、低く
「クロノスさ――僕のこと恨みつらみって顔しているけど、お前も同罪だろ?偽善者ぶったところで、今のお前は何も守れてないからね?」
その言葉は刃のように鋭く、アキラはさらに一歩踏み込んだ。
その目には冷たく光る喜びが宿っている。彼の声はまるで耳元で囁く風のように冷酷だった。
「ほらさ、クロノス。お前が何を考えているかなんて、僕にはお見通しだよ――けどな、それで僕を止められると思ってる?」
クロノスの拳がさらに強く握り締められた。その指先は白くなり、震えは全身に伝わっているようだった。
その様子を見たアキラは満足そうに笑い、軽やかな足取りでクロノスを追い越した。
「ほらほら、“契約”しか取り柄のないお前は、せいぜい僕の願いを叶える置物として働けよ。まぁ、頼むぜ~♪」
その言葉にクロノスは足を止め、顔を伏せていた。
アキラはそのまま手を振り、満面の笑みを浮かべながら前方へと歩き去っていく。
その背中からは言葉にできないほどの圧迫感が漂っていた。
「......クロノス? 大丈夫?」
その時、エルナが軽く走り寄り、足を止めていたクロノスの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「あ、あぁ...」
クロノスは絞り出すような声で答えたが、彼の表情は硬いままだった。
◇◇◇
数分前――
エルナがクロノスに駆け寄る少し前、セシルはエルナの少し後ろを歩きながら一人で考え事をしていた。
(クロノス様とあの男...アキラだっけ?何を話してるんだろう...)
クロノスとアキラが小声で何かを話している様子を目の端に捉えながら、セシルは視線を下げ、思索を巡らせていた。
ふと、再びクロノスの耳に視線が向いた。そして、先程から気になっていたことが脳裏をよぎる。
(クロノス様の耳...尖っているんだよね...)
その特徴は明らかに人間のものではなかった。
セシルは歩調を崩さぬよう注意しながら、顎に手を当てて考え込んだ。
(クロノス様って、自分が他種族だって言ってたっけ...)
過去の会話を思い出しつつ、世に知られる種族の特徴を一つずつ当てはめていた。
ふと、エルフ族の可能性が頭をよぎった。
(たしか、エルフ族には尖った耳の特徴があるし、高貴なイメージも強い。クロノス様の服装とも合致している......でも――)
「あれ、クロノス、急に止まってどうしたんだろう?」
エルナが小さく呟いた声がセシルの耳に届く。
彼女は一瞬セシルの方を振り返り、目線を送った後すぐにクロノスの元へ走って行った。
エルナとクロノスが並んで歩く姿を見つめていたセシルの視線は、ふと二人の耳元に引き寄せられた。
そこには、お揃いの耳飾りが片耳で揺れている。
(耳飾り...そうだよ、たしか、あの時――)
セシルは自然と自分の右耳に触れた。
そこにも同じデザインの耳飾りが付けられていることに気づき、指先が震えた。
震える手でその耳飾りをなぞった瞬間、一つの記憶が蘇った――
◇◇◇
『お姉ちゃんーー!』
『わっ、びっくりした!もう、後ろから驚かさないでよ』
『えへへ、ごめんごめん。ん、何しているの?』
『耳飾りを作っているんだよ!これはイヤーカフって言うのよ』
『イヤーカフ?耳飾りと何が違うの?』
『んー、イヤーカフというのはね、耳に穴を開けなくても気軽に付けれるものなんだよ!』
『えー、そんなものがあるんだ面白いね!』
『お、セシルも興味を持ってくれたか。そんなセシルに、なんとですねー。じゃーん!セシルにも作ったからプレゼントしちゃいます!』
『えっ!いいの!?ありがとう、お姉ちゃん!』
『ふふ、すぐ壊れちゃうかもしれないけど、私とお揃いだからね』
『ありがとう!ずっと大切にするね!......あれ、こっちは?私のとは色違いだね』
『えっとね...これはね、クロノスに渡そうかなって思ってるんだ!』
『ほほぉ...』
『ちょ、ちょっとそんな目で見ないでよ』
『えへへ。あれ、そのスケッチは耳?』
『そうよ!クロノスの耳の形ってお父さんのにそっくりなのよね。だから今、お父さんの耳の形を参考に彼に合うのを作ってるんだ!』
『......お姉ちゃん、クロノス様の耳を覚えたうえでお父さんの耳の絵を描くなんて...そこまで行くと怖い通り越して気持ち悪いよ?』
『ち、違うって!失礼な~!!』
◇◇◇
(たしか、あの時お父さんと同じ耳の形って――はっきりと聞いたはず。でも......)
セシルは手のひらをギュッと握りしめる。その記憶が、本当に正しかったのか、自分の思い違いではないかと何度も頭の中で
しかし、その光景は変わることなく繰り返される。
「......どうして?」
立ち止まったセシルの心臓は、まるで耳元で鳴り響くように脈打っていた。
クロノスが父親と同じ――つまり、人間と同じ耳を持っていたなら。
(人間と
セシルの視線はクロノスの耳飾りに引き寄せられ、同時に胸の奥から得体の知れない恐怖が湧き上がってきた。
セシルはその場に立ち尽くし、思考が頭の中を周り続けていた。
(じゃあ、クロノス様と一緒にいたあの男は、一体――)
「セシルー!置いて行かれるよ!」
「......っ!」
エルナの声が現実に引き戻す。顔を上げたセシルの瞳には、すでに距離を取った二人の姿が見えた。
自分の足が止まっていたせいで、置いて行かれかけていたのだ。
(お姉ちゃん......行っちゃ、ダメ――)
声にならない叫びが喉の奥に詰まる。
「......今、行く」
そして、やっと絞り出した声は心の中で叫んだ力強い声とは裏腹に、か細い声だった。
セシルはその自分に驚きながらも、震える足で一歩を踏み出した。
心の中の不安がまるで霧のように立ち込めていた。
それでも、自分を奮い立たせ、セシルは彼女たちを追いかけ始めた。
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