第3話. 闇に飲み込まれていく



「はっ、はっ...」


あれから、どれくらい走ったのだろうか。


三人の走る音だけが暗い森に響いていた。


(お父さんは...もう...。なんで、さっきまであんなに皆んなで笑い合っていたのに...!)


セシルの呼吸は乱れ、胸が締めつけられるように苦しかった。


振り返るのが怖い。

振り返ったら、あの恐ろしい現実が自分を飲み込んでしまう。そんな気がして――


セシルの胸に湧き上がる恐怖や悔しさ、そして自分が置かれている理解しがたいこの状況。


頭の中はそれらの思いでぐるぐるとかき乱され、足元への注意がおろそかになっていた――


「きゃっ!」


その瞬間、セシルは何かにつまずき、一瞬、地面から体が浮く感覚に襲われ、視界がぐらりと揺れた。


「セシル!」


咄嗟に声を上げたのは母親だった。走る勢いを落とし、掴んでいたセシルの腕を強く引き寄せ、彼女の体を支えた。おかげで、セシルは地面に倒れ込むことは免れた。


「だ、大丈夫...?」


エルナは母親の手を離し、セシルの顔を覗き込むように近づいた。


「あ、ありがと...ごめん...」


「何やってるの!早く立ち上がって走りなさい!」


セシルは荒い息を整えながら、エルナに弱々しく応えた。一方、呼び掛ける母親の声からは必死に二人を逃がそうとする意志が滲み出ていおり、声が震えていた。


彼女の促しに応えるように、セシルは片手で膝を押さえながら走る体勢に立て直し、顔を上げたが――


「え...前が...」


「前がどうしたのよ!早く立ち上がりなさいって――えっ...」


母親の言葉が途中で途切れた。同じように前を向いたエルナも驚きに目を見開いていた。


三人の視線の先――



森がいつの間にか途切れ、地面が断崖絶壁となっていた。


「嘘...道が、ない...」


母親はセシルの腕を放し、恐る恐る崖の縁に近づき、足元を覗き込んでいた。


崖横には無数の鋭い岩がいくつも突き出ていて、底はどこまでも深く続いているように見えた。


「あっぶな...あのまま無我夢中で走ってたら崖に真っ逆さまだったね」


同じように崖の縁に近づき、下を覗き込んでいたエルナは、小さな声で冷静に呟いた。


「......危なかった」


恐怖で腰が抜けたのか、母親は崖の縁にしゃがみ込み、肩を震わせた。彼女の手は震え、ひたいには冷や汗がにじんでいた。


「転んだのが...逆に良かったのかもしれないわ。助かったわ、セシル...」


近づいてきたセシルの顔を見上げながら、母親は力ない笑みを浮かべていた。


「ううん、むしろ転んだ時支えてくれてありがとう」


セシルもそう言いながら、母親の顔と同じ視線になるようにその場にしゃがみ込み、頭を優しく撫でていた。


セシルが頭を触れた瞬間、緊張の糸が切れたのか母親はせきを切ったように泣き出した。肩が大きく上下し、嗚咽おえつが止まらない。


「ごめんね...エルナ、セシル...お母さん...何もできなくて...どうして...どうしてこんなことに...!」


「ちょ、ちょっと!お母さん、泣かないで!お母さんのせいじゃない!」


エルナが必死に声をかけ、その手が母親の背をさするが、母親の涙は止まらなかった。


(本当...なんで、こんなことに...)


セシルもまた言葉を失い、震える手で母親の手を握りしめた。



崖の底から吹き込む風は冷たく、ほんの少し残った幸せの余韻を容赦なく奪っていくのだった。



◇◇◇



ザッ、ザッ...


崖の縁で身を寄せ合い、しばらく経った頃だった。森の奥から、何かが地面を踏みしめる音が微かに響いてきた。


(......っ!何か、来る!)


セシルは音に気づくと素早く立ち上がり、手を広げて母親とエルナを庇うように前に出た。


その姿は恐怖を押し殺し、必死に立ち向かおうとする意思に満ちている。


「...セシル?急にどうしたの?」


エルナが母親の背中をさすりながら、不安げな表情でセシルを見つめている。だがセシルはその言葉を耳に入れる余裕すらなく、頭の中で最悪の事態を思い描いていた。


(魔獣だったらどうしよう...せめて、剣があれば...)


