第3話 オリーブの石鹸と神話世界。

僕は時折をそこへ残して、裏庭から山の方へ広がっているオリーブの林へと向かった。オリーブの実をもいで機械にかけ、油を絞るのだ。そのオリーブ油で鷺影屋の石鹸が作られていた。


僕が知る限り、客室も浴場も、伊佐いさ家の住居部分に至るまで、同じオリーブの石鹸が使われていた。色は薄緑色で、鷺を象ったシンボルが浮き出ていた。石鹸の泡は濃密で、香りもよく、客にも評判がいいらしい。


石鹸を型に入れる作業は、大人しかさせてもらえず、僕らはもっぱらオリーブの実をちぎって籠に入れ、それを作業場へ運ぶ仕事をしていた。


ところで不思議なのは、この辺りの気候はどちらかというと寒冷で、オリーブが育つ土地ではないのだが(地理で気候区分を習った時に、ふと気づいた)、鷺影屋の裏手には僕が知る限りずっとオリーブが豊かに育っていた。たぶん時折に聞いたら、江戸時代から育ててるらしいよ、とか平気に言いそうだ。


「夏、今日もワイイクの見回りいこう!」


突然、時折が僕を呼んだ。


「まだぃ、全然採ってないけど?」

「いいって! 今日はまだ初日だし、てか、夏休みは明日からだし」


そういうわけで、僕たちは勝手知ったるワイイクへ向かった。


ここでも難しい漢字を持ち出したのは僕だ。隈澳と書く。隈澳わいいくというのは、海水が奥深く入り込んだ地形のことで、僕はわざとそんな難しい言い方をして水辺の遊びを作戦ぽくした。地面に漢字を書いて見せると、時折が激しく共感してくれたのを覚えている。


秘密基地は実際、入り江が複雑に入り組んだ奥の方にあって、採ってきたサザエやそのほかの貝なんかをそこへ放り込んで、飼っていた。その場所のことは子どもなら誰もが知っていた。


隈澳 。水がぐにゃぐにゃと湾曲して入り込んだ水際。潮が満ちるとき、全てがもれなく満たされる。月の力で、するすると何の苦労もなく。


僕は子どもながら、この先、自分と時折の平和な日常が、いつの間にかするすると非日常に浸食されてゆくことを予感していたのかもしれない。


そう、月の引力に抗うあらがうことはできないのだ。閉じ込めておいたはずの獲物は、いつの間にかまた海中へと放たれる。このあたりの子どもなら、そんなことは小さいうちに学ぶ。安いビーチサンダルじゃ、岩場遊びはできないこととかも。


「何がかかってるかな~」


時折は先に立って、岩場を駆け足で飛んでいった。僕たちは足元はちゃんとしたマリンシューズを履いていた。


「さっきさ、夏が考えた骸輪がいりんてさ、いいよね。気に入った。ほんでさ、骸輪はあくまで眷属けんぞくでさ、ヤツらが崇拝してるもっとエゲツなく容赦ない親玉の神格がいるはずだよ。いろいろ神話がらみのマテリアル、あとでじっくり読んで考えようぜ。今日さ、もう泊ってく?」


時折は年季の入った神話オタクで、彼によると世界はすべからくいにしえから続く神話の世界の再生なのだという。


「神話的存在でないものなんて、いないのさ。夏くんはイケメンだから、さしずめナイアルラトなんとか、だね」

時折がにやっとしながら言った。

「顔で人心を惑わしてるわけ?」

「そーゆーこと」

「じゃ、時折は何だよ?」

と返すと、当ててみ、と言って時折は水辺の方へ走って行った。


時折は神々の名前をすべてそらんじているはずなのに、後半を曖昧にしたのは長くて面倒だったからなのか、僕が付いていけないくならないよう、気を遣って(今さら?)くれたのか。


「おーい、夏! 早く来てみろ! 何か紙が置いてある!」

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