焦燥感しょうそうかんに駆られながら振り返ろうとしたその瞬間、エルナが突然立ち上がり、声を張り上げた。



「ク...クロノス!!」


「えっ...?」


セシルは驚き、反射的に足音の方に目を向けた。


すると視線の先に現れたのは、見覚えのある貴族風の服をまとった男――クロノスだった。


(えっ...クロノス様?本物?)


セシルは警戒の構えを少し緩めながらも、困惑の色を隠せない。


それと同じタイミングでエルナがセシルをすり抜けるように前へ駆け出し、クロノスの胸に飛び込んだ。


「クロノス!」


「エルナ......怪我はないか」


クロノスはエルナを優しく受け止め、その頭を撫でながら落ち着いた声で話しかけていた。


「怪我なんてないよ!うぅ...村の人のみんなが......でも、クロノスに会えただけで...本当に...!」


エルナは言葉にならない思いをクロノスにぶつけるように泣き崩れる。その光景を見て、セシルの胸の中で複雑な感情が渦巻いた。


(......なんだろうこの違和感は)


そんなことを考えていると、後ろから母親の声が聞こえた。


「クロノスさん...どうしてここにいるんですか?」


彼女の声には驚きと戸惑いが滲んでいた。セシルも同じ疑問を抱き、クロノスをじっと睨みつけながら


「そうよ、なんでクロノス様がここにいるの?」


セシルはそう言いながら、エルナを引き剥がすように二人の間に入り、詰め寄り、その瞳に警戒の色を宿して問いただしていた。


「ちょ、ちょっと。セシル...」


エルナがセシルの肩を軽く掴み、止めるように揺らしていた。


その様子を横目に、セシルを無言で見つめていたクロノスは少し視線をそらし、ため息をついた後に口を開いた。


「エルナに渡した果物の香りを辿ってきた。それだけだ」


「.......は?」


セシルは間の抜けた声を漏らし、眉間にしわを寄せた。唐突すぎる理由に、警戒心がむしろ強まる。


「果物の匂いなんかで......ここまで?」


疑念を隠さないセシルに、クロノスは少しばかり冷や汗を垂らしながら続けた。


「信じがたいだろうが...村からこちらに移動しようとしていた魔獣と戦いながら進む中で、あの果物の濃い蜜の香りが漂ってきた。そこから導かれるようにここに辿り着いた...という訳だ」


「ふふ、わんちゃんみたいだね」


「...うるさいぞ」


エルナは緊張感を忘れたように静かに笑い、クロノスをからかった。


セシルはそれを横目で見つつも納得できない様子で腕を組んでいた。しかし、エルナの安心したような表情を見ると、それ以上追及する気が失せてしまう。


「...来てくれてありがとう、クロノス」


エルナはセシルの後ろで微笑みを浮かべた。その笑顔にクロノスは少し照れたように視線をそらしていた。


セシルはそんな二人の間に挟まれながら、内心で肩の力を抜いていた。


すると、クロノスがセシルとエルナの両方を見つめ、低い声で話し始めた。


「...村について話さねばならないことがある」


その言葉に、安心していた空気が一変する。


セシルたちは息を飲み、その真剣な声音に耳を傾けようとした――その時



ゴゴゴゴゴゴゴ...!


突然、大地が低くうなりを上げ、揺れ始めた。


「きゃっ、地震...!?」


エルナが短い悲鳴を上げ、思わずセシルの背中にしがみついた。一方、揺れる地面に翻弄されそうになったセシルは、咄嗟にクロノスの腕を掴むことでなんとか体勢を立て直し、周囲を見渡した。


「セシル! エルナ!」


遠くから母親の声が聞こえた。視線を向けると、崖の縁近くで母親が揺れる地面に翻弄ほんろうされ、動けずに座り込んでいる姿が見えた。


「お母さん!」


セシルはその瞬間心臓が跳ね上がった。揺れが続く中、母親がいるのは崖の端。


少しでも崖が崩れれば、命の危険があると思い、エルナとクロノスを振り払い、セシルは迷わずその場から駆け出していた。


セシルの心臓が跳ね上がる。母親がいる場所は崖の端。少しでも崖が崩れれば命の危険がある。セシルは迷わずその場から駆け出した。


「セシル!」


振り払われたエルナは、咄嗟に手を伸ばしたが、地面の揺れが強く、体勢を崩してしまう。


「エルナ、ここに居てくれ!」


クロノスがエルナの腰を支え、その場にとどまらせると、先に走っていたセシルを追いかけだした。



◇◇◇



「セシル! 危ないから来ちゃダメよ! 私は大丈夫だから!」


母親の声が地震のうなる音にかき消されながらも、弱々しくセシルの耳に届く。その一方で、崖の縁では土が音を立てて剥がれ落ちていくのが見えた。


(お母さんが...助けなきゃ、早く行かなきゃ...!)


セシルは揺れる地面に耐えながら必死に駆け寄るが、不安定な足元が進行を妨げ、母親との距離が遠く感じていた。


手を伸ばすたびに届かないもどかしさが、セシルの胸をさらに焦らせる。


(なんで、こんなに遠く感じるの! すぐそこじゃん、手......届いてよ!!)


息を切らしながら、崖の縁に座り込む母親に手を伸ばした。


その時――揺れがぴたりと止まった。


(......止まった......!)


奇跡的に静けさが訪れ、セシルは安堵しながらもう一歩踏み出そうとする。


「セシル! 危ない!!」


突如クロノスの叫びが背後から響くと同時に、耳をつんざくような轟音ごうおんが辺りを包んだ。


ガラガラッ......!


目の前の崖が、大きな音を立てて崩れ落ちた。


「お母さん!!」


崩れる土砂の向こうで、母親の姿が一瞬だけ見えた。


絶望に満ちた表情を浮かべた母親が、手を伸ばす間もなく崖の底へと消えていく。


「いやぁぁぁぁぁぁ!」


セシルの絶叫が響く。目の前にいた母親が、ほんのわずかで届きそうだった手が、一瞬にして消えたのだ――


「嘘......嫌だ.....お母さん!」


セシルの足元は、もはや地面が揺れていないにもかかわらずふらついていた。


風に舞う砂塵を横目に、彼女は崩れた崖から飛び降りる勢いで下を覗き込む――


「おい、危ないぞ!」


間もなく、背後からクロノスが彼女を力強く抱き上げた。


「お願い! 離して!! お母さんが...お母さんが......!」


セシルはクロノスの腕の中で激しく暴れるが、彼の表情は硬いままだった。


「......」


クロノスは何も言わず、セシルを抱えたままエルナの元へと向かう。一方、エルナは蒼白そうはくな顔で立ち尽くしていた。


「嘘だよね? これ、夢だよね...」


エルナは呟くように言いながら、足元がふらついている。


セシルも現実を受け入れられず、崖を見つめながら絶望の声で静かに呟いた。


「助けに行かないと......早く、放してよ」


「やめろ、セシル......あの高さなら、彼女はもう」


クロノスは一瞬、悲痛な目でセシルを見つめ、硬い声で言い放った。


すると、崖のさらに奥から、再び不気味な音が響いてきた。


「まだ...お母さんが......」


その呟きが風に消えるかのように、崖の縁が深い亀裂を伴って再び崩れ始めた。


ガラガラガラ.....!


先程までセシルが立っていた崖の端が音を立てて崩壊し、さらに土砂が連鎖的に崩れ落ちる。


「...ここも危ない。もう少し離れるぞ」


クロノスの声は鋭く、無駄のない言葉だった。


その腕に引かれるように、セシルとエルナは抵抗することなく崖から距離を取るしかなかった。


遠ざかる崖を振り返ると、さらに崩れ続ける土砂と舞い上がる埃が、あの場所を完全に飲み込んでいく。


(嫌だ...嫌だ...嘘だって言ってよ)


セシルの胸には崖の底と同じくらい深く、暗い絶望が広がっていた。

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